1月現在、YouTubeのジャンプチャンネルにおいてすごいよマサルさんアニメ版が期間限定で配信されている。
マサルは自分に計り知れぬ影響を与えた漫画であり、アニメ版ももちろん見ていたというかアニメで知って単行本を買った。
タイトルロゴの「題字:西村知美」が表示されなかったり、OPにちらっと映る実写のPENICILLIN歌唱シーンが別のカットに差し替えられていたりと、おそらく配信版仕様なのだろう。
また、本編においてもマサルが初対面のフーミンをめそと勘違いするシーンに字幕がなかったり、ティッシュとうまい棒が登場する場面でそれぞれのあだ名がキャラの下に表示される演出もなくなっている。
本編には割と上記のように字幕が差し込まれる演出があったと思うのだが、勘違いだったら誰か教えてほしい。
最近の、特に予算が潤沢にあるアニメはアーティストに原作をなぞった主題歌を歌ってもらうことが多いが、何とは言わんが「これあらすじ歌ってるだけじゃん」というものもあってつまらない。
るろ剣のようにアニメと主題歌の内容が合っていないOPも確かにあるが、マサルのようにそれ用に作られた主題歌でなくても圧倒的なインパクトを残す作品もある。
それでは1月に読んだ作品を紹介する。
ネタバレ注意で。
↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp
↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み
さむわんへるつ (1)

深夜ラジオをテーマにしたラブコメ作品。
高校2年生の梟森未明は深夜ラジオのハガキ職人としてネタメールを送るものの、採用されない日々が続いている。
同じ高校に通っている水尾海月はそんな深夜ラジオの共通の話題で盛り上がるクラスメイトだったのだが、ある日彼女がメール採用率の高い有名リスナーであることを知る。
ジャンプで一話が掲載されたときこれは絶対にハネると思っていたし単行本の発売を待ちわびていたのだが、当初はジャンプっぽくないという評価も目立っていた。
いまや連載順は常に上位であり、ジャンプ新世代の一角にふさわしい作品となっている。
ギャグ漫画そのものではなく、「笑い」をテーマにするのって難しいよなと思う。
バトル漫画のように強さを可視化しづらいし、作中で提示される笑いが自分と合わないこともある。
その点本作はラジオの大喜利コーナーを通して自分も作中の笑いに参加できるため、なんかこう分かってる雰囲気を出すことができる上、ミメイと海月の会話も見ていて楽しい。
あとは二人のボケとツッコミの関係性もいい。
会話においてはミメイがツッコミで海月がボケの役割を担っており、ボケの切れ味もさることながらツッコミのセンスが抜群に冴えているのだ。
海月は同性の友人に対しても同じようにボケるのだが彼女たちはツッコミを入れてくれないため、自分のボケを的確に拾ってくれるのがミメイだけならそりゃ海月もちょっと気になる存在として見てしまうだろう。
現実では対等な関係を築けている二人だが、ことラジオとなると海月のメール採用率は圧倒的に高く、一巻現在でミメイの採用数は一通に留まっている。
ラジオ番組にはメール採用率上位のリスナーを集めた決勝戦があり、海月は出場経験があるものの優勝を逃しており、ミメイの当面の目標はこの決勝に進むことだ。
高い目標、競い合う仲間、まだ見ぬライバルたちの存在、あの子の知らない一面、会話の面白さ、ジャンプ的な要素を盛り込みつつも深夜ラジオという題材と見事にミックスしており素晴らしい。
ここからは本作とは関係のない話になるが、この歳になってもジャンプを読んでいるという話をすると「まだジャンプ読んでるの」という反応と、「ジャンプ読むものある?」という反応がある。
前者はまあ漫画から卒業した人の意見として聞くものの、後者は単に温度差の違いでしかないのに自分に漫画を見る目があるみたいな言い方で腹が立つ。
まず、年齢を重ねれば今まで追ってきた流行のものや仲間内で話題のものを若い頃と同じテンションで追うことは難しくなる。
音楽・映画・アニメ・洋服などなど何でもいいが、自分にとって優先順位の低いものから新しいものを追うことをやめ、ヤングの頃に親しんだものばかりに接するようになるわけだ。
