公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2026年3月に読んだ本

ネットを見ていると自称オタクの人が、オタクでないのことを「一般人」と呼んでいることがある。
自分が好きな分野の知識がない人というニュアンスで使っているのだろうがそれなら「非オタク」とかでもいいわけで、このあたりに自称オタクの気色悪い自意識を感じるなあと常々思っている。
自分たちのことを「一般人」でないと思っているのが最高に痛々しく、その趣味にどっぷり浸かっていること、その界隈に属していることが「一般人」とは一線を画すのだと思っている選民思想も見るに堪えない。
もちろんだがここで言うオタクとは別にアニメや漫画に限ったことではなくどの分野にもいるため割と見る機会が多くてみっともない。
こういうオタクはYoutuberが結婚を発表して「お相手は一般の方です」とコメントを出した際、「お前も一般人だろうが」などと冷笑気味に言うのだろうがそういうお前も普段同じようなことをほざいているのだ。
2月と3月は忙しくまとまった読書の時間が取れないため、読んだものは漫画のみとなる。
一応ネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

ONE PIECE (114)

ヒノキズの男の話が出てきたとき、今まで匂わせもされなかった新しい要素が突然出てきたなあと思ったが、「デービー一族」という新ワードがさらに登場するとは思わなかった。
バッカニア族やルナーリア族とは違って特異体質があるというよりは存在自体が罪という扱いのようだ。
ジョイボーイとも関わりがあるようなので、世界政府によって歴史を歪められ忌むべき存在みたいにされた人たちなのだろう。
113巻でロックスがデービーバックファイトを繰り返して仲間を集めていたというくだりがあり、ロックスが「デービー・ジョーンズの崇拝者」と言われていたが、崇拝者という言葉の使われ方がなんか唐突で不自然だなと思っていたがそういう背景があったようだ。
デービー・ジョーンズという名前は海賊の世界では有名なようで、パイレーツ・オブ・カリビアンにも出ていたような気がする。
しかし、20年前に本編に登場したデービーバックファイトがここで日の目を見るとは予想もしなかった。
フォクシー海賊団の登場は32巻、デービーバックファイトが本格的に開始されたのが33巻、空島とウォーターセブンの間のエピソードで、しかもその後に青キジが初登場するというインパクトですっかり存在感が薄くなってしまったデービーバックファイトであるが、まさか再び注目される日が来ようとは。
デービー・ジョーンズについては当時ロビンが説明しており、「悪魔に呪われて深い海底に今も生きていると言われる伝説の海賊」「海底に沈んだ船やお宝は甲板長だった彼のロッカーにしまわれる」とのことだった。
悪魔をイム様だとするとデービー・ジョーンズが生きている可能性だって考えられなくもない。
そもそも、デービー・ジョーンズの船であるフライング・ダッチマン号も魚人島で出てきたわけだし。
他、気になった点としては、エッグヘッド編でくまの回想に登場し奴隷の手錠をかみ砕いた魚人が誰なのか気になっている。
今回のゴッドバレー編で回収されると思っていたがそんなことはなかった。
ブルックと軍子のくだりもなかったし、ゴッドバレー編でかなり重要な話が展開されていたがまだまだ残されたものは多そうである。
また、シャンクスがロジャー達に拾われるシーンもあったがあの場面は先行してFILM REDで描かれており、さらっと描写されていたがかなり重要な場面の後だったことがわかる。
ONE PIECEの映画版は本編でも未登場な要素をさりげなく登場させることがあり、STAMPEDEでは「ラフテル」の綴りが明かされ、FILM GOLDでは覚醒した悪魔の実の能力者が初登場した。
本編の展開がかなり極まってきた昨今、次回の映画も重要な要素が登場するかどうかに注目したい。
そして、個人的には今回出番の多かった金獅子のシキをアニメに登場させる際、声は引き続き竹中直人さんが担当するのかどうかが気になる。
ワノ国だかどこかの回想でシキが再登場した際は竹中さんが続投していたが、あのときはサラっと登場しただけだし、今回のゴッドバレー編のように出番が多いと事情も違ってくるのかもしれない。
シキのカッコよさは声によるところも大きいので、ぜひともがんばってもらいたい。

