公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2023年9月に読んだ本

2023年9月末、アニメ版呪術廻戦にて起こったとある展開にアニメ派が騒然となったというネットニュースを見た。
展開についての言及は避けるがそのニュースがyahooに転載されており、記事に対していくつかのコメントがついていた。
気になったのは、「アニメ派はとにかく原作を見ろ」という旨のコメントである。
「これ以降も地獄」「今後の展開はこの程度でショックを受けていたら耐えられない」「メンタルが彼岸を渡りそう」といったコメントを複数のユーザーが投稿しており、「ショックを減らすために先に原作を見ておけ」と言いたいらしい。
ぼくはONE PIECE以外のジャンプ漫画は本誌で見ているが、もしもぼくがアニメ派の人間だったら「余計なお世話」だと思うし、「こいつは日常生活を問題なく送れているのだろうか」とも思う。
まず、アニメを見ている人間が全員漫画版を見たいだろうと思っているのがおかしい。
アニメで展開を追うだけで満足な人、漫画を読むことがあまり好きではない人、いろいろいるわけだ。
原作ありでしかも未完の場合、終わってから見ればいいかという考えの人もいる。
こういうやつは結局のところ親切心で言っているのではなく、心の深奥では初見の感想を眺めて「初見の悲鳴からしか得られない栄養がある」とニヤニヤしたいだけの気色の悪い人間なのだ。
よくもまあたまたま先に原作を読んでいたというただそれだけの理由で、思い上がった阿呆みたいなことが上から目線で言えるものだと感心する。
また、確かに呪術廻戦の渋谷事変、更にそれ以降の展開は衝撃的なものが続くが、「耐えられない」「立ち直れない」ほどではない。
ネットに生息しているオタクは漫画やアニメの理不尽展開についてあたかも人生の終わりかのような大げさなコメントをするが、見ていて本当に寒々しい。("地獄"とか本当にしょうもない)
フィクションのストーリーで立ち直れなくなっていて、現実の理不尽にどう立ち向かっているのだろうか。
それとも、娯楽で楽しんでいる創作物だからこそショックを受けてしまうということなのだろうか。
展開を先に知っていてマウントを取る間抜けは鬼滅の刃進撃の巨人、現在放送中の葬送のフリーレンなどの人気作品には軒並みいると思われるので恐ろしい。
悪意がなさそうなぶん、ネタバレしてくるやつよりよっぽど害悪でうっとおしい存在だ。
前置きが長くなったけれど9月に読んだ本の紹介をする。
念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

サンダー3 (4)

GANTZの人ではないかと(自分の中で)話題の漫画ではあるけれど、作者も世間に言われていることを自覚しているらしく、巻頭のコメントで「GANTZは好きな漫画」とやんわり本人説を否定していた。
まあ誰の漫画でも面白ければ特に問題はない。
並行世界に迷い込んだ妹を助けるため、中学生の主人公たちが奮闘するSFストーリー。
今巻はバトル展開がほとんどであった。
これまでは重火器がメインであった戦場に人型っぽい兵器が導入されたり、人間サイドにも奥の手があったりと戦闘が多様化してきたことで、作者の兵器デザインやアクションシーンの見どころが増えている。
敵サイドにもなんか重鎮っぽいやつが登場してきて、戦場において対話や交わりのなかった両勢力にどんなコミュニケーションが発生するのか楽しみだ。
そもそも、世界観の説明がそんなにないので、敵方からの意見をもうそろそろ聞いてみたいところである。

ZOMBIE POWDER. (1-4)

