気分しだいで責めないで

ポップスのイントロが短縮傾向にあるというのはご存じだろうか。

www.afpbb.com

この記事によれば、「(音楽を聴く)環境をめぐる競争がこれほど激しくなれば、アーティストができるだけ早く聞き手の興味を引こうとする」とのことだそうだ。
音楽を手軽に聞けるサブスクリプションサービスが一般的になったことで、様々な音楽に触れる機会が圧倒的に多くなった。
選択肢が増える一方で、自分に合わないなと一瞬で判断されてバッサリ切られることもある。
これだけ娯楽が多い世の中だと一枚のCDをじっくり聴き倒す時間がないのかもしれないが、AメロBメロをすっ飛ばしていきなり「こなあぁぁぁ!!!ゆきいぃぃぃぃ!!!!」では心臓がキュッとしてしまう。


どっかで見たことがあるが、現在恋人のいる男女の割合は、男性に比べて女性が1.5~2倍ほど高いらしい。
めんどくさいのでエビデンスは貼らないが、まあそうだろうなと思う人もいるだろう。
これが何を示すかというと、複数の女性と同時に交際する男性が多いということだ。
だから女性の方が恋人ができやすくセックスもしやすいし、乳首も同世代の男性と比べると黒く、恋愛経験も男性より上なのだ。
これは別に僻んでいるわけではなく、純然たる事実として横たわっていることである。
男性は妊娠の可能性がない故に不特定多数とセックスをすることへのリスクが低く、性欲的にも禁欲生活が続くと正常な判断ができなかったりする。
そのため、そんなに好きな女性でなくてもセックスはできるし、軽い気持ちで付き合う人も多いことだろう。
ハイスペックな男性と宇宙怪獣のような女性が何かの間違いで関係を持つことがあるのはそういうことだ。


ある女性が、「女性は毎日が前戯」と言っており、その一言がずっと心に残っている。
正直、最初に聞いたときには全く意味が分からなかった。
なんかいやらしい響きだなあと感じ、毎日が前戯ということはこまめに尻でも触っておけばいいのだろうかと失礼ながら思ったりもした。
そして、数日考えてやっと意味が分かったので発表する。
「女性にとって、身体だけ求められるのは苦痛」ということなのだと思う。


前述したように、男性はそんなに好きでない相手やワンナイトでのセックスに対してハードルは低い。
関係性の構築されていない相手とのセックスが容易ということは、セックスに対して精神的な繋がりをそんなに重視していないとも言える。
もちろん恋人や配偶者相手だとまた違ってくるとは思うが、女性に比べると男性のセックスは性欲解消の意味合いが大きいのではないか。
一方の女性はセックスをコミュニケーションの一環と捉えている人が多いので、セックスに至るまでの心情や雰囲気を気にする。
「セックス」と直接的な言い方をせずに「いちゃいちゃ」「夫婦の時間」「なかよし」などと濁して言うのも、ムードを重視してのことなのだろう。正直ちょっと笑えるが。
パートナーとのセックスレスに悩む女性が多いのは、自分が女性として見られなくなる不安感もあるだろうが、相手とのコミュニケーションを喪失した気分になるからというのもあると思う。
「言わなくても分かるだろう」思考の男性だと、長らく一緒にいるパートナーと密にコミュニケーションを取らなくても阿吽の呼吸で分かってくれているだろうと思ったり、そもそも今さら気恥ずかしくてストレートな愛の言葉を言いたがらなかったりする。
そのため、セックスによる心の交流をないがしろにしてしまうのだ。
まして、性欲解消型のセックスをする人であれば、散々あれこれやってきたパートナーの肉体に飽きてくるだろうし。


