公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2023年12月に読んだ本

1月も下旬に差し掛かるが2023年のラストに読んだ本を紹介する。
今回の文芸ジャンルには純文学的なものはない。
念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓

チェンソーマン (16)

ここ数話はいかにデンジをチェンソーマンにさせないかという話が進んでいる。
デンジの預かり知らぬところで進んでいる話も多く、第二部や続編にありがちな「一線を退いた前作主人公」のような形にも見える。
そもそも、第一部の展開を見るにウェポンズがチェンソーマンに勝てるとも思えないので、チェンソーマンがカッコよく登場して悪魔をスカッと倒す的なことにもなりにくい。
ちょっともやもやする展開が続くだけに、クァンシの再登場にはフラストレーションを解消させられた。
今巻はデンジやアサが何をしたいかがよく分かる回だった。
彼は悪魔を倒したいわけではなくて人々からちやほやされたいだけで、その手段として悪魔を倒しているだけだ。
取り柄がなく学もないデンジにとってそれが唯一他人から認められる手段であるものの、それは世間ではあくまでチェンソーマンの手柄であって彼自身のものではない。
15巻でナユタを人質に取られてもなお、チェンソーマンになってちやほやされたいと言ったわけだが、もうなんか考えるのめんどくさいしナユタにもいなくなってほしくないから、普通でもいいんじゃないかと思い始める。
ところがチェンソーマンはインチキであるとか、アサの手柄を横取りしてたとか言われだしてプライドが傷ついてやっぱ正体バラしちゃおうかなとなった。
そんな中でバルエムにナユタだけでなく犬や猫や日常の暮らしまでもが天秤にかけられていることを知る。(コウモリの悪魔がニャーコを猫質に取ってパワーを従わせてたように、ペットも脅しの手段としては有効)
デンジは考えるのが苦手なのに、ここ数話は考えないと自分だけでなくて周囲の大切な人や物まで壊れてしまうのが不憫で仕方ない。

鍋に弾丸を受けながら (4)

「日本ならどこに行っても70点から90点のものが食える。ところが危険とされるような場所やグルメ目的では赴かないような場所では20点か5万点のものが食える。」という理念のもと、国内外のグルメを紹介する漫画。
今までは過去に訪れた海外や国内の思い出を綴っていた本作だが、コロナ禍も落ち着きいよいよ本格的に海外に行けるようになった。
前巻から台湾編が始まり、今回は台湾編が全編収録されている。
海外には何一つ興味がないのだが、この漫画を見ているとちょっと行きたくなるから不思議だ。
作者さんのレポートは現地の人々や歴史や食文化へのリスペクトを忘れないところが、作品の読後感の良さに繋がっている。
当然ながら美味しいものばかりに当たるわけではなくて不味いものや好みでないものもあるわけだが、それを過剰にこき下ろすことなくさらっと触れるに留めるだけでなく、なぜこれが現地で受けていて日本人には受けないのかの分析も良い。(逆に、これはこういう理由で日本人には受けるだろうという分析も良い)
また、その国にとって暗い歴史、今回の台湾編で言うと日本統治時代のことにもきちんと触れていて、一歩間違えばややこしい人たちに絡まれそうなこともきちんと描写している。
本当にその国のことを理解しようという姿勢が伝わってくるし、創作のネタにさせてもらっている以上はいい加減なことを描くつもりはないのだと思う。
海外だけでなく国内のぶっ飛んだ飲食店を紹介することもあり、住んでいる国でも知らないことがまだまだあると実感した。
グルメ漫画としての良さだけでなく、旅することの尊さや日常の楽しさを教えてくれる素晴らしい漫画だと思う。

サンダー3 (5)