さむわんへるつ (2)

自分は元々恋愛漫画は読まないのだが、この年齢になってくると子供の恋愛模様でいちいち一喜一憂していられない。
とはいえひとつのワイヤレスイヤホンを二人でシェアしたり、インスタントカメラを初めて購入してみたりするシーンは、昭和平成と令和の恋愛のハイブリッドという感じで見ていて微笑ましい。
恋愛漫画って価値観の押し付け合いみたいに感じて疲れる作品もあるんだけど、本作は絵柄も相まって二人ともかわいらしくて、要所要所に差し込まれる海月のふてぶてしい顔もなかなかツボだ。
また、2巻は同時期にジャンプで連載していた『呪術廻戦モジュロ』とのコラボイラストカードが限定でついてくるのもうれしい。
まあ間違いなく本作はアニメ化するでしょう。

ルリドラゴン (5)

今回は全体的に真剣10代しゃべり場みたいな回だった。
ルリがみんなにまだ話していないドラゴンの話をしたり、自分がドラゴンの力を有していることについて意見を聞いて回ったり、まあこういう展開に対してやたら物わかりの良いクラスメイトがずっとごちゃごちゃ討論をしているみたいに思っている人もいるだろう。
でも自分としては、ようやくルリが己の人生に当事者意識を持ってきた感があると感じている。
「分からないこと分からないままにしたくない」「わたしには知る義務が、皆には知る権利がある」と、ドラゴンであることに向き合いつつ、クラスメイトにも知ってもらうための努力を始めたルリは、物語開始当初の流れに身を任せてきた彼女からすれば大きな変化であると言える。
だからこそ毎回言っている気がするが、とにかく本作の大人は大人をしていない。
本作においてルリのフォローをしてくれる大人は母親と、ドラゴンの生態を把握している政府機関所属の担任の先生だ。
彼らの行動はとにかく場当たり的で、ルリのドラゴンとしての新たな体質や能力が発現するたびに慌てて対応をするということが繰り返される。
まあ最初から全ての事態を想定済みで先回りして潰していくような展開では物語的につまらないのはわかるが、それにしても本作における大人はアンニュイな顔で悟ったようなことを言ってばかりで全く頼りにならない。
特に母親の振る舞いには目も当てられなく、ルリが初めて教室で火を吐いた後の親子の会話が今巻で明かされる。
母親としては普通の人間として育つと思っていたらしく、ドラゴンとのハーフであることは話すつもりもなかったとのこと。
あまりにも杞憂が過ぎて子供に余計な不安を与えたくないという気持ちはわかるので、ここは一概に責めることはできない。
だが問題はその後で、「ルリが聞きたいって言ったら話す」「でももしまた異変起きたらその説明は強制執行」と言っているのだが、何を悠長なことを言っているのかと。
ルリが教室で火を吹いて、髪を焼かれてしまった吉岡の弁によると「俺は髪が焼けたことは何も怒ってないって言ったけど、もし今後同じことがあったらそれがあると分かってて避けられなかったってことになる」とのことだが正にその通りで、火を吹いたときは惨事にならなくて済んだけど、ドラゴンの力が人を害する可能性がある以上はこの時点で大人たちはルリに全てを話すべきだったのだ。
ルリの意思を尊重したいというのは物語都合のただの詭弁であり、大人たちが彼女に後出しでドラゴンの生態を公開していくことが続くと、それこそルリの意思とは関係なく学校を去ることになり今と同じような生活ができない可能性もあるのだ。
吉岡はその後「俺がもう少し深く頭焼かれてたら、青木はもっと責苦に遭ってたんじゃない?」とこぼすが、よっぽど彼のほうが大人たちよりしっかりしている。
初回の火吹きで被害が少なかったのはあくまでもラッキーだっただけで、その後も対応が後手後手に回ってしまった大人たちは情けないとしか言いようがない。
まあ先ほども言ったように、有能すぎる大人たちを描いても物語として面白いかは疑問なので難しいところだが。

平成敗残兵すみれちゃん (9)

