ガンダムの新作が発表され、水星の魔女から間を開けずのことでとてもうれしい。
『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』というタイトルで、スタジオカラーとサンライズがタッグを組んだ作品だ。
「Qux」がプログラミング言語だから作品にはこういう意味があるだの、世界観が宇宙世紀のパラレルではないかだの、考察も盛り上がっている。
そして、人気のシリーズの新作が発表されるたびに現れるのが、「こんなの○○じゃない」と言う人の存在だ。
ガンダムにももちろんいるわけで、まあ言いたいことは分からんでもないなという意見もある。
「これはガンダムである必要があるのか」とかはまだ分かるが、ファーストガンダム至上主義者はどうも始末に負えない。
特に年齢層の高いヤフコメを見ていると、リアルな戦争を描いた一年戦争こそ至高で他は現実味を感じないただのお遊びにしか見えないというようなコメントをよく見る。
こういう人らは基本的に口だけなので、今の時代にファーストガンダムのようなリアルな戦争物を作ったところで熱心に視聴するわけでもないし金も使わないことは目に見えている。
昔、ドラクエ11についてのyahooの記事に「今の技術でドラクエⅢを作ってくれればそれでいいのよ」みたいなことを書いている人がいたが、この人はリメイクされたドラクエ3を買ったのだろうか。いやない。(反語)
自分もジークアクスは劇場まで足を運んだし観てよかったと思っているが、あれもファースト至上主義者には刺さらないんだろう。
昨年12月に読んだ本の感想を書く。
一応ネタバレ注意で。
↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp
↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み
カグラバチ (5)
真打の浸食を最後まで拒み、刀を置いて息を引き取る京羅の一枚絵がよかった。
4巻のときにも述べた通り京羅は父親ではなく漣家当主としての責務を全うすることに力を注いでいる。
実際、父親という物差しで自分を図るのは間違いであるともチヒロに言っているわけだし、息子たちのことを気にかけている描写もあくまで漣家当主として楽座市を無事に終わらせるためのケアでしかない。
その楽座市をチヒロたちに阻止されたことで「私だけが全うできなかった」と悔いを残した彼だったが、それでもハクリにとっては「歪んでても道標だった」存在であって、当主としてではなくて父親として認めてもらいたかったから背中を追いかけてきたんだろう。
ハクリは「くれた価値を証明し続けたい」とチヒロと一緒に戦うことを決意するが、その価値というのはチヒロに見出してもらったというのもあるが、楽座市は否定しつつも漣家から受け継いだ力自体はハクリは否定していない。
つまり「くれた価値」というのは父親からもらった力も込みで言っているのだろうから、京羅が父親を全うできたとは言い難いけれども父親の背中を見て育ったのは事実である。
また、楽座市編を経て緋雪を味方にできたのはデカい。
早速、神無備との談判において、彼女が証言をしてくれることで余計なストレスがなく話し合いが進んでいる。
しかし真打がああいうヒーロー的ではない気色の悪い力の発動の仕方をしているのを見ると、過去の戦争も何か伏せられている後ろ暗い事実がありそうで、そうなると六平の「英雄」という評価にも関わってきそうだ。
チェンソーマン (19)
「全部チンチンで考えてる」と自分の不甲斐なさに嘆くデンジの性にまつわることがあれこれ進んだ今回。
デンジは童貞だがキスはしたことがあるものの、ゲロと一緒だったりしてちゃんとしたキスをしたことがなかった。
今回、初めてまともなキスをした挙句に人の手で射精までするという性の階段を一気に駆け上る事態となる。
これ、アサとヨルが身体を共有しているからお互いの感情が流れてきてヨルまでデンジのことを好きになっているのがややこしくて自分的に好みの展開。
しかしその後で寿司屋に行き、寿司を握っている板前の前で「みんな誰かの手でイカされたことあるんじゃねえか」と想像するくだりは最低すぎて笑ってしまった。
