公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2026年5月に読んだ本

こないだガンダムZZを見返していたとき、3話を見たあとに少し間を置いて4話を見たので覚えていないことがあった。
それは、「ファとリィナはいつからお互いに面識を得たのか」ということである。
4話において学校にも行かずにビーチャたちと連れ立って出かけるジュドーを見て「ファさんに相談してみよう」とリィナが言うシーンがあるのだが、二人はいつからそんなに親しくなったのだろうか。
今までの話を見返してもいいのだが、自分はあえてここでAIに聞いてみることにした。
するとAIは「リィナの学費やアーガマの修繕費を稼ぐために金が必要になったジュドーが病院に入院しているカミーユを身代金目当てで誘拐しようと試みた際、ジュドーを追いかけてきたリィナとカミーユの看病をしているファが出会った」というトンチキなことを言い出したのである。
ジュドーがとんでもない極悪人になっているし、ジュドーがアーガマの修繕費を稼ぐ理由もないし、そもそもカミーユを誘拐した身代金はアーガマからもらうとしても、アーガマからもらった身代金をアーガマの修繕費に充てるというよくわからない二度手間が発生する。
別にこれはAIの無知を責めているわけではなく、AIの言うことを鵜呑みにしてはいけないということだ。
今回はたまたま自分に知識があったから間違いに気が付けたものの、正誤を判断できないようなことを迂闊にAIに聞くべきではない。
AIが何を元に回答を用意しているか知らなかったのでAIに聞いてみたところ、インターネット上に存在するテキストデータを学習して回答を生成しているためアニメ本編の内容を実際に見ているわけではないとのこと。(この回答も間違いがないかどうか知らないが)
ちなみにファとリィナの件については3話でファがメタスの掌にリィナを乗せて運んでいるシーンがあるもののそこまで会話も多くないため、まあこの前後でいろいろ仲を深めたのだろうと補完することにした。
5月はまたちょっと忙しかったので読んだものは漫画のみとなる。
ネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

カグラバチ (11)

今までの描写から、剣聖は狂っており彼が真打を使用したせいでえらいことになったから隔離されているみたいな印象だった。
しかし剣聖は元々狂っているということが判明し、明確な意思を持って大量虐殺をしたことになる。
また、侵略してきた小国の生き残りではないかと目されてきた幽も、元はどうやらただの一般人だったらしい。
そして彼もその他一般大衆と同じ"英雄"を求めていた人間であり、何か決定的な出来事があったことで真打の圧倒的な力をもってこの世の混沌を収めるべしという考えに至ったようである。
世間的には六平国重は妖刀を生み出し戦争終結に一役買った"英雄"であるけれど、幽からすれば皆を救える力がありながら姿を消し、妖刀を封印した無責任な人間として映っているのもまた新しい国重の解釈だ。
この世界には様々な国重ファンがおり、各々がいろんな思いを抱いているわけだが、幽は差し詰め強火の反転アンチと言ったところか。
また、本作はめでたくアニメ化が決定したわけだが、残念なことに作者さんの体調不良により6月29日発売のジャンプから休載している。
ジャンプ編集部としても鬼滅の刃・呪術廻戦に続く和風アクションとして非常に力を入れていることがわかるプロモーションなので、妙にハードルが上がってしまっている気がするのが気がかりだ。
再開は8月予定とのことで、ぜひ体調を万全にしてまた面白い漫画を描いてほしい。

さむわんへるつ (3)

リスナー甲子園の優勝を逃したくらげの涙を初めて見たことで、「他人の知らないあの子の一面」という少年漫画的ポイントがまたプラスされた。
しかしながら、ミメイの面白さはまだくらげしか知らないので、お互いにそれぞれの秘密を知っていることになる。
「もっとお揃い増やしたいね」とくらげが言っていたが、お揃いが増えるということは秘密も増えるということであり、知ってか知らずか罪な女である。

ジュミドロ (8)

まだまだ続くかと思ったがどうやら次巻で最終回らしい。
まあ全9巻だと人にも勧めやすくていいかもしれない。
アニメ化はしないのだろうか。
ラムネは敵を斬ることが友達の「たすけ」になると思って今まで剣を振るってきて、それが人を斬る以外何もできない自分の存在意義だと思っていた。
しかし、敵の中にもまた別の誰かの大切な人がおり、大切な人を斬られた人にとってはラムネは敵なわけで、彼女はそんな簡単なことに気が付くのに随分と遠回りをしてしまった。
ラムネに恨みがある人にとって、彼女が斬られて死ぬことが「たすけ」になるというのは残酷な現実なわけで、もちろんラムネがしたことは一生許されないことではあるけれど、この物語が主人公の死という形で終わるわけはないと思っている。

シルバーマウンテン (4)

「嘘をつけない部族の人間が初めて嘘をつく」というベタな展開でこれだけ話を膨らませられ、読み応えのあるストーリーに仕上げた藤田先生に感服しきりだ。
嘘をついているのではなく「真心を隠して」一緒にいるというわけである。
別に真心は隠さんでもと思われるかもしれないが、真心は隠してくれたほうが素直に受け取れるときもあるのだ。
しかし、新章が始まる前に話が江戸時代に戻り、平田を相手に物語の続きを語るところが描かれるわけだが、ギンはどうやって螺界から戻ってきて、旅を共にしていたヒョードーやサイッダはどうなってしまったのだろうか。
明かされそうでなかなか明かされないネタを目の前にずっとぶら下げられているようでうずうずする。

平成敗残兵すみれちゃん (10)

今回の表紙はすしカルマ先生なわけだが、すしカルひとりで表紙を飾るのは2回目になる上、すみれちゃん以外で単独表紙を担当した唯一の女となる。
9巻では切れ痔でありながら単身交渉の場に乗り込んできて啖呵を切った男前なすみれちゃんであったが、10巻ではおっさんに痴漢をして逮捕されたり、歌のおねえさんオーディションで中日ドラゴンズの応援歌を歌ったりと、読者の期待にも相変わらず応えてくれている。
やはり今回の見どころは、ブイウーバー(Vtuber)としてデビューすることに躊躇していたすしカルとの平成敗残兵同士の語りだろう。
"勇気"が若者の特権であるとはよく言われることだけど、年を取って傷つくのが怖くなったからこそ捨て身の勇気に価値があるというのは一理ある。
年を取ると立場やプライド、自尊心などいろんなものを背負ってしまっているから転ぶとそれらを落としてしまいかねないし、転んだところを見せるとみっともないし、そのときのケガだって治りにくい。
そんなリスクを承知の上で勇気を出して暴れるからこそ、見えてくる景色もあるはずだ。
すみれちゃんもすしカルも、年喰ってる割に若者に若者に誇れる知恵も経験もないと自嘲するが、年齢を重ねた人間が見せる勇気から若者が何かを得てくれたら気張った甲斐があるというものだろう。

みちかとまり (4)

世界観は好きだったがよくわからないまま何となく終わってしまった。
結局、人間があれこれ知恵を絞ったところで自然という雄大で畏敬の念を抱く存在の掌の中で踊っているということだろうか。
ちょっと本作は自分の中で消化しきれていないので、芯を喰った感想が出てこない。
何はともあれ作者さんの作品は好きなので次はどんな物語を描いてくれるか楽しみだ。

子供はわかってあげない【文庫版】

水泳部の朔田さんと書道部の門司くんは好きなアニメがあるという共通点から意気投合する。
門司くんの兄が探偵であると知った朔田さんが、自分の実の父親を捜してほしいと持ち掛けるところから始まる夏の体験を描いた作品。
こちらは復刻された文庫版で、単行本は所有しておりこのブログにも感想を書いたことがあるが、作者さんへの応援の意味と書き下ろしのおまけ漫画目当てで購入した。
名作なので何回も読みたくなる一冊である。
ちなみに前回読んだのは2023年の6月だった。
当時のブログによると、この時期に田島列島さんの作品を一気読みしたっぽい。

mezashiquick.hatenablog.jp

どんな感想を書いたのかと読み返してみたところ、なかなか良いことを言っている。
というわけで詳しくはそちらを見てもらいたいのだが、タイトルの「わかってあげない」という言葉に関しては文庫版の解説で良いことを言っていた。
かなりしっくりくる解釈だったので、気になる人はぜひ手に取ってもらいたい。

ザ・バックラッシャー (2)

1巻もそうだったが割と直近の連載分まで収録しているようだ。
不良集団が出てくるシーンで「この国はまともに若者の教育もできなくなった」とか「非行集団の本質は暴力的であるほど価値がある」というセリフがあるが、タイムリーに相次いでいる若年層の凶悪犯罪を連想してしまう。
タイトルにある「バックラッシャー」だが、人種差別やジェンダー平等など、社会的な弱者の権利向上や進歩的な改革が進んだとき、それに反発して「従来の価値観に戻そうとする激しい反動や巻き返しの動き」を指す「バックラッシュ」から来ている。
バックラッシャーを結成した莫はコンプラだのフェミニズムだのに唾を吐いて生きているわけだが、そもそも仲間を募って組織を作ろうとしたのは淋しいからだと明言している。
そして2巻では、莫が父親から殴られて育ったことが明らかになる。
現在は父親とは普通に接しているようだが当時のことは彼の中でも消化しきれていないらしく、父親への反発も幼少期の体験から来ているのだろう。
さらに、殴っていたことを「そういう時代だった」と正当化する父親に対して「どんな時代でもダメなことはダメ」という感性は持っているようで、どうも全部の価値観に対して反発しているようではない様子。
また、バックラッシャーのメンバーであるスラッパーが「社会の動きを自分には関係ないと思っていると、気が付いたときには社会のダニになる」という旨のことを言っている。
遠回しに莫のことをダニであると言っているようにも聞こえるが、彼からすれば自分がどんな人間であるか、なぜこうなったのか、どんなしんどい思いをしてきたのかを分かってもらいたいだけで、ダニかもしれないがダニにはダニの言い分がある。
昔、なんかの本に「不機嫌な人は不機嫌であることを気付いて欲しいのではなく、不機嫌になった理由に気付いてほしいのだ」と書いてあった。
莫もそんな感じの行動原理でバックラッシャーしているのではないかなあと思った。
弱者の権利向上に勤しんでいる団体からすれば淋しいからという理由で邪魔されては迷惑極まりないわけだけども。

司書正 (1)-(4)

『本なら売るほど』の3巻に試し読み小冊子が付いており、読んでみたところ非常に先が気になったので購入した。
オリエンタルな世界観を舞台にした古代宮廷ファンタジー漫画。
顓国(せんこく)の蔵書樓(ぞうしょろう)にある全ての書物の内容を「智の器」として己の身に収め、諳じることのできる「司書正」の元に側女であるキビがやってきたことから始まる物語となる。
司書正は書物の内容を暗唱できる代わりに自我がなく脱け殻のようになってしまうためお世話をする人が必要になるのだが、お世話係も適当に選ばれているわけではないらしいのだ。
そんな司書正とはいつから何のために存在しているのかという謎解きパートと、宮廷内の権謀術数渦巻く権力闘争パートが話のメインとなる。
4巻まで読んで、顓国と友好関係を結んでいる大国・昊国(こうこく)の暗躍や、かつて顓国に滅ぼされたとされる熒国(けいこく)の血を引く部族が登場したりと1巻時点では予想できなかったほど話が広く展開しており、また"精霊"というファンタジックな概念も登場する。
ファンタジー要素と宮廷のドロドロ権力闘争が違和感なく同居しており、世界観を非常に詰めていることが伺える作品だ。

2026年4月に読んだ本

この記事をまとめているのは5月なのだが、5月18日発売の『週刊スピリッツ』にて『機動警察パトレイバー』の32年ぶり新作読み切りが掲載された。
パトレイバーを初めて読んだのは高校生の頃で、踊る大捜査線が好きだったこともあって「カッコ悪いけどカッコいい」的な主人公たちの描かれ方にドはまりしてしまった。(文庫版パトレイバーの帯コメントを踊る大捜査線の演出だか脚本だかの人が書いていた覚えがある)
アニメは見たことがなく、というかTV版とかOVAとか劇場版とかがあってどこから見ればいいのか分からなかったし、当時はサブスクなんて便利なものは存在せずレンタルビデオだったため高校生の自分にはあれもこれも見る金銭的余裕がなく、結局見ないまま今に至る。
dアニメストアにはパトレイバーのラインナップが豊富なのでいつか見ようとは思っているがいつになるやらという感じだ。
そしていつも行く本屋にはスピリッツが置いてなくアニメイトで購入したが、全国的に品薄らしく一冊だけでも入手できてラッキーだった。
内容は満足だったけどもうちょっと読みたいという絶妙な加減で、この飢餓感を持って新作アニメを見てほしいということなのだろう。
「漫画版に基づいた後日談」ときっちり書かれており、漫画版一話のオマージュのような印象を受けた。
イングラムは登場するもののさすがに野明は出てこず、まあ前作の主人公が登場するのは新作の主人公を喰ってしまう可能性があるし、後藤隊長やしのぶさんも好きなので嬉しい。
新作を見る予定は今のところないし、そもそも見ようと思ったら今までのアニメを見たほうがいいと思うのでいつになるやらという感じである。
では4月に読んだ本を紹介する。
ネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

スノウボールアース (11)

この記事をまとめている間にアニメの放映がスタートした。
期待以上に良いアニメで、本編では鉄男のうじうじしてるシーンがちょっとくどいと感じる箇所もアニメだと比較的見やすくなっていた。
演出や音楽も相まってロボ戦にもかなり迫力があり、非常に"熱い"と感じるアニメである。
主題歌は最近のアニメによくあるあらすじを歌っているだけのしゃばい歌だったが、原作ファンとしては納得できるアニメの出来栄えだったので第二期があってくれると嬉しい。

猩猩姫 (1)

