公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2024年2月に読んだ本

2月に読んだ作品はどれも琴線に触れる内容で、いい読書ができた。
特に漫画に関しては単行本化や続刊を待ち望んでいた作品ばかりで、何度も読み返したくなるものばかりだ。
3月も終わりだが今さら2月に読んだ本を紹介する。
念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

カグラバチ (1)

昨年からジャンプで連載が始まり、かなり注目している作品。
主人公の六平チヒロは、父・六平国重の元で刀匠になるための修行に励んでいる。
国重は数年前の戦争を終結に導いた6本の妖刀を作った鍛冶師であり、大戦後は刀を全て回収し自宅に保管していたのだが、何者かの襲撃を受け刀は全て持ち去られ国重は殺害されてしまう。
遺されたチヒロは父が7本目に打った妖刀を手に復讐に身を投じていくことになる、というお話。
とりあえず作者さんは単純に"漫画"がうまいと思う。
コマ割りから構図、演出に至るまでかなりハイレベルで、初連載作品とは思えないくらい磨きがかかっている。
絵に関しても連載中にどんどん画力が向上しており、初登場時はかわいらしい顔をしていた幼女が過酷な運命に巻き込まれるうちに画風が変わって険しい顔になっていったのは意識してのことなのか画力によるものかは分からないが、登場人物の変化を感じ取れるような描き方ができている。
チヒロの妖刀が能力を発動する際のエフェクトが金魚というのもよい。
3匹の金魚がそれぞれ3つの能力のシンボルになっているし、父親が買ってきた金魚とそれらが住む金魚鉢の中の世界がチヒロと父親が過ごした狭いけどささやかな幸せを象徴しているようで、彼が過去に囚われている存在だというのがよく分かる。
週刊連載だとどうしても流し読みしてしまうのだが、単行本だとじっくり読めるのでいろいろな気づきがあり、チヒロが左利きで右に刀を差していることも今更ながら認識した。
マフィアのアジトにカチコミに行く際も、雑魚を倒す際は脇差のみを使い、ボスと対面したときに初めて刀を抜いて戦うというのも魅せ方として上手いし、脇差を使う理由も整合性が取れていたので違和感を覚えることなくアクションにのめり込んで読むことができる。
また、チヒロは妖刀を作った父親の息子であるわけだから妖刀に対する理解力が相当に高く、実戦経験の浅さを刀のことをよく知っているというアドバンテージで補うという展開もクレバーでよい。
ジャンプ本誌の掲載順位が真ん中から下あたりを右往左往しているようで打ち切りを心配しないでもないが、2024年13号の本誌にて「単行本重版出来」とあったのでちょっとだけ安心である。

ザ・キンクス (1)

錦久家の特に何も起きない日常を描いた作品。
作者さんはエロやナンセンスもののギャグ漫画を得意としているイメージで、同様の印象を抱いている人は多いだろう。
本作にはそうした要素はなく、作者さんも「日常から逸脱しない」とあとがきで述べている。
とは言え何も起こらない退屈な話というわけではない。
伝わるかどうか分からないが、例えば「なんにもいいことないわ」って言ってる人がいたとして、そういうことを言う人にとっての"いいこと"って「非課税で大金が手に入った」とか「顔も性格も収入も完璧な恋人ができた」みたいな、劇的なものを思い浮かべていることが多い気がする。
ところが日常には"いいこと"ってそこそこあるもので、「朝気持ちよく起きられた」とか「昼ごはんがおいしかった」とか割と見過ごしているようで何かしらはあるわけだ。
もちろん、自己啓発本に書いてあるような"ささやかな幸せに感謝する"的な陳腐な言い回しなんてしゃらくさいというのも理解はできるし、日々のしんどさに比べたらその程度のラッキーなど腹の足しにもならないだろう。
でもまあミクロで見ればいいことは起きているのは確かで、何もないように見える日常も目線を変えると愉快なことがあるということを実感した作品だった。
特に、お祭りが終わって夜道を家族全員で帰る場面を子供の視点で書いている話は、作者さんの引き出しの多さに感服した。
また、先ほどの作品でも触れた構図の巧みさだがカグラバチが映画のようでカッコいい構図だとしたら、本作は単純に今まで見たことのない構図の連発で見開きなどを駆使した見せ方にはさすがのキャリアを感じる。

ニセモノの錬金術師 (2)

二ヶ月連続刊行が本当にありがたい本作。
一巻は先月の読書記録で触れているので、ストーリーなどはそちらを参照してもらいたい。
本作のキーワードとなる技能である『呪術』については今巻でも深堀りされている。
呪術師は自分のために呪いを行使することができない呪いを自分にかけるので、気に食わないやつがいるからといって呪殺するといったことはできない。
じゃあ呪術をもって人を攻撃することができず、自分を守る術がないのかというとそうではなく、「相手の禁忌を知り、その禁忌を踏みにじらせる」ことによって相手にダメージを与えることができる。
ノラは「奴隷にむやみに暴力を振るってはならない」という決まりをあえて破らせることで、相手に報いという形で呪いを返し暴力から身を守っていた。
作中の説明を借りてもうちょい具体的に言うと、「入ってはいけない」とされる場所に入ってしまったときの居心地の悪さ(「報いが表れても仕方ない」といった気持ち)を思いっきり増幅させて相手に返す感じで、「自らを呪わせる」とも言われていた。
つまり相手にあえてタブーを破らせることが重要で、そうするためには相手と「縁」を結ぶ必要がある。
「縁」については一巻でも軽く触れられており、一言で言うと「仲良くなること」だ。
ノラの父親曰く、「好むと好まざるとに関わらず、人は自分と関わりのできたものの影響を受け合って生きている」ため、呪いが当たり前にあると信じている呪術師と縁を結ぶことで相手は呪いを感じ始め、呪いの下準備が成されるのだそう。
「呪い」に対するこのあたりの考えは本当によく考えられていると思うし、作者さんの人生観も垣間見える。
「人の心の力」であると作中で言われている呪術だが、"縁"というどちらかと言えばポジティブな言葉を用いているあたり、一般的な「呪い」という言葉から受ける印象とは少し違う気がする。
呪術の始まりが「あの人に不幸に・不自由になってもらいたい」という気持ちであることは否定されていないものの、「これではいけない」という思いもあり、ほんの少しでもよくありたいという気持ちから、呪術師は自分のために呪いを使ってはならないという呪いを自分にかけるのだ。
生きていれば誰しもマイナスの気持ちは心に生まれるが、本作ではその「呪い」を否定しないし、呪術は呪いを増幅もできるし逆に和らげもできる。
矛盾しているように感じられる設定だけどすんなり受け入れることができるあたり、作者さんは「呪い」という感情に対して思うところがあり、かなり深堀して考えたのではないかと察せられる。
また、本作の主人公は自己評価が低く、自分の成果物に対して自信がないと言うよりは自分の命を軽く見ており、有事に際して真っ先に自身を犠牲にしようとするタイプだ。
主人公が周囲の人間とどのような"縁"を結び、どんな影響を受けてどのように変わっていくのかも注目していきたい。

みちかとまり (2)

8歳の女の子・まりはある日、竹やぶでみちかと名乗る少女と出会う。
人間の常識から離れたところで生きているかのような彼女に振り回されるまりを描くガールミーツガールもの、と書くとほのぼの日常漫画のように思えるかもしれない。
本作は今までの作者さんの作風とは異なっており、読んでいると胸がざわざわしてきて落ち着かなくなる。
田舎のノスタルジックな風景を描き、一見ほのぼのしているかのようで物事が良い方向に進まないであろう不穏な空気が作品全体から漂っており、一話冒頭で描かれた成長したみちかとまりが何かを燃やしているシーンにどのように帰結するのか今から不安で仕方ない。
みちかとまりが迷い込む異世界の描写も巧みで、あからさまに恐怖心を煽るわけではないが違和感を覚えて"気持ち悪い"タイプの怖さを喚起する。(人間の体に花の頭がくっ付いた異界の住人とか)
なので二巻まで読んでみて思ったのは、これはホラー作品であり因習ものであるんだなと。
本作の舞台となっている村では、みちかのように竹やぶに女の子が「生えている」ことは珍しいことではないらしく、過去にも竹やぶに生えていたところを発見されて今は大人になった女性も登場する。
竹やぶに生えていた女の子には神様になるか人間として生きるかの選択肢があり、どちらになるかを決めるのはその子を発見した人らしい。
今のところ、神様として生きていくことにした女の子は登場していないが、きっとそっちを選んだところで一般的にイメージされる全知全能の神的な生き方はできないんだろうなあと個人的には不審がっている。
竹やぶの先輩である女性は人間として生きているが、「人間でい続けるには自分を鞭で叩いて そのことに気づかないようにずっと麻酔をかけ続けるからなんにも感じなくなって どんどん人間じゃなくなっていくみたい」という独白をしており、数年後再登場したときには初登場時のエキセントリックさが薄れて疲れた普通の人みたいになっていたのも俗世にまみれてしまった感があった。
人間として生きるのも、神様として生きるのもどっちも大変なんだよなあというありきたりな結論にはならないと思うが、この作品が一体どういう終わり方をするのか不安だけど楽しみである。

半七捕物帳 (4-6)

先月に半分読んだのでこれで終わり。
探偵小説と時代小説を融合した「捕物帳」のはしりと言われている作品。
詳しい紹介は前月の記事を参照していただきたい。
自分は時代劇が好きなのでこんな傑作を知らなかったことを後悔する勢いで読んだが、探偵ものとして接したときにどうかと言うと、正直洗練されていたとは言い難かった。
偶然事件が解決したり、事件について誤解したまま捜査を進めていたり、謎解きを期待して読むと肩透かしを喰らうかもしれない。
怪しい人を取り調べる際も、高圧的に接したり家族を引っ立てて取り調べるぞと恫喝してみたり、結構荒っぽいことをしている。
ただまあこれは先月の紹介でめっちゃ褒めたのであえて気になるところを挙げてみたくらいで、正直言って個人的にはどうでもいい。
以前にも述べた通り、本作は江戸の文化を現代に伝えるのにも一役買っている。
江戸時代の事件捜査や取り調べはこんな感じだったのだろうかと想像して読むのは楽しいわけだ。
謎解きに関しても、探偵小説の先駆けを務めたような作品であるだけに、これをきっかけにどんどん洗練された捕物帳作品が出てきたと考えられる。
もっと知名度が高くてもいいと思うのだが(自分が不勉強なだけかもしれないが)、半七に強烈なキャラクター性があるわけではないから映像作品が少なくて知名度が低いのかもと感じた。
ドラマ等が作られていないわけではないのだが、調べてみたところ1970年代から1990年代くらいまでの期間しか制作されていなかったようだ。
半七は芝居や講談が好きではあるがキャラとしては割と普通の人で、決め台詞があるわけでもなければ同じ岡っ引の銭形平次のように小銭をぶん投げるわけでもない。
侍ではないので鬼平犯科帳のように派手な大立ち回りもないから、映像にしたときに地味になるのかなあと思う。
時代小説は固有名詞や慣用句など現代では馴染みのない言葉が多く、ハードルが高いと感じている人もいるだろう。
それを差し引いても、時代小説初心者に勧められる作品としてはこれが最適解なのではと思うので、ぜひとも読んでもらいたい。

