公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2023年1月に読んだ本

毎月一冊は新刊の漫画単行本を読みたいのだが、発売日の関係もあってそれが叶わない月もある。
(ちなみに2月は一冊、3月は三冊の予定)
そろそろ新しい漫画を追いたいと思っているのでおススメの作品があれば教えてほしい。
例によって読書録はネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓

チェンソーマン (13)

アニメ版は大盛況のうちに終了した。
二期を匂わせる終わり方になっていたので続きも楽しみである。
おもしろかったんだけど、オシャレさが先行しすぎて作品全体に漂うバカっぽさが薄れていたのが残念だった。
そんな中、12巻から始まった第二部は第一部並みにバカが多くて毎回ニヤニヤしている。
悪魔が人を殺す殺伐とした世界で、暗い雰囲気やルールや常識をバカが勢いで壊していくのがチェンソーマンの爽快なところだ。
ところで正義の悪魔を殺したチェンソーマンっぽいシルエットは、世間がチェンソーマンを恐れるあまりに生まれた「チェンソーマンの悪魔」だと思うのだがどうだろうか。
チェンソーマン信者って何でも擁護しちゃうよね!そこも嫌い!」

るろうに剣心明治剣客浪漫譚・北海道編 (8)

ティンベーとローチンを引っ提げた宇水さんっぽい人が出てきてついついデカい声で驚いてしまった8巻。
この人も斎藤によってジオングみたいにされてしまうのか。
前巻から続いていた『札幌新選組哀歌』が今巻で終了した。
斎藤が北の地へ赴任したことが前作のおまけ漫画で語られ、加えて当時の北海道には永倉新八がいたことから、もしもるろうに剣心北海道編があるとしたら元新選組が再会するのではないかと当時のファンたちは妄想したものだ。
予想通り永倉が登場しただけでも満足だったのに、まさか御陵衛士の話まで書いてくれるとはさすがは和月先生である。
青春を剣に捧げ、信念のために戦ったのに志を遂げることができず、あまつさえ敗者として歴史に刻まれてしまった新選組の面々。
前巻では「まだ悪・即・斬とか言ってんの?」と斎藤が煽られるシーンがあるが、煽った当人も新選組のことを引きずっていたわけだ。
いつまでも新選組にこだわっていることを「こじらせ」「青春をひきずっている」といった言葉で片づけてもよいものかとずっと思っている。
世の中の多くの人は自らの誇りや信念をかけて命がけの戦いをしたことなどないだろう。
それが報われなかったときの無念や絶望感など想像することもできないが、きっと人生が歪んでしまうし死ぬまで心が囚われることなんだろうと。
「敗者の新選組の中でも更に敗者の御陵衛士」と和月先生も言っていたけど、敗者の中の敗者が過去と折り合いをつけて前に進もうと決心するのは相当のエネルギーが必要だったことだろう。

サンダー3 (2)

うすた先生の影響からか、ひとつの漫画に異なる絵柄が混在している描写が好きだ。
漫画を読んでいるとたまに「この一般人明らかにアシスタントが描いたな」と気付くことがあるがそれとはまた違う。
異なる絵柄が混在しても違和感を覚えることのない画力が必要なので、誰にでもできるわけではない。
2022年の12月にジャンプ+で公開された読み切り漫画『萌えの血』も上記の観点からとても好きな作品だ。

サンダー3は並行世界(パラレルワールド)に迷い込んでしまった妹を助けるために主人公と友人たちが奮闘する物語なのだが、並行世界ではなぜか主人公たちとそれ以外の人物では絵柄が違うのだ。
表紙に描かれているのが主な登場人物なのだが、この絵柄でGANTZの世界に登場していると想像してもらうと分かりやすい。
(というかGANTZの作者さんの別名義とか、アシスタントとかではないのだろうか…。)
並行世界では主人公たちのことを「アニメ」と呼んでいるため、並行世界の方がリアル寄りで主人公たちのことはあえてデフォルメして描いているのだろう。
今回から本格的に世界観の説明がされて面白くなってまいりました。
不穏な空気を匂わせてこの先の布石とした感じの巻なので、大きくストーリーが動いたというわけではない。
まだまだ様子見の段階ではあるので、設定だけはよかったのになとならないように期待したい。
ところで、この世で五本の指に入る購買意欲を著しく減退させるキャッチコピー『王様のブランチで紹介』が帯に載っていて複雑な気持ちになった。
当初から追っていなかったらこのコピーを見て漫画を買おうとは思わなかっただろう。