しかし、ごくまれにムラっときて男性がパートナーの肉体を求めたとき、女性としては「嬉しい」と思うのではなく、「何を今さら」と思うのかもしれない。
普段は無関心なくせに、性欲が湧いたときの発散のためだけに自分の肉体を都合よく使われていることに憤慨するのだ。
久しく会話をしていなかった父親から急にキャッチボールに誘われたら戸惑うように、コミュニケーションの欠如した状態でのセックスでは困惑や嫌悪感が先行して濡れないのだと思う。
愛情をもって自分に接してくれるからこそ、女性もプレイに熱が入るし、相手により気持ちよくなってほしいと思うものだ。
つまり、普段は冷たかったりロクに相手もしてくれないような男性に、セックスのときだけ積極的になられても女性は乗り気になれないのだろう。
日常的に愛情を伝えているのならともかく、いつもはパートナーのことを単なる同居人くらいにしか見ていないくせに、ムラムラきたときだけ女性として扱われることに納得がいかないのは何となく分かる。


男性は「出会って○秒で合体」みたいのが好きなので、勃起したら即挿入みたいなセックスをしたがる人もいる。(暴行とかそういうのではなくて)
女性に肉体当てで迫られてもあまり悪い気はしないというか、むしろありがたくチンコを賃貸する思考の人が多いと思うし、機会があるかどうかは別にして少なくともぼくはそうだ。
そうやってやすやすとチンコを貸す男性が多いから、物件の股貸し又貸しやシェアハウスのような賃借契約が横行し、複数の女性と同時交際する男性が誕生するのだ。
極端な話、普段は男性に無関心な女性がセックスのときだけ積極的になったとして、「ギャップがエロい」と前向きに解釈することだってあり得る。
「男性」「女性」と一括りにされることに納得のいかない人もいるだろうが、まあ一般論ではなく所感ってことで。


ぼくもどちらかと言えばムラっときたらガバっといくタイプのセックスが好きで、それに応じてくれた女性も過去にはいたのだが、彼女が嫌々合わせてくれていたのかと思うと申し訳ない。
たぶんAVの見過ぎなのだと思う。
ただ、性欲が強い女性がいいなと思っていることに変わりはない。
女性にも性欲があることはもちろん承知しているが、当然個人差もあるだろうから、自分のエゴを相手に押し付けないようにしたいものだ。
ちなみに、勃起したら即挿入タイプのセックスが好きな男性は「非日常感」が好きなだけなので、それが「日常」になってしまうと途端に没交渉になる。
女性が自宅でキッチンに立つ姿、普段着でくつろぐ姿、同じ布団で寝ている姿など、手の届く範囲にあり、かつ性的なことをしても罪に問われない(であろう)女体にムラっとしているだけなのだ。
ぼくとしては前奏を長く取る中島みゆきタイプで始めつつ、爽やかなAメロや甘いBメロを囁く小沢健二の如くに進行し、サビはエロティカ・セブンでばっちり締めたいところだ。

きみのこだわりをみせてもらってるよ

mezashiquick.hatenablog.jp

前回の続き。

江戸時代・吉原の遊女であれば「年増」とされ、とっくに引退しているような年齢の女性のことを頑なに「アラサー女子」と言いたい系雑誌でお馴染み、【CLASSY】というファッション誌がある。
そちらの企画である【着回しDiary】について前回から書いているわけだ。
いい年をして男子・女子と名乗っている人間に嫌悪感がある。
「アラサー女子」だの「アラフォー男子」だの、字面だけで既に気持ちが悪い。
年を取ることについて過剰にネガティブになる必要もないが、若い時のノリがいつまでも通用するわけでもない。
現実を直視して前向きに生きて、素敵な年のとりかたをすることも大切なのだ。
こんなときこそお前らが大好きな「ありのままの」自分で生きていけばいいのに、年齢だけはどうもありのままでは嫌らしい。


リリー・フランキーさんの受け売りだが、この世の中に真に個性的な人間など一握りだと思う。
突飛な服装をしてマニアックな音楽を聴いて映画を見て、エキセントリックな言動をしようと、根底にある精神が平凡なら真の個性とは言わないのだ。
モテたいから、他人と違って見られたいから、目立ちたいから。
結構な理由だけど、使い古された陳腐な動機であることも否めない。
本当にヤバイやつは髪形が七三分けやセンター分けでも尋常でない雰囲気は伝わってくるし、中途半端なやつは例え年中半ズボンだろうと「やらされてる感」が出る。