宵待草夜情

この作者さんの作品は「文学性の高い推理小説」と言った印象で、出だしから終わりまで引き寄せられる文章で書かれている。
推理小説には、何の解明をメインに据えるかに「犯人・犯行方法・動機」の3点がある。
「犯人」はまあベーシックに犯人捜しだし、「犯行方法」は密室のトリックやアリバイ工作を暴くものだ。
で、連城さんの作品の多くは「動機」の描写に力を入れた推理小説となっている。
なぜ犯人が犯行を決意するに至ったかを読者に伝えるため、犯人の内面が執拗に描写されている。
作品は五篇収録されておりどれも女の情念を描いたもので、深みにはまって正常な判断ができなくなったり、嘘に嘘を重ねてにっちもさっちもいかなくなったり、そうした感情の揺れ動きが美しい文章でかつ読者にも伝わりやすく表現されているため、「よくこんな表現思いつくなあ」と「この気持ち分かるわあ」が味わえて読んでいて楽しい。
また、心理描写だけでなく情景の描写も非常に巧みで、物語への没入感も保証できる。
人間の気持ちに答えも正解もないので(作者さんの中での答えはあると思うが)、こういう「感情」を描いた作品って読み手によって解釈が全く異なるので好きだ。

2024年1月に読んだ本

ジャンプ本誌で連載されていた『アスミカケル』が終わってしまって悲しい。
ドリトライも終わって悲しいし、ツーオンアイスも順位が危うくてつらい。
かと思えば○ッ○ュ○みたいなあれな漫画がアニメ化している現状があるので世の中とはままならないものだ。
このままカグラバチが終了してしまったらどうしようと戦々恐々としているので、とりあえず単行本は買った。
ということで2024年1月に読んだ本を紹介する。
念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
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↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

ニセモノの錬金術師 (1)

不慮の事故で現代日本から異世界へ転生した青年・サコガシラことパラケルススが、奴隷として売りに出されていた女性・ノラと出会うところから始まる物語。
kindleで原作者さんのネームが無料で公開されており、全話読んだのだがとにかく完成度が高くて面白くて書籍化してくれんかなあとずっと思っていた。
作画の人とタッグを組んでスタートした連載は読み忘れていたので、単行本発売をとにかく待ちわびていた。
導入としてはありきたりな異世界転生ものかと思いきや、設定が作りこまれている上に、主に「愛情」と「呪い」を主体とした人間の精神描写がとにかく執拗なのだ。
この作品には「呪術」という技能(技術?)が登場する。
エルフの女性・ココにかけられた強い呪いに対して、呪術師であるノラは彼女の呪いの内容を読み取ろうとする。
そこでココにかけられている呪いが「我に助けを乞う時まで 絶命する時まで 自らの愚かさに嘆き ただ苦しみ痛み 辱められ 毎日に怯えて震えて生きることを命じる」というものであることが明らかになるのだが、この呪いにこめられているものは深い慈しみの気持ち「愛情」であることも同時に判明するのだ。
そしてノラは、呪術師が一番最初にかける呪術は「自分の欲望のために呪術を使ってはならない その時は死ぬ」であると述べ、「人が人を呪うことはやめられないが、少しでもよくあろうとする想いがこめられたこの呪いが好きだ」と呪術に対して誇りと愛着を持っていると同時に、ココへ呪いをかけた人物に対する憎しみをあらわにする。
この「呪い」に対する考えは非常に好きだなあと感じたし、原作者さんの人生観みたいなものを垣間見た気がした。
特に、呪いに込められたものが「愛情」っていうのはすごくよく分かるので何度も頷いた。
主に男女関係における「幸せになってほしい人」って「自分の手で幸せにしたかった人」であって、自分の元から離れていくのならせめて一生自分のことを忘れずに刻み付けておきたいと思う一面もあるわけで、それが相手もしくは自分に「呪い」という形で現れるのは独りよがりの愛情でしかなかったとしても心理としてはありふれていると思う。
だからこそ本作における「呪い」は人間の負の感情を否定せず、じゃあせめて誇れる生き方をしようぜという「願い」もあるわけだ。
人間は聖人ではないわけで、誰かを恨んだり嫉妬したりの感情は生きていくうえで避けられないし、自分は誰からも妬まれていないと胸を張って言える人もそうそういないだろう。
それに対して、「そんなことない!人間は美しいしおまえは素晴らしいよ!」的なマッチョ感のある肯定ではなく、「お前はどうしようもないかもしれないけどそれでもいいと思うよ。でもよくする努力はしようや。」という姿勢は共感できた。
ちなみに原作は完結しているのでココにかけられた呪いに関する真相も明らかになったと思うが、忘れたので覚えていない。
キャラクターも魅力的で、一巻ではノラの転んではタダでも起きないしたたかさがとても魅力的に描かれている。
さらに、単行本を読んでみて気が付いたのだが、コマ割りや構図がkindle版とほとんど変わっていないため、ネーム時点での完成度の高さが伺える。
web漫画に絵の上手い作画担当をつけて商業リメイクするのは一般的になってきていて、例えば『ワンパンマン』なんかは有名なところだ。
ワンパンマンに関してはあの絵がいいから原作版のほうが好きだという人もおり、同様の意見は本作でも見られるものの、さすがに本作に関してはkindle版は本当にネームであって何をやっているのか分からないシーンもあるので、作画をつけたのは正解だ。
まあただ、エグい描写に関しては絵が上手い故により生々しく感じられると思うがそこはしょうがない。
なろう系に代表される近年の異世界もの(本作はなろう発ではない)において、"奴隷"や"エロ"は必須のようになってきているが、ちょっとああいうのはやめたほうがいいんじゃないかなあと思った。
呪術の契約と縛りについて説明するための奴隷だったのかもしれないが、それなら"使用人"とかでもよかったわけで、尊厳を奪われて劣悪な環境に置かれた人を描く必要はあったのかと。
エロに関しても一話後半で唐突に始まるので、ギャグっぽく見せているとは言えなんだかなあという感じだった。
絵が上手いだけに余計に苦手に感じる人は多いかもしれないが、逆に言えばそこさえクリアになれば楽しめるだろう。
HUNTER×HUNTERとかワールドトリガーのように設定を詰め詰めにしている作品や、頭を使って戦う作品が好きな人はハマるはずだ。

アドルフに告ぐ (1-5)

第二次世界大戦前後の時代に、3人の”アドルフ”の物語を綴った作品。
タイトルや表紙からも分かる通り、ヒトラーナチスドイツが物語の主題となっている。
ナチスが第二次大戦下において何をやったのかにおいては各自の知識に任せるとして、内容はまあとにかくハードだ。
同じ人間なのに人種で差別するのはよくないと言っていたドイツ人の少年が、ナチスの養成学校に通ううちに考えが矯正されてしまい悲しい運命をたどるのは彼の人生に同情を禁じ得ないし、失礼な言い方かもしれないが「何のために生きてたんだろうか」と思わずにいられない。
生きていくためにはそうするしかなかったのか、戦争という極限状態で正しさを押し付けあっていればああなるのか、疑いもなく人間に優劣をつけてあまつさえ殺すことを正当化するようなことが現実にも起きていると考えるとむずむずする。
野原ひろしが言ったとされる名言(実際は言ってない)に「正義の反対は悪ではなくまた別の正義」というものがある。
とは言えどっちが正しいとか悪いとか巻き込まれる民間人からすれば関係ないわけで、アメリカ人に「原爆を落としたのは正しい判断だった」とか言われたら腹は立つわけだ。
何より、ナチスユダヤ人にやったのと似たようなことを、ユダヤ人たちが今パレスチナでやっているわけで、「正義とは正しいことをすることではなく、相手を威圧するためのお題目」という作中の台詞はその通りである。
意図せずタイムリーな漫画を読むことになり世界情勢に思いを馳せ、どうにもこうにもつらくなってしまった。

きりひと讃歌 (1-4)

先ほどのアドルフに告ぐが民族や人種による差別を描いたものだとすれば、こちらは外見による差別と人間の尊厳を描いた作品となっている。
骨格が変化し犬のような見た目になってしまう奇病である「モンモウ病」の研究をしている医師・小山内桐人は、病気の原因を突き止めるために四国の村へ向かうことになる。
その後桐人自身もモンモウ病に罹患し、過酷な運命に翻弄されつつも世界各地を放浪することになるのだが、なんというか見た目が人と違うだけでここまでやることなすこと上手くいかなくて周囲から虐げられるものかと悲しくなった。
人間の尊厳を奪われて犬同様の扱いを受け、人の容貌をしていないというだけで発言に聞く耳を持ってもらえず行いも信用してもらえず、医者としての使命を果たすこともできずに苦しむ姿を見ていると、そこまで追い込まんでもと思うが決してそうならないだろうと否定ができないのもつらい。
本作は1970年から1971年にかけて連載されていたとのことで、当時と今とを比べれば人々の人権意識は向上しているだろうし、一応は多様性がどうの言われているけれども、現代にモンモウ病患者がいたとして漫画と同じような扱いを受けないとも限らない。
「人間の命を預かるこの重大な仕事が、上っ面の人相だけで評価されてしまう」と桐人が嘆く場面があるが、例えばチョッパーは愛らしいけど、チョッパーがいくら医者だって言っても手術を任せたいかって言うとそうではなくて、"人と違う"ということは単純に"怖い"んだろうなあとつくづく実感する。
非常にハードな話であるのだが、コマ割りや構図がかなり独特でつい笑ってしまう場面もあるものの決して読みづらいというわけではない。
手塚先生の医療漫画と言えば『ブラックジャック』だが、あちらと違って病院内の権力闘争がメインの『白い巨塔』的な内容だ。

新選組

上記の二作品同様手塚先生の作品だが、こちらは少年漫画誌に連載されていただけにギャグも交えられた少年漫画らしい内容となっている。
攘夷浪士に親を殺された少年・深草丘十郎が敵討ちのために新選組に入隊し、自分の生き方を模索する姿を描いた作品。
こんなことコメントするのはおこがましいんだけど、当たり前のように起承転結が一巻の中にまとめられていて当たり前のことに久しぶりに感動してしまった。
物語終盤、丘十郎は親の敵を討ったことで自分もその家族から命を狙われることになり、さらに友人だと思っていた新選組内の間者を自分の手で斬り殺したことから、仲間同士・日本人同士で争っている日本の現状に疑問を持つようになり、広い世界を見てこいと言う坂本龍馬の手引きで海外に旅立つ。
作中では芹沢鴨暗殺から池田屋事変までが描かれており、新選組の黄金期とも言える時代だ。
新選組池田屋に斬り込んでいる一方で、それに参加せず船に乗って日本を離れる丘十郎の姿が描かれ、これから凋落し瓦解していく新選組江戸幕府と、数年後に迎える新時代を象徴しているようだった。
いやもうマジで何様かと思われるかもしれないけれども、単純に漫画としての完成度が本当に高い。
歴史を知っていればより楽しめることは間違いないが、新選組に興味のない人にもぜひ読んでもらいたい。

半七捕物帳 (1-3)