5巻で打ち切りの予定だったらしいが、ここ最近の間延びした展開を見れば正直妥当だよなあと思わざるを得ない。
軽くストーリーを説明すると、主人公一行は並行世界的なところに迷い込んでしまった妹を探している。
並行世界は彼らが元々いた世界とほとんど同じなのだが、違いは人物の頭身及び画風が違うことと地球が宇宙人に侵略されていることだ。
なぜか主人公たちは並行世界では滅法強いので宇宙人に対抗できる戦力として期待されている。
数巻引っ張った挙句にようやく主人公たちが参戦したが、じゃあ今まで何をしていたのかと言えば宇宙人と戦っているレジスタンス的な組織の戦闘を描写していたのだ。
その間主人公たちは並行世界の自分の家で飯を食ったりして呑気に過ごしていた。
主人公たちの強さとカタルシスを演出するためというのは分かるが、そもそもキャラクターに思い入れがないので彼らの生死を見せられてもずいぶんと引っ張ってるなあという感想しか湧かない
レジスタンスたちが単なる前座として扱われただけでは不憫なので今後の役割に期待したいところではある。
ちょっとここ数巻は内容が薄いかなあと感じる。

お姉さまと巨人 お嬢様が異世界転生 (4)

作者さんは描きたいものがたくさんあるんだろうなあという感じでとても好きな漫画。
前巻は自律機動するタイプの巨大ロボっぽいものが登場し、今巻では人間が乗り込むタイプのロボが登場するという異世界ファンタジーとは何ぞやみたいな展開になっているが、一応その辺は作中において整合性が取れている。
「スキル」だの「チート」だの「種族」だの「異世界」だのの言葉が登場するので、いわゆる"ファンタジー"や"異世界転生"もののお約束を知らない人は戸惑うのだろうかとちょっと思った。(『葬送のフリーレン』の物語を理解できない人が一定数いるらしいというネット上の話題を見たので)
この作品において好きな点は上記したように作者さんの"癖(ヘキ)"を詰め込んでいるのを感じるところと、登場人物の感情の描写がなんかねっちょりしているところだ。
異世界現代日本)から転生してきたお嬢様と巨人族の女性とのバディもので姉妹ものであるのだが、百合的な絆というよりは兄弟杯的な任侠要素と共依存を連想させ、物語の結末としては破滅的なものになりそうな予感がしている。
破滅的とは言っても姉妹は納得しているが、周囲から見ればあいつら不憫だなあという感じる結末だ。
腐女子が好きそうな"暗黒微笑"的な展開がたまに挟まれるため冷えるものの、異世界転生ものを敬遠している人にもおすすめできる作品。

二階堂地獄ゴルフ (1)

カイジ」や「アカギ」でお馴染み福本先生の最新作。
かつてゴルファーのプロテスト合格間違いなしと将来を嘱望された男、二階堂進
周囲の期待とは裏腹に10年連続不合格を続け、35歳となってしまった彼のゴルフ道を描いた作品。
すっかり才能が干からびてしまった人間を描かせると抜群の人であるが、本作でも福本節は炸裂している。
一話は彼がこれまでの半生を公園にて回想するところから始まり、なんやかんや三話の冒頭まで舞台は公園から動かない。
これが並の作家であればさっさと舞台転換しろと言いたくなるところだが、回想や懊悩だけで場をもたせることができるのはすごい。
強烈なタイトルではあるけど、二階堂は図々しさに振り切ることも正義感に振り切ることもできない割と普通の人として描かれている。
プロテストにかかるお金は所属しているクラブが出資することになっているらしいのだが、なかなか合格せず針の筵状態になっているにも関わらず、彼は挑戦を諦めようとしない。
かと言って完全に開き直れる図太い神経を有しているわけではなく、周囲の視線に耐えつつゴルフ場で働いたり飲み会に参加したりしている。
また、プロテストの試験中に二階堂は同僚の不正を目撃してしまう。
当初は本人に配慮し自分の胸に秘めておこうと考えるものの、本人から馬鹿にされたことをきっかけに不正の事実を突きつけて糾弾する。
その後は一時の感情に任せて動いてしまったことに涙を流して懺悔するのだが、身の置き方や感情の揺れ動き方としてはそこまで特別なことではない。
普通の人間が普通に悩んでいる姿を見て共感したり一緒に落ち込んだり応援してみたり、そういう読み方をすることにした。
成果を期待されて応えることのできなかった人間のやるせなさとか、引くに引けなくなってしまった人生のどん詰まり感とか、後から来た若いやつに追い越される焦燥感とか、自分にも当てはまるところがきっとあるに違いない漫画。