前回記事の冒頭でも書いたが、ユニクロジル・サンダーコラボのアイテムに行列を作る人があんなに多いあたり、「みんなが持っている」「ネットで話題」なんて宣伝文句は強いのだろう。
普通は嫌だと言いつつも振り切る勇気はなく、自分の属しているコミュニティの秩序からはみ出ない程度の、周囲から受け入れられる程度のキャラクターで終わるのだ。
「個性」と「気持ち悪さ」は紙一重だと思う。
じゃあ真の個性的と気持ち悪いのとは何が違うのかとなるが、そのへんはぼくも知らないので各々考えてもらって、いい意見があったら教えてほしい。
ただ、周りの様子をいちいち気にせず、「人は人、自分は自分」という考えを貫ける人はカッコいいなと思う。


前置きが長くなったがここからが本題となる。
冒頭で紹介したCLASSYの着回しDiaryは、着回しストーリーらしからぬ個性的な設定が話題になっているらしい。
中身が入れ替わってしまった男女だったり、150歳の魔女だったりと、ひと昔前の【エビちゃんOL】的な働く女性のリアルストーリーとは少々異なっている。
ちなみに11月は、ヤンキー高校に赴任した肝っ玉女教師が主役だ。

classy-online.jp


そして先日、着回し企画を担当しているという編集さんとライターさんのインタビュー記事を見つけた。

classy-online.jp

classy-online.jp

ぼくの知ってる着回し企画と言えば、女子大生が憧れの先輩といい感じになるまでのプロセスを描いたものや、OLが商社や広告代理店の男前と結ばれるというものだ。
設定も主人公が新人だったりちょっと仕事に慣れてきてたり失恋したばっかだったりで特に代わり映えがなく、お相手の男性も職業や主人公との出会い方が違うくらいだった。
なので、こちらのインタビュー記事で言っている、

今までの『CLASSY.』って、「王道にモテてお金持ちと結婚するのがゴール」みたいなイメージがあって。読者として読んでいた時も「なんでこの着回し主人公の相手は商社マンばっかりなんだろう、世の中にはたくさん男性がいるし、なんなら男じゃなくてもいいのに!」って思っていたんです。

というのは非常に共感できる。
しかし、CLASSYの着回しDiaryが個性的でぶっ飛んでるかというとそれは違うと思う。
なぜなら、チンコを物差しにして自分の価値を計っているスタンスは変わらないからだ。


今まで見てきたCLASSYの着回しDiaryは基本的に、「女性が男性と出会って自分の価値観や常識を見直して前に進む」というテーマだった。
男性と結ばれることもあれば関係性に結論が出ずに終わることも、何なら彼氏ができないパターンだってある。
自分のやりたいことや進むべき道を見つけたり、友人や家族との絆を再認識したりと、ゴールが「モテ」「素敵なカレを見つける☆(ゝω・)v」であった従来の着回し企画とは一線を画しているように思える。
しかし、これを果たして「個性的」と言っていいものだろうか。


人との出会いによって自分の意識が変革することや、それこそ人生が変わるようなこともあるだろう。
しかしそれは何も男性でなくてもいいはずだ。
同性の友人だって、テレビの中の芸能人だって、ネット上の見知らぬ他人だって、どんな縁があって自分の人生に関わってくるか分からない。
CLASSYの着回しDiaryは、確かに主人公の前向きな未来を示唆する結末で終了するが、そのきっかけはすべて男性によってもたらされている。

『CLASSY.』の読者って、恋愛にしろ仕事にしろ世間体を気にしちゃってて自由に楽しめなかったり、動けなかったりする子がまだ多い印象で。でも、自分がいかに幸せになれるかがポイントで、決して競争なんかじゃない。だから、「もっと自分主体で生きていいんだよ」というメッセージを散りばめているんだよね。

人と比べるとか、相手に選んでもらうとか、そういう“しがらみ”から解放されて、「私が主人公よ!」というくらいの図々しさが欲しいなと。モード誌からしたら「個性」「自分らしく」みたいなものって当たり前だと思うんですけど、王道コンサバ誌の『CLASSY.』がそういうスタンスを発信するっていうことに意味があるんじゃないかなって。