全6巻あるけれど一度に読み切れなかったのでとりあえず半分。
町田康さんが紹介していたので読んでみることにした。
時代小説と探偵小説を融合したいわゆる「捕物帳系」のはしりと言われている作品で、かつて江戸の街で岡っ引を務めていた半七の活躍を描いたもの。
主人公である「わたし」が、明治になり引退した半七からかつての事件談を聞くという形で物語は構成されている。
町田さんが本書を紹介する際に「シャーロック・ホームズを江戸の街でやってみた作品」と言っていたが、主人公の「わたし」も半七のことをホームズに例える場面があり、作者自身も探偵小説への造詣が深かったらしい。
基本的には探偵ものとしての推理的な展開が多いのだが、特徴的なのは怪談系の話も多いことだ。
信心深い江戸時代の人たちは科学的に証明できなかったことを神様や妖怪の類によるものとしてきたこともあり、人外が引き起こしたのではないかと噂される事件が物語の端緒になることもある。
上記のことからも分かる通り、推理小説としての一面以上に江戸の文化や空気を伝えるのに一役買っている作品だった。
作者自身も元幕臣の長男として明治5年に生まれたこともあり、まだ江戸の香りが残っていた時代の人である。
作品には当時の文化風俗について自身で調べたことに加えて、江戸時代を生きた人から聞いた話も含まれているだろうから、実態を伴った描写ができているのではないだろうか。
今では馴染みのない言い回しや慣用句が使われていることも多く、辞書で調べつつ感心しながら読んでいた。
かと言って古臭さを感じるわけではなく、何も知らずに現代の作者が書いた本だと言われても信じてしまう文章だった。
まあちょっと気になる点もあるっちゃあるけどそれは最後まで読んだ際の感想で書くとする。
ただそれを込みにしてもこんな面白い作品を知らずにいたことが悔やまれるほどの傑作だ。

谷崎潤一郎=渡辺千萬子 往復書簡

谷崎潤一郎と、息子のお嫁さんである渡辺千萬子さんの数年に渡る手紙のやりとりを収録したもの。
千萬子さんは『瘋癲老人日記』の颯子のモデルではないかと当時から噂されており、この書簡集が公開されてからその事実がはっきりしたらしい。
ふたりは舅と息子の嫁という関係だが、かなり打ち解けており千萬子さんは舅である谷崎潤一郎に対して割とフランクに接している。
谷崎も千萬子さんのことがかなりお気に入りだったようで、他の人への手紙は女中さんに代筆してもらっているが、千萬子さんへの手紙だけは自分で書いていると述べている。
他にも服やアクセサリーを買ってあげたり(自分のものを買うより楽しいらしい)、句を書いて送ったり、スラックス姿が好きだと言ったり(文学的感興がわくらしい)、直接的なアプローチをしているのは微笑ましい。
その一方で、本書の帯にもあるような「「日頃はおとなしくしてゐてせいぜい体を大切にしあなたとのつき合ひにすべてを捧げよ」との仰せは、こんなうれしいお言葉はありません」などと「好き」とか「お気に入り」という感情には留まらない「偏愛」とか「崇拝」と言ったほうが適当とも言える千萬子さんへの執着がひしひしと伝わってくる。
決して千萬子さんの見た目や脚のみが好きだったわけではなく、生き方や価値観にも学ぶことがあったようで、外見内面問わずとにかく言葉を尽くして褒めている様は文豪ならではのボキャブラリーであるが「雀百まで踊り忘れず」的な執念も感じた。
『瘋癲老人日記』では主人公の卯木督助が颯子の足型を取って仏足石を作る場面があるが、現実でも千萬子さんが靴をオーダーするときに取った足の型紙を送ってもらって保管しており、なんならその足型が本書にも収録されているのでひえっとなってしまった。
千萬子さんは確かに谷崎が一目置くだけあって、クレバーで先進的な印象を受ける女性である。
昭和26年から昭和40年にやりとりされた手紙が掲載されており、千萬子さん曰く、20代後半から31、2才頃のやりとりらしい。
この時代にしては聡明で自立した女性と言うべきか、この年代からこうした考えの女性が増えて社会進出の機運が高まっていったのかはよく知らない。
ただ、本人も自覚しているように「女に嫌われる女」であることは否めないと思う。
頭がいいことは間違いなく、文豪であった谷崎潤一郎からだけでなく様々なことから貪欲に学び、打ち込める仕事を見つけて自立したいという発言からは、強烈な自己主張を感じる。
その反面、かなり"女"である面もあり、谷崎の好意をいいことにおねだり上手にお金をもらったり欲しいものを買ってもらったりしているのは、女性から見たらイラっとするだろうなあと。
これ谷崎の奥さんはどう思ってんだろうなあと見ていたが、谷崎曰く千萬子さんを援助していることは奥さんには内緒だったらしい。
晩年、手紙のやりとりが減ったことについて、千萬子さんは「松子さん(谷崎の奥さん)が彼の生活を管理するようになったから」と言っているが、体調がどうのではなくシンプルな嫉妬だと思う。
特に、昭和38年頃の手紙のやりとりは非常にスキャンダラスで(千萬子さんも「濃密なやりとりだった」と述べている)、お互いに男と女を意識しており、深い関係になっていたのではと勘繰ってしまうほどだ。
「今誰かを本気で好きになったらどうなるかなと思ひます」「伯父様、もっと元気になって下さいな。どこへでも一っしょに行ける位に」などと、完全に恋文の体を成している。
谷崎の奥さんがこれらの手紙を見たのかは定かではないが、彼は晩年これらの手紙を千萬子さんの所へ送り返してきたそうで、自分の死を予感すると同時に千萬子さんとの思い出を死後も残しておきたかったのかもしれない。(奥さんに見つかったら確実に燃やされるし遺恨も残すだろうから)
恋愛と背徳のドキドキが入り混じった、下手なフィクションよりも確実に面白い一冊だった。
これからも谷崎潤一郎作品は読み続けていくが、今のタイミングで読むことができてよかった。
商品リンクはハードカバー版だが、文庫版も出ているのでぜひ。

2023年12月に読んだ本

1月も下旬に差し掛かるが2023年のラストに読んだ本を紹介する。
今回の文芸ジャンルには純文学的なものはない。
念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
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↓今回読んだもの↓

チェンソーマン (16)

ここ数話はいかにデンジをチェンソーマンにさせないかという話が進んでいる。
デンジの預かり知らぬところで進んでいる話も多く、第二部や続編にありがちな「一線を退いた前作主人公」のような形にも見える。
そもそも、第一部の展開を見るにウェポンズがチェンソーマンに勝てるとも思えないので、チェンソーマンがカッコよく登場して悪魔をスカッと倒す的なことにもなりにくい。
ちょっともやもやする展開が続くだけに、クァンシの再登場にはフラストレーションを解消させられた。
今巻はデンジやアサが何をしたいかがよく分かる回だった。
彼は悪魔を倒したいわけではなくて人々からちやほやされたいだけで、その手段として悪魔を倒しているだけだ。
取り柄がなく学もないデンジにとってそれが唯一他人から認められる手段であるものの、それは世間ではあくまでチェンソーマンの手柄であって彼自身のものではない。
15巻でナユタを人質に取られてもなお、チェンソーマンになってちやほやされたいと言ったわけだが、もうなんか考えるのめんどくさいしナユタにもいなくなってほしくないから、普通でもいいんじゃないかと思い始める。
ところがチェンソーマンはインチキであるとか、アサの手柄を横取りしてたとか言われだしてプライドが傷ついてやっぱ正体バラしちゃおうかなとなった。
そんな中でバルエムにナユタだけでなく犬や猫や日常の暮らしまでもが天秤にかけられていることを知る。(コウモリの悪魔がニャーコを猫質に取ってパワーを従わせてたように、ペットも脅しの手段としては有効)
デンジは考えるのが苦手なのに、ここ数話は考えないと自分だけでなくて周囲の大切な人や物まで壊れてしまうのが不憫で仕方ない。

鍋に弾丸を受けながら (4)

「日本ならどこに行っても70点から90点のものが食える。ところが危険とされるような場所やグルメ目的では赴かないような場所では20点か5万点のものが食える。」という理念のもと、国内外のグルメを紹介する漫画。
今までは過去に訪れた海外や国内の思い出を綴っていた本作だが、コロナ禍も落ち着きいよいよ本格的に海外に行けるようになった。
前巻から台湾編が始まり、今回は台湾編が全編収録されている。
海外には何一つ興味がないのだが、この漫画を見ているとちょっと行きたくなるから不思議だ。
作者さんのレポートは現地の人々や歴史や食文化へのリスペクトを忘れないところが、作品の読後感の良さに繋がっている。
当然ながら美味しいものばかりに当たるわけではなくて不味いものや好みでないものもあるわけだが、それを過剰にこき下ろすことなくさらっと触れるに留めるだけでなく、なぜこれが現地で受けていて日本人には受けないのかの分析も良い。(逆に、これはこういう理由で日本人には受けるだろうという分析も良い)
また、その国にとって暗い歴史、今回の台湾編で言うと日本統治時代のことにもきちんと触れていて、一歩間違えばややこしい人たちに絡まれそうなこともきちんと描写している。
本当にその国のことを理解しようという姿勢が伝わってくるし、創作のネタにさせてもらっている以上はいい加減なことを描くつもりはないのだと思う。
海外だけでなく国内のぶっ飛んだ飲食店を紹介することもあり、住んでいる国でも知らないことがまだまだあると実感した。
グルメ漫画としての良さだけでなく、旅することの尊さや日常の楽しさを教えてくれる素晴らしい漫画だと思う。

サンダー3 (5)

5巻で打ち切りの予定だったらしいが、ここ最近の間延びした展開を見れば正直妥当だよなあと思わざるを得ない。
軽くストーリーを説明すると、主人公一行は並行世界的なところに迷い込んでしまった妹を探している。
並行世界は彼らが元々いた世界とほとんど同じなのだが、違いは人物の頭身及び画風が違うことと地球が宇宙人に侵略されていることだ。
なぜか主人公たちは並行世界では滅法強いので宇宙人に対抗できる戦力として期待されている。
数巻引っ張った挙句にようやく主人公たちが参戦したが、じゃあ今まで何をしていたのかと言えば宇宙人と戦っているレジスタンス的な組織の戦闘を描写していたのだ。
その間主人公たちは並行世界の自分の家で飯を食ったりして呑気に過ごしていた。
主人公たちの強さとカタルシスを演出するためというのは分かるが、そもそもキャラクターに思い入れがないので彼らの生死を見せられてもずいぶんと引っ張ってるなあという感想しか湧かない
レジスタンスたちが単なる前座として扱われただけでは不憫なので今後の役割に期待したいところではある。
ちょっとここ数巻は内容が薄いかなあと感じる。

お姉さまと巨人 お嬢様が異世界転生 (4)

作者さんは描きたいものがたくさんあるんだろうなあという感じでとても好きな漫画。
前巻は自律機動するタイプの巨大ロボっぽいものが登場し、今巻では人間が乗り込むタイプのロボが登場するという異世界ファンタジーとは何ぞやみたいな展開になっているが、一応その辺は作中において整合性が取れている。
「スキル」だの「チート」だの「種族」だの「異世界」だのの言葉が登場するので、いわゆる"ファンタジー"や"異世界転生"もののお約束を知らない人は戸惑うのだろうかとちょっと思った。(『葬送のフリーレン』の物語を理解できない人が一定数いるらしいというネット上の話題を見たので)
この作品において好きな点は上記したように作者さんの"癖(ヘキ)"を詰め込んでいるのを感じるところと、登場人物の感情の描写がなんかねっちょりしているところだ。
異世界現代日本)から転生してきたお嬢様と巨人族の女性とのバディもので姉妹ものであるのだが、百合的な絆というよりは兄弟杯的な任侠要素と共依存を連想させ、物語の結末としては破滅的なものになりそうな予感がしている。
破滅的とは言っても姉妹は納得しているが、周囲から見ればあいつら不憫だなあという感じる結末だ。
腐女子が好きそうな"暗黒微笑"的な展開がたまに挟まれるため冷えるものの、異世界転生ものを敬遠している人にもおすすめできる作品。

二階堂地獄ゴルフ (1)