最新の音楽には触れずに自分の青春時代を象徴する懐メロばかりを聴くであるとかがそうだし、他にもおっさんなのに大学生みたいな恰好をしている人は若い頃のファッションで時が止まっているからである。
でもそれは悪いことでも何でもなく人間の可処分時間は限られているわけだから仕方がない。
自分はたまたま当時と同じくらいのテンションで漫画を読んでいるというだけで、「ジャンプ読むものある?」の人は漫画の優先順位が低かったというだけの話なのだ。
こういうやつに限ってたまたま手にしたジャンプの目次を読んで「こち亀ないんか」「ONE PIECEまだやってんのか」とか言い、「知らん漫画ばっかだわ」と言うわけだが、そりゃお前が読んでないんだから知らん漫画ばっかだし、知らんからってつまらんわけでもない。
そして今さら知らない漫画を追うエネルギーもないわけだから、ちょっと黙っといてもらいたい。
カクラバチ (10)
今回は集団戦や乱戦が多く、全体的に作者さんの筆が乗っている感じがして見ごたえがある。
神奈備の中から内通者が続出してかなりのガバ組織であることを露呈したかと思いきや、トップの人にも裏切るなりの理由があったようでそこまでのガバガバでなくて少し安心した。
曰く、神奈備は強力な組織であるができて日が浅いので各地にいる有力な妖術師一族は神奈備に従っているわけではなく、お互いに牽制しつつ安定を保っている。
神奈備に必要なのは「権威」と「力」であり、妖刀でもって組織に箔をつけようということらしい。
チヒロの気持ちとは裏腹に、妖刀と父親の存在がどんどん超えられない大きなものになっていっている。
るろうに剣心-明治剣客浪漫譚・北海道編- (10)
和月先生の体調不良で休載していたため久しぶりの最新刊となる。
前巻はいつだったっけなと思って調べたら、9巻は2023年11月の発売だった。
その頃はアニメ第一期が放送されており、雷十太のその後の描写がよかっただの、御庭番衆の追加エピソードが素晴らしいだのの話をしていた。
ほんじゃあまあ京都編はどうなのかというと原作ファンとしても擁護はしづらい。
警察署長を原作と違う人にしてどうすんのかと思ったら特に思い入れのない署長のオリジナルエピソードを足してキャラを深掘りしだすし、まあなんか京都大火を止めたのは剣心たちや御庭番衆の活躍だけではなくて街の人たちや警察も一役買っていたんだよということにしたかったのは分かるが、そっちに尺を割き過ぎてどうでもいい話を延々と展開されていたので困った。
志々雄ご自慢の甲鉄艦"煉獄"にしても、あんだけドヤってたのに克が作った手投げ炸裂弾3個で沈んだことが散々ネタにされていたためか、炸裂弾は直接の原因じゃないという展開にしたかったのは理解できる。
しかし左之助が二重の極みを使えることを知っててなお、内部から煉獄の破壊に動いている左之助に対してそこらの雑兵や戦闘向きでない方治を向かわせるという采配をしたことにより志々雄が間抜けに見えてしまう。
東京編はよかったのに京都編はなんであんなことになってしまったのかと非常に残念な思いをしているが、北海道編の長期休載があったことも考えると和月先生も疲れていたのかもしれないので、京都編のクライマックスはちょっとがんばってほしい。
さて、今回の最新刊においてはついに剣心の肉体が限界を迎え、昏睡状態に陥ってしまう。
北海道編は毎回なんも考えずに楽しく読んでいたのだが、この展開になってよくよく考えてみたら北海道編で剣心の「闘いの果て」が描かれるかもしれないわけだ。
剣心は「剣と心を賭してこの戦いの人生を完遂する」という人生の答えに達し、不殺の戦いの果てが死か別の形の何かかは分からないが、刀を振るえなくなるときまで戦い抜くと誓った。
OVAの星霜編においてはそんな剣心の戦いの果てが描かれたのだが、あれはまあなんかあんまりだったので、作者である和月先生の手で剣心の生き様が見られるかもしれないと思うと北海道編が急に自分の中で重みを増してきたわけである。
雷雷雷 (6)
人類最強のババアがでてきたが、作者さんは前作でも強いババアを描いていたっぽいのでそういうのが好きなのだろう。
ONE PIECEなんかもそうだが年寄りが強いというのは説得力があっていいし、尾田先生も単行本の質問コーナーで老人の描き方についてなんか言ってた気がする。
