公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2025年8月に読んだ本

自分は以前からアクリルスタンドというやつに対して、なんというか「みみっちい」という感情を抱いていた。
正直言って「貧乏人のフィギュア」とすら思っており、こんなものを買うくらいならちゃんとしたフィギュアを買えばいいのにという気持ちである。
話は変わって、このブログ自体は9月にまとめているのだが、9月に開催された「うすた京介ワールド展」に行ってきた。
そこで販売されていた花中島マサルのアクリルスタンドを購入し、すごいよマサルさんの単行本の近くに飾っているのだが、「貧乏人のフィギュア」なんて失礼な印象を抱いていたのを恥じたい。
まず、単純に部屋にああいうのがあると気持ちが和んで良い。
更にアクリルスタンドは自分の認識だと比較的近年のグッズという認識であるため、古い作品であるマサルにはその当時アクスタが存在しなかったわけで、昔の作品を今のテンションでグッズ化してくれたことは感謝しかない。
アクリルスタンドはフィギュアに比べて量産もしやすいだろうからグッズを企画する側にしても販売のハードルは低いだろうし、価格も安価に抑えることができるため手に取りやすいグッズになる。
個人的にアニメや漫画の二次元キャラクターはフィギュアにしてもいいと思うが、実際のアイドルとかだとアクリルスタンドのほうが相性がいいのかなとも思う。
ちなみにうすた京介展の内容は非常に満足だった。
一部を除いてほとんどの展示は撮影が可能である上、グッズもかなりの充実ぶりで自分は3万円近く購入してしまった。
気になっている人はぜひ足を運んでもらいたい。
というわけで8月に読んだ本を紹介する。
一応ネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

バルバロ! (2)

連載中の漫画全体で見てもトップクラスに面白いんじゃないかと思う作品。
自分の周囲には少年鑑別所にいた人や離婚調停中の人や変わった性癖を持っている人や風俗業で働いている人はいないが、それらの人だって自分とは違った仕事や事情であるだけで社会を構成する普通の一般の人たちだ。
そういった人たちが自分の事情とどんな折り合いをつけて暮らしているか、その事情ならではのあるあるはこういうものがある、などといったことを詳細に描写してあり、他人の「普通」を知ることができる。
以前に本作に関わる作者さんのインタビューを読んだことがあるが、自分のバイト経験や読んできた本、取材を参考に本作を執筆しているとのことだった。
ありのまま描いているわけではないにしても、「きっとこういう人は本当にいるんだろうな」と思わせる説得力が話にはある。
単行本には女性キャラクターが使用している化粧品が載っており、そういうところからキャラクターを固めていくのは女性作家ならではなのかなとも思う。
3巻は何でだかえらい間が空いて2026年冬発売予定なので続きはしばらくおあずけになりそうだ。

二階堂地獄ゴルフ (9)

ついに最終プロテストに進んだ二階堂。
同じグループには「北の二階堂」と呼ばれ18年連続でテストに落ち続けている槍直歩、その教え子でアマチュアゴルファーの風吹亮介がいる中、24回目の二階堂の挑戦が始まる。
二階堂の年齢で今さらプロテストに合格したところで意味はないと馬鹿にしてくる風吹に対し、二階堂は「ゴルフで世界を切り拓いていく人生に憧れた。結果それは成されなかったけどそれでも人生は続き、人生は一色でないことに気が付いた」と述べていたが、似たような台詞を『平成敗残兵☆すみれちゃん』においてすみれちゃんも言っていた。
うろ覚えだが、「アイドル辞めて落ち込んでても、人生は終わってくれなかった」みたいなものだったと思う。
更に二階堂は「真っ直ぐな人生は無限にある人生の1パターンで、誰もその人生を否定はしないだろう。ならば同時に、他の人生にも敬意を払え。人生の意味は、やりがいは言うまでもなく人それぞれ」と続ける。
人生はゲームじゃないから、目標を達成できなくても失敗しても理想の暮らしを送れなくても、ずっと続いていく。
勝ち負けに主眼を置いた人生だと、いつか自分より上の人間が現れたときに自尊心を保つ方法は自分より下の人間を見て安心する、他人の人生に敬意を払えない生き方だ。
二階堂の言うように人生はひとつのパターンのみではないのだから、自分が幸せだと思ったらそれで満足しとけばよくて、他人の人生の意味に外野が口を挟むことではない。
ごちゃごちゃ言ってくる人は自分の人生に自信がないのである。