今回の話は展開が非常に好みで、これをきっかけに単行本の購入を決意したくらいだ。
以前すみれちゃんがすしカルに言っていた「一回負けたくらいでゲームオーバーなんて人生はそんなクソゲーじゃない」「負けてもまた挑戦すればいい」という発言を、自分と雄星との関係にもあてはめているとは思わなかったので、完全にすみれちゃんの覚悟が決まっている。
雄星はまだ高校生なので、仮に失敗してもすみれちゃんが掲げる再挑戦理論を実行する時間は十分にある。
だからすみれちゃん自身はどうなってもよいと思っていて、自分をプロデュースした経験を糧に雄星がまた挑戦してくれればそれでよく、我が強くステージでは爪痕を残さないと気が済まないすみれちゃんがここまで自己犠牲極まった考えを持っているなんて完全に予想していなかった角度からの覚悟だった。
以前に雄星の母親にも言われた「挫折した"今"は負けた人を真面目にやってない?」という言葉にも関連しているというか、やけくそになっている部分もあるかもしれないと思ったけどさすがに杞憂だと思いたい。
とはいえ雄星としてもすみれちゃんを自身の成長の糧として消費する気はなく、自分が憧れた格好いいすみれちゃんをみんなに見てもらいたいという気持ちは変わらず、事務所を立ち上げる決意をするのもまた熱い。
また、今回は作者さんがネットで「この漫画は登場人物の性別を逆転させたらヤバイ」という書き込みを見たことをきっかけに描かれたおまけ漫画も収録されている。
こちらもかなりパンチの効いた内容になっているので、おまけ漫画だけでも買いの一冊だ。

一級建築士矩子の設計思考 (5)

本作の作者さんは同名義で18禁漫画を描いていたことがあるのだが、以前にネットで「過去の絵柄から比べると随分と湿り気が減った」との意見を見たことがある。
自分もこの漫画の1巻が出たときに作者さんについては調べてみたが、そう言われて改めて見てみると最初の巻ではまだ湿度が残っている絵柄だった。
今の絵は割とシンプルになっている気がするし、人物よりも建築を見せたいのかなと思った。
あずまんが大王の後半と「よつばと!」の序盤が同じ絵柄で、その後に出たあずまんが大王新装版の書下ろしおまけの絵が「よつばと!」の絵柄と同じだったことを思い出す。

二階堂地獄ゴルフ (12)

二階堂が巻き戻し能力をフルに使ってプレーしている姿が初めて描かれているわけだが、二階堂視点と能力を知らない第三者からの視点とで描かれているため、彼の能力がゴルフにおいてどれほど脅威かよくわかる。
それゆえになぜ今まで二階堂がプロテストに合格してこなかったか、もっと言えば不正が疑われる可能性があり、次回以降ではどうにもそういう展開になるっぽい。

新機動戦記ガンダムW (1)-(3)

かつてコミックボンボンで連載していたときた洸一先生版のガンダムW。
ガンダムWは初めて視聴したガンダムシリーズなので思い出深く、本作も熱心に読んでいた。
ストーリーを3巻にまとめているのではしょっているところがあったりアニメと少々違う展開があるのは仕方がないので、大まかな話の流れを漫画版で知るのもよい。
個人的に嬉しかったのは、同じくときた先生がボンボンで連載していたガンダムの4コマ漫画も併録されていたことだ。
既に持っているG-UNITの新装版単行本には4コマ漫画が収録されていなかったのに、本書と一緒に入手したG-UNITの旧版単行本には載っていたので、そちらと合わせて非常にノスタルジックな気持ちになった。
本書も新装版が刊行されているらしいが、もしかしたらそちらにも4コマは収録されていないかもしれない。

