公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2026年7月に読んだ本

毎年7月から8月にかけて集英社の「ナツコミ」というキャンペーンがある。
期間中に集英社のコミックスを購入すると選べる特典がひとつもらえるというもので、年によってカードだったりシールだったりする。
話題になっていたので知っている人もいるだろうが、今年に限ってそれがなぜか転売ヤーに荒らされてONE PIECEのカードだけ速攻で品切れになったのだ。

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フェア開始前のメルカリでのフライング転売、フェアが始まってからも本屋に転売ヤーが殺到して店の本棚が荒らされたりと大変な惨状だったようである。
例年通りのナツコミであれば特典が売り切れたことは自分の観測範囲ではなかったので今回の事態は異常であり、ONE PIECEトレーディングカードの値段が投機家によって釣り上げられているとか何とか聞いたがこちらにしてみればそんなことはどうでもよい。(というかナツコミのはトレーディングカードですらない)
自分はナツコミの期間に購入したジャンプコミックスには購入した漫画と同じ特典をもらってコミックに挟んで本棚に保管しておきたい派である。
今回であればONE PIECEの115巻を購入したので、ONE PIECEの単行本に別の漫画の特典が挟まっていたらこだわりとしておかしい。
自分の好きなものが転売ヤーのせいで購入できなかったという経験をしてこなかったので、欲しいものが手に入らないことがこんなにもストレスであるとは思わなかった。
ちなみにそのあとの7月13日に発売された週刊少年ジャンプ33号にはONE PIECE29周年を記念したカードが付いてくるとかで、またちょっとした騒ぎになった。
予約分のみで店頭販売はないとする本屋なども現れて、またしても転売ヤーによりいろんな人が迷惑をこうむったわけである。
ジャンプは何とかして購入できたが、いつもの本屋に行ったらジャンプ購入者専用の列が設けられていたのでお店も大変そうだった。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

ONE PIECE (115)

ゴムゴムの実の真価が明らかになったことで、シャンクスが東の海にいたのはゴムゴムの実を手に入れるためだということが分かった。
そして今回、シャンクスが腕をちょん切った理由もイム様との浅海契約を破棄するためであったことが判明した。
いやまあそう明言されたわけではないけど、浅海契約の紋が左腕に入っていたしそうなのでしょう。
あとはシャンクスがなんでマリージョアにいたのかが気になる。
彼の性格を考えると里帰りしているとは思わなかったので、フィッシャータイガーの逃亡にも手を貸していたっぽいし何らかの意図があってのことだとは思うけども。
そして一コマだけだったけど、ガーリング聖が帰ってきたシャンクスに優しかったのは意外だった。
下界に堕ちた子供など興味はないくらいのスタンスかと思っていたが、天竜人は選民意識が強すぎる分身内にはかなり甘いのかもしれない。
あと気になるのはしらほしの存在だった。
イム様はしらほしが生まれたことを世界のうねりの一つであるようにカウントしていたけど、正直こちらとしては彼女の脅威がいまいち分かっていない。
しらほしが古代兵器ポセイドンであり、海王類を従えられる存在だとしても世界政府やイム様がそこまで恐れることだろうかと思ってしまう。
彼女が恐ろしいと言うより、ジョイボーイと絡めて脅威に考えているのかもしれない。

猩猩姫 (2)

作者さんの前作である『虎鶫』がアニメ化するらしい。
面白かったとは思うけど、正直言って尻すぼみで終わってしまった感もある作品だった。
非常にパワーのある絵なので2クールくらい使って一気に駆け抜けたほうがよいと思うのだがどうなるだろうか。
一巻に初回特典として封入されていた、『虎鶫』のツグミと本作の猩猩姫が一緒に描かれたポストカードはこれを見越してのことだったのだろう。

toratsugumi.jp

サンダー3 (9)

しばらく休載を挟んで連載再開となった。
現在アニメも放送されている。

gigazine.net

こちらのインタビューによれば、作者さんは本作で引退するそうだ。
漫画は相変わらずどかんどかんやっているだけで内容もないし、サンダー3たちの戦闘に緊張感もない。
サンダー3のことをよく知らないのにリベリオンのことを掘り下げられてもと思っていたが、もしかしたらあちらを主人公として楽しむ漫画なのかもしれない。
正直、なぜ読みつづけているのか分からない漫画は久しぶりである。
9巻発売時点で本編は完結済みで、次巻で終了とのことだがこのまま終わっても何も残らないので最終回がどうなるか不安である。

バルバロ! (4)

本作は登場人物が割と多いのだが、この人が過去の何話に登場していたとか、その人のエピソードが何話で描かれていたとかを注釈で入れてくれるのでありがたいと今更ながら気づいた。
少し前からまゆみさんは離婚調停を取り下げて孝志くんと一緒に暮らしているわけだが、それゆえに生じる苦悩と向き合っているところだ。
まゆみさんは母親のことが嫌いで母親のようにはなりたくないと思っているけど、生活していく中で自分が母親に似てきているのも自覚している。
そして母親と同じように嫌いだった母親の彼氏と孝志くんがダブってしまい、孝志くんにも死ねって思ってしまっている自分を止められないでいるのだ。
母親の彼氏は酷いやつだったけど孝志くんは優しい人なので全く重なる要素はない。
まゆみさんとしてもなぜお互いがダブって見えてしまうのかは言語化できてないように思う。
理屈とか当人の人格は関係なく、母親に似てきた自分とその彼氏というポジションでダブってしまうとか、今は優しい孝志くんもいつかは母親の彼氏のようにどうしようもない男になってしまうと男性不信的な考えから来ているのかもしれない。
また、不遇な環境で育った人は不遇が日常だったから幸せになることに慣れていないというか拒絶反応のようなものが出てしまうので、不幸せになる理由を探しがちというのも聞いたことがある。
かつてまゆみさんは孝志くんの家にお邪魔した際、「家族が自分の味方じゃないなんて気持ちは分かりっこない」と暗い目で考えていた。
いくら優しくても真に自分を理解してくれることはないだろうという諦めから「死ね」と思ってしまうのだろうか。
まゆみさんは風俗という仕事を選んだ理由を妹に聞かれたときに、「自分ができることの中で何が我慢できて何が我慢できないか考えて残ったのが風俗」だと言っていた。
自分のことをしっかり分析できている人でも、好きな人に死ねって思うことは我慢できないのである。
嫌いな相手みたいになりたくないとか嫌いなあいつを見返したいとかいうのは、その対象のことを意識しているということだから疲れるというのは非常によく分かる。
だけどまゆみさんの心臓に貼りついてしまった「死ね」はそう簡単に取れるものではないのだ。
ここまで真に迫ったことを描ける時点で、作者さんの実体験も交じっているのではないかと思ってしまう。

ながい窖

ながい窖

ながい窖

Amazon

自分は手塚治虫漫画全集で手塚作品を読んでいるのだが、本作は全集にも収録されていない。
一度短編集に収録されたこともあるがその後は単行本化されることのなかった幻の作品と言われているようだ。
ちなみに「窖」は「あな」と読むのだが「あなぐら」でないと変換できない。
日本国籍を取得し日本人の「森山」として生きている朝鮮人「趙」のアイデンティティと日本の民族差別の実態を描いた話。
『アドルフに告ぐ』とか『メトロポリス』もそうだが、手塚治虫は差別について描いた作品が多い。(メトロポリスはロボットだけど)
例に漏れず本作も手塚治虫のそうしたテーマによって描かれているわけだが、本作は後半の展開が何というか雑であるため、そういう未完成なところが「幻」たるゆえんでないのかなと思った。
ところで本書は本文130ページ中、漫画部分は50ページしかない。
残りのページは何が書かれているのかと言うと6人分の解説が掲載されているのである。
出版元の法政大学出版局によると以下の意図があったらしい。

法政大学出版局で漫画を出すのは初めてであり、漫画に強い出版社からではなく、「大学出版」から復刻する意味をいろいろと考えました。漫画50頁に対して有識者による解説80頁を付ける。漫画研究と歴史研究、二つの文脈をおさえて、これを読めば日本と朝鮮の文化史、近現代史が掴める。そして、この社会で現におこなわれている差別を認識するきっかけになる。そうした方向性を目指しました。

note.com

単なる漫画ではなく人文書のような方向性を目指したかったのはまあ理解できるけど、本作は税込み2,200円もするため解説でページ数を水増しして値段を上げる手法はやめたほうがいい。
当時の漫画で民族差別について描くことの意義とか、手塚治虫の思想信条とか、そういう作者についての内容ならともかく自分の主義主張のために漫画を利用しているような人もいて正直冷める。
確かに勉強にはなったし漫画の枠組みには留まらない価値はあると思うけど、社会問題を語るダシのように使われている印象を受けていい気分はしなかった。

キマイラの新しい城

石動戯作シリーズの4作目であり、同シリーズの最終回でもある。(多分)
とは言え最終回と銘打たれているわけではなく、作者さんは既に亡くなっているのでこれからもシリーズは続けるつもりだったのかもしれない。
中世ファンタジー風の世界を再現したテーマパーク「シメール城」の社長である江里陸夫はある日、自分が中世の騎士であるように振る舞い始める。
その騎士は自らを「エドガー・ランペール」と名乗り、750年前の自身の死の真相を解き明かしてほしいとの依頼で石動が事件の解明に乗り出す。
自分はずっとこのシリーズを読んできて石動が探偵っぽくないなとは思っていた。
それは作中に彼以外の名探偵が登場するとか、読者でも明らかに分かっていることを見落としている粗忽なところから来ているのかなあと思ったがやっぱりどうにも言語化できない。
だけどそんな石動でも狂言回しとしては有能だし殊能さんの作品も好きなので、もう新しい作品を読めないのが悲しい。
家に積んである残りの殊能さんの作品は残すところあと2作品となったので大切に読んできたい。

毒入りチョコレート事件

ロジャー・シェリンガムの主宰する「犯罪研究会」にスコットランド・ヤードの警部から未解決事件が持ち込まれた。
夫妻が譲り受けたチョコレートの中に毒が入っており夫は一命を取り留めたものの、妻は死亡した事件である。
ロジャーは会員の面々に事件を調査してひとりずつ発表してはどうかと提案し、各々が事件の解決に挑む。
ひとつの事件に対して6人の探偵役が推理を披露する多重推理もので、ミステリ史に残る傑作と言われているらしい。
自分も期待して読んだのだが、まあとにかく文章が読みづらいことこの上ない。
訳が古いため言い回しが古風だったり例えが分かりづらかったり二重否定があったりするため、読み進めるのに非常に時間がかかった。
例えば、女好きな登場人物が新しい女性にアプローチをかけようと決意した場面での描写。