カイジ」や「アカギ」でお馴染み福本先生の最新作。
かつてゴルファーのプロテスト合格間違いなしと将来を嘱望された男、二階堂進
周囲の期待とは裏腹に10年連続不合格を続け、35歳となってしまった彼のゴルフ道を描いた作品。
すっかり才能が干からびてしまった人間を描かせると抜群の人であるが、本作でも福本節は炸裂している。
一話は彼がこれまでの半生を公園にて回想するところから始まり、なんやかんや三話の冒頭まで舞台は公園から動かない。
これが並の作家であればさっさと舞台転換しろと言いたくなるところだが、回想や懊悩だけで場をもたせることができるのはすごい。
強烈なタイトルではあるけど、二階堂は図々しさに振り切ることも正義感に振り切ることもできない割と普通の人として描かれている。
プロテストにかかるお金は所属しているクラブが出資することになっているらしいのだが、なかなか合格せず針の筵状態になっているにも関わらず、彼は挑戦を諦めようとしない。
かと言って完全に開き直れる図太い神経を有しているわけではなく、周囲の視線に耐えつつゴルフ場で働いたり飲み会に参加したりしている。
また、プロテストの試験中に二階堂は同僚の不正を目撃してしまう。
当初は本人に配慮し自分の胸に秘めておこうと考えるものの、本人から馬鹿にされたことをきっかけに不正の事実を突きつけて糾弾する。
その後は一時の感情に任せて動いてしまったことに涙を流して懺悔するのだが、身の置き方や感情の揺れ動き方としてはそこまで特別なことではない。
普通の人間が普通に悩んでいる姿を見て共感したり一緒に落ち込んだり応援してみたり、そういう読み方をすることにした。
成果を期待されて応えることのできなかった人間のやるせなさとか、引くに引けなくなってしまった人生のどん詰まり感とか、後から来た若いやつに追い越される焦燥感とか、自分にも当てはまるところがきっとあるに違いない漫画。

ガイア・ギア (1-5)

ちまちまと集めていたがようやく揃ったので満を持して読むことにした。
本作は既に絶版となっている上、権利関係がややこしく、作者が復刊に同意していないし(クオリティの問題らしい)、電子化もされていないので古本で買うしかないのだが、これらの事情から希少かつ状態の良いものはそこそこ高いのだ。
機動戦士ガンダムの監督でお馴染み富野由悠季監督による小説で、富野監督による宇宙世紀作品としては最も遠い未来のものとなる。(∀やGレコは"宇宙世紀"ではないので)
また、G-SAVIOURが宇宙世紀220年くらいだった気がするが見てないので知らない。
宇宙世紀200年代を舞台に、シャア・アズナブルにそっくりの青年「アフランシ・シャア」の活躍を描いた作品だ。
富野監督の小説はガンダムZガンダム閃光のハサウェイなどをかなり昔に読んだことがあるが、近頃はご無沙汰だった。
既に手放してしまっているので、ガイア・ギアを揃えるのであれば手元に置いておくべきだったなあと少し後悔している。
アフランシはまあ名前からも分かる通りシャアの細胞から作り出されたクローンで、頭の中にはシャアの知識や記憶を収めたコンピューターチップが埋め込まれているが人格はアフランシ独自のものだ。
彼を作り出した反地球連邦政府組織「メタトロン」は、連邦軍内部の治安維持組織である「マハ」(MHA:Man Hunting Agency)と対立している。
「マハ」は逆シャアや閃ハサに出てきた「マンハンター」みたいなもので地球へ不法滞在している人々を摘発する組織なのだが、その頃に比べると規模がかなり大きくなっており、軍事力を拡大して地球連邦軍の実権を手に入れようとするばかりでなく、「地球逆移民計画」なるものまで推し進めようとしている。
ここまであらすじを書いてみて、「また人類は似たようなことで争ってるわ」と思わずにはいられない。
作中でも言及されていたが「技術の進歩に人間の精神が追い付いていない」と思わせることばかりで、そもそも人類が宇宙に出たのが正しかったのかどうかと考えさせられる。
全体的にニュータイプや機械文明を否定している節があり、クロスボーンガンダムでトビアが言っていた「人間はニュータイプになる前に人間のままで出来ることがある」という台詞を思い出した。(クロスボーンガンダムは富野監督がプロットを提供しているので、ニュータイプ論も富野監督のものだと思われる)
ニュータイプってガンダム世界では人類の進化系みたいに言われているけど、アムロやシャアしかり、天才的なニュータイプの才能を持つクェスしかり、人間はニュータイプになったところで自分の感情を乗り越えることも制御することもできないのだ。
また、シャアが最後に活躍した時代から110年くらい経過しているのに未だにシャアを神格化して崇拝している人間がいたのには驚きだった。
シャアのおかげでアクシズの衝突を回避できたかのような解釈がされており、メタトロンの人たち曰く「彼の人徳とニュータイプとしての才能は、地球を汚染するかもしれなかった隕石の激突を回避させ、そのためにシャアは死んだというのである。」ということになっている。
シャアは割と普通の人間だと思うし、シャアの再来を期待されていたアフランシが普通の人間だったこともあって余計にその思いは強まった。
アフランシはメタトロン上層部が自分にシャア・アズナブルを望んでいることに辟易とし、シャアのコピーではないと主張し続けている。
メタトロンだけでなく心の奥底にいるシャアにも従いたくなくて、あえて自分でモビルスーツに乗って一個の歯車であろうとしている。
ところがシャアも指揮官でありながら自ら前線に出ていたし、アムロと戦いたくてモビルスーツに乗ってたので、シャアっぽくない行動を取ろうと思ってシャアと同じ行動をしているのはなかなかの皮肉だった。(ちなみにとある人物からは「才能がないといいながらも、やらなければならない苦しい立場を甘受して、結局は、それが厭ではない青年」と分析されているがそれもシャアっぽい)
でも、やるべきことから逃避するって割と普通のことだし、周囲に祭り上げられて期待もされてるからちょっとしたやらかしも大げさに言われるわけだ。
夏目漱石も似たようなことを言ってたけど、やらかしたエピソードがその人自身を作り出すわけではない。
その人が大人物だから、失敗をいちいち糾弾されたり後世まで伝えられたりするので、あんまり大人に期待するものではない。
本作は企画段階では『機動戦士ガイア・ギア 逆襲のシャア』というタイトルだったらしく、それが縮まってこのようなタイトルになり、逆襲のシャアの名前は映画に引き継がれた。
1987年からスタートした本作に対して逆シャアは1988年に上映されたので、どういうふうに企画が進行していたかは定かではないが、なんかこう富野監督の中でもアムロとシャアの話に決着を付けたかったのかなあと思った。
この後に紹介する本に書いてあったのだが、Zガンダムも当初は『逆襲のシャア』の名前を冠する予定だったらしいのでなおさらである。
最後に話は逸れるけど、ユニコーンでのアムロとシャアの扱いに関しては、「何してくれてんだ」という思いがある。
生みの親である富野監督ですら生死不明というフワッとした結末にしたのに、UCで二人の思念体が出てきたもんだからほぼ死んでる扱いになり、挙句にアニメ版閃ハサでもその設定が採用されてハサウェイにもアムロの思念が見えるという展開になった。
個人的にあれは"生霊"だと強引に解釈している。
二次創作が正史になるのはどうにも納得がいかないし、司馬遼太郎の小説を史実だと思い込むみたいな人が増えそうで嫌だ。(司馬遼太郎の作品は好きなので批判しているわけではない)

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会[復刻版]

買って積んであったんだけど読むのはガイア・ギアを読了した今しかねえと思って手に取った。
1993年に出版された同人誌を復刻したもので、責任編集は当時と同じく庵野秀明監督が務めている。
同人誌とは言えかなりのビッグネームが揃っており、非常に読み応えのある一冊となっているのでもうちょい早いこと読めばよかったと思わないでもない。
オリジナル版はスケジュールの関係で富野監督にチェックを入れてもらうことが叶わず、今回の復刻版でやっと実現したようで、当時は未チェックで販売することについて一言お詫びを入れたらしい。
自分は逆シャアF91やVガンに関しては世代ではないためリアルタイムを知らないのだが、本作によればF91からVガンまでの富野監督は「語られることがなかった監督」なのだそうだ。
逆シャア興行収入的には成功だったらしいのだが、公開された1988年は『となりのトトロ』『AKIRA』などのタイトルがぶっちぎっていたため、いまいち目立たなかったらしい。
加えて、逆シャアの同時上映がSDガンダムであったことやその後のロボットアニメが『魔進英雄伝ワタル』のような玩具販促の子供向けにシフトしていったことで、富野監督の影は薄くなっていったとのこと。
その後、ガンダムは富野監督の手を離れてGガンダムに代表されるアナザーガンダムが作られ、彼は∀までガンダム作品に関わることがなかった。
確かに自分も初めて見たガンダムはWだったし、SDガンダムにも親しんできた。
富野監督を認識したのはいつ頃であるかは覚えていないが、恐らく自分が知っているのは既に神格化された富野監督だと思う。
逆襲のシャアなんて今では超有名作品だけど、当時はこれらの理由からあまり語られることがなかったそうだ。
本作の責任編集である庵野監督にとって逆シャアは「濃いものだった」とのこと。

「ロボットアニメを使って個人というものをあそこまで露出したものは他になかった。だけど語る人は誰もおらず、他人の反応が伝わってこないのが本を作ろうと思った理由のひとつ。」
「本を出そうと思うくらいにエネルギーを持ったアニメがない。」

と述べており、創作を生業とする人には感じるところがあったようだ。
(ちなみに押井守監督も、「あれだけ強烈な発言をしてるのにリアクションがないんだろうか。ガンダムを巡る戦争の議論くらいのレベルの話しかなかった。」と言っている)
庵野監督は基本的に逆シャアをベタ褒めしておりロボットアニメの最高峰だとしているが、そういう人ばかりではなく「作家としては永久に帰ってこなくなった、早いとこ目を覚ましてほしい」と言う人まで様々な評価がなされている。
ただ、賛否あるにしても逆シャアの評価について共通しているのは「富野監督の内面が投影されている」というものだ。
本音で作っているからこそ「自分っていう人間に決着がついてないから、自分に近い作品ほど決着はつかない」のだと庵野監督は言っている。(富野監督は「全裸で踊っている」が、宮崎駿監督は「全裸のフリしてパンツ履いてる」タイプの人らしい。)
だからこそ逆シャアアムロとシャアに富野監督のそれぞれの部分を担わせて対話したり対立したりしていたんだろうし、ああいう終わり方になったんだと思う。
ガイア・ギアのくだりでも言ったけど、監督本人が決着をつけられなかったアムロとシャアの物語を二次創作が勝手に結末を決めたのはやっぱり納得がいかない。
特に自分が印象に残っているのは、幾原邦彦監督のナナイ評だ。
要約すると、

  • シャアが最後ナナイを捨てたのは、彼女が母親になれないと分かっていたから
  • 仮にシャアが失墜したとしても、彼が常に野心を燃やし続けていればナナイは付いてくる
  • ところが、総帥なんて疲れたからのんびり乾物屋でもやって暮らすとなれば失望して離れてしまう
  • ララァはそれでも一緒にいてくれる