インタビュー記事ではこんなことを言っているが、「自分主体で」「相手に選んでもらうしがらみから解放」と言っても結局は男性との出会いをきっかけにして話が進んでいる以上、主体性があるとは言い難いし、異性の目をバリバリ気にしている。
CLASSYが王道コンサバ誌であることは初めて知ったのだが、そういうコンセプトの雑誌であれば男性からの好みや恋愛要素は外せないだろう。
好きな異性によく見られたいという意識で、メイクやファッションにも力が入るだろうし。
しかし、「選択の自由」を掲げているのなら、男性からの目線だけ気にするのもナンセンスなのでは。
もっと言うと、恋愛要素だって必須でなくともいい。
「自分がいかに幸せになれるか」がポイントであれば、彼氏や意中の男性がいることが幸せと捉えられかねないストーリーにも疑問が残る。
「女の価値は男の数で決まる」なんて昔のドラマで言っていたが、自分の価値なんか自分で創出すればいいのだ。
誰かや何かに依存して作り上げた価値や幸福なんて、その対象がなくなったらあっという間に瓦解してしまう。
ぼくが男性との出会いでしか己の身を顧みることのできない女性を、「チンコを物差しにしている」と呼んでいるのはこういうことだ。


そして、結局「モテ」を標榜している以上、「個性的」「ぶっ飛んでいる」という括りも妥当ではない。
根底にある動機が普通であるがゆえに、いくら設定を盛ったところで平凡の域は脱しないのだ。
まあ、万人受けしない設定とストーリーを練っても雑誌の売り上げに結びつかないのだろうが。
今のままのスタンスが続くようであれば例え主人公の女性が殺し屋でも、片腕にドリルが付いていても、夜な夜な黒人と乱交パーティをしていても、いつかは企画に行き詰まると思う。


以前に書いた記事と似たような内容になってしまったけど、もうどうすることもできなかった。

mezashiquick.hatenablog.jp

しかし、CLASSYが王道コンサバ誌って知らなかったのもそうだけど、改めて見ると女性ファッション誌って本当にたくさんある。
コンサバなのはnon-noやMOREくらいで十分なのではと思っていたが、あれはまた対象年齢が違うのだろう。
ファッション誌の種類はたくさんあるのに、街ゆく女性の服装がみんな似たような感じで制服化しているのも不思議だ。
とりあえず、ナチュラル派の「ていねいに暮らしている」的なアラサー以上の女性がリンネルを読んでいる率は異常。

きみのこだわりをみせてよ

こないだ、ユニクロの前を通りがかったら店舗前に行列ができていた。
その日はジル・サンダーとコラボした【+J】の発売日だったのである。
今のジル・サンダーのデザイナーはジル・サンダーさんではないので、ユニクロとコラボしたと言ってもブランド単位の共同ではなく、あくまで元デザイナーであるジル・サンダーさんの個人的なものだ。
実際彼女がどの程度製品に関わっているかも不明なのだが、上記の事実を説明したとしても売上に大した影響はないはずだ。
別に誰が何を着ようとぼくには関係ないのだが、並んでまで買うものだろうかとも思う。
結局、個性個性と言いつつもみんなと同じ枠組みの中でないと安心できないんだろう。


ぼくがたまにウォッチしている雑誌がある。
おばさんのことを頑なに「アラサー女子」と言いたい系雑誌でお馴染み、【CLASSY】だ。
以前にも、この雑誌の名物企画(らしい)【着回しDiary】について紹介したことがある。

mezashiquick.hatenablog.jp

企画自体はファッション誌によくある一ヶ月間の着回しを提案するものなのだが、CLASSYの着回しDiaryは設定が突飛で話題になっているらしい。
詳しくは上記にリンクを貼った以前の記事を読んでもらいたいのだが、ぼくが個人的に結末を注視していたのは10月の着回しストーリーだ。