久保帯人先生の連載デビュー作にして、『BLEACH』の前に描いていた作品。
死者を蘇らせ、生者に不死の肉体を与えるとされている粉末「ゾンビパウダー」を求めて旅する主人公の物語。
残念ながら打ち切りという形で作品は幕を閉じており、なんかすごいとこでぶった切っていきなり終わったなあという印象だった。
正直なところ、ウエスタンな世界観をいまいち生かし切れていないなあとは思った。
また、主人公の芥火ガンマはチェーンソーと幅広の刀を組み合わせたようなカッコいい武器を使うのだが、突然謎の剣術を使いだし、剣術を学ぶに至った経緯の説明がない上に流派についてもふわっと触れられただけなのであれは一体なんだったのだろうかという気持ちが拭えない。
おそらく連載の中で謎が明かされていく予定だったと思われることが散りばめられていたため、消化不良感は否めない。
とは言え中身は久保先生のエッセンス満載で、BLEACHにもあった巻頭ポエムや、各話のカウントが「track.○○」なのがセンス大爆発で開始からにやけてしまう。
ガンマは元々和装に近いデザインで侍をイメージしていたとのことでそのデザイン画も掲載されているのだが、BLEACHで登場した死神の死覇装に通じるものがある。
また、BLEACHで"斬術"という言葉が出てきたときに"剣術"でないのは珍しいなと思っていたが、本作でも主人公の剣の流派「火輪斬術」で使われていたので、剣術とは明確に区別をしているのだろう。
ガンマの戦い方はBLEACHにも受け継がれていたと思われる部分があり、白一護が斬月の柄に巻かれた布を解いて刀を振り回すシーンなど連想した。
メインのキャラ4人の造形はそこまで派手ではないものの、他の登場人物や武器などはさすが久保先生と言わんばかりの唯一無二なキャラクターデザインを発揮している。
主人公サイドが割と強めなのでストレスを感じず安心して読むことのできるものの、決して無双系ではないところのバランス感は見事だ。
2巻から4巻にはそれぞれ読み切りも収録されているため、久保帯人先生ファンは必読の内容である。

無頼伝 涯 (1-5)

カイジ』や『アカギ』でお馴染み福本信行先生が初めて少年誌で連載した漫画。
本当はカイジを揃えたかったのだが収納スペースの関係で見送ることとなり、同作者の作品で巻数少なめのものはないかと探して見つけた。
福本先生の作品ながらギャンブルは絡んでこない。
無実の罪を着せられた主人公の少年・涯が己の正しさと力を証明するために大人たちと闘う話。
涯は15歳にしては頭が回るものの、周囲に馴染むことをやめて孤独に生きている少年だ。
その彼の内心の叫びや葛藤や成長が福本節でたっぷりと描かれており、非常に見ごたえがある。
ところがそのたっぷりさ故に序盤の展開は遅く、打ち切りという形で作品は終了している。
しかしながら起承転結は破綻しておらず物語としてはきっちり完結しているため、打ち切りを感じさせない仕上がりだ。
福本先生の作品はどうしても間延びしてしまうこともあるのだが、そうした作風が苦手な人にもお勧めできる。
涯は実のところ世間に自分を受け入れてもらえないことを不貞腐れてこじらせてしまっているだけの子供であり、「肝心な問題や困難な現実に立ち向かわない卑怯者」と大人には看破されてしまう。
なぜ立ち向かわないかと言うと負けるのが怖いからで、孤独を好むのも誰かに拒絶されるのが怖ろしいからで、でもそんな自分から目を逸らすために小さな反抗を繰り返して「世間におもねらない自分」「学校の馬鹿共とは違う自分」に陶酔して満足してしまっているのだ。
この作品で頻出する言葉に"力"がある。
涯は力を単純に腕っぷしのことだと思っているが、この作品にはいろんな力を持った人物が登場する。
具体的には財力や権力、人脈や組織などであり、現代社会においてそれらに対して15歳の少年の腕力などでは何も解決しない。
暴力のみで現状を打破しようとする涯に対して刑事が「力とは未来を切り開けてこそ」と諭す場面がある。
最終的に涯は多くの人の助けを借りて本懐を遂げるのだが、困ったときに誰かが助けてくれる人徳もまた"力"であって、それに彼が気が付いたからこそああいうラストになったのだと思う。
この作品は大人もいい味を出しており、涯の本心を看破したり諭したりして理解者っぽいポジションにいた刑事が、肝心なことを後回しにしてずるずる生きてきた人なのが現実っぽくていい。