更にはナユタの生首が回転寿司レーンに流れてきたり、老いの悪魔を巡る権力争いの醜さがあったり、黒チェンソーマンとの戦闘シーンがカッコよかったりとめくるめく展開で読み応えのある巻だった。
お姉さまと巨人 お嬢様が異世界転生 (6)
前回、最終回かと思うような終わり方をしたものの続いてくれて一安心。
今回から新章スタートとなるが、急に話が進んでいて知らん人がいたりキャラ同士の関係性が進んでいたりする。
作者曰く、今回はファンディスク的位置づけとのことなので、細かい説明は次巻以降になるのだろう。
おそらくこのわちゃわちゃした雰囲気では終わらないだろうなあという不穏さがある。
今回も作者の好きなもの詰め込みました感は健在で、特にエイリスの新武器が非常にカッコよかった。
SAKAMOTO DAYSの南雲も似たような武器を持ってたような気がするが、エイリスの武器にしかないパイルバンカーはやはり男心をくすぐるものがある。
富野に訊け!!(白・青・赤)
冒頭でも書いたがガンダムの新作が発表されたことを受け、一年戦争に魂を引かれたやつらの存在が改めて浮き彫りとなった。
こんなとき富野監督なら何と言ってくれるだろうかと気になったため、積んであった三部作を読むことにした。
アニメージュにて連載されている富野監督へのお悩み相談コーナーをまとめたもので、今のところ三冊が刊行されている。
便宜上一作目を「白」と紹介しているが、色のついた括りは「青」と「赤」だけであることはご理解いただきたい。
逆シャアは富野監督が自分をアムロとシャアに分けて議論をさせている作品だと思っているが、本を読む限り監督はどちらかと言えばシャア寄りの人間ではないかという気がした。
お悩みに対しての回答で「終身雇用制は老人たちが社会を食い潰すためのシステム」とか「俗物を相手にするな」などと返していて富野アニメで出てきそうなセリフだなあと思った。
「俗物」なんて言ってるの富野監督とハマーン様くらいしか思いつかない。
さてまあ内容についてだが、悩み相談に回答する際には自分の仕事を引用したりもしており、その中にはガンダムについて触れたものもあった。
富野監督としてはガンダムを生み出したことで食えていけたことに感謝をしつつも、「「『ガンダム』の富野」だけで終わってしまう。『ガンダム』に結局勝てないで死んでいく」という思いはあったようだ。
ただやはりガンダムの影響力は大きかったようで、監督自身も「「ガンダムのときはこうだった」を疑いもなく続けてきたからヒット作ができなかった」とし、「作り手が「脱ガンダム」と思っていないと自分が『ガンダム』につぶされる」とまで言っている。
以前に読んだ同人誌『逆襲のシャア友の会』において、富野監督は一時期「語られることのなかった監督」だったと述べられていたが、ガンダムの成功から脱することができなかった時期がそれに該当するのだろう。
産みの親すら縛りつけてしまうなんてガンダムおそるべしである。
例えば、Gレコについて富野監督は若い人に見てもらいたいと述べており、そのことは本書でも触れられている。
市場というのは常に新しいものを取り込まないと衰退してしまうので、作品におけるファンの新陳代謝も重要なわけだ。
「10年20年商売していくためには、伸びしろのあるターゲットを探し、目標に据えなければいけません」とも監督は言っており、どんな大人気コンテンツであっても同じことを続けていてはいずれ限界がくるし、一年戦争に魂を引かれた旧人類はいずれ死滅するわけだから、死にゆく人らに"だけ"向けたアニメを作るわけにはいかない。
また富野監督は、アニメが大好きなのでアニメの楽しさを伝える仕事に就きたいという中学生からの質問に対して「あるものだけが好きな人の発言は、それを過大評価する傾向にある」として、学業に力を入れて見分を深めることを推奨している。
これもファーストガンダム至上主義者に言えることで、彼らは初めて見たファーストガンダムの衝撃が大きすぎるあまり、他に目を向けることをせず他作品も最初から「ファーストより下」と決めてかかって見ているため批判の意見しか出てこないのだ。