classy-online.jp

10月の着回しテーマはパリシックなコーディネートで、主役は御年150歳の新米魔女・チエミである。
10月1日に男前と出会って一目惚れをしたチエミは、魔法を使って彼と同じ会社に潜り込むことに成功している。
そこからまあ、人間界と魔女界の慣習の違いや人種(?)のギャップを乗り越えて彼との中を深めていくという物語だ。
彼の魔女に対する偏見や、人間に歩み寄ろうとしないチエミの姿勢から一度は仲違いするものの、周囲のアドバイスからチエミは人間に歩み寄ることを決意するのだ。
一生懸命にスマホの使い方を覚えたりと(魔女界にはスマホがないらしい)、実際に行動にも移している。
最終日である10月31日時点ではチエミは彼と結ばれてはいないものの、「魔女とか人間とかは置いといて二人の気持ちが大切」という結論に至る。

classy-online.jp

なんか、ぼんやりとした結末だなあと思った。


ぼくは以前の記事で、魔女界の掟が話のカギを握るのではと踏んでいた。
私利私欲を捨て、彼のために魔法を使った結果、チエミと彼の仲に決定的な展開が発生すると読んでいたのだ。
と言うのも、人間界では魔法の使用はご法度とされているらしい。
一方でチエミは、のっけから自分のために人間界で魔法をバンバン使用している。
憧れの彼に近づくために同じ職場で働ける魔法を使ったり、彼を叱責している上司が気に食わないからという理由で上司の鼻を伸ばしたりとやりたい放題であった。
「なんか魔女って恐い」と言った彼に対して魔力を爆発させたりもしている。
しかし、人間界での魔法使用については深掘りされることもなく話は進行していく。


10月4日にはチエミの祖母が「人間との恋はご法度」という忠告をしに来るが、魔法の使用については咎められていない。
また、10月14日には母親から「人間に魔法を使ったことが組合にバレたら大変」と注意をされる。
母親が水晶の魔法で監視しているため、事態を知ることになったのではとチエミは推測している。
魔法組合なのか魔女組合なのかは知らないが、魔女のための団体があって水晶魔法という魔女を監視するためのシステムがあるのなら、人間界にいる魔女の監視体制をもっと強化すべきではないかと思う。
人間界にどれほどの魔女がいるのかは定かではないが、人知を超えた「魔法」という力を行使できる魔女だからこそ、力を自覚して節度と責任を持って行動すべきだ。
人間は善人ばかりではないので、魔女を私利私欲のために利用しようとする人が現れないとも限らない。
魔女界の闇に葬られた穢れた歴史を知ってしまい、仙水忍的な思想に目覚めて魔女界に反旗を翻す魔女が現れないとも限らない。


また、10月11日にはチエミが魔女昇格試験のための勉強をしている様子が描かれている。
それによると「受かったら、私もいよいよ一人前の魔女」とのこと。
昇格試験にどれほどの段階が存在し、どの位置にいればどれだけの権限が与えられているのかは明かされていない。
しかし、一人前でないチエミにも自由に人間界を行き来でき、あまつさえ自由に魔法が使えるだけの権限はあるようだ。
一人前でないということは、魔女の力が世界に及ぼす影響や、魔法の強大さについていまいち分かっていない可能性が大きい。


チエミは、10月14日に母親に注意された一件は上司の鼻を長くしたことが原因だと思っているようだ。
実際、上司の鼻を伸ばしたのが10月9日で、母親から連絡があったのが5日後なので、その推測は間違っていないだろう。
しかし、個人的には彼女が魔法を使って意中の彼と同じ会社に勤められるようにしたことのほうが問題だと思っている。
チエミが彼と同じ会社で働くようになり、驚いていたのは彼のみであった。
ということは、以前からチエミが会社にいたように彼を除く全社員の記憶を書き換えたことになる。
彼と出会った次の日に早速働き始めているので、正規の手続きで入社したとは考えにくい。
記憶改ざん魔法の考察については以前の記事でも書いたのだが、これは非常に恐ろしいことである。
他人の記憶を書き換えられる魔法を、効果範囲や対象を指定した上でノーリスク(作中で代償については明言されていなかった)で使用できるのだ。
見ず知らずの人間に悪事の罪をなすりつけることも、下手したら倫理観すら書き換えることだってできるのかもしれない。
魔女の力をもってすれば、正義や愛・友情といった美徳が悪とされ、七つの大罪とされる強欲や嫉妬・怠惰や暴食が善とされるブラックマトリクスのような世界だって実現できる可能性がある。
加えて、母親もチエミの会社勤めについては一切触れずに上司の鼻を伸ばしたことに苦言を呈していることから、もしかしたら記憶の書き換えは魔女にとってそこまで重大な行為ではないのかもしれない。