というもので、なるほどなあと感心した。
ちなみにガイア・ギアにもナナイ的なポジションの女性が登場するが、その女性はアフランシが自分に母親を求めていることに気付いて明確に拒絶している。
また、本作のオリジナル版刊行である1993年の2年後に新世紀エヴァンゲリオンのテレビ版が放送される。
この頃は既にエヴァの企画はスタートしていたようで、「自分は『父親』になりたい、という意識だけが働いて今、ロボットもののTV企画をやってる」「ガンダムは越えられないが、できるかぎりあれにケリをつけてみたい」などなど、エヴァに繋がるような庵野監督の発言もあるのでそれらの観点から見るのも楽しい。
ガイア・ギアのときにも感想を長々と書いたが、ここまで真剣に熱意を持って視聴したり考察したりできるのは、富野監督本人の創作に対するスタンスによるところが大きいと感じた。
本書でも庵野監督によって触れられていたが、富野監督は「スペースコロニーが本気で"ある"と思って物語を作っている」人で、それが視聴者にも伝わって多くの人を魅了しているのではないかと思う。
そりゃ科学的な考証をすれば設定に穴が多いのかもしれないが、大切なのは"ある"と本人が強く思っていて、なんかよく分らんけど分かるなあと見てる人に思わせたら勝ちじゃないだろうか。
巻末には富野監督のインタビューも収録されており、「10年近くスペースコロニーのことを考えてきている」「その程度のことが出来なくては劇なんか作っちゃいけないんじゃないのかなと思っている」との発言もある。
ガンダム好きのみならず、アニメ好きにもぜひ読んでほしい一冊だった。

2023年11月に読んだ本

以前、Youtubeでおすすめに上がってくる『○○の反応集めました系動画』が気に食わないので片っ端からブロックしているという話をした。
どういう動画かと言うと、世の中で起こったことやドラマ・アニメ等の創作物に対するネット上の反応を紹介するというものだ。
解説・考察系の動画なら自分の頭を使っている感じがするが、ああいう反応集系の動画はSNSや5chから拾ってきたコメントを音声ソフトに喋らせているだけのコンテンツなので、創意工夫もなくとにかくしょうもない。
ぼくの見ている動画ジャンル的におすすめに載るのはアニメ・漫画の展開やキャラクターについての反応集動画が多いが、見るに値しないのでひたすらチャンネルをブロックしている。
ところがこれだけブロックしても週に何度かは新たな反応集動画がおすすめに登場する。
今だと葬送のフリーレン関連が多く、チャンネル詳細を見てみるとアニメ放送と同時期に動画投稿を始めているのでブームに乗っかっただけのイナゴ野郎だろう。
ということは人気アニメが放送されるたびにこれらのいっちょかみ乞食が動画を作成するため、いたちごっこは終わらないのではないか。
加えて、興味のないソシャゲなどの反応集もたまに上がってくるため、知らんがなという気持ちに毎回なっている。
プレミアムに加入すれば広告が表示されなくなるらしいが、おすすめ動画の精度も上がったりするのだろうか。
では今回は11月に読んだ本の感想を書く。
念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

ONE PIECE (107)

コマに書き込みが多すぎて読みづらいとか、エピソードの引き算ができていないとか言われがちなONE PIECEだけど、最終章がここまで盛り上がっているのは盛り盛りの作風がいい感じに相乗効果を起こしたからではないかと思っている。
あのときのあれはこうだった、実はあの描写や台詞にも意味があったといった要素が次々に登場し、新刊が発売されるたびに過去巻を読み直す必要に駆られる楽しみがある。
今からONE PIECEを読もうと考えている人はかなり時間とお金がかかるだろうが、逆に言えば今の盛り上がりまでを一気に体験できるのでそれはそれで良い読書体験だと思う。
本当に物語を畳みに入ってるんだなあというのが分かるが、あと5年くらいで終わるのだろうか。
あと、ワノ国出国後にルフィが一味に夢を語るシーンにおいて、カリブーが樽の中に隠れて聞いていたのは後々効いてきそうな気がすると以前予想したが、実はカリブーにはよく聞こえていなかったらしいことがSBSで判明した。
ルフィの夢がどんどん神聖なものになっていく気がする。

るろうに剣心明治剣客浪漫譚・北海道編― (9)

この巻とは関係ないんだけど、現在放送中のアニメにおける石動雷十太の扱いに非常に満足している。
「殺人剣を語っているくせに人を殺したことのないやつ」という雷十太の性格を変えることなく、他キャラの台詞や演出をちょっとだけ変えることで物語の印象をガラリと変える良い改変だった。
バリバリの人斬りであった剣心からすれば雷十太の主張は「人を斬ったこともないのになんだこいつ」という感じだろうが、本来人は斬ってはいけないのである。
「人を斬ったことがないのが幸いだったと雷十太自身が気付いてほしい」(この台詞は原作にはない)と剣心が言っていたように、人を斬ったから優れているわけでも偉いわけでもない。
人を斬ってしまったが故に抱えてしまった恨みや罪は知らないに越したことはない。
明治に必要なのは殺人剣ではなく活人剣であり、"剣術"は今後道を説くものに変わっていくだろうと後に作中でも語られているが雷十太にとってみればそれが我慢ならず、彼なりに剣術の行く末を憂えていたのだ。
このへんは北海道編で剣心たちと敵対している剣客兵器にも似ている点があり、新アニメ版での雷十太の末路は彼らとの対比であるとも取れる。
原作ではただのヘタレとなっていた彼が、アニメ版においては最後の最後に善の心を捨てきれなかった人間であると描かれ、仏もそれに微笑んでいたという演出は本当に見事だった。
今は美麗な作画で原作通りにきっちりアニメを作ることが求められている気がするが、るろ剣新アニメ版で時たま挟まれるアニオリ演出は原作者監修も入っているからか心を揺さぶられるものが多い。
特に、御庭番衆の般若が死の間際に見た走馬灯には彼らの絆を感じられて、"強さ"だけで寄り集まった集団ではないことを見た。
新アニメにおける武田観柳のキャラも北海道編で再登場した彼に近い描かれ方をしており、北海道編の観柳を描いているときの和月先生は筆が乗りまくっていたんだろうなと改めて思う。(観柳は再登場の予定はなかったが、実写映画版と宝塚舞台版の観柳が印象的だったので描かずにはいられなかったと作者が明言している)
また、原作でちょいちょい挟まれた正直そんなに面白くないギャグやデフォルメ描写もカットされているため、割と見やすくなっている。
ヤフコメなんかでは声優の変更が受け入れられないと嘆く人らがいるが声の人たちもかなりお年だと思うし、2012年に制作された新京都編でもちょっと年齢を感じてしまったので声優変更は英断だと思う。
まあぼくとしても斎藤の声は違うなあと感じているので気持ちは分からなくないが、以前のアニメ版を見ていた人ほど今回のアニメはお勧めしたい。
当時単行本を読んでいた身としては雷十太がここまでネタ扱いされるとは思っていなかった。
和月先生も単行本のキャラ紹介コーナーで雷十太がどうしてこんな小物になったのかと嘆いていたので、アニメは原作者監修ということもあって雷十太という男が15年の時を経てようやく報われたのだった。
今巻にも触れておくと、いよいよ瀬田宗次郎の本格的な戦闘が見られるのだが、かつて登場したときのような圧倒的な脅威をいまいち感じづらいのは書き方の問題なのか自分が年を取ったからなのか、宗次郎自身の問題なのかは分からない。
宗次郎も志々雄・由美・方治に置いて行かれて寂しいのかもしれない。

虎鶫―TSUGUMI PROJECT― (7)

前巻で話がえらい進んだなあと思ったら今回が最終巻だった。
最終巻なだけに作画への気合が並々ならぬもので、建物内での戦闘はかなりの迫力と書き込みだった。
本作に出てくる女性はとにかく母性が強く、それは人間だけではなくヒロインのつぐみをはじめとする異形の女性たちについても同様である。
作中の男性が弱いわけではないのだがいかんせんメインの女性陣が強すぎるので、「強いやつがみんなを守る」という考えで弱肉強食を生きてきた彼女たちにしてみれば別に性差とかどうでもよくて、ただ単に生存のために効率のいい方法を採用しているだけのことだ。
人間とは明らかに違った見た目をしたつぐみが戦いで傷つきながらも静かに確固たる母性を主張する姿は、嫉妬心や執着みたいなものを感じてゾッとした。
こういう言い方は良くないかもしれないが彼女が異形であるがゆえに凄みを感じてしまったのはある。
腕が吹っ飛んでたり頭部が一部欠損してるのに母性どころじゃないだろみたいな気持ちで、それが強さと言えばそうなのかもしれないけど気にすんのはそこじゃないだろみたいな。
逆にあれが一般的な人間と同じ姿形をしていたら痛々しくて見られなかったかもしれず、これはもしかすると自分の差別的な感情も入ってるんじゃないかといろいろ考えてしまう。
結末としては少々消化不良な感もあったけど、絵に迫力があり展開もスピーディーで楽しく読ませていただいた。
タイトルにもなっている通り、ヒロインの存在が本当に大きな作品だった。

雷雷雷 (1)

裏サンデーで連載されている、先が非常に楽しみな漫画。
人類は地球外生命体との戦争に勝利したが、彼らが残していった"宇宙害蟲"と"宇宙害獣"は人類の生活を脅かし続けていた。
民間の宇宙害蟲駆除会社で働く主人公"市ヶ谷スミレ"はある日、宇宙人に連れ去られてしまう。
スミレは父親が残した借金返済のために中学卒業後から働きに出たり、宇宙人に改造されたり死にかけたりと序盤から非常に不憫な境遇を強いられている。
そんな悲惨な主人公ではあるけれどもヤケクソ気味な明るさに加えて表情が豊かで読んでいて応援したくなるし、物語全体のテンポの良さとギャグのバランスも非常に好みだ。
今のところ主要な登場人物はそこまで多くはないが、どのキャラも一癖あり全員が爆弾を抱えていそうで、展開がいつでもひっくり返されそうな緊張感と主人公が更にかわいそうなことになりそうでドキドキしている。
人類と敵対している異形の力を身に宿してしまった系主人公の話なので最近だとチェンソーマンや怪獣8号なんかに近いと思われるが、それらとは違った良さがあるのでぜひ読んでみてもらいたい。
webで読んだときも思ったが単行本で一気読みすると先が気になって仕方がないので、二巻の発売が早くも待ち遠しい。
戦闘用スーツや武器のギミックも今後明かされると思うので、そこらへんも楽しみだ。

カイン (1-3)

その昔ジャンプで連載していた漫画。
中華風の世界観を舞台に、大国"煉"と戦う機道士"カイン"の姿を描く。
"機道士(きどうし)"というのは"鬼傀(きかい)"を身に宿した存在で、身体の一部がサイボーグ的になってて人知を超えた力を発揮できる人たちのことだ。
好きな漫画だったんだけど19話で打ち切りになっており当時は残念な思いをしたものだ。
今回初めて単行本を読んでみたのだが、番外編も収録されていて本編未回収の設定などはそちらで補完されており、同じく収録されている読み切りが非常に面白かったので満足度としては高かった。
この次の作品である『アスクレピオス』も好きだったんだけど、カインと同じく19話で打ち切りとなっている。
カインにもアスクレピオスにも言えることだけど、基本的に話が暗い。
加えて本作は「主人公の燃費が悪い」「主人公の所属している組織の戦力層が薄い」などの要素から安心して読むことができないのだ。
物語の展開が読めない緊張感があり最終回もかなりいいと思うのだが、一方で上記の不安要素によるハラハラもあって少年誌向きではなかったのかもしれない。
主人公のパワーアップイベントはあるが後半であるため、それも響いていると思う。
余談ではあるけど記憶が正しければ、本作と同時期に『切法師』と『タカヤ』が連載スタートしていたはず。