ユーステス卿は、彼のベルトに既にぶら下がっている、あまり知的でない女たちの頭皮に、知的な女の頭皮を加えようと思いついた。

これが本当に何のことを言っているのか分からず、行儀が悪くて申し訳ないが本屋に並んでいる新訳版では該当箇所がどうなっているのか読み比べしてみた。
どうもこれは女性を口説き落とすことを「狩り」に見立てたものらしい。
狩った獲物をベルトにぶら下げることに例えて、「女性の頭皮」と書いたのだろうがあまりにも怖すぎる。
おそらく、獲物とは動物を連想してほしいのではなくそのまんま人間、つまり欧米人が植民地で原住民を狩ったことに例えたものだろう。
日本で言うと戦国武将が敵将の首を腰や馬の鞍にぶら下げていたあれである。
まあとにかく、このようにパッと見ただけでは理解できない文章が多々出てくるのでちょっと疲れた。
上にリンクを貼っているのは自分も読んだ旧版だが、今から読む人は新訳が出ているのでそちらで読むといいだろう。
文章は分かりづらかったとは言え、多重推理ものは初めて読んだので新鮮な気持ちで楽しむことができた。
警察の情報から犯人を推察する人、己の調査で真相を突き止める人などいろいろいるが、彼らはあくまで素人なので警察みたいに科学的な捜査をしているわけではない。
犯罪研究会は仲良しクラブというわけではなく、各々が自分の頭脳と推理に自信を持っている人たちの集まりなので割とギスギスしており、加えて多重推理という構造上、前の推理者が次の推理者にボロクソに言われる。
そして犯人らしき人は明示されるが、真相は不明という結末も自分としてはいろんな解釈ができるので好みだった。
だが物語の形式上、新たな証言や証拠があとから提示されるため読者が犯人を当てるのは不可能ではある。
7月はミステリーを読もうと思っていたが、本作が難解すぎて2作しか読めなかった。
ということで来月も小説に関してはミステリー中心になると思う。

2026年6月に読んだ本

「○○かと思った自分はもうおしまいです」「○○ですけど何か?」「○○な私が通りますよっと」
これらの言い回しをしている人を未だに見かけるが、背筋がぞわっとする。
それなりに年齢のいっている人だと思うのだが誰か注意してあげたほうがいいのではないか。
察して突っ込んでもらうことを期待しているような目で言っているのが想像できて見るに堪えない。
ということで6月に読んだ本を紹介する。
一応ネタバレ注意で。


↓先月分↓
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↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

チェンソーマン (24)

とうとう最終回を迎えてしまったわけだが、最終回に関してはかなり賛否が多く、どちらかと言えば否よりの意見が多かったように思う。
自分は最終回単品で見ると割と好きなのだが、物語と言うのは積み重ねなので否定的な見解はよくわかる。
まず、第二部に関しては面白い面白くない以前に「意味がわからない」という意見が多かった気がする。
個人的に思うのは第二部は話の継ぎ目が明確でなく、今何をしているのかが分かりにくかった。
例えば、第一部はその話を象徴するキャラクターがいたわけだ。
アキ、パワー、サムライソード、レゼ、などなど多くの魅力的な人物がいて、それらが退場することによってそのパートの明確な幕引きを意識できる。
そしてそれら登場人物の真ん中をドスンと貫く大ボスとしてのマキマ、この柱があったからこそ最終目標を目指して話は進んでいたし読者もそれに着いて行っていた。
ところが第二部ではさっきまで敵対していた人物とひと段落着いたら一緒に食事をしていたり、かと思ったらやっぱり敵対したりと状況が目まぐるしく変化していたので章の終わりを実感できなかったように思う。
退場したと思ったら生きてたり、出てきたと思ったら一生出てこなかったり、第一部から引き継いで登場していたキャラもいたと思うのにもったいなかったなあと感じている。
また、デンジがいくら大好きなポチタの言うことだったにしても、デンジの幸せを勝手に規定する理不尽な発言を素直に受け入れてしまっていたのもいただけない。
デンジは当初、世間知らずと惚れっぽさゆえに完全にマキマの操り人形と化していた。
しかし物語の中で出会っていく仲間や敵からいろんなことを学んだり受け取ったりして自分なりに考え、最終的にマキマの支配を跳ねのけるに至ったのだ。
第一部の最終回でデンジはマキマの肉を調理して食べていたわけだが、自立の象徴である"一人暮らしの部屋"で自分のために"料理"をするという姿からは、支配からの明確な脱却を感じて少年漫画的にも本当に素晴らしい。
だからポチタの「デンジは地獄の中からしか幸せを見つけられない」という説教にも「うるせぇバーカ」と威勢よく言ってほしかった。
自分はデンジが楽しそうにしているのを見るのが本当に好きだったので、今まで笑っていたデンジが虚勢を張って楽しい振りをしていたなんて思いたくない。
だから、デンジが"チェンソーマン"としてではなく一人の"デンジ"として必要とされているチェンソーマンのいなくなった世界はそれはそれでありかもと思ってしまうのだ。
また、最終回でアキが登場しなかったのはチェンソーの悪魔がいなくなったから銃の悪魔がいなくなった、もしくは違う形で世界と関わっているから、銃の悪魔にアキの家族が殺されておらずデビルハンターにもならなかったということなのだろうか。
とは言え、学校に現れた悪魔を倒したデンジが「危険なので近寄らないでください」と、5巻でのアキのセリフを喋っていたのは憎いファンサービスだった。
本屋に貼ってあるコミック販促用のポスターには「第二部完結」とあったが、さすがに第三部があるというわけではないだろうしまた次回作を楽しみにしたい。

伴天連怪談 (1)

キリスト教の信仰が幕府によって禁じられていた時代、棄教したキリスト教徒や司祭(転び切支丹)を収容していた切支丹屋敷。
取締りが苛烈を極めていた時代に比べると屋敷の人たちは比較的平穏に暮らしていたのだが、自らを祓魔師と名乗る伴天連・庵藤如(あんとうにょ)が来たことを機に、屋敷には不可解なことが起こるようになる。
ジャンプ+で連載している作品で、作者さんは本誌での連載経験もある人だ。
ただ過去作品と比べるとかなり絵柄が変わっているので作品を見ただけではピンとこないかもしれない。
メインキャラのひとりである庵藤如が祓魔師を名乗っているため本作は江戸時代を舞台にした悪魔祓いものとなる。
とは言えバトルものではなく、人が抱える闇や信仰、罪や呪いなどと向き合って悪魔を祓っていく展開だ。
時代は明確にはされていないが固有名詞から推察することはできる。
作中の将軍は徳川綱吉で、彼の将軍就任は延宝8年(1680年)となっている。
そして作中で言及されている"取締りが苛烈を極めていた時代"の宗門改方であった井上筑後守政重は寛永9年(1632年)に役に任ぜられた。
キリシタンの反乱である島原の乱が1637年から1638年にかけてのことで、このときの将軍は三代将軍・家光である。
井上政重と言う人物は遠藤周作の『沈黙』にも登場し、キリシタン弾圧にバリバリだったらしい。
このあたりの時代が"取締りが苛烈を極めていた時代"であるならば、それから50年くらいは経過しているので比較的平穏であるというのはその通りなのだろう。
話を戻すが、庵藤如はローマから様々な国を経て5年かけて日本にやって来ているものの、彼が来た具体的な理由は不明である。
庵藤如は日本語が片言なので意思疎通が円滑にできないのだが、不慣れな日本語で伝えたのは「昔、私たちがこの国に蒔いた麦の種を刈り取りに来た」ということらしい。
彼が切支丹屋敷にやってきて二人目の悪魔祓い事例となる"おやす"という女性は身内が切支丹であった"切支丹類族"であり宗門改方の監視対象だった。
本人は棄教したことになっているが実は信仰を受け継いでおり、母親の墓前で十字を切って祈りつつも神を呪っていたことが明らかになる。
そして悪魔祓いの最中、「神様なんて私にはいらなかった」と本人の口から語られる。
悪魔がどのような基準で憑りつく人を選んでいるのか定かではないがおやすのように神を呪った人に憑くのだとすれば、「麦の種を刈り取りに来た」と言った庵藤如も、刈り取られる対象である悪魔も信仰は必ずしも人を幸せにしないと分かっているのではないだろうか。
この後読んだ本もたまたま神と信仰について書かれた作品だったのだが、別に神様を信仰することが悪いのではなくて本人の向き合い方の問題なわけだ。
しかもキリスト教が禁止されていた江戸時代であれば信仰は命がけだし、宗教二世的な問題じゃないけど親族にまで累が及ぶ可能性だってある。
信仰を選べなかった側からすると、神様に祈りつつも神様を呪うという歪な構図になっていても神様にすがらないと生きていけないというのは何ともしんどいだろうなあと思う。
また、単行本の最後にはキャラクター初期案のラフ画が載っている。
当初は全体的にキャラクターの頭身が高かったようだが、連載するに当たって頭身はかなり低くなっている。
この、ちょっとかわいらしいというか余白のある感じの絵がホラー展開とよく合っていて、何とも言えない不気味さと不穏な空気を作品全体に醸し出している。
絵で敬遠する人もいるかもしれないが、時代考証は非常にしっかりしているし物語もたっぷり重みのある読み応えのある内容なので最近おすすめしたい作品の筆頭だ。

お姉さまと巨人 お嬢さまが異世界転生 (9)

最終決戦に向けて話が進んでいる感がある。
本作における上位存在的な人たち(原初の人類)って記憶や魂をセーブしたりロードしたりして何度も生まれ変わって遊んでいるわけだが、これに対して9巻において「転生すればうまくいくというのは思い上がり」となかなかクリティカルなことを言っていた。
本作が異世界転生ものへのアンチテーゼ的な側面があるとすれば、これは異世界転生ものの主人公に対する皮肉でもある。
そしてそのあとに、「弱点は"人間"であること」「効果的な手段は社会的な隔絶と兵糧攻め」「"服毒"と"窒息"」であると付け加えている。
確かに、と納得してしまった。
いわゆるなろう系作品でこれらの弱点を克服した主人公っているのだろうか。
例えば本作にも「死に戻り」の能力持ちが出てきたことがある。
でもこれの弱点は死ねなければ指定のポイントまで戻れないことなわけだから、殺さずに行動を止める手段などいくらでもある。
自分はなろう系界隈に詳しくないのだが、こういう現実的で地味な方法で攻められたことのある主人公もそうそういないのではと思うので、ぜひ作家の人たちはこれらの攻撃手段を用いる敵を描いてみてほしい。
社会的な隔絶で心を病んでしまう異世界転生主人公なんて最高に面白そうだ。

二階堂地獄ゴルフ (13)