『虎鶫』作者の新作。
虎鶫は好きな作品だったのだが急に終わった感があったので打ち切りだったのだろうか。
今作は古今東西様々な関連作品が創作されている『西遊記』を元にした作品となっている。
美少女である孫悟空が男前の玄奘に封印を解かれたことをきっかけに一目惚れし、彼に気付かれないように後をつけるところから物語はスタートする。
一巻の時点で猪八戒(厳密には名前は明かされていない)と沙悟浄も登場するため、本番は二巻以降からといったところか。
作者さんはとにかくケモケモしているヒロインが好みらしく、前作『虎鶫』のヒロインも本作の孫悟空もかなりケモっており、そのケモっぷりはヒロアカの堀越先生に称賛されたほどだ。
絵は相変わらず上手くキャラクターの表情も豊かで読んでいて楽しいし、ストーリーは今のところ様子見ではあるけれども、作者さんが西遊記をどれだけ自分色で描けるか楽しみにしたい。
近年、ジャンプ+にてジャンプ本誌で連載経験のある作家が新連載を持つケースが増えており、どの作品もジャンプ本誌では掲載が難しいであろう"ヘキ"を感じる作品となっていて面白いものが多い。
本作もそうだが、やはり作者の好きなものを感じる作品というのは生き生きと描かれている感じが伝わってくるので好きだ。

本なら売るほど (3)

漫画大賞を受賞したり、「このマンガがすごい」の一位を獲得したりした本作だが、その手の賞が溢れすぎていて主催元とかノミネート基準とかを調べるのがめんどくさい。
自分はこの手の賞は何の参考にもしておらずむしろ逆張りで買わないのだが、本作に関しては面白いことは確かだし一巻から買っていたので良しとする。
これは別に貶しているわけではないのだが、本作に限らず漫画で描かれる人間関係ってそう突飛なものはないと思う。
愛とか友情、恋や執着、尊敬に嫌悪、殺意や庇護や恨みや呪いなど、感情って割とラベルを貼るのはたやすい。
それゆえに大切なのって関係じゃなくて出会い方や深め方で、何をきっかけにして出会って何を媒介にして関係を育んでいくかということが重要なんじゃないかという気がする。
何言ってるのかよくわからないと思うが自分も何を言っているのかよくわかっていない。
とにかく、自分は本が好きなわけなのでありふれた人間関係であっても本が媒介となった縁というのは共感できるところが多々あるし単純にうらやましいなと思う。
だから「本」の部分を自分にとって好きなものや身近なものに変えてみればいいんじゃないって話。

はなまる・エントロピー (2)

この後に紹介する本でもそうなんだけど、こうなったらもう開き直るしかないだろう的な状態ってある。
本作においても彼氏であるナツは朝起きたら身長が13.5㎝になっていたわけだが、一巻での彼にはある種の開き直りが見えたように思う。
ナツは身長が156㎝しかないことがコンプレックスで、それにより「自分の人生なんてこんなもん」と全てを小さくまとめて生きている。
ところが13.5㎝になってしまった彼がどこか安心した気になっているのは、そうしたコンプレックスからくるしがらみから解放されたということと、開き直っても大目に見てもらえるだろう的な甘えなのだろうなと感じていた。
13.5㎝では仕事や社会生活どころではないから今まで気にしていたような収入面はいったん脇に置いといても問題ないし、ミニサイズになってしまうというありえない不幸を笠に着て多少のワガママは許容されるだろうみたいな。
ところが二巻のナツは彼女である千穂に代筆(小さくなったので書く手段がない)してもらった退職届を自分で会社のポストに投函したり、彼女の誕生日を小さいながらも全力でお祝いしたりと、自分にやれることを精一杯やっている様子が描かれていた。
これはダウンサイジングした怪我の功名のようなもので、コンプレックスやらなんやらから解き放たれて逆に何かと軽くなった様子である。
二巻はナツの開き直りがマイナス面に作用する展開になるのではないかと思いきや、意外にもプラスに転じていたことが驚きだった。
また、今回作中で、人間は多面的であり恋人だからってすべての面を見せているわけではないし、恋人には見せていない面を見せる友人もいるがそれは人間関係に優劣があるわけではない、というくだりがあった。
こういうのって依存先をたくさん作っておけという言説に近いものがあって、自分の周りにたくさんの人間関係がないとこの結論には至れないと思う、あとは年齢とか。
恋人にすべてを開陳することを求めるのって若い時にやりがちで、若い子もいずれこの理論がわかるときが来るし来ないかもしれないけど、寄りかかれるものはたくさんあったほうがいいよねって感じ。

機動戦士ガンダム ジオン大百科

表紙に「公国から袖付きまで」とあるように、ジオンの系譜を解説していく書籍。
あくまでもジオンにフィーチャーした内容なので、掲載されている宇宙世紀年表もUC0100にジオン共和国が自治権を放棄するところで終わっている。
こういうムック本は割と当たり外れがあるので買うかどうか迷ったが思ったよりは悪くなかった。
特に、ジオン関連のキャラクターを紹介するコーナーでは声と名前付きの人物はほぼ掲載されているのではというくらいの充実ぶりだった。
階級とキャラクター説明が書かれているのもありがたい。
キャラ紹介を見て、そう言えばフラナガン博士はTV版と劇場版で見た目が違ったことを思い出したし、ジークアクスで登場した博士は劇場版準拠のデザインだった。
一方でMS紹介に関してはほとんどの機体は絵と名称が載っているだけだったので、軽い解説は欲しかったところだ。
そしてジオン大百科といっても対象は映像化された作品とMSVに限られるため、漫画や小説などの作品とジークアクスについては載っておらず、また、上記したように宇宙世紀0100年以降は触れられていない。(『ダブルフェイク』などの一部漫画作品の機体は掲載されており、ジークアクスについても作品紹介コーナーでは取り上げられてはいる)
それと贅沢を言えば、ジオン・ダイクンやギレン・ザビの思想はもうちょい深掘りしてほしかったところではある。
特に、スペースノイドの間で広まった「エレズム」に関しては後年の登場人物にも影響を与えているため、ちょっと触れるだけじゃなくてガッツリ書くべきではなかったか。

乳房になった男

表題作の『乳房になった男』を含め、短編6作品が収録されている一冊。
乳房になったとは言ってもまあ顔面だけだろうくらいに思ってHUNTER×HUNTERの兵器ブリオンみたいなものをイメージしていたが、読んでみると完全に一個の乳房になってしまった男の話だった。
以下に、乳房の特徴をまとめておく。

  • 体重約70kg、体長約180cm
  • 顔面が乳頭で全体が乳房にあたる(当人としては頭が乳頭になったと考えているが、医者としては陰茎の亀頭の部分が乳頭になったのではと仮説を立てている)
  • 乳頭と乳輪は綺麗なバラ色
  • 人種はコーカソイドのまま
  • 呼吸は可能。排泄はチューブを通している
  • 乳頭には耳と口らしい穴の痕跡があるので喋れるし音も聞けるが食事はできない
  • 嗅覚なし、目なし
  • 乳房なので動けないが身体を揺する程度のことはできる
  • 身体(特に乳頭)を触られると性的快楽を感じる

まとめるとシュールだが当人としては完全に大真面目に悩んでおり、まあ朝起きたら乳房になっていたのだから当たり前だ。
乳房になった男ことデイヴィッド・ケペシュは大学で文学を教えているため、自分が知的階級だという自覚を持っている。
そのため、乳房になってしまったからといって下手に礼儀礼節を失うことができないと考えている。
一方で、乳房になったことのある人間はこの世に存在しないのだから乳房としてどう振る舞うのがベストか不明なためせめて人間らしくありたいと思っているが、上記の特徴を見ても分かるように彼は他人に世話されないと生きていけないため、そうしたジレンマを抱えて最初は過ごすことになるのだ。
ところが、そんなデイヴィッドも次第に分別が持てなくなり、開き直り・投げやりとも取れる態度を周囲に取るようになる。
上記したように彼は乳頭部を刺激されると性的快楽を感じるようになったわけだが、彼女であるクレアにそれを求めるようになっていく。
ところが手での刺激に物足りなくなったデイヴィッドは、乳頭を陰茎に見立てて彼女とファック(原文ママ)したいという欲望を抱くようになり、それをクレアにお願いするかどうかを真剣に悩み、周囲にも当たり散らすようになる。
デイヴィッドとしてはクレア以外に自分にこんなことをしてくれる人がいないことを自覚しているからこそ迂闊なことを言って彼女が離れていくのを避けたいと考えており、それはまあその通りだ。
彼氏が乳房になってもできる限り彼の願いや欲望を叶えてあげたいと思う彼女なんてそうそういるものではないし、そもそも乳房になった男と付き合いたいと思う女性なんていないだろう。
だからデイヴィッドは乳頭を刺激する時間を減らしてでもクレアと会話をしたいと思っているわけだが、それは純粋な優しさからではなく彼女の信頼を勝ち取り、あわよくばファックさせてもらおうとする打算的な気持ちから起こったものだ。
当初は人間として礼節を忘れずに生き、人間であることを忘れないためにありふれたことに縋り付いていたデイヴィッドが、途中から徐々に開き直って狂気とも取れる心理状態に入っていくわけだが、仮に自分が乳房になってしまったらきっと彼と同じようになるだろう。
自分は普通の人間ではなくなってしまったのだから、せめて自分の望むことをさせてほしいと思うのを果たしてわがままと切り捨ててもいいものだろうか。
デイヴィッドは「良心や欲望や悔恨を持っているのは人間だから」と言っているが、これは自分がまだ人間だから人として当たり前の主張をしているのだとも取れるし、自分は人間ではなくなったのだから欲望を大っぴらにさらけ出してもいいだろうと叫んでいるようにも取れる。
デイヴィッドは最終的に、「偉大な芸術への憧れが自分を乳房にしたのでは」という結論に至る。
カフカやゴーゴリには頭脳があり、優れた言語能力があったからああいう変身文学を思いつくことができたが、自分にはそれらがなかった。
だから自分は自分の芸術を体で表現するしかなかったのだと納得しようとするが、芸術の実現に乳房になったのでは正直たまらない。
他にも、あんなに熱中していたクレアとのセックスに醒めてしまったからとかいろんな理由を考えるものの、どんな理由があったにしても一人の人間を乳房に変えるほどの合理的な理由には程遠い、というか乳房になること自体が不合理なのだから理由も何もないのだが当人としては何らかの原因を求めないとそりゃやっていけないだろう。

李陵・山月記(山月記・李陵)

『乳房になった男』を読んで、変身ものの作品を読みたいと思って家にあったものからこちらを選んだ。
最初に新潮文庫版を読み、そちらに収録されていない作品を岩波文庫版で読むことにした。
特に山月記に関しては国語の教科書にも載っていたし話の概要は知っているけどきちんと読んだことはなかったので良い機会である。
「隴西の李徴は博学才穎」から始まる山月記の文章はやはり格調高くてカッコいい。
『乳房になった男』に比べると李徴が虎になった理由は納得がいく。
有名な「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」というやつである。
これゆえに李徴は詩で身を立てたいと思いながらも師匠に学ぶことをせず、同好の士と交わって切磋琢磨してくることもしなかった。
人間はみんな心に各々の性情という獣を飼っており、李徴の場合は尊大な羞恥心こそが猛獣であった、その猛獣を飼いならすことができなかったから飲み込まれて虎になってしまったのである。
李徴のこの言語化能力をもってすれば詩で名をあげることは容易だったと思う。
人はよくわからんことを言語化することによって何とか理解しようとしたり理解した気になったりするものだが、言語化したくないこと、言語化してしまったら自己が保てなくなる事柄もある。
李徴は「己の乏しい詩行」なんて自嘲しており、そんな卑下するなよと読んでいて思ったが詩がどうこうではなく自己中心的な自分を恥じているわけで、羞恥心という獣に飲まれてしまった今、もう怖いものなんてないから全部言語化しちゃえという具合だ。
これで李徴が開き直って詩がめっちゃうまいおもしろ虎としてやっていければ愉快だったかもしれないが、彼は心も既に獣に侵食されており、段々と人間であるときの時間が短くなっていずれは身も心も完全に虎になってしまうのでもうどうしようもない。
また、山月記と同じく表題作の『李陵』だが、李陵は李広という名将の孫で、この李広はキングダムの主人公でお馴染み「李信」の子孫に当たるらしい。
まあ自分はキングダムを読んだことがないのでへえーと思った程度のことだが。
本を買って積んでおくと保管スペースに困ることは確かだが、こういう連想ゲーム的発想で次に読む本を決められるのはおもしろい。
これ以降の書籍も"変身"をテーマにした作品となる。

変身

『乳房になった男』にて主人公が挙げていた作品のひとつ。
朝起きたら巨大な虫になっていた男、グレーゴル・ザムザについて書かれている。
虫の種類は書かれていないものの、描写から察するにゴキブリ的なものに近いだろう。
乳房になるのも嫌だけどゴキブリになっているのも困りものだ。
前述の作品は主人公の周りの人間が割と優しかったが、ザムザの家族はそうはいかない。
家族はザムザをあからさまに敵のように扱うことはないものの、嫌悪感を隠そうとせず家の中でひっそりと耐え忍ぶ暮らしをするようになる。
コミュニケーションを取らないのはもちろんのこと、食事は適当に床に置くし、ザムザが残したものは無造作にホウキで集めて捨ててしまう。
ザムザも人間だった頃の生態がどんどん薄れていき、好物だった牛乳は体が受け付けなくなるばかりか新鮮な食品をおいしくないと感じるようになる。
また、虫なので天井や壁を這うことができ、何なら壁に張り付くことだって可能だ。
そして、彼が人間として暮らしていた頃の証拠である自室の家具が処分されていき、ザムザが人間として暮らしていけなくなる外堀がどんどん埋められていってしまうのがつらい。
本作では主人公の姿が変わってしまった理由などを分析することはなく、ザムザとその家族がどういう結末を辿るかを淡々と描いている。
まあ正直、巨大なおっぱいと巨大なゴキブリとではどちらに嫌悪感があるかと考えればそれはもう圧倒的に後者である。
かといってザムザがおっぱいになっていたとして家族の対応が軟化したかというとそれは怪しいところだ。
でもザムザもいくら何でも優しすぎると思った。
虫になってて人間に戻る見込みがないんだからもっと開き直ればいいし、家族のことももっと憎めばいいのに。
運命を甘んじて受け入れているのは何でだろうと思ったが、やはり乳房になった男と同じで人間として超えてはいけないラインがあるということなのだろう。
それにもしも自分以外の家族が虫になっていたとしたら同じような態度を取らないとも限らないだろうし。
4月は漫画も小説も含めていろんな"変身"を読んできたけど、何に変身するかが異なるように周囲の対応も作品によってまるっきり異なった。
BLEACH47巻の巻頭ポエムを突然思い出したので貼っておく。