ガイア・ギア (1-5)

ちまちまと集めていたがようやく揃ったので満を持して読むことにした。
本作は既に絶版となっている上、権利関係がややこしく、作者が復刊に同意していないし(クオリティの問題らしい)、電子化もされていないので古本で買うしかないのだが、これらの事情から希少かつ状態の良いものはそこそこ高いのだ。
機動戦士ガンダムの監督でお馴染み富野由悠季監督による小説で、富野監督による宇宙世紀作品としては最も遠い未来のものとなる。(∀やGレコは"宇宙世紀"ではないので)
また、G-SAVIOURが宇宙世紀220年くらいだった気がするが見てないので知らない。
宇宙世紀200年代を舞台に、シャア・アズナブルにそっくりの青年「アフランシ・シャア」の活躍を描いた作品だ。
富野監督の小説はガンダムZガンダム閃光のハサウェイなどをかなり昔に読んだことがあるが、近頃はご無沙汰だった。
既に手放してしまっているので、ガイア・ギアを揃えるのであれば手元に置いておくべきだったなあと少し後悔している。
アフランシはまあ名前からも分かる通りシャアの細胞から作り出されたクローンで、頭の中にはシャアの知識や記憶を収めたコンピューターチップが埋め込まれているが人格はアフランシ独自のものだ。
彼を作り出した反地球連邦政府組織「メタトロン」は、連邦軍内部の治安維持組織である「マハ」(MHA:Man Hunting Agency)と対立している。
「マハ」は逆シャアや閃ハサに出てきた「マンハンター」みたいなもので地球へ不法滞在している人々を摘発する組織なのだが、その頃に比べると規模がかなり大きくなっており、軍事力を拡大して地球連邦軍の実権を手に入れようとするばかりでなく、「地球逆移民計画」なるものまで推し進めようとしている。
ここまであらすじを書いてみて、「また人類は似たようなことで争ってるわ」と思わずにはいられない。
作中でも言及されていたが「技術の進歩に人間の精神が追い付いていない」と思わせることばかりで、そもそも人類が宇宙に出たのが正しかったのかどうかと考えさせられる。
全体的にニュータイプや機械文明を否定している節があり、クロスボーンガンダムでトビアが言っていた「人間はニュータイプになる前に人間のままで出来ることがある」という台詞を思い出した。(クロスボーンガンダムは富野監督がプロットを提供しているので、ニュータイプ論も富野監督のものだと思われる)
ニュータイプってガンダム世界では人類の進化系みたいに言われているけど、アムロやシャアしかり、天才的なニュータイプの才能を持つクェスしかり、人間はニュータイプになったところで自分の感情を乗り越えることも制御することもできないのだ。
また、シャアが最後に活躍した時代から110年くらい経過しているのに未だにシャアを神格化して崇拝している人間がいたのには驚きだった。
シャアのおかげでアクシズの衝突を回避できたかのような解釈がされており、メタトロンの人たち曰く「彼の人徳とニュータイプとしての才能は、地球を汚染するかもしれなかった隕石の激突を回避させ、そのためにシャアは死んだというのである。」ということになっている。
シャアは割と普通の人間だと思うし、シャアの再来を期待されていたアフランシが普通の人間だったこともあって余計にその思いは強まった。
アフランシはメタトロン上層部が自分にシャア・アズナブルを望んでいることに辟易とし、シャアのコピーではないと主張し続けている。
メタトロンだけでなく心の奥底にいるシャアにも従いたくなくて、あえて自分でモビルスーツに乗って一個の歯車であろうとしている。
ところがシャアも指揮官でありながら自ら前線に出ていたし、アムロと戦いたくてモビルスーツに乗ってたので、シャアっぽくない行動を取ろうと思ってシャアと同じ行動をしているのはなかなかの皮肉だった。(ちなみにとある人物からは「才能がないといいながらも、やらなければならない苦しい立場を甘受して、結局は、それが厭ではない青年」と分析されているがそれもシャアっぽい)
でも、やるべきことから逃避するって割と普通のことだし、周囲に祭り上げられて期待もされてるからちょっとしたやらかしも大げさに言われるわけだ。
夏目漱石も似たようなことを言ってたけど、やらかしたエピソードがその人自身を作り出すわけではない。
その人が大人物だから、失敗をいちいち糾弾されたり後世まで伝えられたりするので、あんまり大人に期待するものではない。
本作は企画段階では『機動戦士ガイア・ギア 逆襲のシャア』というタイトルだったらしく、それが縮まってこのようなタイトルになり、逆襲のシャアの名前は映画に引き継がれた。
1987年からスタートした本作に対して逆シャアは1988年に上映されたので、どういうふうに企画が進行していたかは定かではないが、なんかこう富野監督の中でもアムロとシャアの話に決着を付けたかったのかなあと思った。
この後に紹介する本に書いてあったのだが、Zガンダムも当初は『逆襲のシャア』の名前を冠する予定だったらしいのでなおさらである。
最後に話は逸れるけど、ユニコーンでのアムロとシャアの扱いに関しては、「何してくれてんだ」という思いがある。
生みの親である富野監督ですら生死不明というフワッとした結末にしたのに、UCで二人の思念体が出てきたもんだからほぼ死んでる扱いになり、挙句にアニメ版閃ハサでもその設定が採用されてハサウェイにもアムロの思念が見えるという展開になった。
個人的にあれは"生霊"だと強引に解釈している。
二次創作が正史になるのはどうにも納得がいかないし、司馬遼太郎の小説を史実だと思い込むみたいな人が増えそうで嫌だ。(司馬遼太郎の作品は好きなので批判しているわけではない)