でも老人キャラは若い人に道を示しつつ強敵と戦って散るというのも定番なので、本作ではどうなるだろうか。
バルバロ! (3)
振り返ってみると自分の2025年ベスト漫画はこれだった。
自分はあまり毒親系の作品は好まないのでサンプルが少ないし、作者さんの他の作品を読んだこともないのだが、作者さんは毒親ガチの人だと思う。
毒親の描き方が他とは圧倒的に異なり、妙な実感とリアリティーを伴っている。
例えば、登場人物の一人が幼少期を回想するシーンで、母親(ヤンママ)と一緒に母親の友達(ヤンママ)の家に遊びに行く場面がある。
その際に母親が「今から遊びに行くけどあんま調子乗んなよ」と娘に言うのだが、確かに一部界隈の人って「調子に乗る」ことを大罪の如くに捉えているフシがあるなあと思った。
調子に乗った人間はしばいても問題ないというかしばくべきであって、「調子に乗っている」と自分に感じさせたこいつが全面的に悪いのであると考えている。
普通の親でも「調子に乗るな」くらいは言うと思うがはしゃぎすぎているのが明らかに見て取れるような場面で使っており、この母親のように釘を刺す目的であるとか自分が不快に思ったからとかの理由で用いるのは毒親というかヤンキーあるあるだ。
本作には他にも薬物中毒の親、スピリチュアルに傾倒しすぎた親などがでてくるが、ヤンキー的なマインドを持った親の描き方が最も真に迫っているなあと思う。
邪神の弁当屋さん (4)
残念ながら最終回を迎えてしまったが、作者さん曰く打ち切りとかではなく元々これくらいで収める予定だったらしい。
この話はレイニーの贖罪の話だと思っていて、まあ思っているだけで別に作中で明言されたわけではないのだが、自分はそう感じた。
罪の意識を持ちつつもレイニーが作ったお弁当が誰かの心の隙間を埋めることに繋がって、そんなレイニーの周りに人が増えるようになって、隙間だらけの彼女の心を埋めるに至る。
今思うと、誰かが好きだと言ったものをレイニーが決して忘れないのも贖罪の気持ちからなのかもしれないが、でも単純に自分の作った弁当をおいしいって言ってもらえたら嬉しいはずだ。
レイニーの心が隙間だらけだったから、その「おいしい」がハマる余地がたくさんあったのかもしれない。
1巻を読んだときに、この作品は「余白」が良いというようなことを書いた。
絵はシンプルなのだがどこか不穏な空気を漂わせているし、レイニーは表情が変わらなくて何を考えているか分からないし、セリフや何やらで登場人物の心情が事細かに説明されるわけでもない。
だから上記したようなことは自分が勝手に読み取ったことなのだが、余白のある作品はいろんな解釈を想像できるのでやはり楽しい。
また、単行本書き下ろしのおまけエピソードは非常に充実しており、本編から数年後の話も描かれている。
全4巻と手に取りやすいボリュームなので、ぜひ読んでほしい作品だ。
二階堂地獄ゴルフ (11)
亮介をゴルフで打ち破り、不正をやめるよう彼の心に訴えかけるため、巻き戻しの力を再度使うことを決意した二階堂。
いくら周囲に能力のことが露見していないとはいえ、みんなが自分の努力や積み上げてきたものに敬意を払ってくれているとしても、そんな応援される価値のある人間でもないと二階堂は思う。
毒を食らわば皿までという具合で、ならば中途半端なことはしてないで最後の最後まで卑怯をやり切ることを決意したわけだが、やっていることが違うだけで二階堂も亮介と同様に不正をしていることに変わりはない。
それがばれているかばれていないかの違いであって二階堂も糾弾されてしかるべきことをしているのだが、亮介を負かすためという大義名分と、寿命が減るというリスクを背負ってるんだから多めに見ろという開き直りが見て取れる。
このへん、今後の展開で二階堂はどう折り合いをつけていくのかが見ものだ。
はなまる・エントロピー (1)

試し読みをしてみて面白かったので購入したが、正直不安な気持ちもあった。
なぜかというと帯に書いてある文言がしょうもなく、【超草食系男子×バリキャリ女子】とか【「永遠の愛」を探すラブ(?)物語】とか、この文章を考えたやつは本気でこの漫画のいいところをアピールする気があるのか、足を引っ張りたいだけじゃないのかとセンスを疑った。