君が明日 蛇となり
人を喰らい 始めるとして
人を喰らった その口で
僕を愛すと 咆えたとして
僕は果して 今日と同じに
君を愛すと 言えるだろうか

外套・鼻

同じくこちらも『乳房になった男』にて挙がっていた作品。
よく考えたらロシア文学はかなり昔に『カラマーゾフの兄弟』を挫折して以来だった。
ロシア文学の何が難しいって、とにかく人物の名前が覚えづらい。
でも表題作『外套』の主人公である"アカーキイ・アカーキエヴィッチ"は妙に語呂がよくて気に入った。
変身ものとして有名な『鼻』であるが、自分は『外套』がかなり好みの作品だった。
『外套』は冴えない役人であるアカーキイ・アカーキエヴィッチが古くなった外套を新調したことを機に、哀れな運命に巻き込まれていく作品となっている。
変わり映えのない生活をしている彼が、外套を買い替えると決めてから日々わくわくしているあたりが洋服好きな自分としては非常に共感できる。
仮に外套を購入した彼が悲劇的な結末を辿らなかったとして、新しい外套もいずれ日常に埋もれてありふれたものになってしまうだろう。
だからこそ、外套に代わる次なるものを見つけて生活に彩りを与えることが大事なんだよなあ、って結論に至ってほしかったと勝手ながら思っている。

2026年3月に読んだ本

ネットを見ていると自称オタクの人が、オタクでないのことを「一般人」と呼んでいることがある。
自分が好きな分野の知識がない人というニュアンスで使っているのだろうがそれなら「非オタク」とかでもいいわけで、このあたりに自称オタクの気色悪い自意識を感じるなあと常々思っている。
自分たちのことを「一般人」でないと思っているのが最高に痛々しく、その趣味にどっぷり浸かっていること、その界隈に属していることが「一般人」とは一線を画すのだと思っている選民思想も見るに堪えない。
もちろんだがここで言うオタクとは別にアニメや漫画に限ったことではなくどの分野にもいるため割と見る機会が多くてみっともない。
こういうオタクはYoutuberが結婚を発表して「お相手は一般の方です」とコメントを出した際、「お前も一般人だろうが」などと冷笑気味に言うのだろうがそういうお前も普段同じようなことをほざいているのだ。
2月と3月は忙しくまとまった読書の時間が取れないため、読んだものは漫画のみとなる。
一応ネタバレ注意で。


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↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

ONE PIECE (114)

ヒノキズの男の話が出てきたとき、今まで匂わせもされなかった新しい要素が突然出てきたなあと思ったが、「デービー一族」という新ワードがさらに登場するとは思わなかった。
バッカニア族やルナーリア族とは違って特異体質があるというよりは存在自体が罪という扱いのようだ。
ジョイボーイとも関わりがあるようなので、世界政府によって歴史を歪められ忌むべき存在みたいにされた人たちなのだろう。
113巻でロックスがデービーバックファイトを繰り返して仲間を集めていたというくだりがあり、ロックスが「デービー・ジョーンズの崇拝者」と言われていたが、崇拝者という言葉の使われ方がなんか唐突で不自然だなと思っていたがそういう背景があったようだ。
デービー・ジョーンズという名前は海賊の世界では有名なようで、パイレーツ・オブ・カリビアンにも出ていたような気がする。
しかし、20年前に本編に登場したデービーバックファイトがここで日の目を見るとは予想もしなかった。
フォクシー海賊団の登場は32巻、デービーバックファイトが本格的に開始されたのが33巻、空島とウォーターセブンの間のエピソードで、しかもその後に青キジが初登場するというインパクトですっかり存在感が薄くなってしまったデービーバックファイトであるが、まさか再び注目される日が来ようとは。
デービー・ジョーンズについては当時ロビンが説明しており、「悪魔に呪われて深い海底に今も生きていると言われる伝説の海賊」「海底に沈んだ船やお宝は甲板長だった彼のロッカーにしまわれる」とのことだった。
悪魔をイム様だとするとデービー・ジョーンズが生きている可能性だって考えられなくもない。
そもそも、デービー・ジョーンズの船であるフライング・ダッチマン号も魚人島で出てきたわけだし。
他、気になった点としては、エッグヘッド編でくまの回想に登場し奴隷の手錠をかみ砕いた魚人が誰なのか気になっている。
今回のゴッドバレー編で回収されると思っていたがそんなことはなかった。
ブルックと軍子のくだりもなかったし、ゴッドバレー編でかなり重要な話が展開されていたがまだまだ残されたものは多そうである。
また、シャンクスがロジャー達に拾われるシーンもあったがあの場面は先行してFILM REDで描かれており、さらっと描写されていたがかなり重要な場面の後だったことがわかる。
ONE PIECEの映画版は本編でも未登場な要素をさりげなく登場させることがあり、STAMPEDEでは「ラフテル」の綴りが明かされ、FILM GOLDでは覚醒した悪魔の実の能力者が初登場した。
本編の展開がかなり極まってきた昨今、次回の映画も重要な要素が登場するかどうかに注目したい。
そして、個人的には今回出番の多かった金獅子のシキをアニメに登場させる際、声は引き続き竹中直人さんが担当するのかどうかが気になる。
ワノ国だかどこかの回想でシキが再登場した際は竹中さんが続投していたが、あのときはサラっと登場しただけだし、今回のゴッドバレー編のように出番が多いと事情も違ってくるのかもしれない。
シキのカッコよさは声によるところも大きいので、ぜひともがんばってもらいたい。

さむわんへるつ (2)

自分は元々恋愛漫画は読まないのだが、この年齢になってくると子供の恋愛模様でいちいち一喜一憂していられない。
とはいえひとつのワイヤレスイヤホンを二人でシェアしたり、インスタントカメラを初めて購入してみたりするシーンは、昭和平成と令和の恋愛のハイブリッドという感じで見ていて微笑ましい。
恋愛漫画って価値観の押し付け合いみたいに感じて疲れる作品もあるんだけど、本作は絵柄も相まって二人ともかわいらしくて、要所要所に差し込まれる海月のふてぶてしい顔もなかなかツボだ。
また、2巻は同時期にジャンプで連載していた『呪術廻戦モジュロ』とのコラボイラストカードが限定でついてくるのもうれしい。
まあ間違いなく本作はアニメ化するでしょう。

ルリドラゴン (5)

今回は全体的に真剣10代しゃべり場みたいな回だった。
ルリがみんなにまだ話していないドラゴンの話をしたり、自分がドラゴンの力を有していることについて意見を聞いて回ったり、まあこういう展開に対してやたら物わかりの良いクラスメイトがずっとごちゃごちゃ討論をしているみたいに思っている人もいるだろう。
でも自分としては、ようやくルリが己の人生に当事者意識を持ってきた感があると感じている。
「分からないこと分からないままにしたくない」「わたしには知る義務が、皆には知る権利がある」と、ドラゴンであることに向き合いつつ、クラスメイトにも知ってもらうための努力を始めたルリは、物語開始当初の流れに身を任せてきた彼女からすれば大きな変化であると言える。
だからこそ毎回言っている気がするが、とにかく本作の大人は大人をしていない。
本作においてルリのフォローをしてくれる大人は母親と、ドラゴンの生態を把握している政府機関所属の担任の先生だ。
彼らの行動はとにかく場当たり的で、ルリのドラゴンとしての新たな体質や能力が発現するたびに慌てて対応をするということが繰り返される。
まあ最初から全ての事態を想定済みで先回りして潰していくような展開では物語的につまらないのはわかるが、それにしても本作における大人はアンニュイな顔で悟ったようなことを言ってばかりで全く頼りにならない。
特に母親の振る舞いには目も当てられなく、ルリが初めて教室で火を吐いた後の親子の会話が今巻で明かされる。
母親としては普通の人間として育つと思っていたらしく、ドラゴンとのハーフであることは話すつもりもなかったとのこと。
あまりにも杞憂が過ぎて子供に余計な不安を与えたくないという気持ちはわかるので、ここは一概に責めることはできない。
だが問題はその後で、「ルリが聞きたいって言ったら話す」「でももしまた異変起きたらその説明は強制執行」と言っているのだが、何を悠長なことを言っているのかと。
ルリが教室で火を吹いて、髪を焼かれてしまった吉岡の弁によると「俺は髪が焼けたことは何も怒ってないって言ったけど、もし今後同じことがあったらそれがあると分かってて避けられなかったってことになる」とのことだが正にその通りで、火を吹いたときは惨事にならなくて済んだけど、ドラゴンの力が人を害する可能性がある以上はこの時点で大人たちはルリに全てを話すべきだったのだ。
ルリの意思を尊重したいというのは物語都合のただの詭弁であり、大人たちが彼女に後出しでドラゴンの生態を公開していくことが続くと、それこそルリの意思とは関係なく学校を去ることになり今と同じような生活ができない可能性もあるのだ。
吉岡はその後「俺がもう少し深く頭焼かれてたら、青木はもっと責苦に遭ってたんじゃない?」とこぼすが、よっぽど彼のほうが大人たちよりしっかりしている。
初回の火吹きで被害が少なかったのはあくまでもラッキーだっただけで、その後も対応が後手後手に回ってしまった大人たちは情けないとしか言いようがない。
まあ先ほども言ったように、有能すぎる大人たちを描いても物語として面白いかは疑問なので難しいところだが。

平成敗残兵すみれちゃん (9)

今回の話は展開が非常に好みで、これをきっかけに単行本の購入を決意したくらいだ。
以前すみれちゃんがすしカルに言っていた「一回負けたくらいでゲームオーバーなんて人生はそんなクソゲーじゃない」「負けてもまた挑戦すればいい」という発言を、自分と雄星との関係にもあてはめているとは思わなかったので、完全にすみれちゃんの覚悟が決まっている。
雄星はまだ高校生なので、仮に失敗してもすみれちゃんが掲げる再挑戦理論を実行する時間は十分にある。
だからすみれちゃん自身はどうなってもよいと思っていて、自分をプロデュースした経験を糧に雄星がまた挑戦してくれればそれでよく、我が強くステージでは爪痕を残さないと気が済まないすみれちゃんがここまで自己犠牲極まった考えを持っているなんて完全に予想していなかった角度からの覚悟だった。
以前に雄星の母親にも言われた「挫折した"今"は負けた人を真面目にやってない?」という言葉にも関連しているというか、やけくそになっている部分もあるかもしれないと思ったけどさすがに杞憂だと思いたい。
とはいえ雄星としてもすみれちゃんを自身の成長の糧として消費する気はなく、自分が憧れた格好いいすみれちゃんをみんなに見てもらいたいという気持ちは変わらず、事務所を立ち上げる決意をするのもまた熱い。
また、今回は作者さんがネットで「この漫画は登場人物の性別を逆転させたらヤバイ」という書き込みを見たことをきっかけに描かれたおまけ漫画も収録されている。
こちらもかなりパンチの効いた内容になっているので、おまけ漫画だけでも買いの一冊だ。

一級建築士矩子の設計思考 (5)

本作の作者さんは同名義で18禁漫画を描いていたことがあるのだが、以前にネットで「過去の絵柄から比べると随分と湿り気が減った」との意見を見たことがある。
自分もこの漫画の1巻が出たときに作者さんについては調べてみたが、そう言われて改めて見てみると最初の巻ではまだ湿度が残っている絵柄だった。
今の絵は割とシンプルになっている気がするし、人物よりも建築を見せたいのかなと思った。
あずまんが大王の後半と「よつばと!」の序盤が同じ絵柄で、その後に出たあずまんが大王新装版の書下ろしおまけの絵が「よつばと!」の絵柄と同じだったことを思い出す。

二階堂地獄ゴルフ (12)

二階堂が巻き戻し能力をフルに使ってプレーしている姿が初めて描かれているわけだが、二階堂視点と能力を知らない第三者からの視点とで描かれているため、彼の能力がゴルフにおいてどれほど脅威かよくわかる。
それゆえになぜ今まで二階堂がプロテストに合格してこなかったか、もっと言えば不正が疑われる可能性があり、次回以降ではどうにもそういう展開になるっぽい。

新機動戦記ガンダムW (1)-(3)

かつてコミックボンボンで連載していたときた洸一先生版のガンダムW。
ガンダムWは初めて視聴したガンダムシリーズなので思い出深く、本作も熱心に読んでいた。
ストーリーを3巻にまとめているのではしょっているところがあったりアニメと少々違う展開があるのは仕方がないので、大まかな話の流れを漫画版で知るのもよい。
個人的に嬉しかったのは、同じくときた先生がボンボンで連載していたガンダムの4コマ漫画も併録されていたことだ。
既に持っているG-UNITの新装版単行本には4コマ漫画が収録されていなかったのに、本書と一緒に入手したG-UNITの旧版単行本には載っていたので、そちらと合わせて非常にノスタルジックな気持ちになった。
本書も新装版が刊行されているらしいが、もしかしたらそちらにも4コマは収録されていないかもしれない。