やり直せるからこその余裕だと思っていたものは、不明瞭で浮わついた軽薄なゴルフだったと自らを省みた二階堂。
そして真摯にゴルフと向き合ってきた亮介のことを評価し応援している様は非常に晴れやかだったし、己のできることを愚直にこなしていくという姿勢に立ち返ったのもよかった。
ただまあそんな亮介も不正をしていたわけで、そもそもはその不正を認めさせやったことに向き合わせようとして、やり直しの能力を使ってまで二階堂は彼をゴルフで負かそうとしていたのだ。
バレないとは言え二階堂のやっていることも立派な不正で、いくら大義があるとはいえ不正が許されるわけはないし、真摯にゴルフと向き合ってきたのは二階堂も同じことである。
お互いに実力やゴルフに対する姿勢を評価してくれる人はいるのだが、プロスポーツである以上勝てなければ価値はないわけだから、その途中でちょっとくらいはと思って軽い気持ちで不正に手を染めてしまったのだろうなあと思う。

秘密法人デスメイカー (3)

今回、デュアルホーンがアリの怪人であることが明らかになったが、彼女がアリだとすると今までの描写にも納得がいく。
アリの雌は精子を貯蔵できるそうなので、デュアルホーンが怪人の種を任意のタイミングで産んでいたことは説明がつく。
また、今まで関係を持った男たちが性病で死んだかのような描写がされていたが、アリの毒針は産卵管だそうなのでこれも特有の生態だったわけだ。
そしてアルミホイルジョンソンの父親である5G僧正も、人間界に来たばかりのデュアルホーンと性行為をしたことで死んだことが明かされた。
サラッと流されていたが、これは今まで一般人に手を出していなかったデュアルホーンが人間を殺した結構重いエピソードなのではないだろうか。
しかしこうやって書いてみるととんでもないゲスな漫画である。
作者さんのSNSで単行本の3巻が出たら少し休むというようなことを告知していた気がするがどうなるのだろうか。

浄土

町田さんの短編集。
最近読んだ町田さんの短編集の中では一番好みだった。
『どぶさらえ』は生きるのって大変な中、ほんの少しの楽しみを見つけてがんばるもののそれが報われない泣きたい気持ちを書いている。
『ギャオスの話』はシンゴジラってこんな感じの話なのかなあ見たことないけどと思った。
『一言主の神』は古事記を下敷きにして書いたのだろうか。
一言主は町田さんの『告白』にも登場したし、古事記は『口訳 古事記』が出版されたことは記憶に新しい。
町田さんのその後の作品とも関連を伺わせる話もあり興味深かった。

巫女

スウェーデン文学で、神と信仰について書いた作品。
山の上の家から日がな一日街を眺めて暮らしている老婆の下に、一人の男がやってくる。
老婆はかつて神に最も愛されながらも神を冒涜して街を追われた巫女であり、男は自分の運命を尋ねにきたのだ。
そして老婆の口からは、彼女の過去と"神"の正体について語られる。
なんかこう、自分は信仰している宗教もないし信心深いわけでもないけど、登場人物が言っていることを全部「気のせい」と切り捨てるのも無粋なのかなと思った。
そもそも男はなぜ巫女を訪ねてきたのかと言うと、処刑される囚人から「お前は一生幸せになれん」と言われたことが発端である。
ある日、男の家の前を十字架を背負った一人の囚人(描写からして多分キリストなので以下"キリスト"とする)が通り過ぎた。
キリストはこれから処刑場に向かうところであり、途中で疲れて男の家の壁に頭をもたれかけて休んでいたのを見た男はそんなとこで休むなと文句を言うのだが、それを言われたキリストが「お前の家に頭を凭せ掛けてはならんというならば、お前の魂は永遠に救われぬことぞ」と言うのである。
男はキリストにへこむことを言われたせいでメンタルを病んでしまい、イライラして人に当たるようになったりインポになったり、妻が息子につきっきりで自分に構ってくれないので息子へ恨みを募らせたりする。
別に男の環境自体は何も変わっていないのだが、勝手に気にして勝手に病んで友人や家族が離れて行ってしまい、「不幸は人を善良にしない、俺が苦しんでいるならどうしてもう一人も苦しんで悪いと言うのか」などと救えないことを言う始末。
そして勝手に絶望して旅に出て、巫女の神託に縋ろうと街にやってきたのだ。
一方、元巫女の老婆であるが、彼女は割と円満な家庭で育ってきた。
両親は家の近くにお手製の祭壇を作ってお供え物をしたり、敷地内にあるオリーブの木を大切にしたりと自然とともにある穏やかな信仰心を持った人たちである。
娘は父母に愛され健康に育ったものの、自分の身の回りが安全であることに物足りなさを覚え、思春期特有の自分は人と違うという万能感や特別感も持っていた。
そんなとき、彼女が巫女に選ばれたという報せが届き、不安な気持ちを持ちつつもなんやかんやで自分を特別だと思っていたので内心にやにやしていた。
ほんで、いざ巫女のお勤めをすることになった初日、彼女が何をしたのかと言うと、地下にある岩室で変な蒸気を嗅がされてトランス状態になり支離滅裂なことを叫び、それを傍にいる神官が都合よく解釈し、神託として信者たちに伝えるというものである。
巫女はその後ぐったりとしながらも充実感に満ち溢れ、神の激しい愛情を受けたと喜びに浸り、巫女としての勤めを果たそうと決意を新たにすることになるのだった。
はっきり言って男も巫女も完全に「気のせい」で深みにはまっていて、神とかそれ以前の問題なんだけど信仰心の篤い人にとっては神に運命を翻弄されたと思ってしまうのだろうか。
男はそれっぽい奴に言われたことを気にして勝手に落ちて行っているし、巫女も退屈な日常に現れた刺激を神からの愛だと勘違いしてのめり込んでいく。
舞台はおそらく紀元前になるため、科学技術なんてものはまだまだ未発達で、いろんな現象を神の恩恵とか天罰とかに置き換えて人間は生きていた頃だと思う。
だけど、作中では神との付き合い方も一種類ではない。
男や巫女にとっては神は幸せや安心安全を与えてくれるものではなく、気まぐれで望むものを与えてくれず、自分以外のものを愛すると嫉妬して復讐する存在だ。
一方、巫女の両親にとって神とは寄り添ってくれるもので、自然と共にあり穏やかに信仰させてくれる。
また神官や街の人は神よりも神殿や神殿の威光が大切で、祭のたびに集まってくる信者からの寄付金や街へ落としてくれる金の方が重要なのだ。
このように、神をしたたかに利用している人もいれば、神にのめり込んで破滅していく人もいる。
先ほど紹介した『伴天連怪談』では神と関わったことで当人の人生が好転したようには思えない。
"神"をいろんなものに置き換えても成り立ちそうではあるが、何事もほどほどが良いとは言ってもそれができれば苦労はしませんよね。

見習い天使 完全版

見習い天使が人間界の様々な人間模様を見つめ、その様を読者に語っているという体で綴られるミステリ小説。
ショート形式で書かれた作品が23篇収録されている。
作品自体は昭和に書かれたものなので社会の価値観に古さを感じるところはあるものの、それらを見事なオチで上回っていたのであまり気にはならなかった。
何より、短いページでもきちんとミステリになっていたのがすごい。
作者さんは推理小説一筋で短編を主に書いていたそうなのだが長編もいくつかあるとのことで、何冊か手に入れたのでまたそのうち読むつもり。

ビデの文化史

ビデの歴史を読み解く本なのだが、そもそも自分は前提条件から誤解していた。
おそらく日本人の感覚として、「ビデ」と聞けばウォシュレットに付いている機能のひとつを連想するだろう。
ところが本書を読んでいて、「1974年はイタリアがビデ生産量一位」という記述があった。
ビデを生産するとはどういうことなのだろうと思って調べてみたところ、フランス、イタリア、スペインなどの家庭では便器の横に独立したビデがあるそうなのだ。
イメージとしては洗面台の位置を低くして、洗面器の部分を深くしたものという感じである。
これは1974年のデータなのだが、向こうでは今も独立したビデが一般的なのだろうか。
話を本の内容に戻すが、昔も今もビデは女性器を洗浄するものである。
自分が子供のころは女性に特有の生態、つまり生理とかそのあたりは男性が知らなくていいことみたいな扱いだったわけだが、当時のヨーロッパにおいてもビデはそんなような位置だったようだ。
「ビデ」という言葉をタブーのように扱っていた時代もあれば、背徳的な性行為や同性愛の象徴として用いられた時代もあったらしい。
つまり、知らない世界であるがゆえに妄想を掻き立てられ、ゲスな興味の対象であったということだ。
特に、昔は性病の原因は女性のみにあるとされており、また女性器を洗浄することは避妊にも有効であるとの考えからビデはいかがわしい商売とも結びついていたとのこと。
なんか、当人にとっては頭を悩ませるような問題を下衆の勘繰りであれこれ想像され、不適切な妄想に結び付けられるのは昔から変わらんかったんだなあと思った。
そしてこういう本を読んでいると、時代の違いや宗教による衛生観念も知れて面白い。
例えばヨーロッパは日本のように湿度が高くないので頻繁に風呂に入る習慣がなく、乾燥した状態を保つのが清潔とされていたところ、あえて水を使って洗浄するビデの存在は画期的だったそうだ。
しかし、汚れや快楽に結び付けられるためカトリックにおいて清潔に関する事柄は重要視されていなかったようで、「あそこを洗うのは罪」と教育する修道院もあったらしい。
身だしなみとかならともかく、体を清潔にすることを宗教で縛るとはまたえらいことをするもんである。
同じ出版社から出ていて以前に読んだ『お尻とその穴の文化史』もそうだが、「異端と逸脱の文化史」と銘打ったシリーズがいくつか刊行されているので引き続き集めているところだ。