命売ります

2023年最初に読んだ作品。
雑誌『プレイボーイ』で発表された、三島由紀夫のハードボイルド風味のある小説。
媒体が媒体だけに(プレイボーイって読んだことないけど)、三島由紀夫の美しい文章が味わえる純文学というよりはエンタメ・大衆小説寄りになる。
とはいえ世界観には没入できる内容になっており、いつの間にか引き込まれてかなり早いペースで読み終えてしまった。
どこまでが真実でどこまでが嘘で妄想なのか分からず、どことなく世にも奇妙な物語風味もある。

「人生は無意味だ、というのはたやすいが、無意味を生きるにはずいぶん強力なエネルギーがいるもんだ」
「意味ある行動からはじめて、挫折したり、絶望したりして、無意味に直面する」

自殺に失敗した主人公が「命売ります」と新聞広告を出したところ訪問者があって…、から始まるストーリーとなっている。
上記のセリフからも分かる通り、彼はニヒリストなのだがそんな彼が万能感をこじらせてにっちもさっちもいかなくなる話である。
無意味の反対は意味だろうけど、「意味」とは「期待」と言い換えることもできると思う。
上で紹介したセリフのふたつめ「意味ある行動からはじめて~」に関しては、正に行動の結果に期待したからこそ起きる現象だろう。
「これをすれば自分に何か素敵なことがもたらされるだろう」「この環境にいれば自分にはこんなメリットがあるに違いない」などと勝手に期待して何かを始めるからこそ、それが思っていたのと違ったときにがっかりしたり挫折したりするのだ。
主人公も生きることに期待が持てなくなって「命売ります」を始めるものの、彼が生きることに期待を持ってしまったからああいう結末になったのではないだろうか。
なんかちょっと有名な昔の人の作品読んでみたいけどハードル高そうだなあと考えてる人におススメの作品。

15歳

十五歳

十五歳

Amazon

みうらじゅんさんが1971年~1974年(中2~高2)に書き下ろした文章・イラストを収録した作品。
作者の青春小説『色即ぜねれいしょん』の元になった内容でもあるらしい。
中身はほとんど詩集であるが、たまに旅行記なども入っている。
内容は戦争・政治不信や厭世観、孤独を好む姿勢や根拠のない万能感、そして性に関することなどが主で、みうらさんもよくいる中学生だったんだなという印象。
みうらさんが他の中学生と違ったのは、書き続けたとこととそれを本にして発表したことである。
他の著書で「それがいいんじゃない」の精神を大切にしているとみうらさんは言っていた。
よく分からないものを集めているとき、意味のなさそうなことを続けているとき、自分は何でこんなことをしているんだろうという気になるらしいが、「それがいいんじゃない!」と自分を奮い立たせているそうだ。
実際、中学生のみうらさんも詩を書くのやめようかなと綴っているがそれでも続けたのは、当時から「それがいいんじゃない」の片鱗はあったのだろう。
不良にも優等生にもなれない人間であると自分を評しているが、それを大人になってからでなく10代の時点で言語化して文章にできていたのはすごいと思う。
自分と向き合って、考えを整理してアウトプットするって大切なことだ。
実際に絵も詩も確実にうまくなっているので、継続することってやっぱり力になるのだ。
昔の自分が書いた文章なんて世間ではいわゆる「黒歴史」なんだろうけど、この歴史をただの痛い過去と言い切るのは早計な気がする。
みうらさんがいろんなとこで書いたり話したりしている中高生の頃のエピソードが当時の温度で聞けるので、ファンは必読。

びんぼう自慢

落語家・古今亭志ん生さんが人生を語った自伝。
本人が書いているわけではなく本人が語ったことを編集者が文章に起こしており、内容は口語体での江戸っ子らしい語り口調となっている。
そのため、落語を読んでいるような感覚で新感覚の読書体験ができて楽しかった。
志ん生さんの本は同じレーベルから他にも出ているらしいのでそれも読んでみる予定。
明治23年の生まれで昭和48年に83才で亡くなっているので、明治・大正・昭和と3つの時代を駆け抜けたことになる。
タイトルにもある貧乏生活の話が多いのだが、この人は何というか頑固でだらしないので貧乏の原因は割と分かったようなものだ。
(息子さん曰く、「腕はあったが愛嬌がなく、周囲に上手く合わせることもできず、結果として金銭面の苦労を強いられた」とのことらしい)
例えば、仙台の興行師に東京の芸人を集めてほしいと頼まれたときの話がある。
志ん生さんは大物芸人や当時売れっ子だった人の名前を挙げて、これくらいなら集められると向こうに打診するのだが、その際に相手が送ってきた支度金を全部自分で使ってしまうのだ。
しかも名前を挙げた芸人には声をかけたわけではなく勝手に名前を使っているので、実際に来てくれるかは分からない。
興行師のほうではその人らが来るものだと思って準備を進めているため、なんやかんやあって訴えられることになるもののなんやかんやあって許してもらうことになる。
他にも、師匠の羽織を勝手に質屋に持っていって業界から干されたりとめちゃくちゃやっている。
本の中では、貧乏生活でも人情があったから何とかやっていけたと周囲の支えに感謝する場面もあるが、こういういい加減な人がやっていけたのは確かに時代もあるのだろう。
自己責任論が蔓延る現代日本社会も古き良き日本の人情を見習いたいところではあるが、とはいえ当時はコンプラなんて言葉はないわけだから社会倫理はガバガバである。
モノが売れて経済発展中だった昔は楽しかったろうけど生活の利便性や治安は今のほうがいいわけだし、何をもって”良い”時代だったかと見るかによる。
なんかこう、白か黒かではなくうまい具合に中庸なところで収まらんものだろうか。
読後にwikiで調べてみたんだけど、女優の池波志乃さんはこの人の孫にあたるらしい。