鳥肌が

歌人穂村弘さんが、個人的に怖いと思うことを綴ったエッセイ。
勉強不足でこの方については存じ上げなかったのだが、言葉をこねくり回す歌人という仕事なだけに物事の捉え方がユニークだった。
人間は自分の知っている言葉でしか考えられないため、言葉を多く知っているということは己の感じたことをうまく認識したり処理できるということになり、それは思考の幅に繋がっていく。
作中では読者から寄せられた短歌を元に話題を展開している回もあり、その中に「恋人が自分を起こすために頬を軽く叩いたことがあり、今思えばあれが最初のビンタだった」ということを詠んだ歌がある。
どんな歌かはぜひ読んでみてほしいのだが、この詠み人(性別不明)が感じた不穏な空気と、その後恋人からどんな扱いを受けたかを端的に表現した名文だと思う。
エッセイは全体的にどことなく都会的な感じのする文章で、そして節々で抱くこの違和感は何だろうと思いながら読み終わった。
その後、以下で紹介する別の人のエッセイを読んだ際に「全てのエッセイは自慢」と書いてあって謎が解けた。
どことなく文章が自慢っぽいのだ。
よくよく考えてみれば、好きでよく読んでいるリリー・フランキーさんやみうらじゅんさんのエッセイにも女性との交流の描写はいくつも出てくるので、あれも遠回しの自慢と言えば自慢である。
ただあれらを自慢とあまり感じないのは、あえて情けないところを見せたりカッコ悪い場面を誇張したり、エロを強調したりしているからなのかと思う。(実際、みうらさんも「モテた自慢話なんて面白くないから笑いに落とし込まないと気が済まない」と言っている)
ベンチャー企業の経営者や従業員が社内でしょうもないTikTokを撮影するのが体育会系のユーモアなら、このエッセイは文化系のユーモアというかそういう香りがした。
とは言え作中で紹介されている短歌やそれらに対する作者のコメントは面白かったので、今後も何作か読んでみるつもりだ。

幸福な王子/柘榴の家

オスカー・ワイルドの童話をまとめた作品集。
耽美主義の作家と言われるだけあって、童話と言っても愛や美についてフォーカスしたものが多かった。
表題作の『幸福な王子』については絵本などで読んだことのある人もいるだろう。
街の中心に据えられたゴージャスな王子像が、ツバメの協力を得て自分の身体の一部である宝石や身体を覆っている金箔を剥がし、貧しい人々に分け与えていくという話だ。
自己犠牲や博愛・利他の精神について書かれたものだと思うが、「幸福な王子は本当に幸福だったのか」という疑問は残る。
王子目線で見た場合、概ね幸せだっただろう。
全ての恵まれない人を救済できたわけでも貧困を完全に根絶できたわけでもないため、悔いは残るものの自分のできる範囲でやれることはやれたはずだ。
ところが、客観的に見ると王子の幸せはツバメを犠牲にすることで成り立っている。
ツバメは越冬のためにエジプトに出発しなければならなかったのだが、王子はそんな彼をいつまでも引き留めていた。
そのままずるずると王子の頼みを聞くうちにすっかり冬が来てしまい、旅立つ機を逸してしまうと同時に寒さからツバメの身体はどんどん衰弱していく。
いよいよ死期を悟ったツバメは王子に別れを告げるのだが、王子は何を勘違いしたのか「いよいよエジプトに出立するんだね」と呑気に言う。
この台詞については本当に無自覚の極みだなと思って呆れてしまった。
もうツバメがエジプトに向かう時期を逃してしまったことも分からず、何なら死にそうなほど衰弱しているのに、自分だけやりたいことをやって満足しきっている配慮のなさ。
自己犠牲の精神は結構なことだが、同意していない誰かを自爆に巻き込むのはよろしくない。
物語の中でツバメは王子に好意を抱くようになるので好きな相手のために死ねるのなら本望なのかもしれず、それなら外野がとやかく言うことではないかもしれないが、どうも全面的に賛同はしかねる。
王子像に宿っている人格は像の元となった人物のものであり、描写された暮らしぶりと死後に豪華な像が立てられるあたり相当に身分の高い人だっただろう。
周囲の人物はみんな自分に優しくしてくれて、自分のやることを認めて称賛してくれるし、何をするにも手を貸してくれる環境にいたことが伺える。
恵まれた生まれ故に周囲の優しさを当然と思ってしまう無自覚な傲慢さが、一番身近で手を貸してくれていたツバメの命を奪うに至ったのだ。
そういう人は現実でもお目にかかることがある。
図々しいとはまたちょっと違うし、生まれもあまり関係ない気がするが、人を使うことを何とも思わないというか助けてもらうことに何の呵責も感じない人を何人か見てきた。
物語に関してはさすがに穿った見方かもしれないが、ハッピーエンドとはいかず胸糞の悪い話も多い内容なので絵本にするくらいがマイルドでいいのかもしれない。