2026年5月に読んだ本

こないだガンダムZZを見返していたとき、3話を見たあとに少し間を置いて4話を見たので覚えていないことがあった。
それは、「ファとリィナはいつからお互いに面識を得たのか」ということである。
4話において学校にも行かずにビーチャたちと連れ立って出かけるジュドーを見て「ファさんに相談してみよう」とリィナが言うシーンがあるのだが、二人はいつからそんなに親しくなったのだろうか。
今までの話を見返してもいいのだが、自分はあえてここでAIに聞いてみることにした。
するとAIは「リィナの学費やアーガマの修繕費を稼ぐために金が必要になったジュドーが病院に入院しているカミーユを身代金目当てで誘拐しようと試みた際、ジュドーを追いかけてきたリィナとカミーユの看病をしているファが出会った」というトンチキなことを言い出したのである。
ジュドーがとんでもない極悪人になっているし、ジュドーがアーガマの修繕費を稼ぐ理由もないし、そもそもカミーユを誘拐した身代金はアーガマからもらうとしても、アーガマからもらった身代金をアーガマの修繕費に充てるというよくわからない二度手間が発生する。
別にこれはAIの無知を責めているわけではなく、AIの言うことを鵜呑みにしてはいけないということだ。
今回はたまたま自分に知識があったから間違いに気が付けたものの、正誤を判断できないようなことを迂闊にAIに聞くべきではない。
AIが何を元に回答を用意しているか知らなかったのでAIに聞いてみたところ、インターネット上に存在するテキストデータを学習して回答を生成しているためアニメ本編の内容を実際に見ているわけではないとのこと。(この回答も間違いがないかどうか知らないが)
ちなみにファとリィナの件については3話でファがメタスの掌にリィナを乗せて運んでいるシーンがあるもののそこまで会話も多くないため、まあこの前後でいろいろ仲を深めたのだろうと補完することにした。
5月はまたちょっと忙しかったので読んだものは漫画のみとなる。
ネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

カグラバチ (11)

今までの描写から、剣聖は狂っており彼が真打を使用したせいでえらいことになったから隔離されているみたいな印象だった。
しかし剣聖は元々狂っているということが判明し、明確な意思を持って大量虐殺をしたことになる。
また、侵略してきた小国の生き残りではないかと目されてきた幽も、元はどうやらただの一般人だったらしい。
そして彼もその他一般大衆と同じ"英雄"を求めていた人間であり、何か決定的な出来事があったことで真打の圧倒的な力をもってこの世の混沌を収めるべしという考えに至ったようである。
世間的には六平国重は妖刀を生み出し戦争終結に一役買った"英雄"であるけれど、幽からすれば皆を救える力がありながら姿を消し、妖刀を封印した無責任な人間として映っているのもまた新しい国重の解釈だ。
この世界には様々な国重ファンがおり、各々がいろんな思いを抱いているわけだが、幽は差し詰め強火の反転アンチと言ったところか。
また、本作はめでたくアニメ化が決定したわけだが、残念なことに作者さんの体調不良により6月29日発売のジャンプから休載している。
ジャンプ編集部としても鬼滅の刃・呪術廻戦に続く和風アクションとして非常に力を入れていることがわかるプロモーションなので、妙にハードルが上がってしまっている気がするのが気がかりだ。
再開は8月予定とのことで、ぜひ体調を万全にしてまた面白い漫画を描いてほしい。

さむわんへるつ (3)

リスナー甲子園の優勝を逃したくらげの涙を初めて見たことで、「他人の知らないあの子の一面」という少年漫画的ポイントがまたプラスされた。
しかしながら、ミメイの面白さはまだくらげしか知らないので、お互いにそれぞれの秘密を知っていることになる。
「もっとお揃い増やしたいね」とくらげが言っていたが、お揃いが増えるということは秘密も増えるということであり、知ってか知らずか罪な女である。

ジュミドロ (8)

まだまだ続くかと思ったがどうやら次巻で最終回らしい。
まあ全9巻だと人にも勧めやすくていいかもしれない。
アニメ化はしないのだろうか。
ラムネは敵を斬ることが友達の「たすけ」になると思って今まで剣を振るってきて、それが人を斬る以外何もできない自分の存在意義だと思っていた。
しかし、敵の中にもまた別の誰かの大切な人がおり、大切な人を斬られた人にとってはラムネは敵なわけで、彼女はそんな簡単なことに気が付くのに随分と遠回りをしてしまった。
ラムネに恨みがある人にとって、彼女が斬られて死ぬことが「たすけ」になるというのは残酷な現実なわけで、もちろんラムネがしたことは一生許されないことではあるけれど、この物語が主人公の死という形で終わるわけはないと思っている。

シルバーマウンテン (4)

「嘘をつけない部族の人間が初めて嘘をつく」というベタな展開でこれだけ話を膨らませられ、読み応えのあるストーリーに仕上げた藤田先生に感服しきりだ。
嘘をついているのではなく「真心を隠して」一緒にいるというわけである。
別に真心は隠さんでもと思われるかもしれないが、真心は隠してくれたほうが素直に受け取れるときもあるのだ。
しかし、新章が始まる前に話が江戸時代に戻り、平田を相手に物語の続きを語るところが描かれるわけだが、ギンはどうやって螺界から戻ってきて、旅を共にしていたヒョードーやサイッダはどうなってしまったのだろうか。
明かされそうでなかなか明かされないネタを目の前にずっとぶら下げられているようでうずうずする。

平成敗残兵すみれちゃん (10)

今回の表紙はすしカルマ先生なわけだが、すしカルひとりで表紙を飾るのは2回目になる上、すみれちゃん以外で単独表紙を担当した唯一の女となる。
9巻では切れ痔でありながら単身交渉の場に乗り込んできて啖呵を切った男前なすみれちゃんであったが、10巻ではおっさんに痴漢をして逮捕されたり、歌のおねえさんオーディションで中日ドラゴンズの応援歌を歌ったりと、読者の期待にも相変わらず応えてくれている。
やはり今回の見どころは、ブイウーバー(Vtuber)としてデビューすることに躊躇していたすしカルとの平成敗残兵同士の語りだろう。
"勇気"が若者の特権であるとはよく言われることだけど、年を取って傷つくのが怖くなったからこそ捨て身の勇気に価値があるというのは一理ある。
年を取ると立場やプライド、自尊心などいろんなものを背負ってしまっているから転ぶとそれらを落としてしまいかねないし、転んだところを見せるとみっともないし、そのときのケガだって治りにくい。
そんなリスクを承知の上で勇気を出して暴れるからこそ、見えてくる景色もあるはずだ。
すみれちゃんもすしカルも、年喰ってる割に若者に若者に誇れる知恵も経験もないと自嘲するが、年齢を重ねた人間が見せる勇気から若者が何かを得てくれたら気張った甲斐があるというものだろう。

みちかとまり (4)

世界観は好きだったがよくわからないまま何となく終わってしまった。
結局、人間があれこれ知恵を絞ったところで自然という雄大で畏敬の念を抱く存在の掌の中で踊っているということだろうか。
ちょっと本作は自分の中で消化しきれていないので、芯を喰った感想が出てこない。
何はともあれ作者さんの作品は好きなので次はどんな物語を描いてくれるか楽しみだ。

子供はわかってあげない【文庫版】

水泳部の朔田さんと書道部の門司くんは好きなアニメがあるという共通点から意気投合する。
門司くんの兄が探偵であると知った朔田さんが、自分の実の父親を捜してほしいと持ち掛けるところから始まる夏の体験を描いた作品。
こちらは復刻された文庫版で、単行本は所有しておりこのブログにも感想を書いたことがあるが、作者さんへの応援の意味と書き下ろしのおまけ漫画目当てで購入した。
名作なので何回も読みたくなる一冊である。
ちなみに前回読んだのは2023年の6月だった。
当時のブログによると、この時期に田島列島さんの作品を一気読みしたっぽい。

mezashiquick.hatenablog.jp

どんな感想を書いたのかと読み返してみたところ、なかなか良いことを言っている。
というわけで詳しくはそちらを見てもらいたいのだが、タイトルの「わかってあげない」という言葉に関しては文庫版の解説で良いことを言っていた。
かなりしっくりくる解釈だったので、気になる人はぜひ手に取ってもらいたい。

ザ・バックラッシャー (2)

1巻もそうだったが割と直近の連載分まで収録しているようだ。
不良集団が出てくるシーンで「この国はまともに若者の教育もできなくなった」とか「非行集団の本質は暴力的であるほど価値がある」というセリフがあるが、タイムリーに相次いでいる若年層の凶悪犯罪を連想してしまう。
タイトルにある「バックラッシャー」だが、人種差別やジェンダー平等など、社会的な弱者の権利向上や進歩的な改革が進んだとき、それに反発して「従来の価値観に戻そうとする激しい反動や巻き返しの動き」を指す「バックラッシュ」から来ている。
バックラッシャーを結成した莫はコンプラだのフェミニズムだのに唾を吐いて生きているわけだが、そもそも仲間を募って組織を作ろうとしたのは淋しいからだと明言している。
そして2巻では、莫が父親から殴られて育ったことが明らかになる。
現在は父親とは普通に接しているようだが当時のことは彼の中でも消化しきれていないらしく、父親への反発も幼少期の体験から来ているのだろう。
さらに、殴っていたことを「そういう時代だった」と正当化する父親に対して「どんな時代でもダメなことはダメ」という感性は持っているようで、どうも全部の価値観に対して反発しているようではない様子。
また、バックラッシャーのメンバーであるスラッパーが「社会の動きを自分には関係ないと思っていると、気が付いたときには社会のダニになる」という旨のことを言っている。
遠回しに莫のことをダニであると言っているようにも聞こえるが、彼からすれば自分がどんな人間であるか、なぜこうなったのか、どんなしんどい思いをしてきたのかを分かってもらいたいだけで、ダニかもしれないがダニにはダニの言い分がある。
昔、なんかの本に「不機嫌な人は不機嫌であることを気付いて欲しいのではなく、不機嫌になった理由に気付いてほしいのだ」と書いてあった。
莫もそんな感じの行動原理でバックラッシャーしているのではないかなあと思った。
弱者の権利向上に勤しんでいる団体からすれば淋しいからという理由で邪魔されては迷惑極まりないわけだけども。

司書正 (1)-(4)

『本なら売るほど』の3巻に試し読み小冊子が付いており、読んでみたところ非常に先が気になったので購入した。
オリエンタルな世界観を舞台にした古代宮廷ファンタジー漫画。
顓国(せんこく)の蔵書樓(ぞうしょろう)にある全ての書物の内容を「智の器」として己の身に収め、諳じることのできる「司書正」の元に側女であるキビがやってきたことから始まる物語となる。
司書正は書物の内容を暗唱できる代わりに自我がなく脱け殻のようになってしまうためお世話をする人が必要になるのだが、お世話係も適当に選ばれているわけではないらしいのだ。
そんな司書正とはいつから何のために存在しているのかという謎解きパートと、宮廷内の権謀術数渦巻く権力闘争パートが話のメインとなる。
4巻まで読んで、顓国と友好関係を結んでいる大国・昊国(こうこく)の暗躍や、かつて顓国に滅ぼされたとされる熒国(けいこく)の血を引く部族が登場したりと1巻時点では予想できなかったほど話が広く展開しており、また"精霊"というファンタジックな概念も登場する。
ファンタジー要素と宮廷のドロドロ権力闘争が違和感なく同居しており、世界観を非常に詰めていることが伺える作品だ。