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会[復刻版]

買って積んであったんだけど読むのはガイア・ギアを読了した今しかねえと思って手に取った。
1993年に出版された同人誌を復刻したもので、責任編集は当時と同じく庵野秀明監督が務めている。
同人誌とは言えかなりのビッグネームが揃っており、非常に読み応えのある一冊となっているのでもうちょい早いこと読めばよかったと思わないでもない。
オリジナル版はスケジュールの関係で富野監督にチェックを入れてもらうことが叶わず、今回の復刻版でやっと実現したようで、当時は未チェックで販売することについて一言お詫びを入れたらしい。
自分は逆シャアF91やVガンに関しては世代ではないためリアルタイムを知らないのだが、本作によればF91からVガンまでの富野監督は「語られることがなかった監督」なのだそうだ。
逆シャア興行収入的には成功だったらしいのだが、公開された1988年は『となりのトトロ』『AKIRA』などのタイトルがぶっちぎっていたため、いまいち目立たなかったらしい。
加えて、逆シャアの同時上映がSDガンダムであったことやその後のロボットアニメが『魔進英雄伝ワタル』のような玩具販促の子供向けにシフトしていったことで、富野監督の影は薄くなっていったとのこと。
その後、ガンダムは富野監督の手を離れてGガンダムに代表されるアナザーガンダムが作られ、彼は∀までガンダム作品に関わることがなかった。
確かに自分も初めて見たガンダムはWだったし、SDガンダムにも親しんできた。
富野監督を認識したのはいつ頃であるかは覚えていないが、恐らく自分が知っているのは既に神格化された富野監督だと思う。
逆襲のシャアなんて今では超有名作品だけど、当時はこれらの理由からあまり語られることがなかったそうだ。
本作の責任編集である庵野監督にとって逆シャアは「濃いものだった」とのこと。