さてストーリーだが、仕事に前向きな永田千穂と、彼氏の井上捺央のふたりは穏やかに仲良くやっていたのだが、千穂は捺央と一緒にいることに疲れを感じるようになり、自分たちが見ている未来は同じではないのかもと思い始める。
そんな気持ちで朝目覚めると、捺央の身長が13㎝になっていて…というお話。
13㎝のことは一旦置いといて、なんか社会人のお付き合いってこんなだよなあと思わずにいられない。
親の庇護下にあった学生時代とは違ってまずは自分の生活を成り立たせた上で相手のことを考えるわけだし、仕事に対するモチベーションの違いとか、将来に対する意識の差とか、考えることがいっぱいある。
でもまあ、いろいろ大変なことはあるけどこの人とだったらやってけそうかなと思って結婚なり何なりするんだけど、捺央が13㎝になってしまった時点でふたりは対等じゃなくなってしまってるから、一緒に困難を乗り越えていこうとは言えない。
そもそも捺央は身長が156㎝であることに並々ならぬコンプレックスを抱いており、一方の千穂は自分も同じ身長であることに共通点を見出して嬉しくなっているところからも分かる通り、かなり前向きな女性なのだ。
捺央が小さくなった時も、こんだけ小さかったら狭い部屋でも一緒に暮らせるし、旅行も一人分の料金で二人で行けるといったことを思い浮かべていた。
じゃあ小さくなった当人の捺央も同じような性格であればよかったのかもしれないが、彼は身長に起因するコンプレックスからとにかく卑屈で、自分のことは捨てていいとか、自分の世話で千穂が楽しくしているところを見られないのはツラいから別れようなどと言い出す。
これってすごい卑怯な言い回しで、千穂にも捺央の言うことはいつもその場しのぎであると看破されていたが、捺央としては千穂がこんな状態の自分を捨てるわけがないと分かっててわざと言ってるわけだ。
確かに対等な状態でもないし一緒に困難を解決していこうとは言いづらいかもしれないが、「恋人が小さくなる」という極めてイレギュラーな事態に直面した気持ちの置き場のない千穂に対して今の状態でも他にできることはあるだろうと。
ただまあ捺央の気持ちもわからんわけではなくて、彼は自分の仕事(コピー機のメンテナンス)にそれほど未来がないことが分かっていても、低身長は面接で不利だからという理由をつけて行動しようとしない。
身長を行動しない言い訳にしているわけだが、正直言ってこの思考は理解できて、捺央としては身長云々より現状を変えたくないのだ。
大親友のパスタの俺、みたいなことを唄っていた湘南乃風の曲の歌詞にも「馴れ合いを求める俺 新鮮さ求めるお前」というものがあるが、実感として男性は安定を求める傾向があり、それが転じて現状を変えるような新しいことをしたがらない人もいる。
自分一人だけならそれでもいいかもしれないが、パートナーでもいる場合は退屈であるとか向上心がないとかみなされてしまう。
千穂も、社会人になってお金が稼げるようになったら楽しみが広がっていくものだと思っていたけど、捺央といると楽しみのスケールが縮小されていっている感じがすると述べている。
彼女のことが好きなら現状を変えるために飛び出そうぜ!と第三者が言うのは簡単であるが、めんどくさいとかじゃなくて単純にリスクを取りたくないのだこういう場合は。
だってもしも転職に失敗したら彼女が離れていくかもしれないし、男が稼いで大黒柱となるべきという風潮だってまだまだ根強いわけだから、派手なことはできなくても大きな不満もないんなら別にいいじゃんくらいに思っている。
もちろん彼女のことは好きだし一緒に楽しいこともしたいけど、あわよくばこのままの感じで何とかこううまい具合にてな感じだ。
だから、13㎝になってしまった捺央が、どこか解放された気持であることに気が付いたときは確かになと思った。
だってさすがに13㎝になっちゃえばいろんな義務感や焦りや社会の煩わしさから解放される(というか社会に参画できない)し、千穂に世話をされるという大義名分も立つ。
いや、お前は何を情けないことを考えとるのかと思う人もいるだろうが、実際に13㎝になったら開き直るしかないだろう。
あと本作は、千穂の友人二人が素敵なキャラをしている。
卑屈なことを言いつつも現状を変えようとしない捺央の話を友人にする場面があるが、彼女たちは捺央の悪口を言うでもなく、千穂の話を聞いた上で「千穂が引っ張っていったらどうか」という建設的な提案をする。