2026年4月に読んだ本

この記事をまとめているのは5月なのだが、5月18日発売の『週刊スピリッツ』にて『機動警察パトレイバー』の32年ぶり新作読み切りが掲載された。
パトレイバーを初めて読んだのは高校生の頃で、踊る大捜査線が好きだったこともあって「カッコ悪いけどカッコいい」的な主人公たちの描かれ方にドはまりしてしまった。(文庫版パトレイバーの帯コメントを踊る大捜査線の演出だか脚本だかの人が書いていた覚えがある)
アニメは見たことがなく、というかTV版とかOVAとか劇場版とかがあってどこから見ればいいのか分からなかったし、当時はサブスクなんて便利なものは存在せずレンタルビデオだったため高校生の自分にはあれもこれも見る金銭的余裕がなく、結局見ないまま今に至る。
dアニメストアにはパトレイバーのラインナップが豊富なのでいつか見ようとは思っているがいつになるやらという感じだ。
そしていつも行く本屋にはスピリッツが置いてなくアニメイトで購入したが、全国的に品薄らしく一冊だけでも入手できてラッキーだった。
内容は満足だったけどもうちょっと読みたいという絶妙な加減で、この飢餓感を持って新作アニメを見てほしいということなのだろう。
「漫画版に基づいた後日談」ときっちり書かれており、漫画版一話のオマージュのような印象を受けた。
イングラムは登場するもののさすがに野明は出てこず、まあ前作の主人公が登場するのは新作の主人公を喰ってしまう可能性があるし、後藤隊長やしのぶさんも好きなので嬉しい。
新作を見る予定は今のところないし、そもそも見ようと思ったら今までのアニメを見たほうがいいと思うのでいつになるやらという感じである。
では4月に読んだ本を紹介する。
ネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

スノウボールアース (11)

この記事をまとめている間にアニメの放映がスタートした。
期待以上に良いアニメで、本編では鉄男のうじうじしてるシーンがちょっとくどいと感じる箇所もアニメだと比較的見やすくなっていた。
演出や音楽も相まってロボ戦にもかなり迫力があり、非常に"熱い"と感じるアニメである。
主題歌は最近のアニメによくあるあらすじを歌っているだけのしゃばい歌だったが、原作ファンとしては納得できるアニメの出来栄えだったので第二期があってくれると嬉しい。

猩猩姫 (1)

『虎鶫』作者の新作。
虎鶫は好きな作品だったのだが急に終わった感があったので打ち切りだったのだろうか。
今作は古今東西様々な関連作品が創作されている『西遊記』を元にした作品となっている。
美少女である孫悟空が男前の玄奘に封印を解かれたことをきっかけに一目惚れし、彼に気付かれないように後をつけるところから物語はスタートする。
一巻の時点で猪八戒(厳密には名前は明かされていない)と沙悟浄も登場するため、本番は二巻以降からといったところか。
作者さんはとにかくケモケモしているヒロインが好みらしく、前作『虎鶫』のヒロインも本作の孫悟空もかなりケモっており、そのケモっぷりはヒロアカの堀越先生に称賛されたほどだ。
絵は相変わらず上手くキャラクターの表情も豊かで読んでいて楽しいし、ストーリーは今のところ様子見ではあるけれども、作者さんが西遊記をどれだけ自分色で描けるか楽しみにしたい。
近年、ジャンプ+にてジャンプ本誌で連載経験のある作家が新連載を持つケースが増えており、どの作品もジャンプ本誌では掲載が難しいであろう"ヘキ"を感じる作品となっていて面白いものが多い。
本作もそうだが、やはり作者の好きなものを感じる作品というのは生き生きと描かれている感じが伝わってくるので好きだ。

本なら売るほど (3)

漫画大賞を受賞したり、「このマンガがすごい」の一位を獲得したりした本作だが、その手の賞が溢れすぎていて主催元とかノミネート基準とかを調べるのがめんどくさい。
自分はこの手の賞は何の参考にもしておらずむしろ逆張りで買わないのだが、本作に関しては面白いことは確かだし一巻から買っていたので良しとする。
これは別に貶しているわけではないのだが、本作に限らず漫画で描かれる人間関係ってそう突飛なものはないと思う。
愛とか友情、恋や執着、尊敬に嫌悪、殺意や庇護や恨みや呪いなど、感情って割とラベルを貼るのはたやすい。
それゆえに大切なのって関係じゃなくて出会い方や深め方で、何をきっかけにして出会って何を媒介にして関係を育んでいくかということが重要なんじゃないかという気がする。
何言ってるのかよくわからないと思うが自分も何を言っているのかよくわかっていない。
とにかく、自分は本が好きなわけなのでありふれた人間関係であっても本が媒介となった縁というのは共感できるところが多々あるし単純にうらやましいなと思う。
だから「本」の部分を自分にとって好きなものや身近なものに変えてみればいいんじゃないって話。

はなまる・エントロピー (2)

この後に紹介する本でもそうなんだけど、こうなったらもう開き直るしかないだろう的な状態ってある。
本作においても彼氏であるナツは朝起きたら身長が13.5㎝になっていたわけだが、一巻での彼にはある種の開き直りが見えたように思う。
ナツは身長が156㎝しかないことがコンプレックスで、それにより「自分の人生なんてこんなもん」と全てを小さくまとめて生きている。
ところが13.5㎝になってしまった彼がどこか安心した気になっているのは、そうしたコンプレックスからくるしがらみから解放されたということと、開き直っても大目に見てもらえるだろう的な甘えなのだろうなと感じていた。
13.5㎝では仕事や社会生活どころではないから今まで気にしていたような収入面はいったん脇に置いといても問題ないし、ミニサイズになってしまうというありえない不幸を笠に着て多少のワガママは許容されるだろうみたいな。
ところが二巻のナツは彼女である千穂に代筆(小さくなったので書く手段がない)してもらった退職届を自分で会社のポストに投函したり、彼女の誕生日を小さいながらも全力でお祝いしたりと、自分にやれることを精一杯やっている様子が描かれていた。
これはダウンサイジングした怪我の功名のようなもので、コンプレックスやらなんやらから解き放たれて逆に何かと軽くなった様子である。
二巻はナツの開き直りがマイナス面に作用する展開になるのではないかと思いきや、意外にもプラスに転じていたことが驚きだった。
また、今回作中で、人間は多面的であり恋人だからってすべての面を見せているわけではないし、恋人には見せていない面を見せる友人もいるがそれは人間関係に優劣があるわけではない、というくだりがあった。
こういうのって依存先をたくさん作っておけという言説に近いものがあって、自分の周りにたくさんの人間関係がないとこの結論には至れないと思う、あとは年齢とか。
恋人にすべてを開陳することを求めるのって若い時にやりがちで、若い子もいずれこの理論がわかるときが来るし来ないかもしれないけど、寄りかかれるものはたくさんあったほうがいいよねって感じ。

機動戦士ガンダム ジオン大百科

表紙に「公国から袖付きまで」とあるように、ジオンの系譜を解説していく書籍。
あくまでもジオンにフィーチャーした内容なので、掲載されている宇宙世紀年表もUC0100にジオン共和国が自治権を放棄するところで終わっている。
こういうムック本は割と当たり外れがあるので買うかどうか迷ったが思ったよりは悪くなかった。
特に、ジオン関連のキャラクターを紹介するコーナーでは声と名前付きの人物はほぼ掲載されているのではというくらいの充実ぶりだった。
階級とキャラクター説明が書かれているのもありがたい。
キャラ紹介を見て、そう言えばフラナガン博士はTV版と劇場版で見た目が違ったことを思い出したし、ジークアクスで登場した博士は劇場版準拠のデザインだった。
一方でMS紹介に関してはほとんどの機体は絵と名称が載っているだけだったので、軽い解説は欲しかったところだ。
そしてジオン大百科といっても対象は映像化された作品とMSVに限られるため、漫画や小説などの作品とジークアクスについては載っておらず、また、上記したように宇宙世紀0100年以降は触れられていない。(『ダブルフェイク』などの一部漫画作品の機体は掲載されており、ジークアクスについても作品紹介コーナーでは取り上げられてはいる)
それと贅沢を言えば、ジオン・ダイクンやギレン・ザビの思想はもうちょい深掘りしてほしかったところではある。
特に、スペースノイドの間で広まった「エレズム」に関しては後年の登場人物にも影響を与えているため、ちょっと触れるだけじゃなくてガッツリ書くべきではなかったか。

乳房になった男

表題作の『乳房になった男』を含め、短編6作品が収録されている一冊。
乳房になったとは言ってもまあ顔面だけだろうくらいに思ってHUNTER×HUNTERの兵器ブリオンみたいなものをイメージしていたが、読んでみると完全に一個の乳房になってしまった男の話だった。
以下に、乳房の特徴をまとめておく。

  • 体重約70kg、体長約180cm
  • 顔面が乳頭で全体が乳房にあたる(当人としては頭が乳頭になったと考えているが、医者としては陰茎の亀頭の部分が乳頭になったのではと仮説を立てている)
  • 乳頭と乳輪は綺麗なバラ色
  • 人種はコーカソイドのまま
  • 呼吸は可能。排泄はチューブを通している
  • 乳頭には耳と口らしい穴の痕跡があるので喋れるし音も聞けるが食事はできない
  • 嗅覚なし、目なし
  • 乳房なので動けないが身体を揺する程度のことはできる
  • 身体(特に乳頭)を触られると性的快楽を感じる