「ロボットアニメを使って個人というものをあそこまで露出したものは他になかった。だけど語る人は誰もおらず、他人の反応が伝わってこないのが本を作ろうと思った理由のひとつ。」
「本を出そうと思うくらいにエネルギーを持ったアニメがない。」

と述べており、創作を生業とする人には感じるところがあったようだ。
(ちなみに押井守監督も、「あれだけ強烈な発言をしてるのにリアクションがないんだろうか。ガンダムを巡る戦争の議論くらいのレベルの話しかなかった。」と言っている)
庵野監督は基本的に逆シャアをベタ褒めしておりロボットアニメの最高峰だとしているが、そういう人ばかりではなく「作家としては永久に帰ってこなくなった、早いとこ目を覚ましてほしい」と言う人まで様々な評価がなされている。
ただ、賛否あるにしても逆シャアの評価について共通しているのは「富野監督の内面が投影されている」というものだ。
本音で作っているからこそ「自分っていう人間に決着がついてないから、自分に近い作品ほど決着はつかない」のだと庵野監督は言っている。(富野監督は「全裸で踊っている」が、宮崎駿監督は「全裸のフリしてパンツ履いてる」タイプの人らしい。)
だからこそ逆シャアアムロとシャアに富野監督のそれぞれの部分を担わせて対話したり対立したりしていたんだろうし、ああいう終わり方になったんだと思う。
ガイア・ギアのくだりでも言ったけど、監督本人が決着をつけられなかったアムロとシャアの物語を二次創作が勝手に結末を決めたのはやっぱり納得がいかない。
特に自分が印象に残っているのは、幾原邦彦監督のナナイ評だ。
要約すると、

  • シャアが最後ナナイを捨てたのは、彼女が母親になれないと分かっていたから
  • 仮にシャアが失墜したとしても、彼が常に野心を燃やし続けていればナナイは付いてくる
  • ところが、総帥なんて疲れたからのんびり乾物屋でもやって暮らすとなれば失望して離れてしまう
  • ララァはそれでも一緒にいてくれる

というもので、なるほどなあと感心した。
ちなみにガイア・ギアにもナナイ的なポジションの女性が登場するが、その女性はアフランシが自分に母親を求めていることに気付いて明確に拒絶している。
また、本作のオリジナル版刊行である1993年の2年後に新世紀エヴァンゲリオンのテレビ版が放送される。
この頃は既にエヴァの企画はスタートしていたようで、「自分は『父親』になりたい、という意識だけが働いて今、ロボットもののTV企画をやってる」「ガンダムは越えられないが、できるかぎりあれにケリをつけてみたい」などなど、エヴァに繋がるような庵野監督の発言もあるのでそれらの観点から見るのも楽しい。
ガイア・ギアのときにも感想を長々と書いたが、ここまで真剣に熱意を持って視聴したり考察したりできるのは、富野監督本人の創作に対するスタンスによるところが大きいと感じた。
本書でも庵野監督によって触れられていたが、富野監督は「スペースコロニーが本気で"ある"と思って物語を作っている」人で、それが視聴者にも伝わって多くの人を魅了しているのではないかと思う。
そりゃ科学的な考証をすれば設定に穴が多いのかもしれないが、大切なのは"ある"と本人が強く思っていて、なんかよく分らんけど分かるなあと見てる人に思わせたら勝ちじゃないだろうか。
巻末には富野監督のインタビューも収録されており、「10年近くスペースコロニーのことを考えてきている」「その程度のことが出来なくては劇なんか作っちゃいけないんじゃないのかなと思っている」との発言もある。
ガンダム好きのみならず、アニメ好きにもぜひ読んでほしい一冊だった。