さらに、チエミが上司の鼻を伸ばした動機は「彼が上司に怒られており、いじめられていると思った」からなのだそうだ。
上司がどれほどの叱責をしていたかはともかく、業務上必要な指導とパワハラを履き違えるあたり、人間界の常識や慣習も学べていないと見える。
ましてや、人の体型を本人の望まないつくりに強制的に変化させるなんて言語道断だ。
異文化を理解することもなく、一時の感情で強大な力を躊躇なく他人に向けるあたり、チエミは魔女というより人として問題がある。
これがチエミの人間性に基づくものなのか、魔女としての教育が行き届いていないからなのかは不明だが、魔女と言っても人格者ばかりではなさそうだ。
このことから、半人前の魔女が人間界に赴くことを規制するとか、魔法の使用に制限を設けることを提案したい。
BLEACH護廷十三隊だって、隊長格が現世に赴くときは現世の霊的なものに不要な影響を及ぼさないよう、霊力を本来の2割に抑制する限定霊印を打ち込まれる。
無秩序かつ無軌道に大きな力を行使できれば、自分の万能感を履き違えてしまい、最終的には魔法の使えない人間を虐げかねない。
魔女たちの価値観や倫理観は彼女たちの暮らす世界では常識的なのかもしれないが、そのまま人間界に持ち込むと軋轢を生みかねないのだ。


同胞の監視体制の甘さや魔女たちの倫理観の欠如から、人間界での魔法の使用は「車が来ていないときに歩行者が横断歩道のない車道を横断する」程度の問題行為なのだろう。
チエミも記憶操作の魔法が得意とは言え、さすがに彼の気持ちが自分に向くように心を操作することはなかったようだ。
もしかしたら魔女界と人間界の往来が一般的になったのがここ最近のことで、法整備が追い付いていないのかもしれない。
"ここ最近"と言っても、魔女の寿命は人間と比べて非常に長そうなので、キリスト教伝来くらいから魔女は人間界に出没していたかもしれないが。


散々言ってきたが、着回しDiaryはあくまでも一ヶ月間のコーディネートの紹介と、女性の自由な生き方を提案するものだと思う。
なので、魔法がどうの魔女界の設定がどうのという指摘は的外れなのだ。
チエミが魔法を使った代償に彼と会えなくなるという以前にした予想は物語としてはアリかもしれないが、着回しDiaryにおいては不要な要素だ。
なぜなら設定はあくまでおまけでしかなく、今回の魔女っ子ストーリーで言いたいことは「お互いの立場や生まれを理解して、自分の可能な範囲で努力して相手に歩み寄っていこうぜ」なのだろう。
ちなみに今回の記事は前後編構成である。
着回しDiary担当編集のインタビューをたまたま見つけたので、次回はそれについて書く予定だ。

流行りの生き方をしている自分が大好き

前回の記事でも書いたが、海外行きたがり・英語喋りたがりの人が好きではない。
そもそも外国人がそんなに好きではないので、何かにつけて「海外では」という枕詞を付けて話す人にも嫌悪感がある。
大体そういう人は外国のいいところを言うだけでなく、併せて日本を下げるようなことも言うのだ。
日本の悪いところや外国のいいところは確かにあるだろうが、お前が言うと腹立つから黙っといてほしい。
あとそういう人らの言う「海外」って基本的には欧米で、アジアやアフリカには目もくれないのも気持ちが悪い。


www.daily.co.jp

ちょっと前、魚河岸三代目みたいな名前の清潔感のないグループの人に子供ができたらしい。
ほんで入籍はしないらしい。
まあよく分かりませんがいいんじゃないですかくらいに思っていたが、何となく違和感を覚えた。


www.oricon.co.jp

そして先日、リアル研ナオコこと最上もがの妊娠が発表された。
彼女も結婚をせずに育てていくらしい。
ひとりで育てるのか籍を入れずに男性とパートナーとして暮らしていくのかは知らないが、魚河岸にしても彼女にしても、なんで入籍しない選択をしたのだろう。
あとはヤフコメの皆さんが大好きな加藤紗里なんかも結婚をしないことを選んでいる。