新機動戦記ガンダムW BATTLEFIELD OF PACIFIST

アニメ本編とエンドレスワルツの間を繋ぐオリジナルストーリー。
エンドレスワルツ冒頭でガンダムを破棄することにしたヒイロたちが、そもそもなぜその結論に至ったのかが描かれる。
本作は当時、知らん雑誌に掲載されていてそちらが休刊かなんかになったことでストーリーの後半がボンボンの増刊号みたいなやつに掲載されてたと記憶している。
そのためボンボン読者からすると突然知らんガンダムWが始まって困惑したし、ストーリーの前編部分がどこかで読めたわけでもなかったので、自分は長らく全編通して読まずにいた。
本作に登場するオリジナルMS「スコーピオ」とそのパイロットの「ビクター・ゲインツ」はGジェネFで登場し、これまたマニアックな人選だなと思ったものである。
脚本を担当した人によると本作の隠れキーワードは「支配」であるとのこと。
そしてカトル曰く、ビクター・ゲインツの平和論には他者への不信感があり、武器を持つ他者を信じられなかったとのこと。
ビクター・ゲインツはガンダムのパイロットたちに対して「お前たちが暴走した場合は誰が止めるのか」と投げかけていたが、まあ冷静に考えてみれば兵器の廃絶が進んでいる世界でどこの馬の骨とも知れん人らがガンダムという強大な力を持っていれば信用できんのも当たり前である。
人間は相手を信用できないから相手を支配したがるというのはトレーズが持ち続けていた課題であったが、ガンダムパイロットの少年たちは他者を信じられるからこそガンダムを手放す決断をしたのだ。
唯一それをしなかった五飛がどういう選択をしたのかはエンドレスワルツで描かれることとなる。

新機動戦記ガンダムW Endless Waltz

エンドレスワルツのコミカライズ版。
上2作品と同じくときた先生が描いている。
正直、「Endless Waltz」というタイトルの時点で本作の勝ちは決まったようなものだ。
繰り返される「戦争」「平和」「革命」を三拍子のワルツに例え、そこから導き出されたタイトルなんて最高にカッコいい。
基本的に展開はアニメ版と同じだが、上記で紹介した『BATTLEFIELD OF PACIFIST』に絡めた漫画オリジナルのやりとりもちょっとだけある。
改めてEWを見てみると、五飛の気持ちはわかるけどまあまあタチが悪いというか、ガンダムという力を持っているからこそ余計に始末に負えないというか、でも力がなければ主張したいことも主張できないよなとも思うしよくわからない。
彼の言う通り、与えられるだけでは真の平和は訪れないし、平和は自ら掴み取るものという理屈はわかる。
兵士たちは平和のために戦ったのに庶民は安穏と平和を享受するだけで、今度は無責任に兵器廃絶を叫んでいる姿を見ると、あいつらは何のために戦ってきたのかと、戦死者の数を覚えていたトレーズが成したかったことはこんなことではなかったと五飛の正義が燃えたぎるのも無理はないだろう。
五飛も平和が嫌いなわけではないけどあくまでもそれが正義かどうかで行動しているもんだから、他のガンダムパイロットたちにもお前らもっと遮二無二になって考えろよと苛立っていたに違いない。
一応ガンダム本編で完全平和エンドになったのはこれと00くらいだろうか。

風子のいる店 (1)-(4)

岩明均先生のデビュー作。
主人公の有沢風子は吃音であるゆえにクラスに馴染めず疎外感を感じていた。
そんな彼女が逃げ場所を求め、そして内気な性格を変えるために始めた喫茶店のバイトを通して成長していく様を描いたお話。
「置かれた場所で咲きなさい」みたいなことを言っていた人がいたが、どうせ置かれるなら場所くらい自分で選びたいよなあと本作を見ていて思った。
自分に合う場所はきっとどこかにあるからそのために長所を伸ばしていけ、ということを投げかけている漫画で、風子も喫茶店の客や一緒に働く人たちからその姿勢を学んで自分に合う道を探していくことになる。
勉強が必要なのってそういうわけで、勉強によって培われたある程度の学力や計画性がないと場所の選択肢が少なくなってしまうのだ。
岩明先生はこの次に寄生獣を描くことになるのだが、本作の絵柄もまんま寄生獣なので寄生生物との親和性がありそうな世界観にも見える。

純潔のマリア (1)-(3)