こういう、愚痴を言いたい気持ちには寄り添うけど悪口は言わない的なムーブってなかなかできることじゃないので、捺央が小さくなったことを友人たちが知ったときにどんな関わり方をしてくるのか楽しみだ。
というわけで帯に書いてあることはなんかアレだったけど、内容は非常に面白く語ることがかなりある。
あまり読まないジャンルの漫画ではあるものの、思いもよらない作品に出会えてうれしい。
銀の匙
幼少期にお気に入りだった銀の小さじを見つけたことをきっかけに、作者が少年時代のことや伯母との思い出を回想する作品。
正直、もっと早く読んでおけばよかったという一冊だ。
まず単純に文章がすごい。
すごいというのはどういうことかというと、一言で表現すると「瑞々しい」に尽きる。
綺麗な文章と言い換えてもよく、綺麗な文章で思いつく作家と言えば三島由紀夫だ。
彼の文章が豪華絢爛で耽美的な文章だとすれば、中勘助の文章は飾り気がないものの優しく温かく、徐々に効いてくる文章であると感じた。
例えば、松ぼっくりを拾い集めている一場面を「拾いためて袂にも懐にもいっぱいになった松ぼっくりと心で仲よく話しながら」と表現しているあたりである。
この作品を絶賛したとされる夏目漱石の言葉や本のあとがきの文章を借りると、本作で描かれているのは大人から見た子供の世界でもなく、大人が回想している子供時代の記憶でもなく、子供の体験した子供の世界であるのだ。
本当にこの松ぼっくりのシーンなんかさっき見てきたような実感を持って書かれていて、この描写だけでなく作中全体からそんな子供時代の空気が漂っている。
また、大和魂がないと貶された作者が「大和魂を取り出して見せることができない」と悔しがっている場面があるが、夏目漱石の『吾輩は猫である』で猫が似たようなことを言っていたと記憶している。
大和魂は魂だから常にふらふらしている、みたいな言い回しだった気がするが、こんなところにも中勘助と夏目漱石の共通点があるものだ。(中勘助は夏目漱石の門下生に数えられている)
中勘助の作品は他のも積極的に読んでいこうと思う。
世界の終わりの最後の殺人
触れたもの全てを殺す「霧」が蔓延して世界は滅亡し、残された人々は霧を防ぐバリアを張った島で自給自足の生活をしていた。
ある日島の三人の科学者のうちの一人が殺害され、その死によってバリアが解除される設計となっていたため、人類は生き残るために霧が島へ到達する46時間以内に事件の真相を突き止めバリアを張り直すことを迫られる。
探偵役のいるミステリー小説であり、絶海の孤島が舞台のクローズドサークルものではあるものの、近未来や終末要素も加わっているためよくもまあこれだけの設定をまとめることができたものだと感心する。
探偵は犯人探しと島に隠された真実の両方を暴いていくこととなり、世界の違和感が回収される瞬間が気持ちいい。
そもそも、犯人を突き止めることとバリアを張り直すことに何の関係があるのかと思った人はぜひ本編を読んでもらいたい。
まあ肝心のトリック面は少し弱いかなあという印象ではあったが、前述した通り色んな要素がギュッとまとまっているので満足感はそれなりにあった。
ミステリー作品を紹介する際の欠点としてあまり話しすぎるとネタバレになってしまうので控えめにしておく。
海外小説の新刊をハードカバーで購入したのは久しぶりだが、翻訳というひと手間を挟むからなのか値上がりを実感した。
密会 アムロとララァ

アムロとララァの関係性にフォーカスしたガンダムの小説版。
富野監督曰く、「TV発の物語をなぞった活字や漫画の作品がない」とのことで出版に至ったのだとか。
初代ガンダムの小説版はあるにはあるのだが、TV版とはストーリーが異なっているのだ。
ちなみに先ごろ放送されたジークアクスにおいてララァが「カバス」という娼館で働いていたが、あれはこの小説の設定を引用したものである。
本作はかなり富野節が効いており、正直言って決して読みやすいとは言えない。
アニメの知識があるから内容が頭に入ってくるわけで、ガンダムのことを知らずに読んだらなんのこっちゃわからないだろう。