経験がないから知らないけど、結婚することによって受けられる恩恵はあるはずだ。
各種の補助金とか控除とか、独身では得られないメリットもあると聞く。
社会的な信用も得られるとか言われているらしいが、そのへんはよく分からん。
結婚しててもどうしようもない人間はいるし、独身でもしっかりしている人はいる。
逆に、結婚することによるデメリットは何があるだろうか。
夫婦別姓は認められていないので、どちらかの姓に合わせなければならないというのはある。
子供を産むに当たっては、女性はどうしても仕事ができない時期があるが、それは結婚のデメリットとは関係ない。
親戚付き合いが煩わしいというのもあるかもしれないが、事実婚のような状態で一緒に住んでいるのであれば、義両親との付き合いくらいは発生するだろう。


多様性を尊重しようという考えの高まりから、最近は同性で挙式をするカップルや、パートナーシップ制度を導入する自治体も増えてきているらしい。
しかし、日本では同性婚そのものは認められていない。
結婚式を挙げられても、パートナーシップ制度を利用しても、結婚はできないのだ。
そんな人たちからしたら、喉から手が出るほどしたいであろう婚姻制度を利用しないのは不思議だったりするのだろうか。


何より、子供には何と説明するのだろうか。
結婚せずにふたりで育てているのであれば法律上はシングルマザーだけれど、発表した内容を見る限り男性と暮らしているかどうかまでは不明だ。
それに、両親が揃っているから幸せとも限らないし、片親だから不幸というわけでもないと思う。
一つの命を世に送り出して育てるというのは大きな責任が伴うことだ。
他人のことなので迷惑をかけない範囲で好きにすればいいと思うが、子供は親を選べない。
望まれて生まれたにせよ、子供は親の人生に付き合わされてしまう。
自分が選んだ生き方を子供に明確に説明できてほしいし、子供も元気に育ってほしいものだ。


こうした事実婚の話が持ち上がると、「結婚しないのは海外では普通!」とか言う出羽守が登場する。
いや、海外がどうか知らんけどここは日本なんで。
どっかの国では一般的だの合法だのを論じることには何の意味もない。
何でこういう人たちって海外でやってることを無条件に賞賛するのだろうか。
日本にない制度を導入することによってあちらにも社会が抱える問題はあるだろうに、それを無視して都合のいい点だけを主張してくるのは愚かとしか言いようがない。
そんなに海外のやることが素晴らしいなら、ロクに手も洗わずシャワーも毎日浴びるわけでもない、部屋に土足で入るノーマスクの生活をすればいいのだ。


そもそも、事実婚推進派は婚姻制度に縛られない自分を演出したいのかもしれないが、事実"婚"という言葉を使っている以上、結婚にこだわっているのはむしろそちらでは?と言いたくなる。
"婚"と付ければ何となく恋人以上の印象があるのかもしれないが、法律上はただ単に一緒に住んでいるだけである。
何となく、流行っているからとかカッコいいからという理由でそんな生き方を選択しているやつがいる気もする。
(もがや魚河岸がそうだと言っているわけではない)


しかし、最上もがは一人称がぼくだったり男性不信を公言したりレズだかバイだかを告白したりしているが、女性としてやることはガッツリやっていたようだ。
別にセックスを嫌いだと言っているわけではないから当たり前か。

このブログも糧にしてみせろ

しょうもないポジティブ思考とか根拠のないスピリチュアルとかが嫌いなので、「とりあえずやってみようよ!」みたいなマインドが好きではない。
エセポジティブは「いや、自分はいいんでみなさんだけでどうぞ」と言っても引き下がってくれないのでタチが悪い。
偽物たちは「人は人・自分は自分」という考え方ができない。
自分がネガティブだった頃の不安な気持ちを思い出したくないがために、「あなたのため」という言葉を隠れ蓑にして相手を自分の思い通りにコントロールすることで安心するのだ。