新機動戦記ガンダムW BATTLEFIELD OF PACIFIST

アニメ本編とエンドレスワルツの間を繋ぐオリジナルストーリー。
エンドレスワルツ冒頭でガンダムを破棄することにしたヒイロたちが、そもそもなぜその結論に至ったのかが描かれる。
本作は当時、知らん雑誌に掲載されていてそちらが休刊かなんかになったことでストーリーの後半がボンボンの増刊号みたいなやつに掲載されてたと記憶している。
そのためボンボン読者からすると突然知らんガンダムWが始まって困惑したし、ストーリーの前編部分がどこかで読めたわけでもなかったので、自分は長らく全編通して読まずにいた。
本作に登場するオリジナルMS「スコーピオ」とそのパイロットの「ビクター・ゲインツ」はGジェネFで登場し、これまたマニアックな人選だなと思ったものである。
脚本を担当した人によると本作の隠れキーワードは「支配」であるとのこと。
そしてカトル曰く、ビクター・ゲインツの平和論には他者への不信感があり、武器を持つ他者を信じられなかったとのこと。
ビクター・ゲインツはガンダムのパイロットたちに対して「お前たちが暴走した場合は誰が止めるのか」と投げかけていたが、まあ冷静に考えてみれば兵器の廃絶が進んでいる世界でどこの馬の骨とも知れん人らがガンダムという強大な力を持っていれば信用できんのも当たり前である。
人間は相手を信用できないから相手を支配したがるというのはトレーズが持ち続けていた課題であったが、ガンダムパイロットの少年たちは他者を信じられるからこそガンダムを手放す決断をしたのだ。
唯一それをしなかった五飛がどういう選択をしたのかはエンドレスワルツで描かれることとなる。

新機動戦記ガンダムW Endless Waltz

エンドレスワルツのコミカライズ版。
上2作品と同じくときた先生が描いている。
正直、「Endless Waltz」というタイトルの時点で本作の勝ちは決まったようなものだ。
繰り返される「戦争」「平和」「革命」を三拍子のワルツに例え、そこから導き出されたタイトルなんて最高にカッコいい。
基本的に展開はアニメ版と同じだが、上記で紹介した『BATTLEFIELD OF PACIFIST』に絡めた漫画オリジナルのやりとりもちょっとだけある。
改めてEWを見てみると、五飛の気持ちはわかるけどまあまあタチが悪いというか、ガンダムという力を持っているからこそ余計に始末に負えないというか、でも力がなければ主張したいことも主張できないよなとも思うしよくわからない。
彼の言う通り、与えられるだけでは真の平和は訪れないし、平和は自ら掴み取るものという理屈はわかる。
兵士たちは平和のために戦ったのに庶民は安穏と平和を享受するだけで、今度は無責任に兵器廃絶を叫んでいる姿を見ると、あいつらは何のために戦ってきたのかと、戦死者の数を覚えていたトレーズが成したかったことはこんなことではなかったと五飛の正義が燃えたぎるのも無理はないだろう。
五飛も平和が嫌いなわけではないけどあくまでもそれが正義かどうかで行動しているもんだから、他のガンダムパイロットたちにもお前らもっと遮二無二になって考えろよと苛立っていたに違いない。
一応ガンダム本編で完全平和エンドになったのはこれと00くらいだろうか。

風子のいる店 (1)-(4)

岩明均先生のデビュー作。
主人公の有沢風子は吃音であるゆえにクラスに馴染めず疎外感を感じていた。
そんな彼女が逃げ場所を求め、そして内気な性格を変えるために始めた喫茶店のバイトを通して成長していく様を描いたお話。
「置かれた場所で咲きなさい」みたいなことを言っていた人がいたが、どうせ置かれるなら場所くらい自分で選びたいよなあと本作を見ていて思った。
自分に合う場所はきっとどこかにあるからそのために長所を伸ばしていけ、ということを投げかけている漫画で、風子も喫茶店の客や一緒に働く人たちからその姿勢を学んで自分に合う道を探していくことになる。
勉強が必要なのってそういうわけで、勉強によって培われたある程度の学力や計画性がないと場所の選択肢が少なくなってしまうのだ。
岩明先生はこの次に寄生獣を描くことになるのだが、本作の絵柄もまんま寄生獣なので寄生生物との親和性がありそうな世界観にも見える。

純潔のマリア (1)-(3)

百年戦争中のフランスを舞台に、戦嫌いで戦場をかき回す魔女・マリアを描いた作品。
アニメ放送当時に視聴しており、最近思い出して単行本を購入した。
アニメ版はキャラクターがもうちょい多かった記憶があるが、原作を読んでみるとどうやら登場人物の多くはオリジナルだったらしい。
視聴中は特に違和感を覚えなかったのだが、原作ファンからするとあのオリジナル展開はどう受け取られたのだろうか。
マリアは戦争を引っ掻き回したせいで天界から目をつけられて天使の偉いやつに説教を受けるのだが、こういう上位存在が言うことは「お前のやっていることは自己満足だ」と相場は決まっている。
あっちでもこっちでも人は死んでいるのに手の届く範囲しか救わないのかと問う天使であるが、救える範囲しか救わないのは自己満かもしれないがすべてを救えないからといって何もしないのは極端でしかない。
上位存在である天使からすれば戦争で人が死ぬのはこの世の理であり秩序、マリアのような存在が戦争を止めるのは無秩序であるという理屈なのだが、今を生きている人間にしてみれば目の前で人が死んでいるところを秩序だからと黙って見ていることはできない。
というか秩序云々も上位存在側の理屈で、戦争も人が死ぬのも秩序ですなんて言い分はどうあっても人間には受け入れることができないので論じる時点で平行線だ。
BLEACHの1巻でルキアが「死神はすべての霊魂に平等でなければならない」「手の届く範囲、目に見える範囲だけ救いたいなどと都合よくいかない」と言ったのに対し、一護が「人が体を張るときは理屈じゃない」と一蹴するシーンがある。
そして6巻において有名な名言「おれは山ほどの人を守りたい」に繋がるわけだが、まあこれも上位存在からすれば屁理屈なのだろう。
結局マリアは「戦争を止めて他人に幸せを与えたいならまずは自分が幸せを知ること」「一人一人が自分の幸せを見つければ世界は平和になる」という結論に達するのだが、それに対して天使が「多くの幸福と己の幸福の天秤は己の幸福に傾いたか」と返すのが最高に性格が悪くて人間臭い。
アニメで見たときはマリアが単なる小娘にしか見えず、彼氏ができたからって何言ってんだと思ったものだが、こうしてちゃんと向き合ってみると真っ当なことを言っているし上位存在との話が通じない感も半端ないので彼女の答えは支持したい。
平和も幸せも自らつかみ取るもの、という結論は奇しくも上で紹介したガンダムWの結論と被るところもあるわけだった。

純潔のマリア exhibition

マリアと本編で関わりのあった人物の、前日談や後日談が収録されている。
キャラクターに厚みが出るのでせっかくなら読むことをお勧めしたい。
ところで使い魔たちのその後は本編でもこちらでも描かれなかったわけだが、マリアが魔女の力を失った今、使い魔たちもただの動物に戻ってしまったのだろうか。

僕といっしょ (1)-(4)

先坂すぐ夫・いく夫の兄弟は母親の死後、再婚相手であった父親から養育放棄されたことをきっかけに東京へ家出をする。
そこで出会った伊藤茂(イトキン)、進藤カズキらをはじめとする同世代の少年少女との交流をきっかけに「人生とは何か?」を問うギャグ漫画。
作者の古谷実さんと言えば稲中卓球部が有名だが、自分が稲中しか読んでいないことに気付き、とりあえず全作読むかと思って揃えている最中だ。
なんか、この作者と言えばこれ、みたいな作品ってあるんだけど、それしか読んでないというのもなんかつまらんし、「これしか知らんけどこれが好き」よりも「これもこれも知ってるけどこれが好き」の方が説得力があると思うのだ。
同じ理由で岩明均さんの漫画も上で紹介した『風子のいる店』で全作読み終わったところである。
本作は稲中の次の作品であるが故にギャグ描写も稲中が好きな人ならハマるだろうし、稲中の登場人物である井沢・田中・サンチェも作中にちらっと登場している。
しかしギャグマンガの体を取っているものの毒親、同性愛、売春などの要素がさらっと登場しては消えていくドライ目な話でもあるのだ。
なんか稲中以上にどうしようもない話であり、イトキンや先坂兄弟はとある縁から床屋を経営する吉田一家に世話になることになるのだが、彼らは食い扶持を稼いでくることもなく吉岡家の穀潰し的な感じで居候に甘んじている。(弟のいく夫は小学校に通わせてもらっている)
吉田父の日記を盗み見て貯金が底を尽きそうであることを知って良心の呵責に苛まれ家を離れることを決意するも、結局は戻ってきてしまう始末。
だけど、彼らのことをどうしようもないクズとして憎み切れないのは、まだ中学生そこらの年齢であることと、家庭環境が壮絶であったこと、そして吉田家に来た彼らが楽しそうだからなのだ。
イトキンはかつて日常的にシンナーを吸っていたがそれもしなくなり、シンナーを吸っていたのは「淋しかったから」とも明言しているし、なんならその後ではこの暮らしで価値観が変わったとも言っているのだ。
すぐ夫も、自分が素直に喜べないのは周りの目を気にしているから、そして他人はすぐ裏切るからという思いを持っており、つまらんこだわりのために幸せをスルーしてきたと述べているものの、イトキン同様に楽しそうな毎日を送っている。
当初は橋の下でホームレス暮らしをしていたほど生きるのに精一杯だった彼らが吉田家に来て普通のことで悩むようになる姿が、どうにも憎み切れず愛おしく感じてしまうのだ。

わにとかげぎす (1)-(4)

スーパーの夜間警備員をしている富岡ゆうじは32歳にして、今まで友達や恋人と呼べる存在がおらず無為な人生を送ってきたことに気が付き後悔する。
一念発起して友達を作ろうと決意した後、勤務先のスーパーのドアに脅迫文が挟まれていたことを皮切りにいろいろな事件に巻き込まれていく。
富岡は孤独を"罪"と捉えており、今までの不誠実を一気に清算するつもりで行動を起こわけだが、まあ孤独は必ずしも罪ではないと思うけど、彼の言うように現実から逃げ続けてきた結果の孤独ならまあそうとも言えなくはないかなと。
自分の感覚だと古谷漫画に登場するキャラクターっていきなり突拍子もない暴力を振るいそうな印象がある。
本作にも不良やそれ以上の悪い人は登場するわけで、次のコマでは登場人物が酷い目に遭うんじゃないかみたいなことを危惧しながら読んでいたが、一応はハッピーといえるエンドを迎えていた。
本作は上で紹介した「僕といっしょ」から何作か経たあとの作品で、古谷漫画を読んできた人に言わせるとこのあたりの作品は「孤独な男の前に美女が現れて人生に転機が訪れ、なんか不良とかも話に絡んでくる」みたいな展開が多いらしい。
確かに本作も富岡の隣人の羽田さんが彼に好意を抱いており、彼女との出会いをきっかけに富岡の人生に光が差してくるという話である。
まあ他の作品は知らないので置いておくとして、本作だけで言うと「依存先は多いに越したことはない」と言いたい。
富岡の人生に転機が訪れたのは確かに羽田さんのおかげなわけだが彼は羽田さんのみに孤独の解消を委ねているわけではなく、今までは一人で警備員のバイトをしていたのが、最終話ではレンタルビデオ店で同僚と会話をしながら働いている。
孤独に限らず他のことでもそうだが、精神の安定を何か一つに頼ってしまうとその柱がなくなったときに自分を支えるものがなくなってしまうので、寄りかかれるものはたくさん用意しておくに限る。
まあ都合よく美女が現れて人生変わるわけないじゃんみたいな意見もあるだろうが、やはり異性というのは孤独や欲求を満たしてくれるわかりやすい要素であるため用いられるのもやむなしだろう。
また最終話、高所から飛び降り自殺を図ったと思われる人物のコマが意味深に挿入されているが、これはまあいろんな解釈ができると思う。

  • 心情的に死んで生まれ変わった富岡の暗喩
  • 孤独を解消するという目的を果たしたから死んだ富岡
  • 孤独に耐えられずに死んだ別の誰か

などの解釈ができるだろうが明確な答えはなさそうなので、自分としては富岡の人生が良き方向に向かってほしいなと思う。

2026年2月に読んだ本

先日、フリマサイトにとある作家の単行本が一斉に出品されたことがあった。
自分が見たときにはあらかた売り切れており、中には数分で売れたというものもあったようだ。
昭和や平成初期に出版されたもので写真を見る限り状態も非常に良さそうである。
出品者の情報を見ると身内の大切にしていたものを出品しているとのことだったので、元の持ち主が本を大切にする人であったことが伺えた。
以前、作家の荒俣宏さんが蔵書を一斉に手放したというweb記事を読んだことがある。
曰く、病気を機に今まで住んでいた戸建てからマンションへ奥さんと一緒に引っ越した際、本を500冊だけ持っていくことにして残りの2万冊かそこらは手放すことにしたのだそうだ。
ところが引き取り手が見つかったのは半分で、残りは産廃業者に処分してもらったのだとか。
蒐集した本の中には世界に一冊しかない貴重なものまであったそうなのだが、古本屋でも買い取ってもらえず、図書館に寄付を申し出るも断られ、泣く泣くゴミとして処分することになったとのこと。
自分も自分なりに欲しい本を手に入れるためにあちこち探し回って、かけがえのない自分だけの本棚になっているという自負はある。
でも荒俣さんクラスでもこの有様なんだから、自分の集めた本って将来どうなるんだろうと思った。
本好きにとって本を手放すことは確かに悲しく苦しいことだが、それよりもその本が誰とも繋がらなくなることがつらい。
自分の手を離れてもまた別の誰かの手に渡ってくれれば何らかの形で本は残るが、捨てられてしまえばもはやそれまでなのだ。
おそらく自分は独り身で一生を終えるだろうから、本だけじゃなくてコツコツ集めた愉快なものの処し方も考えておかねばならんなあと思うのであった。
2月と3月は忙しくまとまった読書の時間が取れないため、読んだものは漫画のみとなる。
念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