百年戦争中のフランスを舞台に、戦嫌いで戦場をかき回す魔女・マリアを描いた作品。
アニメ放送当時に視聴しており、最近思い出して単行本を購入した。
アニメ版はキャラクターがもうちょい多かった記憶があるが、原作を読んでみるとどうやら登場人物の多くはオリジナルだったらしい。
視聴中は特に違和感を覚えなかったのだが、原作ファンからするとあのオリジナル展開はどう受け取られたのだろうか。
マリアは戦争を引っ掻き回したせいで天界から目をつけられて天使の偉いやつに説教を受けるのだが、こういう上位存在が言うことは「お前のやっていることは自己満足だ」と相場は決まっている。
あっちでもこっちでも人は死んでいるのに手の届く範囲しか救わないのかと問う天使であるが、救える範囲しか救わないのは自己満かもしれないがすべてを救えないからといって何もしないのは極端でしかない。
上位存在である天使からすれば戦争で人が死ぬのはこの世の理であり秩序、マリアのような存在が戦争を止めるのは無秩序であるという理屈なのだが、今を生きている人間にしてみれば目の前で人が死んでいるところを秩序だからと黙って見ていることはできない。
というか秩序云々も上位存在側の理屈で、戦争も人が死ぬのも秩序ですなんて言い分はどうあっても人間には受け入れることができないので論じる時点で平行線だ。
BLEACHの1巻でルキアが「死神はすべての霊魂に平等でなければならない」「手の届く範囲、目に見える範囲だけ救いたいなどと都合よくいかない」と言ったのに対し、一護が「人が体を張るときは理屈じゃない」と一蹴するシーンがある。
そして6巻において有名な名言「おれは山ほどの人を守りたい」に繋がるわけだが、まあこれも上位存在からすれば屁理屈なのだろう。
結局マリアは「戦争を止めて他人に幸せを与えたいならまずは自分が幸せを知ること」「一人一人が自分の幸せを見つければ世界は平和になる」という結論に達するのだが、それに対して天使が「多くの幸福と己の幸福の天秤は己の幸福に傾いたか」と返すのが最高に性格が悪くて人間臭い。
アニメで見たときはマリアが単なる小娘にしか見えず、彼氏ができたからって何言ってんだと思ったものだが、こうしてちゃんと向き合ってみると真っ当なことを言っているし上位存在との話が通じない感も半端ないので彼女の答えは支持したい。
平和も幸せも自らつかみ取るもの、という結論は奇しくも上で紹介したガンダムWの結論と被るところもあるわけだった。

純潔のマリア exhibition

マリアと本編で関わりのあった人物の、前日談や後日談が収録されている。
キャラクターに厚みが出るのでせっかくなら読むことをお勧めしたい。
ところで使い魔たちのその後は本編でもこちらでも描かれなかったわけだが、マリアが魔女の力を失った今、使い魔たちもただの動物に戻ってしまったのだろうか。

僕といっしょ (1)-(4)

