公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2023年3月に読んだ本

本屋へ行く全ての人へ。
本は丁寧に扱おう。
読みたい本があったのでいつもの本屋へ行ったのだが、表紙カバーの上部がへこんで折れ曲がっていたので店員さんに新しいものを出してもらおうと思ったところ、在庫はそれのみとのことだった。
別の本屋では4冊置いてあったが、全てカバーにダメージがあった。
店員さんの扱いが荒かったパターンもあるかもしれないが客に起因する部分も大きいと思うので、本を手に取るときや戻すときは別の誰かが手に取るかもしれない可能性も念頭に置こう。
毎月の読書記録になるが、本を紹介するというよりは自分が読んでどう感じたのかを綴っている部分が大きい。
例によってネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓

ONE PIECE (105)

だから言ったじゃん、ヤマトは仲間にならんって。
ずっと主張してたけどさ。
カイドウの抑止力がなくなったワノ国が海軍あるいは他の海賊からマークされることは必然だから、ヤマトがおでんなら国を守るために残るだろうとは思っていた。
さすがに緑牛クラスが来るとは予想してなかったけど。
ヤマトが単行本読者にも知れたタイミングで、当時ジャンプ+で連載していた『恋するワンピース』の作者が『パウリーが仲間になると思い込んでいる人の話』を描いたのは偶然じゃないと思っている。
105巻は25巻と表紙の構図が同じところも往年のファン心をくすぐるところだ。
しかしONE PIECEはおもしろい。
ここまで続いてるのにまだまだワクワクする展開や設定が出てくるし、大きな章が終わって次の章が始まる間の、実は裏で世界がこんなことになってました回は相変わらずたまらん。
長期連載なのに目立った矛盾がないし、以前の巻を読み返すたびに新たな発見がある。
後付けが多いという意見もあるけれど、仮にあったとしてもどれが後付けか分からない時点で構成は巧みであるとしか言えない。
ルフィの夢が一味に明かされたシーンにカリブーがいた事実は後々効いてきそう。(タルの中にいたからよく聞こえなかった可能性もあるが)
また、黒ひげが新型パシフィスタと戦った際に発した「こいつでけェ」という一言が気になる。
順当に考えれば覇気のことだと思うが、黒ひげの身体の秘密に関連して彼しか感じ取れない何かなのではないかとも予想される。

虎鶫 とらつぐみ -TSUGUMI PROJECT- (6)

核戦争で荒廃した日本に眠るという秘密兵器を見つけるため、某国から送り込まれた無実の死刑囚である主人公が見たものは異形の生命体が闊歩する土地だった――。
なんかフランスの漫画出版社が手掛けてるらしくて、こないだまでジャンプ+で連載されていた『リバイアサン』も同じところの作品だった。
二作品に共通することで文化の違いなのか何なのか知らんけど、たまに吹き出しの文字を左から右に読ませるのだけ気になるんで勘弁してほしい。
なんやかんや問題がありつつも受け入れられてきたつぐみが、ここにきて爆弾になりだした。
生きるか死ぬかのサバイバルにおいて主人公よりも強いつぐみの存在は何よりの武器だったし、ひとりで暮らしてきたがゆえの社会性のなさからくる非常識さも、殺伐とした世界では”無邪気”や”天真爛漫”と捉えられてある種の癒しとして受け取られることもあった。(実際、この漫画のレビューを見ていると「つぐみちゃんかわいい」というものが多い)
ところが同行者が増えれば彼女に対してよくない感情を持つ人も出てくるわけで、つぐみに対する新規メンバーのフラストレーションが溜まっている感じはするとは思っていた。
レオーネにとってつぐみは命の恩人だから多目に見ている感はあるし、つぐみはレオーネに依存しているので、この関係性がよくない方向に作用しやしないかと心配している。
たまに至っては殺されかけているのにギャグ的な描写で終わらせるのはよくない。
ストーリーが最終局面に近づきつつあり、つぐみが物語のキーパーソンであることが明らかになった以上、変につぐみを犠牲にして溜まったヘイトを開放するみたいな雑なことはやめてほしいと思っているがこの作者さんはたぶん大丈夫だろう。
日本列島から人間はいなくなってしまったが、異形の生命体たちは彼らなりに秩序や文明を保ちつつ暮らしている。
個の存在って曖昧なもので、つぐみは確かに強いしその無茶苦茶さが事態を好転させることもあるけれど、秩序ある集団の中で暮らしていく以上は腕っぷしが強いだけの個体は不適合とみなされてしまう。
ONE PIECEでガン・フォールが「戦争時の英雄も生きる時代を間違えれば人殺しになる」と言っていたことがあるが、適材適所と自分を納得させて集団に馴染むか、孤高の存在として生きていくか。
絵に躍動感があって動きが分かりやすいし、ヒロアカの堀越先生曰く「気温や湿度までもペンで描かれている」とのこと。
たぶんこれアニメ化すると思うから勝ち馬に乗って「わしが育てた」顔をしたい人は今からでも読もう。