富野監督の小説はアニメで表現される監督自身の思想(反戦とかコンピュータに頼りすぎる人類はダメとか)を可能な限り活字にしたものなので、監督の頭の中の映像ありきの文章といった印象があり、映像がないと理解しづらいのかなとは思う。
さて、本作のアムロは『ベルトーチカ・チルドレン』の彼と対比させて読むとなかなか面白い。
一年戦争時、アムロは父親と一緒に地球からコロニーに移住してきたが、母親だけは地球に残ることになった。
そんな母親に対して父親以外の男の影を感じた彼は母親を嫌悪しつつも、覚えたての「マザー・コンプレックス」なんて単語を使ってみて「女性嫌いの女体好き」のような自分を自嘲しており、初対面のララァに関してもこれワンチャンあるんじゃないかと思うなど、思春期の男の子らしい感性をしている。
ところがベルチルのアムロは母親のことを「安心できない女」とした上で、自分は間男との子供ではないかとすら思っているのだ。
いろんな女体を渡り歩いてきて女性に対する幻想がすっかり抜けきったように見え、あのおセンチなアムロがすっかり擦れちゃってさ、と何目線なのか分からん感情を抱いてしまう。
あと、初対面のシャアのことを「ハロウィンのパーティにでも出るような恰好」と形容していたのは笑った。
やっぱり宇宙世紀においてもあんなカッコをした軍人は目立つらしい。
また、作中において「宇宙移民者は三代に渡るローンを背負って宇宙に来ている」という一文があった。
宇宙世紀において地球に住むことのできるのは一部の特権階級に限られるため、許可なく地球に住んでいる人は不法居住者として宇宙へ強制的に送られる。(Vガンダムのウッソなんかも不法居住者)
その際の費用は実費ということでローンの話になったわけだが、現在劇場公開中の『閃光のハサウェイ』にも通じるところがある。
閃ハサには「マンハンター」という組織が登場するが、この人たちは地球の不法滞在者摘発に特化した組織で、逆シャアの舞台である宇宙世紀0093年頃には既にいた。
ハサウェイ(マフティー)はなぜマンハンターをしばかないのかと疑問に思っている人もいるだろうが、ハサウェイはシャアの思想に感化されており地球環境保護のために人類すべてを宇宙に上げたいと考えており、マンハンターとは目的が同一なのだ。
彼がしばきたいのは地球連邦政府で、近く開催されるアデレード会議において地球連邦政府の権力強化につながる法案が可決されるおそれがあり、腐敗した政府高官により地球の私物化が加速してしまうため、ハサウェイとしてはそれを阻止したいのである。
そして閃ハサの世界から100年以上経過した『ガイア・ギア』にはマンハンターを母体とした「マハ(MHA)」が登場する。
マハのトップであるビジャン・ダーゴルの最終的な目的は地球に独立国家を建国することであり、マハが選別したエリートによって人類と地球を徹底的に管理する「地球逆移民計画」を進めていた。
元々のマンハンターの目的とは全くの正反対になってしまったのは皮肉だなあという感じだが、やっぱり人類は地球から離れることができないということを一貫して書いているとも言える。
冒頭で富野監督の小説は難しいと書いたが、登場人物の心理描写は映像より深く突き詰められているので、世界観をもっと知りたいというのであれば読んでみることを勧める。
大人に質問!「大人ってどのくらい大変なんですか?」
児童館の子供たちの質問をみうらさんが一問一答形式で答えたものをまとめた本。
右ページに子供たちの質問、左ページにみうらさんの回答が載っている。
ある質問に「単に年を取れば誰もが大人になれるわけではない」と回答していたが、同じようなことをリリー・フランキーさんも言っていた。
曰く、年を取ったくらいでは人間変わらないがチンコの欲望はみんな同じであり、おっさんは人生経験がある分ずる賢いので女の子は気を付けましょうというようなことだったと思う。
また、若い女性から見ると年上の男性は大人の余裕があって落ち着いているように見えるかもしれないが、あれはただ単に疲れているだけなので勘違いしないようにともあった。
人間って何がどうなれば大人になったかなんて明確な定義はないけど、そんな定義がどうとか言ってる間におっさんおばさんという年齢に達してしまうので、大人になった実感はないが年を取った実感だけはある。
朝鮮漂流

1月に発売された町田さんの新刊。