まとめるとシュールだが当人としては完全に大真面目に悩んでおり、まあ朝起きたら乳房になっていたのだから当たり前だ。
乳房になった男ことデイヴィッド・ケペシュは大学で文学を教えているため、自分が知的階級だという自覚を持っている。
そのため、乳房になってしまったからといって下手に礼儀礼節を失うことができないと考えている。
一方で、乳房になったことのある人間はこの世に存在しないのだから乳房としてどう振る舞うのがベストか不明なためせめて人間らしくありたいと思っているが、上記の特徴を見ても分かるように彼は他人に世話されないと生きていけないため、そうしたジレンマを抱えて最初は過ごすことになるのだ。
ところが、そんなデイヴィッドも次第に分別が持てなくなり、開き直り・投げやりとも取れる態度を周囲に取るようになる。
上記したように彼は乳頭部を刺激されると性的快楽を感じるようになったわけだが、彼女であるクレアにそれを求めるようになっていく。
ところが手での刺激に物足りなくなったデイヴィッドは、乳頭を陰茎に見立てて彼女とファック(原文ママ)したいという欲望を抱くようになり、それをクレアにお願いするかどうかを真剣に悩み、周囲にも当たり散らすようになる。
デイヴィッドとしてはクレア以外に自分にこんなことをしてくれる人がいないことを自覚しているからこそ迂闊なことを言って彼女が離れていくのを避けたいと考えており、それはまあその通りだ。
彼氏が乳房になってもできる限り彼の願いや欲望を叶えてあげたいと思う彼女なんてそうそういるものではないし、そもそも乳房になった男と付き合いたいと思う女性なんていないだろう。
だからデイヴィッドは乳頭を刺激する時間を減らしてでもクレアと会話をしたいと思っているわけだが、それは純粋な優しさからではなく彼女の信頼を勝ち取り、あわよくばファックさせてもらおうとする打算的な気持ちから起こったものだ。
当初は人間として礼節を忘れずに生き、人間であることを忘れないためにありふれたことに縋り付いていたデイヴィッドが、途中から徐々に開き直って狂気とも取れる心理状態に入っていくわけだが、仮に自分が乳房になってしまったらきっと彼と同じようになるだろう。
自分は普通の人間ではなくなってしまったのだから、せめて自分の望むことをさせてほしいと思うのを果たしてわがままと切り捨ててもいいものだろうか。
デイヴィッドは「良心や欲望や悔恨を持っているのは人間だから」と言っているが、これは自分がまだ人間だから人として当たり前の主張をしているのだとも取れるし、自分は人間ではなくなったのだから欲望を大っぴらにさらけ出してもいいだろうと叫んでいるようにも取れる。
デイヴィッドは最終的に、「偉大な芸術への憧れが自分を乳房にしたのでは」という結論に至る。
カフカやゴーゴリには頭脳があり、優れた言語能力があったからああいう変身文学を思いつくことができたが、自分にはそれらがなかった。
だから自分は自分の芸術を体で表現するしかなかったのだと納得しようとするが、芸術の実現に乳房になったのでは正直たまらない。
他にも、あんなに熱中していたクレアとのセックスに醒めてしまったからとかいろんな理由を考えるものの、どんな理由があったにしても一人の人間を乳房に変えるほどの合理的な理由には程遠い、というか乳房になること自体が不合理なのだから理由も何もないのだが当人としては何らかの原因を求めないとそりゃやっていけないだろう。

李陵・山月記(山月記・李陵)

『乳房になった男』を読んで、変身ものの作品を読みたいと思って家にあったものからこちらを選んだ。
最初に新潮文庫版を読み、そちらに収録されていない作品を岩波文庫版で読むことにした。
特に山月記に関しては国語の教科書にも載っていたし話の概要は知っているけどきちんと読んだことはなかったので良い機会である。
「隴西の李徴は博学才穎」から始まる山月記の文章はやはり格調高くてカッコいい。
『乳房になった男』に比べると李徴が虎になった理由は納得がいく。
有名な「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」というやつである。
これゆえに李徴は詩で身を立てたいと思いながらも師匠に学ぶことをせず、同好の士と交わって切磋琢磨してくることもしなかった。
人間はみんな心に各々の性情という獣を飼っており、李徴の場合は尊大な羞恥心こそが猛獣であった、その猛獣を飼いならすことができなかったから飲み込まれて虎になってしまったのである。
李徴のこの言語化能力をもってすれば詩で名をあげることは容易だったと思う。
人はよくわからんことを言語化することによって何とか理解しようとしたり理解した気になったりするものだが、言語化したくないこと、言語化してしまったら自己が保てなくなる事柄もある。
李徴は「己の乏しい詩行」なんて自嘲しており、そんな卑下するなよと読んでいて思ったが詩がどうこうではなく自己中心的な自分を恥じているわけで、羞恥心という獣に飲まれてしまった今、もう怖いものなんてないから全部言語化しちゃえという具合だ。
これで李徴が開き直って詩がめっちゃうまいおもしろ虎としてやっていければ愉快だったかもしれないが、彼は心も既に獣に侵食されており、段々と人間であるときの時間が短くなっていずれは身も心も完全に虎になってしまうのでもうどうしようもない。
また、山月記と同じく表題作の『李陵』だが、李陵は李広という名将の孫で、この李広はキングダムの主人公でお馴染み「李信」の子孫に当たるらしい。
まあ自分はキングダムを読んだことがないのでへえーと思った程度のことだが。
本を買って積んでおくと保管スペースに困ることは確かだが、こういう連想ゲーム的発想で次に読む本を決められるのはおもしろい。
これ以降の書籍も"変身"をテーマにした作品となる。

変身

『乳房になった男』にて主人公が挙げていた作品のひとつ。
朝起きたら巨大な虫になっていた男、グレーゴル・ザムザについて書かれている。
虫の種類は書かれていないものの、描写から察するにゴキブリ的なものに近いだろう。
乳房になるのも嫌だけどゴキブリになっているのも困りものだ。
前述の作品は主人公の周りの人間が割と優しかったが、ザムザの家族はそうはいかない。
家族はザムザをあからさまに敵のように扱うことはないものの、嫌悪感を隠そうとせず家の中でひっそりと耐え忍ぶ暮らしをするようになる。
コミュニケーションを取らないのはもちろんのこと、食事は適当に床に置くし、ザムザが残したものは無造作にホウキで集めて捨ててしまう。
ザムザも人間だった頃の生態がどんどん薄れていき、好物だった牛乳は体が受け付けなくなるばかりか新鮮な食品をおいしくないと感じるようになる。
また、虫なので天井や壁を這うことができ、何なら壁に張り付くことだって可能だ。
そして、彼が人間として暮らしていた頃の証拠である自室の家具が処分されていき、ザムザが人間として暮らしていけなくなる外堀がどんどん埋められていってしまうのがつらい。
本作では主人公の姿が変わってしまった理由などを分析することはなく、ザムザとその家族がどういう結末を辿るかを淡々と描いている。
まあ正直、巨大なおっぱいと巨大なゴキブリとではどちらに嫌悪感があるかと考えればそれはもう圧倒的に後者である。
かといってザムザがおっぱいになっていたとして家族の対応が軟化したかというとそれは怪しいところだ。
でもザムザもいくら何でも優しすぎると思った。
虫になってて人間に戻る見込みがないんだからもっと開き直ればいいし、家族のことももっと憎めばいいのに。
運命を甘んじて受け入れているのは何でだろうと思ったが、やはり乳房になった男と同じで人間として超えてはいけないラインがあるということなのだろう。
それにもしも自分以外の家族が虫になっていたとしたら同じような態度を取らないとも限らないだろうし。
4月は漫画も小説も含めていろんな"変身"を読んできたけど、何に変身するかが異なるように周囲の対応も作品によってまるっきり異なった。
BLEACH47巻の巻頭ポエムを突然思い出したので貼っておく。

君が明日 蛇となり
人を喰らい 始めるとして
人を喰らった その口で
僕を愛すと 咆えたとして
僕は果して 今日と同じに
君を愛すと 言えるだろうか

外套・鼻

同じくこちらも『乳房になった男』にて挙がっていた作品。
よく考えたらロシア文学はかなり昔に『カラマーゾフの兄弟』を挫折して以来だった。
ロシア文学の何が難しいって、とにかく人物の名前が覚えづらい。
でも表題作『外套』の主人公である"アカーキイ・アカーキエヴィッチ"は妙に語呂がよくて気に入った。
変身ものとして有名な『鼻』であるが、自分は『外套』がかなり好みの作品だった。
『外套』は冴えない役人であるアカーキイ・アカーキエヴィッチが古くなった外套を新調したことを機に、哀れな運命に巻き込まれていく作品となっている。
変わり映えのない生活をしている彼が、外套を買い替えると決めてから日々わくわくしているあたりが洋服好きな自分としては非常に共感できる。
仮に外套を購入した彼が悲劇的な結末を辿らなかったとして、新しい外套もいずれ日常に埋もれてありふれたものになってしまうだろう。
だからこそ、外套に代わる次なるものを見つけて生活に彩りを与えることが大事なんだよなあ、って結論に至ってほしかったと勝手ながら思っている。

2026年3月に読んだ本

ネットを見ていると自称オタクの人が、オタクでないのことを「一般人」と呼んでいることがある。
自分が好きな分野の知識がない人というニュアンスで使っているのだろうがそれなら「非オタク」とかでもいいわけで、このあたりに自称オタクの気色悪い自意識を感じるなあと常々思っている。
自分たちのことを「一般人」でないと思っているのが最高に痛々しく、その趣味にどっぷり浸かっていること、その界隈に属していることが「一般人」とは一線を画すのだと思っている選民思想も見るに堪えない。
もちろんだがここで言うオタクとは別にアニメや漫画に限ったことではなくどの分野にもいるため割と見る機会が多くてみっともない。
こういうオタクはYoutuberが結婚を発表して「お相手は一般の方です」とコメントを出した際、「お前も一般人だろうが」などと冷笑気味に言うのだろうがそういうお前も普段同じようなことをほざいているのだ。
2月と3月は忙しくまとまった読書の時間が取れないため、読んだものは漫画のみとなる。
一応ネタバレ注意で。


↓先月分↓
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ONE PIECE (114)

ヒノキズの男の話が出てきたとき、今まで匂わせもされなかった新しい要素が突然出てきたなあと思ったが、「デービー一族」という新ワードがさらに登場するとは思わなかった。
バッカニア族やルナーリア族とは違って特異体質があるというよりは存在自体が罪という扱いのようだ。
ジョイボーイとも関わりがあるようなので、世界政府によって歴史を歪められ忌むべき存在みたいにされた人たちなのだろう。
113巻でロックスがデービーバックファイトを繰り返して仲間を集めていたというくだりがあり、ロックスが「デービー・ジョーンズの崇拝者」と言われていたが、崇拝者という言葉の使われ方がなんか唐突で不自然だなと思っていたがそういう背景があったようだ。
デービー・ジョーンズという名前は海賊の世界では有名なようで、パイレーツ・オブ・カリビアンにも出ていたような気がする。
しかし、20年前に本編に登場したデービーバックファイトがここで日の目を見るとは予想もしなかった。
フォクシー海賊団の登場は32巻、デービーバックファイトが本格的に開始されたのが33巻、空島とウォーターセブンの間のエピソードで、しかもその後に青キジが初登場するというインパクトですっかり存在感が薄くなってしまったデービーバックファイトであるが、まさか再び注目される日が来ようとは。
デービー・ジョーンズについては当時ロビンが説明しており、「悪魔に呪われて深い海底に今も生きていると言われる伝説の海賊」「海底に沈んだ船やお宝は甲板長だった彼のロッカーにしまわれる」とのことだった。
悪魔をイム様だとするとデービー・ジョーンズが生きている可能性だって考えられなくもない。
そもそも、デービー・ジョーンズの船であるフライング・ダッチマン号も魚人島で出てきたわけだし。
他、気になった点としては、エッグヘッド編でくまの回想に登場し奴隷の手錠をかみ砕いた魚人が誰なのか気になっている。
今回のゴッドバレー編で回収されると思っていたがそんなことはなかった。
ブルックと軍子のくだりもなかったし、ゴッドバレー編でかなり重要な話が展開されていたがまだまだ残されたものは多そうである。
また、シャンクスがロジャー達に拾われるシーンもあったがあの場面は先行してFILM REDで描かれており、さらっと描写されていたがかなり重要な場面の後だったことがわかる。
ONE PIECEの映画版は本編でも未登場な要素をさりげなく登場させることがあり、STAMPEDEでは「ラフテル」の綴りが明かされ、FILM GOLDでは覚醒した悪魔の実の能力者が初登場した。
本編の展開がかなり極まってきた昨今、次回の映画も重要な要素が登場するかどうかに注目したい。
そして、個人的には今回出番の多かった金獅子のシキをアニメに登場させる際、声は引き続き竹中直人さんが担当するのかどうかが気になる。
ワノ国だかどこかの回想でシキが再登場した際は竹中さんが続投していたが、あのときはサラっと登場しただけだし、今回のゴッドバレー編のように出番が多いと事情も違ってくるのかもしれない。
シキのカッコよさは声によるところも大きいので、ぜひともがんばってもらいたい。