遥かな国 遠い国

町田康さんが『私の文学史』で取り上げていたので購入した本。
ただ、購入してからしばらく積んであったのでどういう観点から勧めていたのかすっかり忘れていた。
表題作を含めて5篇収録されており、最初の二つを読み終わったあたりで「ここで終わり?」という感想が続くことに気が付いた。
物事が解決したり、登場人物が成長したり、何か偉大な発見をしたりといったことが起こることなく物語も終了する。
読後に町田さんの本を読み返して彼が何と言っていたのか確認したところ「物語といったものがない」と表現していた。
「人間の心の中にある不安とか、恐怖とか、衝動とか、情動とか、妄執とか、そういうものが書いてある」とも述べており、確かに人間の感情について書いた作品なのかなと思う。
感情が前面に出ているので自分の立場に置き換えて楽しんでみたり、他人の振る舞いに憤慨したり不安になったりできるし、単純に言葉選びやユーモアのセンスが優れているので話として面白い。
物語がないと言ってもストーリーが破綻しているわけではないから、教訓めいたものを感じ取ろうとか難しいことを考えずに普通の人間の生きている様を見られる作品だった。

迷路館の殺人

『十角館』『水車館』に続く『館シリーズ』の三作目となる作品。
水車館は未読であり館シリーズというものがあることを知らなかったので、十角館の登場人物と同じ名前の人がいるなあくらいで読んでいたが中村青司の名が出た時点でさすがに気が付いた。
十角館は小説ならではの手法を駆使した展開で今なおミステリ小説の大正義として君臨している。(ちなみに"本格"とか"新本格"とかの括りにはそんなに興味ない)
本作でも過去作と同様に舞台となる館の見取り図が物語冒頭に挟まれ、その突飛な設計についつい笑ってしまう。
読み進めるうちに"犯人分かっちゃいました状態"になり、案の定予感が的中したので有頂天になり「まあ犯人は当てられたけど展開はよかったかな」と斜に構えていた。
ところがそこから怒涛のように真実が明かされ、調子に乗った自分を恥じるとともにプロの偉大さを知ることになる。
ミステリ小説に関しては語ろうと思うとどうしても核心部分に触れざるを得ないのであまり長文を綴ることができないのだが、めくるめく展開に魅了されてあっという間に読み切ってしまった。
現在『時計館』を購入して積んであるのだが聞くところによると時計館で館シリーズ第一部が終了らしいので、せっかくだから次は水車館からシリーズを順当に読もうと思う。

三島由紀夫レター教室

20代から40代の男女5人が各々やりとりしている手紙形式で展開されていく物語。
三島由紀夫本人も冒頭と終わりに解説役として登場する。
具体的な主張やテーマがあるわけではないエンタメ寄りの内容なので、割と気楽に読むことができるはずだ。
手紙ってある程度頭の中で考えたり、書いた後も内容を推敲したりするから、対面での会話や電話と違ってそれなりに冷静になって物事を伝えることができると思う。
本音を隠して策略を巡らせたり、真実とは異なることを伝えたり、素敵なことを言おうと思ってカッコつけたりもできる。
ただ、そこまでいろいろ考えて書いた手紙であっても相手が思った通りの反応を示してくれないときもある。
手紙に限らずコミュニケーション全般に言えるが、自分がかけたコストに見合ったものが相手から返ってくるとは限らない。
作中で「他人は決して他人に深い関心を持ち得ない、もし持ち得るとすれば自分の利害にからんだときだけだ。」と言われている。
登場人物にもその行動原理は適用されており、どうでもいい手紙には明らかに返事が少ないこともある。
かと思えば、機嫌がいいからという理由でしょうもない手紙の内容を添削したり、おじさんから来た気持ちの悪い手紙を回覧したり、登場人物が本当に存在するかのような人間臭い描写はついつい感情移入してしまう。
特に、おじさんから若い女性への手紙に関しては今で言うところの「おじさん構文」というやつで、三島由紀夫レベルの文豪が書いたおじさん構文を堪能できる機会はなかなかないのでそのためだけでもいいから読んでほしい。

男振

主人公の堀源太郎は藩主の息子(若殿)の学友を務めていたが、15歳のときに頭髪が抜ける奇病にかかってしまう。
あるとき彼の頭を馬鹿にした若殿を殴ってしまったことで罰を受けることになるのだが…、というところから物語は始まる。
実は源太郎には本人も知らない秘密があり、秘密の内容とそれを告げられた彼の選ぶ道が文庫本裏表紙のあらすじで語られており、早々にネタバレを喰らってしまった。
もしかしたら早い段階で本人に事実が告げられるから裏表紙でバラしてしまっても問題ないのだろうかと思って読んでいたのだが、真実が明かされるのは物語も後半に入ったあたりなので、読書中「でもこいつ○○なんだよなあ…。」という心の声がたまにカットインしてきた。
新潮文庫さんには、あのあらすじは改めるべきと言いたい。
展開としては場面転換が次々にあって読んでいて飽きないし、結末も爽やかでいい感じなんだけど、ちょいちょい気になるところがあった。
ここからはネタバレになるので見たくない人は飛ばしてほしいのだが、実は源太郎は藩主の血を引いており、後継ぎも絶えてしまったことから藩のお家騒動に巻き込まれてしまう。
なんやかんやあって彼は侍の身分を捨てて市井の人となることを選び、大工として身を立てていくことになる。
ただ、大工になった源太郎が幕府の公共工事を受注できるように藩の「源太郎派」の人たちが手を回していたのはなんかこう違うんじゃないかと思った。*1
武家身分を捨ててからも彼の動静は逐一とまではいかないまでも大まかなところは源太郎派の重鎮に伝わっており、「困ったら藩の人らが助けてくれるんじゃん」という感想が拭えなかった。
頭髪が全て抜け落ちてしまうというコンプレックスに苛まれながらも自分にとって何が大切かを選択し、世話になった人たちへの感謝を忘れることなく、周囲に流されずに己の歩む道を決めた源太郎のキャラクター自体はすごく好きである。
ただその「世話になった人たち」も、彼が藩主の血筋だから優しくしてくれたのではと思わないでもない。
彼は真面目で実直であるので、人柄を知れば手を差し伸べたくなる人間であることはもちろんなのだが、初対面から随分と親切すぎんかと感じる場面もあった。
江戸時代の封建制度ゆえに仕方ないことであるという見方ももちろんあるし、源太郎の出生を知らないのに親切だった人たちは彼自身を尊重してくれたわけだから、身分や立場に囚われずに本人を見極めることの大切さを説いているのだろうけれども。
作中の台詞で「世の中の人々は、思いようによっては、みな座敷牢の中へ閉じ込められているようなもの」とあるが、源太郎は堅苦しい武家から解放されたと思いきや、真に"座敷牢"から出るのは先のことになりそうだなあと彼の行く末に思いを馳せてしまった。

ビアンカ・オーバースタディ

筒井康隆先生の唯一のラノベ作品。
角川文庫版の『涼宮ハルヒの憂鬱』に収録されている筒井先生の解説で本書を紹介していたので読んでみることにした。
イラストはハルヒ灼眼のシャナでお馴染み、いとうのいぢ氏が担当している。
ウニの生殖実験をするのが好きな生物部所属の美少女"ビアンカ北町"が主人公の学園もの。
ちなみに、外国人風の名前だが彼女のルーツについては明かされておらず、家族も妹しか登場しない。
序盤はラノベらしいコメディとちょいエロを中心に話が展開していくが、そのエロ部分が割と生々しいので拒否反応が出る人もいるだろう。
地の文ではなく主人公の語り形式でストーリーが進んでいくのもラノベらしい。
後半はスケールの大きな話になり、こういうのセカイ系というのかジュブナイルというのか分からんけどそういう感じになる。
なんとなく、時をかける少女セルフパロディか?と思うところもある。
ハルヒの解説で筒井先生はラノベでも文学的主張が可能だと知った」「ラノベを逆手に取り、メタラノベとも言うべきラノベを批評するラノベを書こうと思った」と述べていた。
"文学的主張"がどういうものかは文学ガチ勢ではないため分からないものの、"メタラノベ"に関しては確かに書かれていたように思う。
物語後半でビアンカ一行は未来世界の危機を救うことになるのだが、なぜそうなったかと言うと未来の人間は生命力が弱っており現代人に比べて貧弱であるため、エネルギッシュな救世主を必要としていたからだ。
そして貧弱になったのは生命力だけでなく異性とのコミュニケーションに関しても同様で、「女性は怖いし不細工だから触れることができない」という男性が未来では多数を占めている。(未来世界に女性がいないわけではないが物語には登場しない)
それに対して、「ほんとの女の子を敬遠して、アニメやラノベの女の子に萌えたりする」ような意気地のない男性が自分たちの時代から登場したことに主人公たちは気付く。
本作の発表は2012年なので、草食系云々言われていた頃だろう。
ラノベの読者層に向けた分かりやすい主張ではあると思うが、当時はともかく今は割とライトオタクも増えてきているのでアニメやラノベを見つつ異性と交流している人も多い。
まあラノベファンはこの作品読まない気がするが。

麻雀放浪記 申年生まれのフレンズ

かつて「坊や哲」と呼ばれていた博打打ちの男も、今や40代になりすっかり干乾びてしまった。
とあるきっかけでギャンブルが好きな大学生の男と知り合ったことで、彼の内にまた炎が灯ることになる。
"新"と銘打っているので『麻雀放浪記』の続編になる。
たまたま古本屋で見かけて続編の存在を知らなかったので購入したのだが、どうやら現在のところ重版はされていないらしい。
ぼくは麻雀をやらないので麻雀放浪記を読んだときも麻雀のシーンで何が行われているのかさっぱり分からなかったけど、それでも全四巻を読了できたのは博打のひりつき感が伝わってきたからだ。
作中には様々なギャンブルが登場するが、タイトル通り麻雀がメインなので麻雀が分からない自分は本当に物語を理解したとは言えないかもしれない。
哲は博打で食っていくことについて「生涯これでしのいでみせる」と意気込んでいるものの、一方で「もうそういう時代じゃねえ」と自分の考えが時代遅れであることも、自身が勝負師として衰えていることも自覚している。
麻雀放浪記の頃は戦後の混沌の中で喰うか喰われるかの博打をしていた哲だが、日本経済も立て直りを見せて人々の生活にゆとりができ、多くの人間がまともに仕事に就いている社会において、博打は食べていくための手段ではなくほどほどに楽しむものという風潮になっていく。
大学生や主婦などが何も賭けずにリスクも負わず仲間内で麻雀を楽しむ姿からは、博打に人生を賭けてきた人間と、余暇で博打を楽しむ人間の違いが描かれている。
ただ、頑なな哲自身にも変化はあり、ギャンブル仲間の若い連中に博打について教授するシーンは彼も丸くなったなあと思わせる。
物語終盤、ギャンブル好きな仲間たちと海外のカジノへ乗り込む様は『好色一代男』のラストを見ているようで爽快感すらあった。