無恥の恥

いつか読んだみうらじゅんさんのエッセイの巻末で対談していたことで作者さんを知り、読んでみた本。
大まかには人間の"恥"とSNSについて述べている。
海外では行動の規範が宗教的な「罪」に基づいているのに対して、日本では周囲からどう見られるかという「恥」の概念が基準となってきたというところから話が展開されていく。
「恥」と共に謙遜の文化が発達してきた日本では大っぴらに自慢をすることがみっともないとされてきたが、日本人の心に燻っていた自慢欲求がSNSによって解放されたのだと言う。
SNSで友人がいい感じの風景と共に謎のポエムを投稿しているところを目撃して恥ずかしくなるなど、SNSによって個人個人の「恥ずかしいと思うこと」の範囲が可視化されたというのは確かに同意する。
結婚相手は好きなものが一緒かどうかより、嫌いなものが一致しているかどうかで判断しろと聞いたことがあるが、恥ずかしいと思う行為が同じかどうかも重要だと思う。
共感できる部分が多かったエッセイだったが、印象に残っているのは「若者のファッション」について述べた個所だ。
作者は制服のない高校に通っていたそうで、当時の生徒たちはそれぞれが思い思いの服装で通学していたのだそう。
ところが現在、母校の生徒たちを見ると、チェックのスカートに紺のハイソックスを履くなどして制服と変わらない着こなしをしている生徒が多いらしい。
その高校に通っている子に話を聞いてみると「みんなが私服で登校する日を設けてほしい」と言っていたとのこと。
今の着こなしもほとんど私服みたいなもんなのに何が違うのかと作者が聞いたところ、「みんなと違う服だと恥ずかしい。白のソックスすら無理。みんながそれぞれ着たい服を着る日があればいい。」と返ってきたのだそうだ。
作者はこれを「皆で一体となって田植えをする先祖の霊が寄り添っている」とし、「チェックのスカートが相互監視組織になっている」と述べている。
みんなと一緒が安心するというのは昔からそうではなかったのかと思いきや、校内暴力全盛の時代に青春を過ごした作者に言わせると、当時の若者は暴力という手段で大人や学校への反抗を示していたそうだ。
これは、かつてのガングロや古くは竹の子族のように、今の若者が「恥ずかしい格好」をしなくなったことにも繋がってくると作者は言う。
かつては有り余るエネルギーを昇華するためや、大人や学校や社会への反抗から、後で冷静になって考えてみたら「恥ずかしい格好」かもしれない服装をしていた若者たち。
ところが、今の若者は昔のように大人たちに過剰に抑えつけられることも少ないから過激な反抗をする必要もなく、恥ずかしい格好をすることもない。
一方でハロウィンは年々騒がしくなっていくし、「制服ディズニー」とかもあるくらいだから、派手な格好をしたくないわけではないらしい。
つまり、現代の若者は「ここでは変わった格好をしてもいいですよ」と決められたところでしか弾けられないという、「祭のときに羽目を外す江戸時代の農民」のようなムーブをしていると本の中では述べられている。
要約が長くなったが、感想を綴るにはこの部分は外せなかったので書かせてもらった。
なるほどなるほどと思うところもあったが、こういう論調を見るといつも思うのは「個性のない若者が増えたとも限らない」「若者は別に大人しくなったわけではない」ということだ。
確かにユニクロ等で比較的安価でそれっぽく見える服が広まったことで、小ぎれいにしている人は増えた印象ではある。
一方でみんな似たような格好をしているとは思うし、面白みのないファッションだなとも思わないではない。
でも個性は服装だけで表現できるわけではないし、有り余るエネルギーの発露や反抗や自己表現は何も見た目でアピールしなくてもいい。
それに、今の若者は「恥ずかしい格好」はしないかもしれないが「恥ずかしいこと」はしている。
TikTokなんかで、顔のフィルターをバチバチにかけて宇宙人みたいな顔をした男女が、上半身と手の動作だけで完結する盆踊りみたいな動きをしている動画や、脚を出して乳を揺さぶってアップテンポなリズムに乗って踊っている女性の動画を見たことがあるだろう。
回転寿司をぺろぺろしたり、映えとか言ってマナーやモラルに反することをしたり、あまつさえそれをインターネットに流すなんて恥ずかしいことはなかなかできることではない。
彼ら彼女らにとってSNSは友人との交流に欠かせないもので、友人や自分の知っている人しか見ていないという認識だから、「恥ずかしいこと」はそれぞれのコミュニティできっちりやっていると思う。
若いうちに恥ずかしい格好をしておくと年齢を重ねる頃には落ち着いてきて恥ずかしい格好から卒業し、若者たちの恥ずかしい格好を温かい目で見ることができるが、今の若い人たちのようにハロウィンなどのイベントごとでだけ騒いでいると、いつまで経ってもハロウィンから卒業できないと作者は語っている。
「今の若者無個性論」みたいなのを見るたびに、ブルーハーツの『ロクデナシⅡ(ギター弾きに部屋は無し)』の歌詞を思い出す。