チェンソーマン (23)

この記事をまとめている間になんと最終回を迎えてしまったチェンソーマン。
最終回の展開は賛否両論の否が多めと言った感じだが、それについては単行本が発売されてから書くことにする。
今まで自分自身や自分のしてきたことからなるべく目を背けてきたアサが、親殺しと向き合っただけではなく、ためらうことなく自分の頭を吹き飛ばしたあたりに成長を感じた。
以前もヨルの企みを阻止するために同じようなことをしようとしたが、その際は怖くてできなかったことだ。
父親を見殺しにしたことを思い出しただけでなく、自分の身体でヨルが取り返しのつかないことをしたこと、そして身体を共有しているだけにヨルの説得が不可能であることを理解した上での行動である。
そして、アサについている悪魔が邪悪なら俺とポチタでぶっ殺してやると言い、親殺し同士の仲間を組んだデンジは最高に主人公していてカッコよかった。
精神世界でのデンジはずっと子供の姿だったけど、アサと親殺し仲間になったときは今と同じ姿になっていて、あれは今までモテたいとかセックスしたいとかうまいもん食いたいとか自分のことばかり考えてきたデンジが、ようやく人のために心から何かしたいと思えた精神的な成長を表しているのだろうか。
その後のページで、私はお前とは違うとチェンソーマンに言い放ったヨルとも対比になっていて見応えのあるシーンだったし、今までのデンジとアサの関係性が帰結したようでクライマックスにふさわしいと言える。
そういえば、親殺し仲間のくだりでデンジは父親を殺したことを笑って話していたが、そもそも第一部では親殺しをトラウマにしており、精神世界の扉の向こうに記憶を封印していた。
アキやパワーやレゼの記憶はポチタが食べてたっぽいから忘れてたけど、親殺しのトラウマもポチタが食べていたのだろうか。
また、シーちゃんが飢餓の悪魔を名乗っていた頃からギロチンの悪魔を使役していたけど、あれは正体が死の悪魔であったことの伏線だったのだろう。

ジュミドロ (7)

ほとんどバトルでかなり読み応えがあった7巻。
ラムネの剣がキーアイテム的扱いをされていたのだが、彼女がずっと同じ剣を持っていることに今さら気付いた。
読み返すと3巻でスノウが持ってたものをずっと使ってたっぽいがスノウはどこで手に入れたのだろうか。
たぶんラウディが持ってたやつを倒したときに拝借したっぽいけど、指輪騎士の剣は円環の付与による斬擊を防げるので持っとくのはアリではある。
さて、今回はラムネの正体らしきものと、ラムネが昔いたコロッセオ興行主の目的の端っこが見えた感じだった。
まだそれらの全貌は明らかになっていないが、ラムネと指輪騎士をぶつけるのが興行主の目的なのであれば、彼女がコロッセオからの移送中に事故に遭って外に出られたのも偶然ではないということだ。
7巻も続いていてしかも主人公なのにラムネの底が全く見えず、今回は演出も相まってかなり不気味に描かれていた。(ラムネは自分のことを何も知らないので、底を見せないのは作者の意図)
ラムネは戦いばかりの人生でこれから色んなことを知っていくキャラクターとして描かれているが、読者としても彼女についてはまだまだ知らないことだらけである。

シルバーマウンテン (1)-(3)

藤田和日郎先生の最新作。
85歳の整体師兼武道家・拝郷銀兵衛は、天狗に年齢を奪われ10歳の身体となり異世界「仙境」へ送られてしまう。
同じく天狗によってこの世界に飛ばされてきた佐伯兵頭と、元の世界に戻るための手段を探すというストーリー。
自分は恥ずかしながらこの作者さんの作品に今まで触れたことがなく、というかサンデー系の作品をあまり読んでこなかった。
まともに読んだと言えるのはパトレイバーくらいのものだろう。
さすがに何十年も第一線で漫画を描いてきた人は違うなあと素直に感心する作品である。
言ってみれば最近の異世界転生的なよくある話であり、武道の達人である老人が若返って異世界に転生し、剣と魔法のファンタジー世界で無双するみたいな流れなのだが、何回と見たような題材でも料理する人が違えばここまで見応えのあるものに変わるのかと漫画力(まんがちから)に圧倒されながら楽しく読んでいる。
こういう、ファンタジーとかSFのような世界観がキモな作品ってまずは作品世界を読者に知ってもらわないといけないのだが、長々と説明していては飽きられてしまうし、かと言ってペラペラの設定や説明では没入感を損なうしどこかで見たような世界の焼き直しになってしまう。
昨今のなろう系的な作品のいいところは世界観の説明をしなくてもよいところであり、レベルだのステータスだのスキルだのといった現実に存在しない概念を「なろう系」という価値観に内包しているが故に、何というか「なろうの二次創作」みたいな感じになっていてとっつきやすくはある。
また、あくまで素人が投稿する小説サイトなので、文章力に自信がなくてもなろう系という下地があれば世界観の説明に時間を取られることもない。
別になろう的なものがダメと言っているわけではなく、あれはあれで世界観の説明としては最適化されたパッケージだと思う。
一方で本作は世界観や用語の説明で物語の勢いを削ぐことがなく、読んでいて中だるみしないし、ただ単に世界観の説明だけでは終わらない場面も多々ある。
例えば、3巻の後半で命を落とした人物の復活の儀式が行われるのだが、儀式を行いつつ儀式の説明をしつつ、さらに主要人物の過去語りまで挟んできてキャラに深みを持たせるという、一つの場面でどんだけのことを同時進行するのかという展開は誇張抜きでページをめくる手が止まらなかった。
本作は連載でも追っているのだが、単行本で読むと物語のテンポの良さが更に伝わってきて違った楽しみ方ができる。
これを機に作者さんの別作品も追いたいと思っているが、本棚に空きがないので困っている。

ニセモノの錬金術師 (5)

今回で鏡の世界編が終了した。
原作者さんがkidleにて公開していたネームを読んだのはたぶんこのあたりまでだったと思うし、何なら読んだのはかなり前のことなので展開もあまり覚えていない。
そのため新鮮な気持ちで楽しむことができるし、新キャラのダリアが加わったことで小難しい能力の使い手がまた増え、小難しい説明がさらに増えると思うとワクワクする。
鏡の世界編ではあまり出番のなかったノラやココの今後の活躍も楽しみだ。

不老不死にならなくちゃ

たまたま見つけて久しぶりにジャケ買いをした漫画。
6作品が収録された短編集で、子供から大人になるに当たっての、または大人になりきれない「不安」のようなものを描いた作品だと解釈した。
自分はこの作者さんに「体調不良で仕事を休むとき、職場に電話をかける人」の話を書いてほしいと勝手に思っている。
自分は体調不良でめったに仕事を休んだことがなく、少々の熱であれば仕事に行く。
それは仕事が好きだからとか、休んだら迷惑がかかるとかそういうことではなく、「休みます」の電話をするのが気まずいのだ。
自分はどちらかと言えば仕事を転々としてきたほうで、職場にこれと言って仲の良い人がいたことはない。
別にいじめられているとか邪険にされているとかではなく、職場の人として付き合っているだけなのでこれ以上の関係性を欲したことはないが、気安い話ができる人がいないというのはたまに不具合があることもある。
昔、高熱があってどうしても仕事に行けなかったとき、休むために職場に電話をしたら同じフロアの別の部署の人が出て、自分の部署の人は誰も出勤していなかったようなのでその人に休みますと伝言をお願いしたことがある。
朝っぱらから職場の人から電話がかかってくるということは欠勤なり遅刻なりの連絡であろうとは向こうも察しているだろうし、こいつサボりじゃないかなんて疑われていることもないだろうが、相手の顔が見えない電話というツールの悪いところがこれでもかと出てしまって、今の間は何だろうとか変に思われていないかなとか電話口の人の反応をいちいち気にしてしまった。
体調が回復して出勤した際、電話に出てくれた別部署の人にお礼を言うべきか、でもこっちが気にしてるだけで向こうにとっては何てことないことでお礼を言われても困りはしないかとかいろいろ考えて結局何も言わなかったのである。
作品とは全然関係なくて申し訳ないが、「不安」の形は人それぞれで、漫画という表現手段になったときにこういう描き方もあるんだなとまたひとつ勉強になる作品だった。

新装版 機動戦士Vガンダム (1)-(2)

その昔、コミックボンボンで連載されていたVガンダムの新装版。
最近Vガンダムを見返したので読むことにした。
同時に旧版も手に入れたので見比べてみたが、単行本化に当たってカットされたエピソードが新装版で復活している、実在の人物をモデルにしたであろうキャラクターの名前が変更されている、作者さんのインタビューや過去の読み切りが載っているなどの違いがある。
自分は本作に対してちょっとした思い出があって、初めてボンボンを購入した際に本作の最終回が掲載されていた。
当時はVガンダムについて何も知らなかったので特に感じることはなかったが、後年アニメ版を視聴したときに「キャラクターが全然違うじゃん」と驚いたものだ。
作者さんもインタビューで言っていたが全12話なのは決まっていたということでエピソードやキャラクターの取捨選択には苦労したらしい。
最大の違いはみんなが大好きなカテジナさんが登場しないことで、話数が短い分ウッソとクロノクルの因縁に焦点を置いた話になっているのだ。
ウッソ自体も髪型からキャラクターから全くの別物であり、少年漫画の主人公らしいキャラ付けがなされている。
クロノクルも同様にキャラ変更がなされており、アニメ版のクロノクルもこれくらい元気いっぱいで野心とガッツがあればカテジナさんに見放されることはなかったのになあと思う。

機動戦士Vガンダム外伝

クロスボーンガンダムシリーズでお馴染み長谷川裕一氏によるVガンダムの外伝。
こちらは1995年の単行本だが、2012年に『機動戦士Vガンダム プロジェクト・エクソダス』に改題されたものが現在は刊行されている。
両方ともに『機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス』が併録されているため、内容としては結構満足できるボリュームだと思う。
改題後のタイトルに「エクソダス」とある通り脱出の物語なのだが、誰がどこから脱出するのかと言うと"木星じいさん"こと"グレイ・ストーク"が地球圏脱出を目論むのだ。
偵察に出たウッソが謎のMSに襲われて遭難しているところをグレイ・ストークに救われ、それからの2日間を描いた物語である。
長谷川氏の漫画にはこのグレイ・ストークという老人がしばしば登場し、Vガンダムよりも前の時代である『クロスボーン・ガンダム スカルハート』『クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の七人』でも確認されている。
操縦するMSや本人の発言からして彼がジュドー・アーシタであることに疑いようはないのだが、作中で明言されているわけではない。
グレイ・ストークは戦争ばかりしている人類に嫌気が差し、ニュータイプの子供たちを連れて地球圏を脱出し、そこにコロニーを作って人々が争わなくて済む世界を作りたいとウッソに告げる。
それに対してウッソは、コロニーで生きてコロニーで死んで、本当の地面の上を歩いたこともそよぐ風を感じたこともないだろう彼らの子孫はもはや地球人じゃないみたいだという感想を抱く。
グレイ・ストークは決して現実からの逃避のために地球圏を去るのではなく、コロニーという人工環境を人類が作り出せるまでになったことは、「母なる大地」から離れてどこへでも行けるしどこにでも住めるようになった証であると前向きな考えを持ちつつも、その先でも人類は戦争をやめられないであろうことは何となくわかっている様子だった。
木星帝国の人間が自らを「木星人」であると呼称していたように、地球圏を脱出した人が地球人でなくなってしまったとしたら、違う人種同士分かり合えずに争ってしまうことも避けられないかもしれない。
トビアであれば人間がニュータイプに進化する前に人間が人間のままできることがまだ残っているはずだと言うだろうが、おそらくジュドーも似たような考えを持っていたと思う。
あんなに明るかったジュドーが地球圏に見切りをつけ、しかもニュータイプだけを連れて地球から離れることを決めるなんて、彼の人生にいったいどれだけの絶望と諦観があったんだろうか。

機動戦士Vガンダム外伝 オデロ・ヘンリークからの手紙 (1)-(2)