江戸の大普請 徳川都市計画の詩学

江戸時代全般を研究する学問という漠然としたものではなく、江戸の街を研究対象とした「江戸学」というものがあるらしい。
本書はタイトル通り、江戸の都市計画について研究したものとなる。
今でこそ東京は日本の首都として疑いようがないが、江戸幕府開闢前は荒涼たる土地だったわけだ。
そんな土地を将軍の権力の象徴としてどんな城下町よりも、それこそ京都をも上回る街にしなければならないとのことで、都市計画は進められたようだ。
だから風水に凝って鬼門の守りを固めたり、京都の地名や建築様式を取り入れたり、どうにかして都としての説得力を持たせようとしていたとのこと。
特に印象的だったのは、「江戸の文化的な価値を高める」という点だ。
江戸は新しい都なので名所があんまりない。
更に、当時は和歌に登場する土地を巡って旅をする今でいう聖地巡礼をする人もいたようで、その地名は圧倒的に京都が多いらしく、当時の江戸はいまいち文化的な権威に欠けていたらしいが将軍のお膝元がそれではいかんということになった。
そこで、富士山とか武蔵野なんかをええ感じにしてやってこうやみたいな話になるのだが、現代の都市計画とはベクトルの違った話で非常に興味深かった。
江戸時代は大名の土地替えが頻繁に行われていたと聞いたことがあるが、単なる引っ越しではなくてほとんど何もないところから将軍の住む都を作ろうと思ったのだからそれはもう血反吐をまき散らす思いだったろう。

タタール人の砂漠

新任将校のジョヴァンニ・ドローゴは任地であるバスティアーニ砦に配属となったが、そこは国境付近の辺境の砦であった。
北にある砂漠から来襲すると言われているタタール人を警戒するためのその砦で、ドローゴは青春を浪費していくという話。
最近読んだ本の中ではかなり共感できる内容でお気に入りの一冊だし、読み手の年齢や立場によって見方も大きく変わる本だと思う。
まず、この砦は本当に何も起きないので、ドローゴのようなやる気に満ち溢れた若い軍人は転属希望を出してさっさと他へ移ってしまう。
運悪く希望が通らず残された人たちが砦の生活に意味を持たせようとして作り出した存在が「タタール人」であって、その脅威が襲来する希望を胸に日々を過ごしているのだ。
一方、年齢を重ねたドローゴの上司や砦の指揮官は、自分の退官まで何事もなく日々が過ぎてくれることを期待している。
砦の指揮官であるフィリモーレ大佐は「ある年齢になると望みを抱き続けるには大変な苦労がいるものだ」とし、砦に起こったある一大事件を何かの間違いではないかと直視しようとしない。
ドローゴの上司であるオルティス中佐も「年を取るごとに望みを小さくしていくことを覚えた」と言っており、上の立場の人間ほど砦の空気に染まっていることが明らかだ。
配属当時20代前半くらいだったドローゴだったが、物語はあっという間に15年以上も経過する。
ドローゴ的には肉体的には衰えていないという認識なのだが、昼食後に原っぱを馬で駆け回るより、日向で居眠りをするほうがよくなったことで歳月が経ったのを実感する。
個人的にはここのくだりと、毎日やっていた階段の二段飛ばしをちょっと疲れていたという理由でやらなくなり、その日から二度とやらなくなったというくだりがなかなか響いた。
己はまだまだそれなりに元気であると自認しているあたりもリアルでよい。
少し前にⅩで、「平成一桁ガチババア」というワードが注目されたことがあったが、平気でこんな発言をするあたりからも分かる通り、人間は若い頃は永遠に続くと思いがちなのだ。
むしろ、若さの真っただ中にいる頃は自分が若いとさえ気が付かない。
ところがドローゴのようにちょっとした違和感が日々積みあがっていき、でもそれに気が付かなかったり気が付かないフリをしてきたりして、目を逸らせないくらい違和感が積みあがった頃には若さはずっと後ろにいるのだ。
で、そうなってくるともう毎日疲れるし、劇的なことが起こってもらっても逆に困るし、本当に日々のルーチンをこなすだけになり、ドローゴの上官のような存在となる。
中佐は退官の際ドローゴに対して、「自分と同じく大きな幸運に出会うことなく砦を去ってほしい」と願い、「そうでなければ不公平」とさえも思っている。
きっと、中佐がドローゴくらいの年齢の頃はすでに大きな望みは捨て、静かに砦での生活を終えたいと思っていたことだろう。
そんな気分のときに本当にタタール人がやってきて戦になったらドローゴがむしろ不憫であると中佐は考えているのだ。
だから中佐が考えるドローゴにとっての幸せは退官まで何も起きないことであり、それが砦で時間を無為に過ごしてきた同志にかけられる最後の優しさなのだ。
また、ドローゴが久々に地元に戻った際、仲の良い友達やかつていい感じだった女性と話をする場面がある。
ところがいざ対面して話をしてみると長期間地元を離れていたことに加えて特に何も起きない砦の出来事を話すこともなく、共通の話題が見つからないまま白けた雰囲気となってしまい、同じ場所に住んで思い出を共有していた頃とはお互いに変わってしまったのだと思い知る。
地元を離れたことが間違いでなかったと思うためにも砦で華々しい活躍をしなければならないのだ、自分にはあの砦の暮らししかないのだという、ドローゴの砦に対する執着と依存度が高まっていく描写も、引き際を見誤ったひとつと言える。
自分は昔から仕事に対する熱意はなく、別に仕事でやり遂げたいこともないので、仮に若いころの自分が本作を読んだとしても今の自分と同じような感想だったことだろう。
だけど読む人にとってはドローゴに感情移入をして、青春を無為に消費していくことの悲しさを一緒に嘆くこともできるに違いない。
ただ、幸せって別に劇的なことじゃなくてもいいと思っている。
中佐の「本当に価値あるものは常に巡ってきているが、われわれはあまりに多くを期待しすぎる」という台詞があり、受け取り側によっては敗者の逃げ口上かもしれないが決してそんなことはない。
非課税で一兆円もらったとか理想の恋人が空から降ってきたとか、そんな劇的なことが起きないことを「いいことがない」としている人がいるように感じる。
タタール人が来なかったっていいじゃん、初志を貫徹できないことは別に敗けじゃないし、そもそも来るかどうか分からない自分の力ではどうにもならない外的要因に希望を委ねたってしょうがない。
先ほど紹介した二階堂地獄ゴルフやすみれちゃんしかり、自分は敗者の美学というか滅びの美学みたいなものが好きなのだが、加えて最近は本作のようにかつて希望を持っていた人と現在進行形で希望を抱いている人の対比みたいな話も好きになってきた。
別に人生に絶望しているわけではないが、自分もそれなりに年を取ったということだろうか。