吉野葛・盲目物語

著者の友人が死別した母親のルーツを辿って奈良県に赴く『吉野葛』、浅井長政お市の方、そしてその子供たちの半生を盲人の按摩の視点から語る『盲目物語』の二篇が収録されている。
言葉遣いが美麗で日本的な美しさを想起させ、ノスタルジックな気持ちにもなる作品だった。
谷崎潤一郎の作品は何がいいかって「ジメっとしている」ところだと思っていて、それが不愉快な湿気に感じる人もいるだろうがぼくにとっては快適な湿度であることがほとんどだ。
なんでジメっとしているかと考えてみたところ、本作に関しては以下のような感想に至った。
吉野葛』については最初は作者による奈良県の紀行文かと思って読んでいたのだが、同行した友人・津村のとある告白が始まると物語は母への思慕を書いたものに変わっていく。
彼の母に対する思いは家族愛に留まるものではなく理想の女性として母を追い求めているところがあり、幼いころに死別したこともあってか母親の美化がすごい。
最終的に津村は母の伯母にあたる人の孫娘を嫁にもらうことになるが、そのきっかけも「写真で見た母とどこか似ていたから」という徹底っぷりだ。
谷崎潤一郎の作品には、理想の女性を母親とする描写がたまに登場する。
大っぴらにしづらい母親への想いが登場人物の中で後ろ暗いものとなって長年醸成された結果、いかんとも言い難い感情や匂いを発露して湿っぽい感じになっているのだと思う。
続いての『盲目物語』は、語り手が盲目の人であることもあってか人物描写が目の見える人のそれとは異なっている。
人物の見た目ではなく声や音や質感によってその人を表しており、按摩という職業なのでマッサージをする場面では女性の肉付きの具合や手触りを艶めかしくねっとりと表現し、目が見えないものだから他の感覚が鋭敏になっているのがよく分かる。
誤解してほしくないのは主人公の弥市は決していやらしい気持ちでマッサージをしているのではない。
あくまでも職業としてやっているだけなのだが、その中にもお市の方への親愛の情や身分違いのちょっとした想いなどが籠められており、なんとなくグッときた。
加えて江戸幕府成立前の群雄割拠の時代を書いた話なのでハッピーエンドとはいかないところも、悲劇と湿り気に拍車を掛けている。
余談だが新潮文庫は作品によっては注釈が多く、巻末にまとめられているため逐一ページを行ったり来たりしないといけない。
いちいち注釈のページに飛びつつ読み進めていると流れが止まるが、チェックしておかないと不安なのでちょっと読むのに時間がかかった。
光文社古典新訳文庫は同じページに注釈があるので右往左往しなくても済むが、ページによっては半分以上が注釈のこともあるのでもうそこらへんは好みの問題になる。

江戸の岡場所 非合法〈隠売女〉の世界

官許の遊郭である吉原や島原に対して、非合法の遊郭のことを「岡場所」という。
時代小説を読んでいるとたびたび登場するが、実態については知らなかったので読んでみることにした。
合法の遊郭やそこで働く遊女についての本は世間にはあるものの、岡場所についてここまで詳しく書いてある書籍はそうそうないと思う。
「吉原がメインカルチャーなら岡場所はサブカルチャーと作中では言われており、自分でもそういう認識だった。
ところが岡場所の遊女であっても吉原所属の遊女よりも人気があったり、髪の結い方を真似られるなどファッションリーダー的側面もあったようだ。
吉原は登楼して遊ぶにしても様々な作法がありお金もかかるので、時代によっては吉原よりも岡場所のほうが繁盛しており、吉原の経営者が幕府に対して岡場所をきっちり取り締まってほしいと直訴したこともあったのだとか。
成立の経緯は江戸開闢から遡って分かりやすく書いてあり、江戸時代ずっと存在していたと思っていた岡場所も時代によっては衰退していたりお上に取り潰されたりしていたようなので、カジュアルな風俗業とはいえいろいろ大変だったようだ。
江戸時代の性事情について考えるとき、頭に浮かぶのは「避妊はどうしてたのか」ということだ。
コンドームなんてないわけで、以前に何かで読んだのは懐紙を性器に詰めて対策していたらしいが、当然ながらそれでは十分な避妊対策にはならない。
梅毒などの性病にかかってしまった遊女は遊郭にいられないので夜鷹(今で言う"立ちんぼ"的なもの)に身をやつすしかなく、悲惨な末路を辿ることが多かったと以前別の本で読んだことがある。
割と作者は岡場所の女性や夜鷹に対して同情的に書いている印象を受けたが、彼女たちの実情を知ればそうした書き方をしたくもなる。
また、今まで読んできた時代小説の舞台となった年代まで意識したことはなかったが、岡場所が登場するということは少なくとも営業していた時代の話だったということで、時代考証もおそらくきちんとしていたのだろう知らんけど。

マイ京都慕情

「この街はカップルには優しいが、童貞には厳しいんだよ」とみうらさんが評する町「京都」
みうらさんが18歳まで暮らした土地の思い出を巡る一冊となっている。
観光ガイド本ではないので、みうらさんおすすめのスポットとかが載っているわけではない。
ファンであればみうらさんが著書などで話題に出していた地名が見られてルーツを知ることができるし、京都に詳しい人であれば思わぬ共通点を発見することにもなるだろう。
昔、京都の風俗事情に詳しい人に聞いたことがあるのだが、かわいい子や売れ筋の子は滋賀県のソープに移籍してしまうので京都は風俗不毛の地なのだそうだ。
ただそんな京都にも作中で紹介されるようなポルノ映画館やストリップ劇場があるため抜きポイントが全くないわけではない。
巻末にみうらさんと京都出身の漫画家の対談が掲載されており、「京都の舞妓もビンビンより半勃ちの方が好み」「京都は包茎が似合う、上品に皮被ってる感じ」「大阪はギンギン」などと言及されており、京都の人にとっては心外かもしれないが"包茎"という表現でまとめるのはさすがだなあと思ったし、風俗が少ないのもそのせいかもしれないとも思った。

*1:江戸時代には「手伝普請」というものがあり、江戸城下町の整備や河川の普請を各藩が人件費等を負担してやらなければならない定めがあった。源太郎が受注した"公共工事"はこれとは違うと思われる。

2023年10月に読んだ本

突然だがヤフコメの人らが嫌いなものをまとめてみた。

若者、老人、都会、田舎、流行りのもの全般、SNS、Youtuber、VTuber、インスタグラマー、TikToker、インフルエンサーコスプレイヤー、女子アナ、eスポーツ、ファッション、マッチングアプリ、キラキラネーム、スタバ、ハロウィン、倍速視聴、中国、韓国、思想が左寄りのもの、最近の紅白歌合戦、(車の運転手から見た)自転車・歩行者・バイク、生活保護、公務員、政治家、医者、昔のアニメがリメイクされた際に声優が変わること、女性芸人がSNSに可愛い自撮り写真を載せること

では10月に読んだ本の紹介をしていく。
念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

スノウボールアース (6)

  • 主役機に主人公以外が搭乗する
  • 主役機のパワーアップイベント(リスクあり)
  • 主役機に隠されたブラックボックス
  • 見た目が主役機そっくりな謎のブラック主役機

というロボットものの王道を一気に詰め込んできた今巻。
本作は主人公とロボットが共に人格的に成長していくので、人の中で学んでいく"学習"というAI的な無機質な感じではなくて"成長"を感じられてよい。
どうにも主人公側の戦力が心許ないのだが、安心して読めるのは登場人物が元気で前向きなことだ。
まあそんな彼らですら絶望するような展開があるのかもしれないが、どんな見せ方をしてくれるのか期待している。
また、もうひとつ本作の特徴として「嫌なやつがいない」ことが挙げられる。
主人公側から見たときに"悪いやつ"はいるが"嫌なやつ"はいないので、読者は必要のないストレスを感じたりせず、作者は余計なヘイトコントロールをしなくてすむ。
別に必要があれば"嫌なやつ"が登場しても問題はないのだが、最近のスカッと系コンテンツは嫌なやつの描写が平面的すぎて規定通りの動きしかしない舞台装置みたいなのだ。
スカッとジャパン的な展開や追放系のなろうのように、一度ストレスを与えてからスッキリさせることで快感を得るような不毛な娯楽になっていないのは助かる。
ああいう安易な"復讐"だの"スカッと"が主題になると復讐するに足る悪いやつを登場させたり胸糞悪い展開にする必要があるので、「相手を殴るために殴られる」のループになってきりがない。

童夢

巨大な団地で連続して起こる不審死の真相を巡る作品。
この後紹介する『AKIRA』は読んだことがあったものの、童夢は初見である。
ぼくは漫画史には詳しくないのだが、童夢と『寄生獣』に関しては後の漫画表現に与えた影響は計り知れないと思う。
寄生獣は斬撃の鋭さを最小限の線で表しており、読者が見たことも触ったこともない寄生生物の硬質化された肌の硬さや鋭利さを想像するのに一役買っている。
そして、童夢に関しては「超能力を可視化したこと」が大きいと思う。
超能力で物を動かしたり瞬間移動したりといった描写は今までもあっただろうが、超能力そのもので衝撃波を起こしたり人を押しつぶしたりといった表現を見えるようにしたのは本作が初なのではないだろうか。
例えば、本作では超能力で人を壁に押し付けるシーンがあるのだが、人の周辺の壁が半球形にめり込むことで「この超能力は円形をしている」とイメージできる。
勝手に想像させてもらうと『ARMS』の超能力描写なんかは童夢AKIRAの影響を受けているところが少なくないだろう。
もうちょい能力バトル盛り盛りの作品化と思っていたが前半はミステリーとホラー展開が多めで、一冊でこんだけ詰め込んで成立しているし書き込みも半端ない。
後のAKIRAに通じる設定もたくさんあるので、未読の人は読んでおいたほうがいい。

AKIRA (1-6)

うっすらとしか知らない人にとっては、アキラが誰なのか勘違いしていたことでお馴染みの作品。
本棚に収まっていたことはあるのだが引っ越しを繰り返すうちにいつの間にか手放してしまっていたので再度購入した。
一巻を読み終わった後に改めてすごい作品だなあと思ったし、一巻でちょっとお腹一杯になってしまう。(いい意味で)
逆にアニメ版は一度見たことがあるかどうか程度だったのだが、漫画ではあんなにカッコよかったミヤコ様がいんちき占い師みたいになっていたのはショックだった。
ARMS・幽遊白書ハガレン・ダンダダンなどなど、年齢を重ねた女性が強い漫画は面白いのかもしれない。