オデロ・ヘンリークの視点でザンスカール戦争を振り返る作品。
カテジナに撃墜された彼が、死の直前に走馬灯という形で今までに関わってきた人物に触れるという内容だ。
こちらは2024年の作品なので上のVガンダム外伝とは別物である。
自分はそもそも設定がきっちり固まった近年のガンダム漫画に興味はなく、作家がある程度自由に書いていた昔のガンダム漫画が好きなので本作も元々買う予定はなかった。
購入した理由としては「Vガンダムへの理解度が圧倒的に低いことを補うため」である。
前述したように最近Vガンダムを全話見返したのだが、以前に見たのが結構前であったということを差し引いても展開を全く覚えていなくて驚いた。
シュラク隊メンバーの名前やザンスカールのMSの名前がすぐに出てこなかったり、エンジェル・ハイロゥは地球に降下したのかしてないのか記憶があやふやだったり、他の作品は割と覚えているのにどうしてVガンダムだけ曖昧なのか。
それは、「Vガンダムは圧倒的に擦られていない」ということに尽きる。
ファーストから逆シャアにかけてはそれはもう擦り倒されており、こことここの間には実はこんな話があって、こんなMSやこんな人がいたんですよ的な作品が漫画・小説・ゲーム・映像作品など無数にある。
例えその数多ある作品を全て把握していないにしても数が多いということはそれだけ接触する機会が多いということで、各々が自分の中の作品観・キャラクター観を持っていることと思う。
ところが逆シャア以降の時代となると途端に作品数が減り、近年でようやくUCや閃ハサなどが脚光を浴びているもののあのへんも逆シャアからそう隔たった時代ではないのでノーカンと言っていい。
やっぱみんなアムロとかシャアが好きなんだなあと実感するが、それ故に彼らが活躍する以降の時代であるF91やVガンダムとなると興味のない人も多いのではないだろうか。
F91はまあ短いから視聴に時間はかからないしクロスボーンガンダムは名作なので読んだ人も少なくはないはずだ。
しかしVガンダムは全51話と長いし外伝的な作品も上で紹介したものの他に漫画や小説版がちょこっとあるくらいだし、スパロボにもあまり登場しないし擦られが確実に足りていない。
SNSでガンダムオタクであるとイキっている人らの中にVガンダムを最後まで視聴したというやつがどれほどいるだろうか。
ただ一方でキャラクターのインパクトは圧倒的に強く、ガンダム三大悪女の一人であるカテジナさんを筆頭にワタリー・ギラやルペ・シノやバイク野郎など濃いキャラのオンパレードであるため、断片的な情報でそれらのキャラを語るクソイキリドブカスガンダムオタクも少なくない。
まあクソイキリドブカスガンダムオタクは置いとくとしても、ライト層がそれらのキャラクターの断片的情報で満足して本編を視聴していないという点はあるだろう。
クロスボーンガンダム・ゴーストはザンスカール帝国が関わってくるらしいが、こちらはまだ未読であるので早いところ読んでみたい。
さて前置きが長くなったが本作の評価としては「Vガンダムの理解度を深めるにはうってつけ」である。
オデロは全ての話に登場していたのでオデロが知っていることは視聴者も知っているということになるため、いかにオデロ視点のオリジナルエピソードを足せるかが肝だ。
オデロ、ウォレン、スージィがラゲーン空襲で焼け出されてリガ・ミリティアと出会うまで、エリシャとの交流、視聴者が知らないオデロとリガ・ミリティアの人たちの絡みなど、アニメ本編では描かれることのない話が思ったより足されていたが、本音を言えばもうちょいオデロ自身のことを描いてほしかった。
ただまあ個人的にはオデロが死の間際につぶやいた彼と両親との関係について描かれていたので満足ではあった。
1巻は割と薄味でハッキリ言って総集編に毛の生えたくらいの内容であるが、盛り上がるのは2巻である。
特にカテジナさんのことについてはウッソと同じく2話使って描写されているため、オデロにとって敵の代表格はクロノクルではなくカテジナだったということなのだろう。
ガンダム作品の特徴として単純に正義VS悪という図式ではなく、主人公サイドにも敵対している側にもそれぞれ問題があるというのが挙げられるが、Vガンダムってそれがかなりハッキリと感じられる作品だと思っている。
ギロチンやらバイク戦艦やら巨大な脳波コントロール装置やらとんでもないことをやってくるザンスカール帝国だが、個人単位で見ると気さくな人も多かったりする。
クロノクルは寝ぼけてたスージィをトイレに連れてってあげてたし、カテジナさんも最初から頭がおかしいわけではなかった。
この二人だけでなく、ワタリー・ギラもファラ・グリフォンもマチス・ワーカーも戦争に飲まれて狂ってしまった人らなのだ。
一方でリガ・ミリティアの大人たちは打倒ザンスカールを掲げつつも子供を戦争に駆り出し、カミオンの爺さんたちに至っては敵を見逃したウッソを叱責もしていた。
リガ・ミリティアの老人たちは散り際が見事だったから何となく許されてる雰囲気があるだけで、かなり非人道的なことをしている。
そんな老人たちの代表格であったオイ・ニュング伯爵とオデロの漫画オリジナルの会話シーンがあり、そこで伯爵は「今は無理でもいつかはザンスカールを許さなければならない。さもないと人類に未来はない」と述べる。
「憎しみほど人の心に入り込みやすく、こびりつきやすいものは無い。だが憎しみを抱えた心は人々の心を耕すことはできない。だから人は憎しみを手放さなければならない」とセリフは続く。
お前は何を言っているのかと思ったが、正直言って伯爵ならこれくらいとち狂ったことは言いそうである。
人類の未来を担う子供たちを戦争に参加させているような人間に未来を論ずる資格はないし、大人たちが子供を戦争に巻き込んだせいで子供たちの大切な人が殺され、その子供たちも誰かの大切な人を殺し、憎しみの連鎖に巻き込んでしまっているのだ。
オデロはカガチのことを「勝手に人類に絶望して戦争を仕掛けた」と評していたが、リガ・ミリティアの大人たちも子供を戦争に巻き込んでいる点では同じと言える。
でもお互いに自分たちが心底正しいと思って行動しているわけだから、まったくタチが悪い。
Vガンダムを見返してみて、普通の人間が戦争の中で狂っていく様や、個人の信念や美学が戦争の前では何の役にも立たないことがありありと描かれていたことに気付かされた。
繰り返しになるが、本作は自分の中のVガンダム観を物語を通じて深めるには非常にうってつけの作品である。

機動戦士Vガンダム大事典

こちらの書籍も同様にVガンダムへの理解を深めるために購入した。
とりあえずはVガンダムに登場するキャラクターやMSを写真付きで知りたいと考えていたためだ。
設定の固まっている最近のガンダム本を買ったほうがよかったのかもしれないが、こちらの本には富野監督のインタビューが収録されているので買いである。
これは買ってから気付いたのだが、Vガンダムに至るまでの宇宙世紀の年表に加え、各組織の概要(まだゲーム作品にも参戦していないのに「マフティー」の項目があったのには驚いた)などが載っていたのは丁寧でありがたい。
他にも、本編各話の紹介に加えてその話に登場したMSのリストなどもあり、内容としては非常に満足のいくものだった。
さて、さっそくだが富野監督のカテジナさん評を本当に軽くだが紹介しておく。
富野監督曰く、カテジナは「何も考えていない女」「クロノクル程度の男にケロっといっちゃうようなつまんない女」とのことらしい。
確かにカテジナさんって、見た目も良くてお金持ちでそれなりの教育も受けてきたから頭もいいんだろう。
そういう育ちゆえに自己評価が高くて、自分には何かでっかいことができるはずって思って暮らしていた。
カテジナさんの父親はベスパと内通していたわけだが、父親からすればベスパに便宜を図ることが娘を守ることに繋がっていても当人からすれば若さからくる潔癖さからそれを認めることができず、かと言って自分の恵まれた暮らしは父親によるところが大きいから決定的に反発もできなかっただろう。
空襲されたウーイッグを見たとき「この街はこうなってよかった」「特別区の特権にすがっていた人は堕落してしまった」みたいなことを言っていたが、父親に対する感情や自分のやり場のない能力の行き場を求めた発言とも取れる。
その後合流したリガ・ミリティアでなんか劇的なことがあったらいいなあと思ってたけど、老人は子供を戦争に駆り立てるし、ウッソは理想を押し付けてきてウザいし、なんか思ってたんと違うなあと残念がってたところに現れたのがクロノクルだ。
突然現れた白馬の王子様的なクロノクル、しかもザンスカールの女王マリアの弟、これは自分の人生に劇的な変化があるでとウキウキだったに違いない。
ところがクロノクルは女王の弟という立場、モトラッド艦隊の司令官という地位を守るために保身に走る場面が多々見受けられ、大した野心もなく、こいつに付いて行ってもあんま面白くないかなあとカテジナさんは思うようになる。
そんな自分の思惑とは裏腹に戦争は激化して人はどんどん死ぬし、自分も死にたくないから必死で余裕がないところに自分の理想を押し付けてくる子供のウッソやシャクティが目の前をちょろちょろしてたらそりゃうっとおしくもなろうだろう。
だからカテジナさんってエキセントリックな発言が目立つけど、非常に丁寧に時間をかけて狂っていったことがよく分かるし、突飛な発言だけ切り取られて消費されるには惜しいキャラなのだ。
カテジナさんとクロノクルって、見方によればカミーユとクワトロの関係性にも近いと思う。
実力はあるけど常識を知らないルーキーと、そいつを時には厳しく時には優しく見守るベテラン上司みたいな。
ただ、カテジナさんとクロノクルにはウォン・リー的な存在がいなかったのが惜しい。
カミーユを容赦なくぶん殴り、クワトロにも我を通すウォン・リーのような人がいなかったから、カテジナさんとクロノクルは軌道修正ができなかったのだ。
ルペ・シノがそのポジションになることもできたかもしれないが、彼女はウッソのお母さんをやりたかっただけなのでしょうがない。

メトロポリス

メトロポリス

メトロポリス

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手塚治虫のSF作品。
天使のような姿と悪魔のような能力を持ち合わせた人造人間"ミッチィ"の誕生をきっかけに、科学文明の絶頂期である人類がその科学に逆襲される様を描いている。
ミッチィはまさに「悪のアトム」という感じで読んでいたのだが、手塚先生のあとがきによると後にアトムを生み出すきっかけになったとのこと。
なんか、兵器が心を持つ的な展開が大好きですって人は多いと思うし、まあ自分もそうなんだけど、ロボットみんながみんな別れ際にオイルでアイセンサーが霞むような人間に都合の良い感情を持つとは限らない。
ミッチィは自分が人造人間であることを知り、さらに自分と同じように人間に造られたロボットたちが使い捨てられているのを見て彼らを率いて人類に反旗を翻すのだが、ミッチィは自分がみんなと同じ人間だと思ってたときも周囲から邪険に扱われていたとかではなかった。
何ならミッチィと一緒に暮らしていたケンイチくんは、ミッチィの秘密を知ってなお付き合い方を変えないし、何ならミッチィが人造人間であることを(途中まで)誰にも言わなかった。
つまり自分と同じ形のものに寄り添うか、形は違うけど自分に寄り添ってくれたものに寄り添うかの選択でミッチィは前者を選んだわけである。
一緒に過ごした時間を取るか、同じ見た目や中身をしている方を取るかみたいな。

メタモルフォーゼ

メタモルフォーゼ

メタモルフォーゼ

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タイトル通り「変身」をテーマにした短編集。
7話あるうちのほとんどが物悲しい終わり方をしており、変身=変わるということを良しとせず、現状維持に甘んじることを是としてしまうような極端な価値観に染まってしまうところだった。
というか、テーマとされている「変身」にも本作だけでも様々なものがある。
単純に今の自分を変えたいとする変身願望から、自分の意に反して姿を変えられてしまった人、妖怪変化的なもの、現状を打破するために強く変わらざるを得ないものなど、一口に「変身」と言っても多くの解釈がある。
手塚先生自身もあとがきにて、「止まっているものを見るとイライラする」「形が変わっていくものを見ると、生きているんだなと安心する」と述べているが、変化を生きている証とするのは医師免許を持っている人らしい視点だなあと思う。
だけど、前述したように本書の収録作は悲しい終わり方のものが多く、変わったからと言って人生が好転するとは限らないことを教えてくれるものの、じゃあ変化を求めずに現状維持でいるのがいいのかというとそれは手塚先生に言わせれば死なのだろう。
変わることを強制されたり、変わらざるを得なかったりしたのならともかく、変わるか変わらないかを自分で選べるうちはまだ幸せなことだなあとこの年齢になって自覚する。
余談だけど、自分はこの「手塚治虫漫画全集」を初版で集めるという妙な縛りを己に課しているためなかなか作品が集まらない。
版数にこだわらなければいくらでも集められるのだが、初版でしかも状態の良いものとなるとなかなか難しい。
上で紹介した『メトロポリス』も本作も、古い作品なので見つけるのに時間がかかってしまった。

2026年1月に読んだ本

1月現在、YouTubeのジャンプチャンネルにおいてすごいよマサルさんアニメ版が期間限定で配信されている。
マサルは自分に計り知れぬ影響を与えた漫画であり、アニメ版ももちろん見ていたというかアニメで知って単行本を買った。
タイトルロゴの「題字:西村知美」が表示されなかったり、OPにちらっと映る実写のPENICILLIN歌唱シーンが別のカットに差し替えられていたりと、おそらく配信版仕様なのだろう。
また、本編においてもマサルが初対面のフーミンをめそと勘違いするシーンに字幕がなかったり、ティッシュとうまい棒が登場する場面でそれぞれのあだ名がキャラの下に表示される演出もなくなっている。
本編には割と上記のように字幕が差し込まれる演出があったと思うのだが、勘違いだったら誰か教えてほしい。
最近の、特に予算が潤沢にあるアニメはアーティストに原作をなぞった主題歌を歌ってもらうことが多いが、何とは言わんが「これあらすじ歌ってるだけじゃん」というものもあってつまらない。
るろ剣のようにアニメと主題歌の内容が合っていないOPも確かにあるが、マサルのようにそれ用に作られた主題歌でなくても圧倒的なインパクトを残す作品もある。
それでは1月に読んだ作品を紹介する。
ネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

さむわんへるつ (1)