「これしか知らないけどこれが好き」よりも「いろいろ知ってるけどこれが好き」の方がファンとして深みがあることは明白なのだが、ファースト至上主義者は「戦争のリアルを描いたファーストガンダムこそ至高で他はお遊び」と本気で思っている節がある。
他にも「この2~3年、ガンダムファンと言われてる人たちの、人としての偏りが見えるようになってしまって…。それって、僕にとっては決して楽しくないんです。」とまで監督はこぼしている。
ガンダムに対する監督自身の葛藤が見て取れるし、そうさせてしまったのは我々ファンにも原因があるわけだ。
お悩み相談には様々な年代の人からのお便りが寄せられているが、少年少女たちに対する富野監督の回答を見ていると、Gレコを作った理由もなんか分かる気がする。
極端だなあという意見もあるのだが、少年少女の悩みに必ずと言っていいほど基礎学力を身につけることや健康な体と心を養うことの大切さを語っており、それらって大人になってありがたさが身に染みて分かるよなあと思う。
目標に向かってロードマップを作成してそれに向かって努力していくというのは、基本的な学力がないとそもそも目標から逆算してやるべきことを挙げていくということができない。
今はプロゲーマーやネット配信者のように一見すると学力が必要でないように見える職業も増えてきているけど、それらの職業だって立てた目標に対して進んでいくことは求められるわけで、やっぱり頭の良し悪しは関係してくる。
富野監督は学生に対してこうも言っている。
「アニメや漫画を読んだらその三倍体を動かして仕事をしろ。それらは人生そのものにはなり得ない。」
やれこんなのはガンダムではないだの、ファースト至上主義者の年寄り共にはうんざりだなど、いい大人になってもこんなことで喧嘩している人間になってはいけない。
もの思う葦
太宰治のエッセイ集。
表題作の『もの思う葦』はデビュー作の『晩年』と並行して書かれたもので、ということは自殺未遂直後に書かれたものということになる。
確かに『晩年』にかける思いは並々ならぬものを感じ、それについて触れている一節もいくつかある。
何なら「おもしろいから読んでくれよな!」的に宣伝しているくだりもあるのだ。
太宰治はどうも作家の書簡集が嫌いだったらしい。
「作家の書簡集を読んで作家の素顔を発見したつもりで得々としているかもしれないが、そこにあるのは平凡な生活記録に過ぎず野暮なことである」(意訳)と述べているのだ。
どうも彼は、身内ならともかく他人に生活のことをとやかく言われたくなかったようで、
「『文学』でない部分に於いてひとつ撃つ。例えば、剣道の試合のとき、撃つところは、お面、胴、お小手、ときまっている筈なのに、お前たちは、試合も生活も一緒くたにして、道具はずれの二の腕や向う脛を、力いっぱいにひっぱたく。それで勝ったと思っているのだから、キタナクテね。」
と言っている。
太宰治は文学とは関係ない作家の私生活について突っ込まれたくなかったから叩かれる隙を与えてしまうかもしれない書簡集を好まなかったんだろうし、己の作品のみを見てほしかったんだと思う。
作品と作者の人格を切り離して考えられるかどうかは個人の価値観によるけれども、聖人君子のような生活をしても鳴かず飛ばずな芸術家もいれば、どうしようもないダメ人間から後世に残る作品が生まれることだってある。
まあ太宰治は薬物中毒だったり自殺未遂をしたり女性関係でだらしなかったりと自堕落で破滅的な生活を送ってきたわけだから私生活に突っ込むなというほうがどうにも無理があるし、私生活を知れば知るほどに「もっと健康的な生活をしなさい」と言いたくもなるが、彼の文学はそんな生活から生まれたとも言える。
「やはり己も愛さなければいけない。己を嫌って、或いは己を虐げて人を愛するのでは、自殺よりほかはないのが当然だということを、かすかに気がついてきましたが」とも書いており、自分大好きになりたいけどなれない自己愛への葛藤も伺える。
そんな書簡集を好まない彼が、己の死語、自分の書簡集が刊行されていると知ったらどんな気持ちだろう。
太宰治はネガティブな作家だというイメージを持つ人が多いかもしれないが、ユーモアとニヒリズムにあふれた一面もあり、ピリッとした一言で物事を表現する作家でもあるのだ。
彼に興味のある人はぜひ読んでみてほしい。