どこかのエライ人 テレビでしゃべってる
今の若い人には 個性がなさすぎる
僕等はそれを見て 一同大笑い
個性があればあるで 押さえつけるくせに

若者が恥ずかしい格好をするのは、大人から「自分もああいうときあったなあ」と生暖かい目で見られるためでも、押さえつけられるためでもない。
ぼくも若いころは今思うとかなり目立つ服装をしていたが、自分が好きでやっていることでも、そのときの気分によっては他人からのどうでもいい意見に落ち込んでしまうこともある。
当時の自分も反抗とか欲求の昇華とかそうした崇高な目的があったわけではなく、ただ単に好きだからという理由でしていたことなので、若者からしても放っておいてほしいのが本当のところではないだろうか。
まあこれは学術論文ではないので、作者の主観がメインであっても誰かを傷つける意図がないかぎりは責められるものではないし、エッセイとはそもそもそういうものだ。
女性作者のエッセイはあまり読んでこなかったので、この作者さんの著書はもうちょい読んでみるつもりだ。

人魚の嘆き・魔術師

谷崎潤一郎の割と初期の作品。
彼は関東大震災後に関西に移住しているのだが、移住する前の作品となる。
谷崎潤一郎と言えば『春琴抄』『鍵』『瘋癲老人日記』などのようにフェチや性癖を全開にした作品が広く知られていることだろう。
ところが、彼がそうした作風になったのは関西に住むようになってからのことなので、本作はそこまでフェティシズムを全開にした作品というわけではない。
しかしながら文章の優美さは変わらずで、美しく芸術性の高い文章が流れるように頭に入ってくるので読んでいて気持ちがいい。
カラっとした美と言うよりは、妖しく暗いドロドロとした美しさといった感じだ。
オスカー・ワイルドしかり谷崎潤一郎しかり、"美しい"という事象を"美しい"という言葉を用いずに表現できるのは本当に唯一無二の世界観である。
ただ意外だったのが、谷崎潤一郎が割と西洋贔屓の考えを持っていたことだ。
『人魚の嘆き』においてやけに白人の容貌を称賛する描写があり(しかも主人公はアジア人)、妙に西洋賛美というか白人コンプレックスみたいなものを感じる一幕だなと感じていた。
後で解説を読んだところによると、当時の彼の作品には白人至上主義の傾向が見られたとのこと。
ぼくは谷崎潤一郎の人物像については詳しくないのだが、彼がそうした思想を持つに至ったのはどういうわけなのだろうか。
ジメっとした和風のエロとカラっとした西洋のエロは取り合わせが悪いと思うのだが、彼の性癖の一端を知ることができた気がするので、今後の作品の読み方でひとつポイントができた。
ちなみに、本作にはオスカー・ワイルドの『サロメ』とその挿絵について言及している箇所がある。
岩波文庫版のサロメには挿絵も一緒に収録されているので、そちらも併せてチェックすれば作品への理解が深まるだろう。