さむわんへるつ (2)

自分は元々恋愛漫画は読まないのだが、この年齢になってくると子供の恋愛模様でいちいち一喜一憂していられない。
とはいえひとつのワイヤレスイヤホンを二人でシェアしたり、インスタントカメラを初めて購入してみたりするシーンは、昭和平成と令和の恋愛のハイブリッドという感じで見ていて微笑ましい。
恋愛漫画って価値観の押し付け合いみたいに感じて疲れる作品もあるんだけど、本作は絵柄も相まって二人ともかわいらしくて、要所要所に差し込まれる海月のふてぶてしい顔もなかなかツボだ。
また、2巻は同時期にジャンプで連載していた『呪術廻戦モジュロ』とのコラボイラストカードが限定でついてくるのもうれしい。
まあ間違いなく本作はアニメ化するでしょう。

ルリドラゴン (5)

今回は全体的に真剣10代しゃべり場みたいな回だった。
ルリがみんなにまだ話していないドラゴンの話をしたり、自分がドラゴンの力を有していることについて意見を聞いて回ったり、まあこういう展開に対してやたら物わかりの良いクラスメイトがずっとごちゃごちゃ討論をしているみたいに思っている人もいるだろう。
でも自分としては、ようやくルリが己の人生に当事者意識を持ってきた感があると感じている。
「分からないこと分からないままにしたくない」「わたしには知る義務が、皆には知る権利がある」と、ドラゴンであることに向き合いつつ、クラスメイトにも知ってもらうための努力を始めたルリは、物語開始当初の流れに身を任せてきた彼女からすれば大きな変化であると言える。
だからこそ毎回言っている気がするが、とにかく本作の大人は大人をしていない。
本作においてルリのフォローをしてくれる大人は母親と、ドラゴンの生態を把握している政府機関所属の担任の先生だ。
彼らの行動はとにかく場当たり的で、ルリのドラゴンとしての新たな体質や能力が発現するたびに慌てて対応をするということが繰り返される。
まあ最初から全ての事態を想定済みで先回りして潰していくような展開では物語的につまらないのはわかるが、それにしても本作における大人はアンニュイな顔で悟ったようなことを言ってばかりで全く頼りにならない。
特に母親の振る舞いには目も当てられなく、ルリが初めて教室で火を吐いた後の親子の会話が今巻で明かされる。
母親としては普通の人間として育つと思っていたらしく、ドラゴンとのハーフであることは話すつもりもなかったとのこと。
あまりにも杞憂が過ぎて子供に余計な不安を与えたくないという気持ちはわかるので、ここは一概に責めることはできない。
だが問題はその後で、「ルリが聞きたいって言ったら話す」「でももしまた異変起きたらその説明は強制執行」と言っているのだが、何を悠長なことを言っているのかと。
ルリが教室で火を吹いて、髪を焼かれてしまった吉岡の弁によると「俺は髪が焼けたことは何も怒ってないって言ったけど、もし今後同じことがあったらそれがあると分かってて避けられなかったってことになる」とのことだが正にその通りで、火を吹いたときは惨事にならなくて済んだけど、ドラゴンの力が人を害する可能性がある以上はこの時点で大人たちはルリに全てを話すべきだったのだ。
ルリの意思を尊重したいというのは物語都合のただの詭弁であり、大人たちが彼女に後出しでドラゴンの生態を公開していくことが続くと、それこそルリの意思とは関係なく学校を去ることになり今と同じような生活ができない可能性もあるのだ。
吉岡はその後「俺がもう少し深く頭焼かれてたら、青木はもっと責苦に遭ってたんじゃない?」とこぼすが、よっぽど彼のほうが大人たちよりしっかりしている。
初回の火吹きで被害が少なかったのはあくまでもラッキーだっただけで、その後も対応が後手後手に回ってしまった大人たちは情けないとしか言いようがない。
まあ先ほども言ったように、有能すぎる大人たちを描いても物語として面白いかは疑問なので難しいところだが。

平成敗残兵すみれちゃん (9)

今回の話は展開が非常に好みで、これをきっかけに単行本の購入を決意したくらいだ。
以前すみれちゃんがすしカルに言っていた「一回負けたくらいでゲームオーバーなんて人生はそんなクソゲーじゃない」「負けてもまた挑戦すればいい」という発言を、自分と雄星との関係にもあてはめているとは思わなかったので、完全にすみれちゃんの覚悟が決まっている。
雄星はまだ高校生なので、仮に失敗してもすみれちゃんが掲げる再挑戦理論を実行する時間は十分にある。
だからすみれちゃん自身はどうなってもよいと思っていて、自分をプロデュースした経験を糧に雄星がまた挑戦してくれればそれでよく、我が強くステージでは爪痕を残さないと気が済まないすみれちゃんがここまで自己犠牲極まった考えを持っているなんて完全に予想していなかった角度からの覚悟だった。
以前に雄星の母親にも言われた「挫折した"今"は負けた人を真面目にやってない?」という言葉にも関連しているというか、やけくそになっている部分もあるかもしれないと思ったけどさすがに杞憂だと思いたい。
とはいえ雄星としてもすみれちゃんを自身の成長の糧として消費する気はなく、自分が憧れた格好いいすみれちゃんをみんなに見てもらいたいという気持ちは変わらず、事務所を立ち上げる決意をするのもまた熱い。
また、今回は作者さんがネットで「この漫画は登場人物の性別を逆転させたらヤバイ」という書き込みを見たことをきっかけに描かれたおまけ漫画も収録されている。
こちらもかなりパンチの効いた内容になっているので、おまけ漫画だけでも買いの一冊だ。

一級建築士矩子の設計思考 (5)

本作の作者さんは同名義で18禁漫画を描いていたことがあるのだが、以前にネットで「過去の絵柄から比べると随分と湿り気が減った」との意見を見たことがある。
自分もこの漫画の1巻が出たときに作者さんについては調べてみたが、そう言われて改めて見てみると最初の巻ではまだ湿度が残っている絵柄だった。
今の絵は割とシンプルになっている気がするし、人物よりも建築を見せたいのかなと思った。
あずまんが大王の後半と「よつばと!」の序盤が同じ絵柄で、その後に出たあずまんが大王新装版の書下ろしおまけの絵が「よつばと!」の絵柄と同じだったことを思い出す。

二階堂地獄ゴルフ (12)

二階堂が巻き戻し能力をフルに使ってプレーしている姿が初めて描かれているわけだが、二階堂視点と能力を知らない第三者からの視点とで描かれているため、彼の能力がゴルフにおいてどれほど脅威かよくわかる。
それゆえになぜ今まで二階堂がプロテストに合格してこなかったか、もっと言えば不正が疑われる可能性があり、次回以降ではどうにもそういう展開になるっぽい。

新機動戦記ガンダムW (1)-(3)

かつてコミックボンボンで連載していたときた洸一先生版のガンダムW。
ガンダムWは初めて視聴したガンダムシリーズなので思い出深く、本作も熱心に読んでいた。
ストーリーを3巻にまとめているのではしょっているところがあったりアニメと少々違う展開があるのは仕方がないので、大まかな話の流れを漫画版で知るのもよい。
個人的に嬉しかったのは、同じくときた先生がボンボンで連載していたガンダムの4コマ漫画も併録されていたことだ。
既に持っているG-UNITの新装版単行本には4コマ漫画が収録されていなかったのに、本書と一緒に入手したG-UNITの旧版単行本には載っていたので、そちらと合わせて非常にノスタルジックな気持ちになった。
本書も新装版が刊行されているらしいが、もしかしたらそちらにも4コマは収録されていないかもしれない。

新機動戦記ガンダムW BATTLEFIELD OF PACIFIST

アニメ本編とエンドレスワルツの間を繋ぐオリジナルストーリー。
エンドレスワルツ冒頭でガンダムを破棄することにしたヒイロたちが、そもそもなぜその結論に至ったのかが描かれる。
本作は当時、知らん雑誌に掲載されていてそちらが休刊かなんかになったことでストーリーの後半がボンボンの増刊号みたいなやつに掲載されてたと記憶している。
そのためボンボン読者からすると突然知らんガンダムWが始まって困惑したし、ストーリーの前編部分がどこかで読めたわけでもなかったので、自分は長らく全編通して読まずにいた。
本作に登場するオリジナルMS「スコーピオ」とそのパイロットの「ビクター・ゲインツ」はGジェネFで登場し、これまたマニアックな人選だなと思ったものである。
脚本を担当した人によると本作の隠れキーワードは「支配」であるとのこと。
そしてカトル曰く、ビクター・ゲインツの平和論には他者への不信感があり、武器を持つ他者を信じられなかったとのこと。
ビクター・ゲインツはガンダムのパイロットたちに対して「お前たちが暴走した場合は誰が止めるのか」と投げかけていたが、まあ冷静に考えてみれば兵器の廃絶が進んでいる世界でどこの馬の骨とも知れん人らがガンダムという強大な力を持っていれば信用できんのも当たり前である。
人間は相手を信用できないから相手を支配したがるというのはトレーズが持ち続けていた課題であったが、ガンダムパイロットの少年たちは他者を信じられるからこそガンダムを手放す決断をしたのだ。
唯一それをしなかった五飛がどういう選択をしたのかはエンドレスワルツで描かれることとなる。