とは言え、世の中にはやっといたほうがいいことは意外とある。
海外旅行・恋愛・一人暮らし・アナルセックスなど、ぜひ一度は経験してほしいと思うことは人によって異なる。
価値観が変わるほどの大きなものから簡単に達成できるちょっとしたことまで多岐に渡るが、規模が大きいからと言って偉大なわけでも、小規模だから矮小なわけでもない。


周囲と比べることは無意味なのだが、ぼくは周りの友人と比べて人並みの人生を歩んでいないと思っている。
恋人はいないし結婚もしてないし、もちろん子供もいない。
仕事においても他人に誇れるキャリアを積んだわけでも、何か実績があるわけでもない。
かと言って人生を悲観しているわけではなく、そうなったものは仕方がないと思っているし、いろんな要素が絡み合った結果だ。
もしかしたらもっとどん底まで落ちていたかもしれないし。
自分が嫌いというわけでもないので気にしていない。
あくまでも他と比べたらの話だ。


人生規模で語ると話が大きくなりすぎるが、ポピュラーだけどやったことがないことって割とあると思う。
ぼくの場合は上記したことに加えて、髪を染めたこととピアスを開けたことがない。
なぜかと言うと、しょうもないからだ。
高校生の頃、長期休暇になると同級生の中には学校に内緒で髪を染め、休み明けに黒に染め直す子が何人かいた。
体制に反抗してみたり、悪いことをカッコいいと思ったりすることは若い頃にはありがちだが、ぼくは冷めた目で見ていた。
そんなもの高校を卒業したらいくらでもできるし、そもそもみんながやっていることで個性をアピールしたって面白くない。
たぶんこの人たちは、逆に校則で「髪を染めましょう」と指定されたら染めないタイプだと思う。
「周囲に受け入れられる程度の個性」「友達から浮かないくらいのアンチ学校・教師アピール」
仲間外れになりたくないと思う動機もアリだろうけど、そんなことで連帯意識を感じるしょっぱい人間関係やしょうもない自己主張も問題だと思う。
まあ高校を卒業したらしたで、こぞって髪を染める周囲に辟易していたのだけど。


i-voce.jp

あと、このおばちゃんみたいに二言目には「経験」とか言う人も苦手だ。
人生はビジネスではないので、結果ばかり求めていると疲れると思う。
世の中には毒にも薬にもならないことはたくさんあるのに、何でも「学び」「経験値」に変換するのは疲れないのだろうか。
「うん!自分には必要ないってことが分かった!成長成長!!」とか言ってそうだ。
予定をギチギチに詰め込んで常に動いているタイプの人が苦手なのだが、なぜ苦手なのかようやく最近分かった。
こういう人は、経験値を多く得られる体験を人生でいかに効率よく積み重ねられるかばかりを考えている気がする。
まあぼくが、こういう英語喋りたがり・海外行きたがりの人を嫌っているのもあるが。
一生PDCAを回してマネタイズにフォーカスして、アジェンダのコンセンサスを取っていればいいと思う。


やったことがないことと言えば、こないだ初めてクラブハリエのバームクーヘンを食べたけど普通だった。
本店では焼き立てが食べられるというパラダイスらしい。
ちなみにぼくの思うやっといたほうがいいことは、【鶏むね肉を塊で買ってきて丸ごと焼いて適当に味付けをして食べる】だ。


「やりたいことをやっておかないと死ぬときに後悔する」「人生は一度きり」という呪いが世間には蔓延している。
死んだこともないのにどうして分かるのだろうか。
後悔する余裕もない死にざまかもしれないのに、前向きなのか後ろ向きなのか分からない人たちだ。
ほどほどだったけど楽しいと思える人生もあるかもしれない。
もしもぼくが本気で人生を悔やんでいたとしても、死によって後悔することから解放されるわけだから、逆に安堵すると思うのだ。