先坂すぐ夫・いく夫の兄弟は母親の死後、再婚相手であった父親から養育放棄されたことをきっかけに東京へ家出をする。
そこで出会った伊藤茂(イトキン)、進藤カズキらをはじめとする同世代の少年少女との交流をきっかけに「人生とは何か?」を問うギャグ漫画。
作者の古谷実さんと言えば稲中卓球部が有名だが、自分が稲中しか読んでいないことに気付き、とりあえず全作読むかと思って揃えている最中だ。
なんか、この作者と言えばこれ、みたいな作品ってあるんだけど、それしか読んでないというのもなんかつまらんし、「これしか知らんけどこれが好き」よりも「これもこれも知ってるけどこれが好き」の方が説得力があると思うのだ。
同じ理由で岩明均さんの漫画も上で紹介した『風子のいる店』で全作読み終わったところである。
本作は稲中の次の作品であるが故にギャグ描写も稲中が好きな人ならハマるだろうし、稲中の登場人物である井沢・田中・サンチェも作中にちらっと登場している。
しかしギャグマンガの体を取っているものの毒親、同性愛、売春などの要素がさらっと登場しては消えていくドライ目な話でもあるのだ。
なんか稲中以上にどうしようもない話であり、イトキンや先坂兄弟はとある縁から床屋を経営する吉田一家に世話になることになるのだが、彼らは食い扶持を稼いでくることもなく吉岡家の穀潰し的な感じで居候に甘んじている。(弟のいく夫は小学校に通わせてもらっている)
吉田父の日記を盗み見て貯金が底を尽きそうであることを知って良心の呵責に苛まれ家を離れることを決意するも、結局は戻ってきてしまう始末。
だけど、彼らのことをどうしようもないクズとして憎み切れないのは、まだ中学生そこらの年齢であることと、家庭環境が壮絶であったこと、そして吉田家に来た彼らが楽しそうだからなのだ。
イトキンはかつて日常的にシンナーを吸っていたがそれもしなくなり、シンナーを吸っていたのは「淋しかったから」とも明言しているし、なんならその後ではこの暮らしで価値観が変わったとも言っているのだ。
すぐ夫も、自分が素直に喜べないのは周りの目を気にしているから、そして他人はすぐ裏切るからという思いを持っており、つまらんこだわりのために幸せをスルーしてきたと述べているものの、イトキン同様に楽しそうな毎日を送っている。
当初は橋の下でホームレス暮らしをしていたほど生きるのに精一杯だった彼らが吉田家に来て普通のことで悩むようになる姿が、どうにも憎み切れず愛おしく感じてしまうのだ。

わにとかげぎす (1)-(4)

スーパーの夜間警備員をしている富岡ゆうじは32歳にして、今まで友達や恋人と呼べる存在がおらず無為な人生を送ってきたことに気が付き後悔する。
一念発起して友達を作ろうと決意した後、勤務先のスーパーのドアに脅迫文が挟まれていたことを皮切りにいろいろな事件に巻き込まれていく。
富岡は孤独を"罪"と捉えており、今までの不誠実を一気に清算するつもりで行動を起こわけだが、まあ孤独は必ずしも罪ではないと思うけど、彼の言うように現実から逃げ続けてきた結果の孤独ならまあそうとも言えなくはないかなと。
自分の感覚だと古谷漫画に登場するキャラクターっていきなり突拍子もない暴力を振るいそうな印象がある。
本作にも不良やそれ以上の悪い人は登場するわけで、次のコマでは登場人物が酷い目に遭うんじゃないかみたいなことを危惧しながら読んでいたが、一応はハッピーといえるエンドを迎えていた。
本作は上で紹介した「僕といっしょ」から何作か経たあとの作品で、古谷漫画を読んできた人に言わせるとこのあたりの作品は「孤独な男の前に美女が現れて人生に転機が訪れ、なんか不良とかも話に絡んでくる」みたいな展開が多いらしい。
確かに本作も富岡の隣人の羽田さんが彼に好意を抱いており、彼女との出会いをきっかけに富岡の人生に光が差してくるという話である。
まあ他の作品は知らないので置いておくとして、本作だけで言うと「依存先は多いに越したことはない」と言いたい。
富岡の人生に転機が訪れたのは確かに羽田さんのおかげなわけだが彼は羽田さんのみに孤独の解消を委ねているわけではなく、今までは一人で警備員のバイトをしていたのが、最終話ではレンタルビデオ店で同僚と会話をしながら働いている。
孤独に限らず他のことでもそうだが、精神の安定を何か一つに頼ってしまうとその柱がなくなったときに自分を支えるものがなくなってしまうので、寄りかかれるものはたくさん用意しておくに限る。
まあ都合よく美女が現れて人生変わるわけないじゃんみたいな意見もあるだろうが、やはり異性というのは孤独や欲求を満たしてくれるわかりやすい要素であるため用いられるのもやむなしだろう。
また最終話、高所から飛び降り自殺を図ったと思われる人物のコマが意味深に挿入されているが、これはまあいろんな解釈ができると思う。

  • 心情的に死んで生まれ変わった富岡の暗喩
  • 孤独を解消するという目的を果たしたから死んだ富岡
  • 孤独に耐えられずに死んだ別の誰か

などの解釈ができるだろうが明確な答えはなさそうなので、自分としては富岡の人生が良き方向に向かってほしいなと思う。