姫君を喰う話 宇能鴻一郎傑作短編集

谷崎潤一郎三島由紀夫が好きならお勧めとどこかで聞いて読んでみた。
人肉食や下着フェチや近親相姦など背徳的なエロがふんだんに盛り込まれた作品で、妖しい世界観に引き込まれて読み切ってしまった。
確かに上記の作家が好きなら読んでみてほしいし、あとは単純に作者が谷崎潤一郎三島由紀夫が好きらしい。
表題作でもある『姫君を喰う話』はホルモン屋で語り手の男性が食事をしているところから始まる。
ホルモンを食べるときの表現が妙にエロティックで、特に性器周りや舌を食べる描写は完全に官能小説だった。
作者について調べてみると現在は官能小説の作家になっているようで、表現力にも納得である。
よしもとばななの『キッチン』でも書かれていたように、食事は性欲の代替であるという具合に性と食がふんだんに描かれている。
官能的な表現や倒錯した性癖と死が登場する作品だけど、ぼくが個人的に心に残ったのは『鯨神』という作品だ。
これを読んで、「生き方を選べる幸福」「自分の不幸は自分だけのもの」をつくづく実感した。
主人公の暮らす村は捕鯨で生計を立てている人がほとんどのため、漁に出て死亡してしまう人も後を絶たない。
漁師が死亡すると、子供は鯨を仕留めてその仇を討たなければならないとされており、生まれた時から自分の未来を決められている。(父親と長男が死ぬなどして男性が全滅した場合、孫が仇討ちの役目を担う)
登場人物の中にその風潮に疑問を持つ人は誰もおらず、老若男女問わず村が一丸となって鯨への復讐に固執する様は狂気だった。
また、村には唯一の士族身分の家があり、そこの娘は鯨神を仕留めた男の嫁に行くことを決められている。("鯨神"とは、主人公の祖父や父親が死ぬ原因になった巨大な鯨)
士分の家に生まれたものとして当たり前。しあわせなど欲しくない。」「自分も鯨神を殺すために役に立ったと実感したい。」と娘が主人公に告げる場面があり、主人公はそれに理解できない様子であった。
だが最終的には「(自分も含めて)人は進んで不幸になりたがる」「自分の不幸は理解も肩代わりもされない」と主人公は結論付ける。
物語の舞台は明治初期あたりなので、生き方を選ぶことができなかった人が多かっただろう。
現代においても、住んでいる場所や家族、宗教などによって望まぬ形で生き方が制限されてしまっている人がいる。
今はネットもあるし世界も開けているので他人と自分を比較して、自分が属している環境の特異性に気が付くことができるかもしれないが、明治そこらの時代では暮らしている地域がそのまま世界となるだろうからなかなか他人と生き方を比べることができない。
とんでもない環境であっても「そういうもの」と受け入れて生きていくしかなかったことだろう。
不幸せな人に対して「他にもツラい思いをしている人がいるのだから」と諭すやつがいるが、他人がどうであれ自分が不幸であることに変わりはないし、自分のしんどさが解決されるわけではないのだ。
ところで、大正から昭和初期あたりの作品を読んでいると、足フェチの人を見る機会が多い。
本作でも登場しており常々疑問だったのだが、何となく分析してみるに普段着が着物だったことが大きいのではないだろうか。
着物ではいいとこ見えてふくらはぎ程度だろうし、裾から覗くふくらはぎに色っぽさを感じるという描写も見たことがある。
太ももなんてまず見えることがないからほとんど性器みたいなものだったかもしれない。

そして誰もいなくなった

孤島に集められた10人の男女の内から次々に犠牲者が出ていくという、いわゆる「クローズド・サークル」ものの作品。
これくらい有名な作品になると、展開をオマージュした作品や作品そのものの評価にどことなく触れているので、先に結末を知っていることがある。
本作についても何となく結末は知っていたのだが、さすがに犯人までは知らなかったので最後まで緊張感を持って読むことができた。
手がかりがほとんどないように見えたので初見で犯人を当てられた人はいるのだろうか。
巻末の解説曰く、「手がかりを明示する気がなかったのでは」とのことらしい。
面白かったのは間違いないので、今度は同作者の作品でも自分の中で色のついていない、全く内容の知らない作品を読むことにする。
ミステリー小説や探偵小説の古典と言われるものには今まで触れてこなかったので、この機会にいろいろ探検してみるつもりだ。
リンクを貼った商品は旧版で、今は新版が出ているのだが表紙のデザインが好みだったので旧版を購入した。
古い翻訳のためか、「~した。」とか「~だ。」とか、"た"で終わる文章が続いていたこともあって、どことなく淡々とした印象を受けた。
でも逆にこの淡々とした感じが無機質で不気味さを喚起させて、何の感情もなしに人が死んでいくのを見せつけられているようでよかった気がしないでもなくもない。
機会があれば新版などと読み比べてみようと思う。

恋文・私の叔父さん

こちらの作者さんの『戻り川心中』が非常に面白かったので、他の作品も読んでみようと思って見つけた。
ミステリーが多い作家だが、本作はミステリーではなく恋愛もの五篇が収録されている。
恋愛小説は読まないがこの作者さんの他の世界も知りたいと思い読んでみることにした。
ひとつめの『恋文』は、姉さん女房の主人公の夫がある日突然に失踪してしまうところから始まる。
夫は余命半年で天涯孤独の元カノの最期を看取るために家出したことが明らかになり、物語の中で主人公は初めて夫に"男"としての魅力を感じたことを自覚する。
この話を読んでいて、リリー・フランキーさんが著書『リリー・フランキーの人生相談』にて言っていたことを思い出した。
とある回で、子供が生まれてから妻に魅力を感じなくなって何年もセックスレス状態の夫が登場する。
相談者である夫に対してリリーさんはアイドルから聞いた話を元にして回答していく。
リリーさん調べによるとアイドルに男兄弟がいる場合、彼らはアイドルになった瞬間から急に妹(姉)をちやほやしだすのだそうだ。
リリーさんはこれを「家族の外部的な価値を知ったから」と分析する。
家族として当たり前のように同居していた人間がアイドルになったことで「妹(または姉)の外部的な価値を知り、女として輝いた」ということらしい。
そして相談者である夫に対しては「次に奥さんとセックスしたくなるのは奥さんの浮気が発覚したとき」と締めくくるのだ。
惚れて結婚した相手でも存在が当たり前になると魅力を感じることが少なくなってしまう。
奥さんが他人に求められるほど魅力的であると知ることで、改めて良さに気付けるということだ。
『恋文』の主人公にも同じような心境の変化があったと言えるので、そこらへんは読んで確かめてみてもらいたい。
恋愛が描かれていると言っても少女漫画のように、優しい幼馴染の男子とクールでそっけないけど自分だけに弱いところを見せてくれる系男子との間で揺れ動く女子の話を書いたものではない。
夫婦愛や家族愛、もちろん恋愛もあるが、じんわり心に沁みてくる感じの一冊となっている。
『戻り川心中』でもそうだったが人間の心理描写が本当に巧みで、何を見て育てば細かいところまでこそぎ落とすような繊細な感情を表現できるんだろうと読みながら何度も感じていた。
ミステリー作家らしく捻りの効いた展開もあり、飽きることなく最後まで楽しめる作品だった。

儚い羊たちの祝宴

米澤さんの作品は古典部シリーズをアニメ化した『氷菓』しか知らず、しかもアニメでしか見たことがないので小説は未読だった。
ミステリー5篇からなる一冊で短編集かと思いきや、2篇目を読むとどうも話がほんのり繋がっているらしいことに気が付く。
謎やトリックそのものよりも、そこに込められた人間の欲望や悪意を楽しむ作品だなという印象を受け、また毒気が満載のホラーテイストが随所に感じられた。
後から読み返すと気付きのある箇所もあり「うわー」となる一方で、ちょっと自分の読解力のなさに落ち込んでしまった。
解説にもあったが、「読者に一定の読書教養を求める」というのはその通りだと思う。
思い込みで読み進めてしまったところは確実にあったので、固定観念を捨てて作品に向き合わなければならないなと反省したし、それに気づかせてくれた点においては記憶に残る作品になるだろう。
本を読んだ数を積み上げることが目的ではなく、本を読んで自分が何を感じたのかを大切にするべきなのは肝に銘じておかなければならない。
スッキリ読み終わったなあというよりは、読後に真相がぼんやり浮かんできて何度も読み返してなるほどここはこうだったのかと再発見したくなる。
物語のタイトルや作中で登場する固有名詞にミステリー関連の小ネタが散りばめられているので、詳しい人であれば心をくすぐられると思う。
もちろんミステリーに明るくなくても楽しめるので、知見があれば展開を予想してニヤニヤするもよし、真っ白な状態で読んで物語に翻弄されるもよしな一冊である。
とりあえず、海野十三の作品とG・K・チェスタトンの『ブラウン神父シリーズ』は読んでみようと思った。

漱石書簡集

森見登美彦さんが『恋文の技術』の作者あとがきで、「夏目漱石の書簡集がおもしろかったので真似してみようと思った」と言っていたので読んでみることにした一冊。
彼の作品は『吾輩は猫である』『坊ちゃん』くらいしか読んだことがなく、どちらかと言えばユーモア多めの作品に接してきた。
夏目漱石は非常に偏屈なイメージがあったが、仲良しの正岡子規との手紙では自虐や皮肉を交えて気安く会話していたのは意外だった。
正岡子規とはかなり親交が深かったようで、文学観や人生観について激論を交わしつつも「意見が異なっても君の考えは尊重する」という姿勢が見えて、本当に好きだし尊敬していることが伝わってくる。
漱石の英国留学中に子規の病状が悪化し、そのことについて送られてきた本人からの手紙に対して漱石は留学の様子や街の風景なんかを語るに留めて子規の病状についてはあまり触れていない。
友人の死期を受け入れられずに逃避している様子が伝わってくるし、単なる"偉人"としてしか認識していなかった人物の人格に触れることができる。(正岡子規夏目漱石の留学中に死去する)
他にも、留学中に離れて暮らす家族の心配をしたり、同時代に活躍していた泉鏡花芥川龍之介のことを褒めていたりと、偏屈一辺倒ではない漱石の一面を知ることができた。
印象に残ったのは夏目漱石の死生観についてだ。
彼は「死によって心の平安を得たいが自殺したいわけではない」と手紙で綴っている。
生きてると煩悩に振り回されるわ人から嫌なことを言われるわロクなことがないと愚痴っており、神経衰弱に陥った門下生に対しては「今の世間で神経衰弱になるやつのほうがむしろまとも」とまで言っている。
これを言っていた漱石はまだ20代か30代そこらだったが、後年の『吾輩は猫である』でも猫が同じようなことを言ってたため死生観は一貫していたのだろう。
草枕』や『夢十夜』などの執筆した作品について触れている書簡もあるので、ファンであれば今で言うところの副音声解説みたいなノリで楽しめそうだ。
ファンレターに対する返事も収められており、「『こころ』は子供が読むもんじゃない」と返答していた漱石に『こころ』が学校の教科書に使用されていることを伝えたら何と言うだろうか。
また、明治時代の人であるため文章が古めかしく馴染みのない言葉が頻出するのは否めず、辞書を引きつつ読んでいたのでなかなか時間とエネルギーのかかる作品だった。
仲のいい人に対しては砕けた文体を使っていることもあり「"○○候"って書くのは面倒だから気取って会話文にする」と言っているくらいなので、当時の手紙のマナーだったのかもしれない。
こういう書簡集みたいなのもっと読みたいなあと思った。
作品から人物像を推察するには限界があるし、ネットでその人の遍歴を拾うのは味気ないから、本人が生きていたときの言葉でその人を知りたい。
もうちょっと若い頃に読んでたら影響されていたかもしれない一冊だった。

キャラ立ち民俗学

仏像、土偶、天狗、海女、飛び出し坊や、裸像、鍾乳洞、角兵衛獅子、菊人形、フィギュ和、ゴムヘビ、地獄…。
みうらさんの今までのマイブームを綴った一冊。
「"民俗学"と銘打ったことを柳田邦夫先生に謝りたい」と綴っているくらいなので厳密に言えば民俗学ではないかもしれないが、サブカル民俗学のどっかには位置していると思う。
本作にまとめられているブームについては以前に訪れたことのあるみうらさんの『マイ遺品展』にも展示されており、あの展示を見た後では熱意にも納得である。
あまちゃん』より先に海女さんについて注目していたのはさすがだ。
「欲しいのは知識ではなくなぜそんなにキャラ立ちしているのかに興味がある」というみうらさんの言葉は、勘違いしているオタクに聞かせてやりたいくらいだ。
多くを知っているから偉いのではなく好きという気持ちだけで十分であってそこに優劣はないのだが、どうにも他者と比べたがる人は昔からいる。
誰だって最初は初心者なのだからやたらとにハードルを上げて新規参入を阻み、コンテンツを衰退させることはない。
まあもっとも、今は知識量ではなく消費した金額の多寡で"推し"とやらへの熱意が決まるらしいが。