毛皮を着たヴィーナス

この作品の作者はマゾッホさんというのだが、『マゾヒズム』の語源となった人である。
彼が存命中に精神科医によってこの言葉が命名されたということだ。
由来になった通り彼はドMであり実際に女性と奴隷契約も交わしていたことがあるようで、この作品も実体験を元にして書かれた部分もあるらしい。
青年ゼヴェリンが未亡人であるヴァンダと出会い、ふたりはなんやかんやあって主人と奴隷の被虐的な関係に至るというマゾヒズムを体現したような内容だ。
SMの話になるとダウンタウンの松ちゃんが言っていたSM論を思い出す。
松ちゃんは自他共に認めるMなのだが、彼の持論ではSはMを虐めているのではなく、Mによって「虐めさせられている」らしい。
場をコントロールしているのは実際にはMであるのだが主導権は自分にあると勘違いしているSが多いそうだ。
そんな視点からこの作品を見ると、Mであるゼヴェリンにはどうにもクリエイティブさが足りないように感じた。
彼は元々強い女に支配されたがっていたのでSであるヴァンダと奴隷契約を結ぶのは理に適っているように思えるが、彼の女王様に対するマゾ心は「逃避」が大きいようにも見えたのだ。
ヴァンダは楽しいことが大好きな性に奔放な女性で、「ひとりの男を繋ぎ止めておくためには女は貞淑であってはならない」「自分が気に入った全ての男を愛し、私を愛した全ての男を幸せにする」などと言ってのける。
ゼヴェリンはそんなヴァンダを変えられない、愛情を独り占めできないと理解して、ならばせめて奴隷となって彼女の傍にいることで自分にとって一番弱いポイント「彼女に捨てられる恐怖」から身を守ろうとしたように思える。
相手のためではなく自分のためのMであり、独りよがりのめんどくさい奴隷であるようにしか見えなかった。
自分がここまで尽くしたのだから何か見返りがあるだろう、彼女も自分を献身的に愛してくれるだろうという姿勢が端々に感じられ、非常に押しつけがましい。
ヴァンダも女王様気質を元々備えていたわけではなく、最初はゼヴェリンを鞭で打ったあとに心配さえしていた。
後に立派な女王様として開花するので、目覚めさせたという意味ではゼヴェリンの功績ではある。
ところが彼女の本質は自身でも語っているように「強い男に支配されたい」であり、実際にムキムキな男前に惹かれているのでまあ割と普通の女性なのだ。
そんなヴァンダの本質とゼヴェリンの弱々しい割には図々しく厚かましい性格では関係が長続きしないのも当然である。
「場をコントロールしているのはM」という松ちゃんのSM論で言えば世話の焼けるめんどくさい奴隷であったゼヴェリンが主導権を握っていたように感じるが、まあそれがお互いにとって楽しくなかったから飽きたということだ。
ゼヴェリンは人生何事においても中途半端な自分に引け目を感じており、人でも物でも何か徹底的にのめりこめる対象を探していた。
作中では何度かフランスの恋愛小説『マノン・レスコー』が引用されるが、マノンと一緒に破滅していったシュヴァリエほど愛に殉じたわけでもなく、彼女を心から信じていたわけでもない。マノン・レスコーはおススメなのでぜひ読んでみてほしい)
最後は憑き物が落ちたかのように元の生活に戻るのだが、「一発抜いたら冷静になった」的な感じだろうから彼の本質は何も変わってはいないと思う。
ところでマゾッホというとダイの大冒険に出てきたまぞっほが真っ先に思い浮かぶのだが、作者さんはこちらのマゾッホから取ったのだろうか。