好色一代男

歴史の授業で作品や作者について聞いた覚えはあるが詳細については知らなかったので、勉強も兼ねて読んでおくか程度の気持ちだったのだが思った以上に楽しく読めた。
主人公の世之介は7歳で腰元を口説くほど早熟で、色事が大好きな男。
遊びがたたって親から勘当されるも、諸国を放浪しつつそこでも好色な生活を続けた彼の生涯を描いた作品。
江戸時代前期の1682年に刊行されたもので、単なる娯楽小説に留まらず当時の流行や文化・風俗を知ることができる。
逢引の様々な方法や、ファッションや流行の歌、粋とされる女遊びの振る舞いなどは現代にも通じるところがあり(「服装は時代の流行に従うのがいい」という一文もある)、興味津々で読んでいた。
各ページに挿入されている脚注や巻末の解説によれば、作中の台詞や展開などには謡曲や句をもじったものや、古典などのパロディが多いらしい。(主人公の世之介自身も源氏物語光源氏のパロディとのこと)
また、脚注の量やあとがきが膨大で、訳者の本気を感じられる。
訳者は井原西鶴が大好きらしいので文章量にも納得である。
ページの半分以上を脚注が占めている箇所もあるので、人によっては物語に没頭できないと感じるかもしれないが、分かりやすさを重視するならありがたい。
惜しむらくは、自分の知識不足によって理解できないポイントも多々あったところだ。
世之介は女性に非常にモテる上、衆道(男色)の嗜みもあるので男性にもモテる。
物語中盤以降は父親の遺産を相続しそれを使い切る勢いで色事に没頭するのだが、男前がチートスキル(財力)を得て無双する様子は、現代で例えるならパロディ多めのラノベと言った印象を受けた。
晩年、世之介は「死んだら地獄で鬼に食われるまで」「いまさら心を入れ替えても、ありがたい仏の道に入れるというわけでもない」と己の人生にちょっとだけ虚しさを覚えている。
色事に耽るのは彼が本当にやりたかったことだろうけど、やりたいことだけやって生きていっても「自分の人生には他の可能性があったのかもしれない」と頭によぎるものなのだろうか。

供花 町田康詩集

町田康さんが小説家デビューする前に発表した詩集。
書き下ろしのものから、アルバムやライブの歌詞に手直しを加えたものも含まれている。
町田さんの小説は退廃的かつ自堕落な内容が多いのだが、この詩集に関しては破壊的で破滅的な印象を受けた。
調べてみたところ30才前後の作品のようなので、若さゆえの疾走感みたいなものがあるのだろう。
まあ正直言って詩の内容は何を言っているのかさっぱりだが、町田さんの小説によく出てくる「肉屋」「猿」「うどん」などのワードは詩においても変わらず登場する。
ロゼッタ洗顔パスタ(ロゼットの間違いか?)」が出てくる詩なんて初めて読んだ。
以前に読んだ町田さんの自分語り本『私の文学史』によれば、面白い詩の条件は大まかに4つあるそうだ。

  1. 感情の出し方がうまい
  2. 調子で持っていく(音楽的である)
  3. そいつ自身がおもろい
  4. 詩の中に書かれている意味内容が正しかったり、役に立ったりする

1から3は十分に当てはまっていると思う。
特に2に関しては町田さんがバンドを組んでいた経験もあるからか、そのまま曲の歌詞にできるような作品も多かった。
そして4に関してだが、町田さんは意図的にこうならないように詩を書いているのだそうだ。
詩を書く人の中には「いい感じのことや重大なことを言わなければならない」という意識を持ちがちな人もいるらしい。
その意識を突き詰めると詩の内容が「俺」「私」になるとのこと。
どういうことかと言うと、自分にとって最も重大なことは自分自身の存在であり、己が生まれてここにいることやいつか死ぬこと、これらを途方もないことだと捉えてそのことを詩に書いてしまう。
自分に対する限りのない拘泥ゆえに詩が「俺」「私」になってしまうのだが、自分の存在が最も重大であることはみんな同じであってありふれたことなので、9割の詩はおもしろくないのだそう。(「おもろいな」と思うサンプルを探すほうが難しいらしい)
ところが詩を長く書いていると1と2の技術がどんどん上手くなっていくので、よくよく見れば大したことを言っていない詩でもなんだかいい感じに見えるらしい。
じゃあ町田さんがどんな詩を書いているかというと本人曰く「アホみたいな詩」とのことらしいので、ぜひ読んでいただきたい。
ちなみにリンクで貼っているのは旧版なので、新潮文庫から出ている新版が手に入りやすくなっている。