深夜ラジオをテーマにしたラブコメ作品。
高校2年生の梟森未明は深夜ラジオのハガキ職人としてネタメールを送るものの、採用されない日々が続いている。
同じ高校に通っている水尾海月はそんな深夜ラジオの共通の話題で盛り上がるクラスメイトだったのだが、ある日彼女がメール採用率の高い有名リスナーであることを知る。
ジャンプで一話が掲載されたときこれは絶対にハネると思っていたし単行本の発売を待ちわびていたのだが、当初はジャンプっぽくないという評価も目立っていた。
いまや連載順は常に上位であり、ジャンプ新世代の一角にふさわしい作品となっている。
ギャグ漫画そのものではなく、「笑い」をテーマにするのって難しいよなと思う。
バトル漫画のように強さを可視化しづらいし、作中で提示される笑いが自分と合わないこともある。
その点本作はラジオの大喜利コーナーを通して自分も作中の笑いに参加できるため、なんかこう分かってる雰囲気を出すことができる上、ミメイと海月の会話も見ていて楽しい。
あとは二人のボケとツッコミの関係性もいい。
会話においてはミメイがツッコミで海月がボケの役割を担っており、ボケの切れ味もさることながらツッコミのセンスが抜群に冴えているのだ。
海月は同性の友人に対しても同じようにボケるのだが彼女たちはツッコミを入れてくれないため、自分のボケを的確に拾ってくれるのがミメイだけならそりゃ海月もちょっと気になる存在として見てしまうだろう。
現実では対等な関係を築けている二人だが、ことラジオとなると海月のメール採用率は圧倒的に高く、一巻現在でミメイの採用数は一通に留まっている。
ラジオ番組にはメール採用率上位のリスナーを集めた決勝戦があり、海月は出場経験があるものの優勝を逃しており、ミメイの当面の目標はこの決勝に進むことだ。
高い目標、競い合う仲間、まだ見ぬライバルたちの存在、あの子の知らない一面、会話の面白さ、ジャンプ的な要素を盛り込みつつも深夜ラジオという題材と見事にミックスしており素晴らしい。
ここからは本作とは関係のない話になるが、この歳になってもジャンプを読んでいるという話をすると「まだジャンプ読んでるの」という反応と、「ジャンプ読むものある?」という反応がある。
前者はまあ漫画から卒業した人の意見として聞くものの、後者は単に温度差の違いでしかないのに自分に漫画を見る目があるみたいな言い方で腹が立つ。
まず、年齢を重ねれば今まで追ってきた流行のものや仲間内で話題のものを若い頃と同じテンションで追うことは難しくなる。
音楽・映画・アニメ・洋服などなど何でもいいが、自分にとって優先順位の低いものから新しいものを追うことをやめ、ヤングの頃に親しんだものばかりに接するようになるわけだ。
最新の音楽には触れずに自分の青春時代を象徴する懐メロばかりを聴くであるとかがそうだし、他にもおっさんなのに大学生みたいな恰好をしている人は若い頃のファッションで時が止まっているからである。
でもそれは悪いことでも何でもなく人間の可処分時間は限られているわけだから仕方がない。
自分はたまたま当時と同じくらいのテンションで漫画を読んでいるというだけで、「ジャンプ読むものある?」の人は漫画の優先順位が低かったというだけの話なのだ。
こういうやつに限ってたまたま手にしたジャンプの目次を読んで「こち亀ないんか」「ONE PIECEまだやってんのか」とか言い、「知らん漫画ばっかだわ」と言うわけだが、そりゃお前が読んでないんだから知らん漫画ばっかだし、知らんからってつまらんわけでもない。
そして今さら知らない漫画を追うエネルギーもないわけだから、ちょっと黙っといてもらいたい。

カクラバチ (10)

今回は集団戦や乱戦が多く、全体的に作者さんの筆が乗っている感じがして見ごたえがある。
神奈備の中から内通者が続出してかなりのガバ組織であることを露呈したかと思いきや、トップの人にも裏切るなりの理由があったようでそこまでのガバガバでなくて少し安心した。
曰く、神奈備は強力な組織であるができて日が浅いので各地にいる有力な妖術師一族は神奈備に従っているわけではなく、お互いに牽制しつつ安定を保っている。
神奈備に必要なのは「権威」と「力」であり、妖刀でもって組織に箔をつけようということらしい。
チヒロの気持ちとは裏腹に、妖刀と父親の存在がどんどん超えられない大きなものになっていっている。

るろうに剣心-明治剣客浪漫譚・北海道編- (10)

和月先生の体調不良で休載していたため久しぶりの最新刊となる。
前巻はいつだったっけなと思って調べたら、9巻は2023年11月の発売だった。
その頃はアニメ第一期が放送されており、雷十太のその後の描写がよかっただの、御庭番衆の追加エピソードが素晴らしいだのの話をしていた。
ほんじゃあまあ京都編はどうなのかというと原作ファンとしても擁護はしづらい。
警察署長を原作と違う人にしてどうすんのかと思ったら特に思い入れのない署長のオリジナルエピソードを足してキャラを深掘りしだすし、まあなんか京都大火を止めたのは剣心たちや御庭番衆の活躍だけではなくて街の人たちや警察も一役買っていたんだよということにしたかったのは分かるが、そっちに尺を割き過ぎてどうでもいい話を延々と展開されていたので困った。
志々雄ご自慢の甲鉄艦"煉獄"にしても、あんだけドヤってたのに克が作った手投げ炸裂弾3個で沈んだことが散々ネタにされていたためか、炸裂弾は直接の原因じゃないという展開にしたかったのは理解できる。
しかし左之助が二重の極みを使えることを知っててなお、内部から煉獄の破壊に動いている左之助に対してそこらの雑兵や戦闘向きでない方治を向かわせるという采配をしたことにより志々雄が間抜けに見えてしまう。
東京編はよかったのに京都編はなんであんなことになってしまったのかと非常に残念な思いをしているが、北海道編の長期休載があったことも考えると和月先生も疲れていたのかもしれないので、京都編のクライマックスはちょっとがんばってほしい。
さて、今回の最新刊においてはついに剣心の肉体が限界を迎え、昏睡状態に陥ってしまう。
北海道編は毎回なんも考えずに楽しく読んでいたのだが、この展開になってよくよく考えてみたら北海道編で剣心の「闘いの果て」が描かれるかもしれないわけだ。
剣心は「剣と心を賭してこの戦いの人生を完遂する」という人生の答えに達し、不殺の戦いの果てが死か別の形の何かかは分からないが、刀を振るえなくなるときまで戦い抜くと誓った。
OVAの星霜編においてはそんな剣心の戦いの果てが描かれたのだが、あれはまあなんかあんまりだったので、作者である和月先生の手で剣心の生き様が見られるかもしれないと思うと北海道編が急に自分の中で重みを増してきたわけである。

雷雷雷 (6)

人類最強のババアがでてきたが、作者さんは前作でも強いババアを描いていたっぽいのでそういうのが好きなのだろう。
ONE PIECEなんかもそうだが年寄りが強いというのは説得力があっていいし、尾田先生も単行本の質問コーナーで老人の描き方についてなんか言ってた気がする。
でも老人キャラは若い人に道を示しつつ強敵と戦って散るというのも定番なので、本作ではどうなるだろうか。

バルバロ! (3)

振り返ってみると自分の2025年ベスト漫画はこれだった。
自分はあまり毒親系の作品は好まないのでサンプルが少ないし、作者さんの他の作品を読んだこともないのだが、作者さんは毒親ガチの人だと思う。
毒親の描き方が他とは圧倒的に異なり、妙な実感とリアリティーを伴っている。
例えば、登場人物の一人が幼少期を回想するシーンで、母親(ヤンママ)と一緒に母親の友達(ヤンママ)の家に遊びに行く場面がある。
その際に母親が「今から遊びに行くけどあんま調子乗んなよ」と娘に言うのだが、確かに一部界隈の人って「調子に乗る」ことを大罪の如くに捉えているフシがあるなあと思った。
調子に乗った人間はしばいても問題ないというかしばくべきであって、「調子に乗っている」と自分に感じさせたこいつが全面的に悪いのであると考えている。
普通の親でも「調子に乗るな」くらいは言うと思うがはしゃぎすぎているのが明らかに見て取れるような場面で使っており、この母親のように釘を刺す目的であるとか自分が不快に思ったからとかの理由で用いるのは毒親というかヤンキーあるあるだ。
本作には他にも薬物中毒の親、スピリチュアルに傾倒しすぎた親などがでてくるが、ヤンキー的なマインドを持った親の描き方が最も真に迫っているなあと思う。

邪神の弁当屋さん (4)

残念ながら最終回を迎えてしまったが、作者さん曰く打ち切りとかではなく元々これくらいで収める予定だったらしい。
この話はレイニーの贖罪の話だと思っていて、まあ思っているだけで別に作中で明言されたわけではないのだが、自分はそう感じた。
罪の意識を持ちつつもレイニーが作ったお弁当が誰かの心の隙間を埋めることに繋がって、そんなレイニーの周りに人が増えるようになって、隙間だらけの彼女の心を埋めるに至る。
今思うと、誰かが好きだと言ったものをレイニーが決して忘れないのも贖罪の気持ちからなのかもしれないが、でも単純に自分の作った弁当をおいしいって言ってもらえたら嬉しいはずだ。
レイニーの心が隙間だらけだったから、その「おいしい」がハマる余地がたくさんあったのかもしれない。
1巻を読んだときに、この作品は「余白」が良いというようなことを書いた。
絵はシンプルなのだがどこか不穏な空気を漂わせているし、レイニーは表情が変わらなくて何を考えているか分からないし、セリフや何やらで登場人物の心情が事細かに説明されるわけでもない。
だから上記したようなことは自分が勝手に読み取ったことなのだが、余白のある作品はいろんな解釈を想像できるのでやはり楽しい。
また、単行本書き下ろしのおまけエピソードは非常に充実しており、本編から数年後の話も描かれている。
全4巻と手に取りやすいボリュームなので、ぜひ読んでほしい作品だ。

二階堂地獄ゴルフ (11)

亮介をゴルフで打ち破り、不正をやめるよう彼の心に訴えかけるため、巻き戻しの力を再度使うことを決意した二階堂。
いくら周囲に能力のことが露見していないとはいえ、みんなが自分の努力や積み上げてきたものに敬意を払ってくれているとしても、そんな応援される価値のある人間でもないと二階堂は思う。
毒を食らわば皿までという具合で、ならば中途半端なことはしてないで最後の最後まで卑怯をやり切ることを決意したわけだが、やっていることが違うだけで二階堂も亮介と同様に不正をしていることに変わりはない。
それがばれているかばれていないかの違いであって二階堂も糾弾されてしかるべきことをしているのだが、亮介を負かすためという大義名分と、寿命が減るというリスクを背負ってるんだから多めに見ろという開き直りが見て取れる。
このへん、今後の展開で二階堂はどう折り合いをつけていくのかが見ものだ。

はなまる・エントロピー (1)

試し読みをしてみて面白かったので購入したが、正直不安な気持ちもあった。
なぜかというと帯に書いてある文言がしょうもなく、【超草食系男子×バリキャリ女子】とか【「永遠の愛」を探すラブ(?)物語】とか、この文章を考えたやつは本気でこの漫画のいいところをアピールする気があるのか、足を引っ張りたいだけじゃないのかとセンスを疑った。
さてストーリーだが、仕事に前向きな永田千穂と、彼氏の井上捺央のふたりは穏やかに仲良くやっていたのだが、千穂は捺央と一緒にいることに疲れを感じるようになり、自分たちが見ている未来は同じではないのかもと思い始める。
そんな気持ちで朝目覚めると、捺央の身長が13㎝になっていて…というお話。
13㎝のことは一旦置いといて、なんか社会人のお付き合いってこんなだよなあと思わずにいられない。
親の庇護下にあった学生時代とは違ってまずは自分の生活を成り立たせた上で相手のことを考えるわけだし、仕事に対するモチベーションの違いとか、将来に対する意識の差とか、考えることがいっぱいある。
でもまあ、いろいろ大変なことはあるけどこの人とだったらやってけそうかなと思って結婚なり何なりするんだけど、捺央が13㎝になってしまった時点でふたりは対等じゃなくなってしまってるから、一緒に困難を乗り越えていこうとは言えない。
そもそも捺央は身長が156㎝であることに並々ならぬコンプレックスを抱いており、一方の千穂は自分も同じ身長であることに共通点を見出して嬉しくなっているところからも分かる通り、かなり前向きな女性なのだ。
捺央が小さくなった時も、こんだけ小さかったら狭い部屋でも一緒に暮らせるし、旅行も一人分の料金で二人で行けるといったことを思い浮かべていた。
じゃあ小さくなった当人の捺央も同じような性格であればよかったのかもしれないが、彼は身長に起因するコンプレックスからとにかく卑屈で、自分のことは捨てていいとか、自分の世話で千穂が楽しくしているところを見られないのはツラいから別れようなどと言い出す。
これってすごい卑怯な言い回しで、千穂にも捺央の言うことはいつもその場しのぎであると看破されていたが、捺央としては千穂がこんな状態の自分を捨てるわけがないと分かっててわざと言ってるわけだ。
確かに対等な状態でもないし一緒に困難を解決していこうとは言いづらいかもしれないが、「恋人が小さくなる」という極めてイレギュラーな事態に直面した気持ちの置き場のない千穂に対して今の状態でも他にできることはあるだろうと。
ただまあ捺央の気持ちもわからんわけではなくて、彼は自分の仕事(コピー機のメンテナンス)にそれほど未来がないことが分かっていても、低身長は面接で不利だからという理由をつけて行動しようとしない。
身長を行動しない言い訳にしているわけだが、正直言ってこの思考は理解できて、捺央としては身長云々より現状を変えたくないのだ。
大親友のパスタの俺、みたいなことを唄っていた湘南乃風の曲の歌詞にも「馴れ合いを求める俺 新鮮さ求めるお前」というものがあるが、実感として男性は安定を求める傾向があり、それが転じて現状を変えるような新しいことをしたがらない人もいる。
自分一人だけならそれでもいいかもしれないが、パートナーでもいる場合は退屈であるとか向上心がないとかみなされてしまう。
千穂も、社会人になってお金が稼げるようになったら楽しみが広がっていくものだと思っていたけど、捺央といると楽しみのスケールが縮小されていっている感じがすると述べている。
彼女のことが好きなら現状を変えるために飛び出そうぜ!と第三者が言うのは簡単であるが、めんどくさいとかじゃなくて単純にリスクを取りたくないのだこういう場合は。
だってもしも転職に失敗したら彼女が離れていくかもしれないし、男が稼いで大黒柱となるべきという風潮だってまだまだ根強いわけだから、派手なことはできなくても大きな不満もないんなら別にいいじゃんくらいに思っている。
もちろん彼女のことは好きだし一緒に楽しいこともしたいけど、あわよくばこのままの感じで何とかこううまい具合にてな感じだ。
だから、13㎝になってしまった捺央が、どこか解放された気持であることに気が付いたときは確かになと思った。
だってさすがに13㎝になっちゃえばいろんな義務感や焦りや社会の煩わしさから解放される(というか社会に参画できない)し、千穂に世話をされるという大義名分も立つ。
いや、お前は何を情けないことを考えとるのかと思う人もいるだろうが、実際に13㎝になったら開き直るしかないだろう。
あと本作は、千穂の友人二人が素敵なキャラをしている。
卑屈なことを言いつつも現状を変えようとしない捺央の話を友人にする場面があるが、彼女たちは捺央の悪口を言うでもなく、千穂の話を聞いた上で「千穂が引っ張っていったらどうか」という建設的な提案をする。
こういう、愚痴を言いたい気持ちには寄り添うけど悪口は言わない的なムーブってなかなかできることじゃないので、捺央が小さくなったことを友人たちが知ったときにどんな関わり方をしてくるのか楽しみだ。
というわけで帯に書いてあることはなんかアレだったけど、内容は非常に面白く語ることがかなりある。
あまり読まないジャンルの漫画ではあるものの、思いもよらない作品に出会えてうれしい。