文政二年(1819年)、薩摩藩士25名を乗せた船は沖永良部島から薩摩への帰国の途中に暴風雨に襲われ遭難してしまい、ようやく辿り着いたのは朝鮮国であった、という史実を元にした一冊。
藩士の一人である安田義方の記録が残っているようで、それを下敷きに創作した内容となる。
安田は冒頭で「自分の偽らない気持ちを書いていきたいが、それは可能な限り少なくしていきたい。なぜならこれは日記ではないからだ」と述べているものの、創作とは言え多分に私情というか自分に都合の良い書き方をしているように見て取れた。
薩摩側と朝鮮側はお互いに言葉は通じず通訳もいないため漢文のできる安田が筆談でもって先方と交渉しており、安田は後に記録を残すことを考えて、自分が朝鮮側に渡した文章だけでなく、先方からもらった文章の草稿も残している。
国同士の交渉なわけだから後で言った言わないの話にならないように記録を残しておくことは大切ではあるが、安田はちょいちょいこの草稿を紛失している。
紛失したということは安田自身が述べていることだが、どうも彼にとって露見すると都合の悪い場面、例えば相手方の役人と船の修理をめぐってやり取りをした際、嚙み合わない会話にいら立った様子なんかも草稿が残っておらずどういうやりとりをしたのかが判然としない。
とは言え相手への悪口的なものを全て残していないというわけではなく、女性のように着飾った朝鮮国の官人の無能さに憤っている場面では「腐敗した婦女のような性格である」と小馬鹿にした上で「私は武士なのでこんなことを書いてはいけないが書いてしまったものは仕方がない。草稿は失われなかった」と、わざわざ書いているのだ。
自分は薩摩藩にわかなので適当な印象になるが、薩摩はかなりの男性中心文化で女性は男性の発言に異を唱えるなみたいな土地柄であったと思う。
最近だと、幕末の薩摩藩を舞台にした漫画『だんドーン』においてもそんな薩摩藩の様子が描かれているし、自分が今まで読んできた江戸時代関連の書籍においてもそんな感じのことが書いてあった。
なので男らしさを至上のものとする薩摩の文化において男が女のように着飾るなんて気色の悪いことであり、そんな男を馬鹿にしたところで外交レベルなら問題かもしれないが藩の内部で見る記録であれば大丈夫だと判断したのだろう。(実際に安田以外の他の藩士や船員も着飾った朝鮮国の官人のことを「婦女官人」と呼んで馬鹿にしていた)
しかし漂着した薩摩藩の人々と朝鮮国の人たちとの交流は決して険悪なものだったわけではなかったようで、詩を交換して交流したり、一緒に酒を飲んで星を眺めたりして楽しくやっていたようだ。
安田自身も「現地の役人とはなあなあであった」と言っているくらいで、朝鮮国の中央政府に報告しなければならない船の積荷の数についても割と適当だったらしい。
そして、朝鮮国との別れの宴のシーンでは「草稿は失われたがこのやり取りについては敢えて記憶に基づいたものを再現して記す」と書いている。
朝鮮国の「真心」を後の世まできちんと残しておこうとする安田の「真心」を感じる一文であるし、この文章や宴のやり取りだけで生まれも育ちも国も違う人たちが睦まじく絆を育んできた様子がありありと浮かぶ。
安田は最後に、この記録を書き始めた理由について
私自身を狂気から救助する為であったが、書いているうちに次第に私が主君に、そして日本という国に対して負っている義務と誇りのようなものが芽ばえてきて、途中からはそのとき実際にどうであったかを記すことにより、私たちの行動の根底にそれらを護るという意識があったことを知るに至り、その両者が文の中で合併するということになった。それ故、忘れられない朝鮮人たちの面影が文中に漂うかもしれない。とは言うものの私は真実のみを記した。
と述べている。
海難事故に遭って漂流し、見ず知らずの土地で数年に渡って望郷の念に駆られ帰国の日を今か今かと待ちわびて、その間に死んでしまった仲間もいて、壮絶な経験であり気が狂ってもおかしくない。
安田を狂気から救ってくれたのは主君や日本に対する誇りだけでなく、朝鮮国の人々の真心であり、それは安田が記した「真実」であったのだろう。
本作は自分が見る限り従来の町田節は抑え目であるのだが所々にウィットに富んだクスッと笑える表現もあり、単なる伝記ものに留まらない面白さと読みやすさがあった。