新機動戦記ガンダムW Endless Waltz

エンドレスワルツのコミカライズ版。
上2作品と同じくときた先生が描いている。
正直、「Endless Waltz」というタイトルの時点で本作の勝ちは決まったようなものだ。
繰り返される「戦争」「平和」「革命」を三拍子のワルツに例え、そこから導き出されたタイトルなんて最高にカッコいい。
基本的に展開はアニメ版と同じだが、上記で紹介した『BATTLEFIELD OF PACIFIST』に絡めた漫画オリジナルのやりとりもちょっとだけある。
改めてEWを見てみると、五飛の気持ちはわかるけどまあまあタチが悪いというか、ガンダムという力を持っているからこそ余計に始末に負えないというか、でも力がなければ主張したいことも主張できないよなとも思うしよくわからない。
彼の言う通り、与えられるだけでは真の平和は訪れないし、平和は自ら掴み取るものという理屈はわかる。
兵士たちは平和のために戦ったのに庶民は安穏と平和を享受するだけで、今度は無責任に兵器廃絶を叫んでいる姿を見ると、あいつらは何のために戦ってきたのかと、戦死者の数を覚えていたトレーズが成したかったことはこんなことではなかったと五飛の正義が燃えたぎるのも無理はないだろう。
五飛も平和が嫌いなわけではないけどあくまでもそれが正義かどうかで行動しているもんだから、他のガンダムパイロットたちにもお前らもっと遮二無二になって考えろよと苛立っていたに違いない。
一応ガンダム本編で完全平和エンドになったのはこれと00くらいだろうか。

風子のいる店 (1)-(4)

岩明均先生のデビュー作。
主人公の有沢風子は吃音であるゆえにクラスに馴染めず疎外感を感じていた。
そんな彼女が逃げ場所を求め、そして内気な性格を変えるために始めた喫茶店のバイトを通して成長していく様を描いたお話。
「置かれた場所で咲きなさい」みたいなことを言っていた人がいたが、どうせ置かれるなら場所くらい自分で選びたいよなあと本作を見ていて思った。
自分に合う場所はきっとどこかにあるからそのために長所を伸ばしていけ、ということを投げかけている漫画で、風子も喫茶店の客や一緒に働く人たちからその姿勢を学んで自分に合う道を探していくことになる。
勉強が必要なのってそういうわけで、勉強によって培われたある程度の学力や計画性がないと場所の選択肢が少なくなってしまうのだ。
岩明先生はこの次に寄生獣を描くことになるのだが、本作の絵柄もまんま寄生獣なので寄生生物との親和性がありそうな世界観にも見える。

純潔のマリア (1)-(3)

百年戦争中のフランスを舞台に、戦嫌いで戦場をかき回す魔女・マリアを描いた作品。
アニメ放送当時に視聴しており、最近思い出して単行本を購入した。
アニメ版はキャラクターがもうちょい多かった記憶があるが、原作を読んでみるとどうやら登場人物の多くはオリジナルだったらしい。
視聴中は特に違和感を覚えなかったのだが、原作ファンからするとあのオリジナル展開はどう受け取られたのだろうか。
マリアは戦争を引っ掻き回したせいで天界から目をつけられて天使の偉いやつに説教を受けるのだが、こういう上位存在が言うことは「お前のやっていることは自己満足だ」と相場は決まっている。
あっちでもこっちでも人は死んでいるのに手の届く範囲しか救わないのかと問う天使であるが、救える範囲しか救わないのは自己満かもしれないがすべてを救えないからといって何もしないのは極端でしかない。
上位存在である天使からすれば戦争で人が死ぬのはこの世の理であり秩序、マリアのような存在が戦争を止めるのは無秩序であるという理屈なのだが、今を生きている人間にしてみれば目の前で人が死んでいるところを秩序だからと黙って見ていることはできない。
というか秩序云々も上位存在側の理屈で、戦争も人が死ぬのも秩序ですなんて言い分はどうあっても人間には受け入れることができないので論じる時点で平行線だ。
BLEACHの1巻でルキアが「死神はすべての霊魂に平等でなければならない」「手の届く範囲、目に見える範囲だけ救いたいなどと都合よくいかない」と言ったのに対し、一護が「人が体を張るときは理屈じゃない」と一蹴するシーンがある。
そして6巻において有名な名言「おれは山ほどの人を守りたい」に繋がるわけだが、まあこれも上位存在からすれば屁理屈なのだろう。
結局マリアは「戦争を止めて他人に幸せを与えたいならまずは自分が幸せを知ること」「一人一人が自分の幸せを見つければ世界は平和になる」という結論に達するのだが、それに対して天使が「多くの幸福と己の幸福の天秤は己の幸福に傾いたか」と返すのが最高に性格が悪くて人間臭い。
アニメで見たときはマリアが単なる小娘にしか見えず、彼氏ができたからって何言ってんだと思ったものだが、こうしてちゃんと向き合ってみると真っ当なことを言っているし上位存在との話が通じない感も半端ないので彼女の答えは支持したい。
平和も幸せも自らつかみ取るもの、という結論は奇しくも上で紹介したガンダムWの結論と被るところもあるわけだった。

純潔のマリア exhibition

マリアと本編で関わりのあった人物の、前日談や後日談が収録されている。
キャラクターに厚みが出るのでせっかくなら読むことをお勧めしたい。
ところで使い魔たちのその後は本編でもこちらでも描かれなかったわけだが、マリアが魔女の力を失った今、使い魔たちもただの動物に戻ってしまったのだろうか。

僕といっしょ (1)-(4)

先坂すぐ夫・いく夫の兄弟は母親の死後、再婚相手であった父親から養育放棄されたことをきっかけに東京へ家出をする。
そこで出会った伊藤茂(イトキン)、進藤カズキらをはじめとする同世代の少年少女との交流をきっかけに「人生とは何か?」を問うギャグ漫画。
作者の古谷実さんと言えば稲中卓球部が有名だが、自分が稲中しか読んでいないことに気付き、とりあえず全作読むかと思って揃えている最中だ。
なんか、この作者と言えばこれ、みたいな作品ってあるんだけど、それしか読んでないというのもなんかつまらんし、「これしか知らんけどこれが好き」よりも「これもこれも知ってるけどこれが好き」の方が説得力があると思うのだ。
同じ理由で岩明均さんの漫画も上で紹介した『風子のいる店』で全作読み終わったところである。
本作は稲中の次の作品であるが故にギャグ描写も稲中が好きな人ならハマるだろうし、稲中の登場人物である井沢・田中・サンチェも作中にちらっと登場している。
しかしギャグマンガの体を取っているものの毒親、同性愛、売春などの要素がさらっと登場しては消えていくドライ目な話でもあるのだ。
なんか稲中以上にどうしようもない話であり、イトキンや先坂兄弟はとある縁から床屋を経営する吉田一家に世話になることになるのだが、彼らは食い扶持を稼いでくることもなく吉岡家の穀潰し的な感じで居候に甘んじている。(弟のいく夫は小学校に通わせてもらっている)
吉田父の日記を盗み見て貯金が底を尽きそうであることを知って良心の呵責に苛まれ家を離れることを決意するも、結局は戻ってきてしまう始末。
だけど、彼らのことをどうしようもないクズとして憎み切れないのは、まだ中学生そこらの年齢であることと、家庭環境が壮絶であったこと、そして吉田家に来た彼らが楽しそうだからなのだ。
イトキンはかつて日常的にシンナーを吸っていたがそれもしなくなり、シンナーを吸っていたのは「淋しかったから」とも明言しているし、なんならその後ではこの暮らしで価値観が変わったとも言っているのだ。
すぐ夫も、自分が素直に喜べないのは周りの目を気にしているから、そして他人はすぐ裏切るからという思いを持っており、つまらんこだわりのために幸せをスルーしてきたと述べているものの、イトキン同様に楽しそうな毎日を送っている。
当初は橋の下でホームレス暮らしをしていたほど生きるのに精一杯だった彼らが吉田家に来て普通のことで悩むようになる姿が、どうにも憎み切れず愛おしく感じてしまうのだ。

わにとかげぎす (1)-(4)

スーパーの夜間警備員をしている富岡ゆうじは32歳にして、今まで友達や恋人と呼べる存在がおらず無為な人生を送ってきたことに気が付き後悔する。
一念発起して友達を作ろうと決意した後、勤務先のスーパーのドアに脅迫文が挟まれていたことを皮切りにいろいろな事件に巻き込まれていく。
富岡は孤独を"罪"と捉えており、今までの不誠実を一気に清算するつもりで行動を起こわけだが、まあ孤独は必ずしも罪ではないと思うけど、彼の言うように現実から逃げ続けてきた結果の孤独ならまあそうとも言えなくはないかなと。
自分の感覚だと古谷漫画に登場するキャラクターっていきなり突拍子もない暴力を振るいそうな印象がある。
本作にも不良やそれ以上の悪い人は登場するわけで、次のコマでは登場人物が酷い目に遭うんじゃないかみたいなことを危惧しながら読んでいたが、一応はハッピーといえるエンドを迎えていた。
本作は上で紹介した「僕といっしょ」から何作か経たあとの作品で、古谷漫画を読んできた人に言わせるとこのあたりの作品は「孤独な男の前に美女が現れて人生に転機が訪れ、なんか不良とかも話に絡んでくる」みたいな展開が多いらしい。
確かに本作も富岡の隣人の羽田さんが彼に好意を抱いており、彼女との出会いをきっかけに富岡の人生に光が差してくるという話である。
まあ他の作品は知らないので置いておくとして、本作だけで言うと「依存先は多いに越したことはない」と言いたい。
富岡の人生に転機が訪れたのは確かに羽田さんのおかげなわけだが彼は羽田さんのみに孤独の解消を委ねているわけではなく、今までは一人で警備員のバイトをしていたのが、最終話ではレンタルビデオ店で同僚と会話をしながら働いている。
孤独に限らず他のことでもそうだが、精神の安定を何か一つに頼ってしまうとその柱がなくなったときに自分を支えるものがなくなってしまうので、寄りかかれるものはたくさん用意しておくに限る。
まあ都合よく美女が現れて人生変わるわけないじゃんみたいな意見もあるだろうが、やはり異性というのは孤独や欲求を満たしてくれるわかりやすい要素であるため用いられるのもやむなしだろう。
また最終話、高所から飛び降り自殺を図ったと思われる人物のコマが意味深に挿入されているが、これはまあいろんな解釈ができると思う。

  • 心情的に死んで生まれ変わった富岡の暗喩
  • 孤独を解消するという目的を果たしたから死んだ富岡
  • 孤独に耐えられずに死んだ別の誰か

などの解釈ができるだろうが明確な答えはなさそうなので、自分としては富岡の人生が良き方向に向かってほしいなと思う。