銀の匙

幼少期にお気に入りだった銀の小さじを見つけたことをきっかけに、作者が少年時代のことや伯母との思い出を回想する作品。
正直、もっと早く読んでおけばよかったという一冊だ。
まず単純に文章がすごい。
すごいというのはどういうことかというと、一言で表現すると「瑞々しい」に尽きる。
綺麗な文章と言い換えてもよく、綺麗な文章で思いつく作家と言えば三島由紀夫だ。
彼の文章が豪華絢爛で耽美的な文章だとすれば、中勘助の文章は飾り気がないものの優しく温かく、徐々に効いてくる文章であると感じた。
例えば、松ぼっくりを拾い集めている一場面を「拾いためて袂にも懐にもいっぱいになった松ぼっくりと心で仲よく話しながら」と表現しているあたりである。
この作品を絶賛したとされる夏目漱石の言葉や本のあとがきの文章を借りると、本作で描かれているのは大人から見た子供の世界でもなく、大人が回想している子供時代の記憶でもなく、子供の体験した子供の世界であるのだ。
本当にこの松ぼっくりのシーンなんかさっき見てきたような実感を持って書かれていて、この描写だけでなく作中全体からそんな子供時代の空気が漂っている。
また、大和魂がないと貶された作者が「大和魂を取り出して見せることができない」と悔しがっている場面があるが、夏目漱石の『吾輩は猫である』で猫が似たようなことを言っていたと記憶している。
大和魂は魂だから常にふらふらしている、みたいな言い回しだった気がするが、こんなところにも中勘助と夏目漱石の共通点があるものだ。(中勘助は夏目漱石の門下生に数えられている)
中勘助の作品は他のも積極的に読んでいこうと思う。

世界の終わりの最後の殺人

触れたもの全てを殺す「霧」が蔓延して世界は滅亡し、残された人々は霧を防ぐバリアを張った島で自給自足の生活をしていた。
ある日島の三人の科学者のうちの一人が殺害され、その死によってバリアが解除される設計となっていたため、人類は生き残るために霧が島へ到達する46時間以内に事件の真相を突き止めバリアを張り直すことを迫られる。
探偵役のいるミステリー小説であり、絶海の孤島が舞台のクローズドサークルものではあるものの、近未来や終末要素も加わっているためよくもまあこれだけの設定をまとめることができたものだと感心する。
探偵は犯人探しと島に隠された真実の両方を暴いていくこととなり、世界の違和感が回収される瞬間が気持ちいい。
そもそも、犯人を突き止めることとバリアを張り直すことに何の関係があるのかと思った人はぜひ本編を読んでもらいたい。
まあ肝心のトリック面は少し弱いかなあという印象ではあったが、前述した通り色んな要素がギュッとまとまっているので満足感はそれなりにあった。
ミステリー作品を紹介する際の欠点としてあまり話しすぎるとネタバレになってしまうので控えめにしておく。
海外小説の新刊をハードカバーで購入したのは久しぶりだが、翻訳というひと手間を挟むからなのか値上がりを実感した。

密会 アムロとララァ

アムロとララァの関係性にフォーカスしたガンダムの小説版。
富野監督曰く、「TV発の物語をなぞった活字や漫画の作品がない」とのことで出版に至ったのだとか。
初代ガンダムの小説版はあるにはあるのだが、TV版とはストーリーが異なっているのだ。
ちなみに先ごろ放送されたジークアクスにおいてララァが「カバス」という娼館で働いていたが、あれはこの小説の設定を引用したものである。
本作はかなり富野節が効いており、正直言って決して読みやすいとは言えない。
アニメの知識があるから内容が頭に入ってくるわけで、ガンダムのことを知らずに読んだらなんのこっちゃわからないだろう。
富野監督の小説はアニメで表現される監督自身の思想(反戦とかコンピュータに頼りすぎる人類はダメとか)を可能な限り活字にしたものなので、監督の頭の中の映像ありきの文章といった印象があり、映像がないと理解しづらいのかなとは思う。
さて、本作のアムロは『ベルトーチカ・チルドレン』の彼と対比させて読むとなかなか面白い。
一年戦争時、アムロは父親と一緒に地球からコロニーに移住してきたが、母親だけは地球に残ることになった。
そんな母親に対して父親以外の男の影を感じた彼は母親を嫌悪しつつも、覚えたての「マザー・コンプレックス」なんて単語を使ってみて「女性嫌いの女体好き」のような自分を自嘲しており、初対面のララァに関してもこれワンチャンあるんじゃないかと思うなど、思春期の男の子らしい感性をしている。
ところがベルチルのアムロは母親のことを「安心できない女」とした上で、自分は間男との子供ではないかとすら思っているのだ。
いろんな女体を渡り歩いてきて女性に対する幻想がすっかり抜けきったように見え、あのおセンチなアムロがすっかり擦れちゃってさ、と何目線なのか分からん感情を抱いてしまう。
あと、初対面のシャアのことを「ハロウィンのパーティにでも出るような恰好」と形容していたのは笑った。
やっぱり宇宙世紀においてもあんなカッコをした軍人は目立つらしい。
また、作中において「宇宙移民者は三代に渡るローンを背負って宇宙に来ている」という一文があった。
宇宙世紀において地球に住むことのできるのは一部の特権階級に限られるため、許可なく地球に住んでいる人は不法居住者として宇宙へ強制的に送られる。(Vガンダムのウッソなんかも不法居住者)
その際の費用は実費ということでローンの話になったわけだが、現在劇場公開中の『閃光のハサウェイ』にも通じるところがある。
閃ハサには「マンハンター」という組織が登場するが、この人たちは地球の不法滞在者摘発に特化した組織で、逆シャアの舞台である宇宙世紀0093年頃には既にいた。
ハサウェイ(マフティー)はなぜマンハンターをしばかないのかと疑問に思っている人もいるだろうが、ハサウェイはシャアの思想に感化されており地球環境保護のために人類すべてを宇宙に上げたいと考えており、マンハンターとは目的が同一なのだ。
彼がしばきたいのは地球連邦政府で、近く開催されるアデレード会議において地球連邦政府の権力強化につながる法案が可決されるおそれがあり、腐敗した政府高官により地球の私物化が加速してしまうため、ハサウェイとしてはそれを阻止したいのである。
そして閃ハサの世界から100年以上経過した『ガイア・ギア』にはマンハンターを母体とした「マハ(MHA)」が登場する。
マハのトップであるビジャン・ダーゴルの最終的な目的は地球に独立国家を建国することであり、マハが選別したエリートによって人類と地球を徹底的に管理する「地球逆移民計画」を進めていた。
元々のマンハンターの目的とは全くの正反対になってしまったのは皮肉だなあという感じだが、やっぱり人類は地球から離れることができないということを一貫して書いているとも言える。
冒頭で富野監督の小説は難しいと書いたが、登場人物の心理描写は映像より深く突き詰められているので、世界観をもっと知りたいというのであれば読んでみることを勧める。

大人に質問!「大人ってどのくらい大変なんですか?」

児童館の子供たちの質問をみうらさんが一問一答形式で答えたものをまとめた本。
右ページに子供たちの質問、左ページにみうらさんの回答が載っている。
ある質問に「単に年を取れば誰もが大人になれるわけではない」と回答していたが、同じようなことをリリー・フランキーさんも言っていた。
曰く、年を取ったくらいでは人間変わらないがチンコの欲望はみんな同じであり、おっさんは人生経験がある分ずる賢いので女の子は気を付けましょうというようなことだったと思う。
また、若い女性から見ると年上の男性は大人の余裕があって落ち着いているように見えるかもしれないが、あれはただ単に疲れているだけなので勘違いしないようにともあった。
人間って何がどうなれば大人になったかなんて明確な定義はないけど、そんな定義がどうとか言ってる間におっさんおばさんという年齢に達してしまうので、大人になった実感はないが年を取った実感だけはある。

朝鮮漂流

1月に発売された町田さんの新刊。
文政二年(1819年)、薩摩藩士25名を乗せた船は沖永良部島から薩摩への帰国の途中に暴風雨に襲われ遭難してしまい、ようやく辿り着いたのは朝鮮国であった、という史実を元にした一冊。
藩士の一人である安田義方の記録が残っているようで、それを下敷きに創作した内容となる。
安田は冒頭で「自分の偽らない気持ちを書いていきたいが、それは可能な限り少なくしていきたい。なぜならこれは日記ではないからだ」と述べているものの、創作とは言え多分に私情というか自分に都合の良い書き方をしているように見て取れた。
薩摩側と朝鮮側はお互いに言葉は通じず通訳もいないため漢文のできる安田が筆談でもって先方と交渉しており、安田は後に記録を残すことを考えて、自分が朝鮮側に渡した文章だけでなく、先方からもらった文章の草稿も残している。
国同士の交渉なわけだから後で言った言わないの話にならないように記録を残しておくことは大切ではあるが、安田はちょいちょいこの草稿を紛失している。
紛失したということは安田自身が述べていることだが、どうも彼にとって露見すると都合の悪い場面、例えば相手方の役人と船の修理をめぐってやり取りをした際、嚙み合わない会話にいら立った様子なんかも草稿が残っておらずどういうやりとりをしたのかが判然としない。
とは言え相手への悪口的なものを全て残していないというわけではなく、女性のように着飾った朝鮮国の官人の無能さに憤っている場面では「腐敗した婦女のような性格である」と小馬鹿にした上で「私は武士なのでこんなことを書いてはいけないが書いてしまったものは仕方がない。草稿は失われなかった」と、わざわざ書いているのだ。
自分は薩摩藩にわかなので適当な印象になるが、薩摩はかなりの男性中心文化で女性は男性の発言に異を唱えるなみたいな土地柄であったと思う。
最近だと、幕末の薩摩藩を舞台にした漫画『だんドーン』においてもそんな薩摩藩の様子が描かれているし、自分が今まで読んできた江戸時代関連の書籍においてもそんな感じのことが書いてあった。
なので男らしさを至上のものとする薩摩の文化において男が女のように着飾るなんて気色の悪いことであり、そんな男を馬鹿にしたところで外交レベルなら問題かもしれないが藩の内部で見る記録であれば大丈夫だと判断したのだろう。(実際に安田以外の他の藩士や船員も着飾った朝鮮国の官人のことを「婦女官人」と呼んで馬鹿にしていた)
しかし漂着した薩摩藩の人々と朝鮮国の人たちとの交流は決して険悪なものだったわけではなかったようで、詩を交換して交流したり、一緒に酒を飲んで星を眺めたりして楽しくやっていたようだ。
安田自身も「現地の役人とはなあなあであった」と言っているくらいで、朝鮮国の中央政府に報告しなければならない船の積荷の数についても割と適当だったらしい。
そして、朝鮮国との別れの宴のシーンでは「草稿は失われたがこのやり取りについては敢えて記憶に基づいたものを再現して記す」と書いている。
朝鮮国の「真心」を後の世まできちんと残しておこうとする安田の「真心」を感じる一文であるし、この文章や宴のやり取りだけで生まれも育ちも国も違う人たちが睦まじく絆を育んできた様子がありありと浮かぶ。
安田は最後に、この記録を書き始めた理由について

私自身を狂気から救助する為であったが、書いているうちに次第に私が主君に、そして日本という国に対して負っている義務と誇りのようなものが芽ばえてきて、途中からはそのとき実際にどうであったかを記すことにより、私たちの行動の根底にそれらを護るという意識があったことを知るに至り、その両者が文の中で合併するということになった。それ故、忘れられない朝鮮人たちの面影が文中に漂うかもしれない。とは言うものの私は真実のみを記した。

と述べている。
海難事故に遭って漂流し、見ず知らずの土地で数年に渡って望郷の念に駆られ帰国の日を今か今かと待ちわびて、その間に死んでしまった仲間もいて、壮絶な経験であり気が狂ってもおかしくない。
安田を狂気から救ってくれたのは主君や日本に対する誇りだけでなく、朝鮮国の人々の真心であり、それは安田が記した「真実」であったのだろう。
本作は自分が見る限り従来の町田節は抑え目であるのだが所々にウィットに富んだクスッと笑える表現もあり、単なる伝記ものに留まらない面白さと読みやすさがあった。