くるぶし

くるぶし

くるぶし

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町田さん初の短歌集。
詩集やかつてのバンド時代の歌詞をまとめた本はあるが、短歌集は自分が知る限り初となる。
短歌の体を成していないものもあるけどリズム感がよく、以前に『私の文学史』でも述べていた「調子でもっていく」ことの重要性を認識できる。
短歌集ってほとんど読んだことがないけれど、笑える短歌集というのもなかなかないのではないか。
「靴下の絶妙にうざいサイズ感バスの中から叫ぶケダモノ」は、何もうまくいかないであろう一日を象徴していて特に好きだ。
他にも「袈裟懸けに斬り付けて來い避けるから言うて斬られて死んでもたがな」はテンポの良さと分かりやすさで笑ってしまう。
「その結果臙脂の豚が生まれたら事後承諾で平家滅ぼす」もスケールがデカくて好き。
「臙脂」は「えんじ」と読み「えんじ色」のことなのだが、このように馴染みのない漢字や単語を用いていることも多いので、調べつつ読むことになるかもしれない。

浮世絵の極み 春画

様々な枕絵(春画)を掲載するというよりは、春画の印刷技術の優秀性を紹介する内容だった。
昔はコピー機なんかないわけで印刷物を量産するのは版画になるわけだけど、じっくり観察すると印刷物上でも分かるくらい着物の文様がハッキリと摺られているのは驚いた。
織物の様々な風合いをどうにかこうにかして表現しようとした職人の苦労と技が見て取れる。
また、髪の毛のような特に細かいところを彫る際は親方クラスの職人が担当したらしいが、春画と一般的な浮世絵の違いは陰毛の有無である。
以前に春画展に行った際にも陰毛を一本一本彫ることの大変さが紹介されていたが、ある程度まとまった方向に流れている髪の毛と違って陰毛はあっちこっちに縮れているわけだから表現するのにも手間が必要だっただろう。
本書によれば、春画は木版による多色刷印刷を知る貴重な資料だが、江戸時代は華美な出版物は生活に無用な贅沢品として禁止されていたようだ。
だから職人としては技術を発揮する場がなかったところ、裏でこっそり摺られていた春画(好色本の出版も禁じられていた)であれば存分に腕を振るえるということだったらしく、春画は単に当時の性風俗を知る資料に留まらないらしい。
これも以前に春画展に行ったときに知ったのだが、春画国立美術館では展示できない(展示した例がない?)とからしいので、もしもお近くの私設の美術館なんかで展示会があった際にはぜひ足を運んでもらいたい。