鍋に弾丸を受けながら (3)

「日本のように安全な国では70点から90点のものがどこでも食える、でも危険とされるところ、グルメなどでは絶対に赴かないようなエリアだと20点か5万点のものが食える」という信条を持つ作者が、世界の危険地帯でグルメを食べるほぼノンフィクション旅グルメ漫画
毎回紹介される5万点グルメは本当においしそうなだけでなく、それが成立した背景を紹介したり作った人たちの気持ちに思いを巡らせていたりと素晴らしい。
今回は20点のグルメが紹介されている回も収録されており、5万点グルメ同様に聞いたことのないものばかりで毎回読むのが楽しい漫画だ。
連載も追いつつ漫画を購入しているのはジャンプ系以外だとこれのみである。(ONE PIECEは単行本派なので本誌では読んでいない)
食べ物ばかりでなく現地の人々にもきっちりフォーカスを当てている作品で、毎回の読後感も爽やかだ。
今回は「人種差別」について解説している回がある。
アメリカ国内では差別はよくないという認識は共有されているが、それでもやるやつはいる」らしい。
「セクハラやパワハラと同じようなもの」で、「あいつは差別されても仕方ない」「女(男)はこういうとこダメだよね」などと仲間内で盛り上がっている場面を想像してもらえれば分かりやすいそうだ。
そしてまた、手軽に買える拳銃を持っており、それを相手も持っているだろうという事実が、人間の残酷性を助長しているのではないかと。
日本でも差別はあるものの、外国と比べて実際に危害を加えられたりましてや命の危機に晒されるようなことは少ない。
差別はよくないという認識がいくら共有されているとはいえ彼らの黄色人種に対する絶対に人間扱いしないという意志や、コロナ禍で相次いだアジア人へのヘイトクライムを見ているとやっぱり海外に行きたいとは思わない。
作者さんが出会った海外の人々は親切な人ばかりのようで、それを否定する気もないしそうした人たちが多数派であると信じたいところではあるので、自分としてはこうした人づての話で海外について知るくらいで十分だ。
3巻の最後ではコロナ禍が落ち着いてきたことから海外旅行を再開する描写があり、3月10日更新の最新話ではついに外国に降り立っている。
今後は新鮮な思い出を投下してくれそうなので楽しみだ。

私の文学史: なぜ俺はこんな人間になったのか?

町田康さんの初となる自分語り本。
今までもエッセイとかはあったが、自分が影響を受けたものや文学的背景を語るのは初めてなのだそうだ。
よく知ってる町田さんの文章とは違うなと思って読んでいたが、書き下ろしではなくて講座でしゃべった内容を本にまとめたものとのこと。
他の作品でもそうだが、町田さんはぼんやりとした概念を説明するのがうまく、かつそれにあてはまる言葉を考え出すのが巧みだ。
今回も、「わからんけどわかる」「オートマチックな言葉」など、ああそういうのあるよねという現象や感情にバシッとはまる名前をつけていて使いたくなる。
ぼくは町田さんのバンド時代は全く知らないのだが、音楽性が二転三転していたり、従来のロックとは違った魅せ方をしていたりしたとは聞いたことがあった。
本作を読んで、それは迷走ではなくて町田さんなりに「好き」ということに懐疑的になり続けた結果なのだと思った。
町田さんは本書において「自分の感覚がどれだけ研ぎ澄まされているかは常に己に問うていないと」「自分がカッコええと思ってるもんをもう少し疑ったほうがいい」と発言している。
例えば、町田さんの青春期には西洋のものは高尚で国内のものは卑俗であるという雰囲気が世間にあったそうだ。(現代においても、特定のジャンルにおいては海外のものを無条件に良いものとする風潮はあると思う)
他にも、当時は情報を得る手段が少なかったことからレコードをいわゆる「ジャケ買い」することも多かったようだが、必ずしもそれが自分にはまる音楽ではないこともあったとのこと。
だけど高いお金を出しているから意地で聞いているうちにだんだん好ましく感じて、英語で何を言ってるかも分からないのにいいこと言ってるに違いないと思っていたらしい。
そうした世間の風潮や、長く接したり何度も接触してきたからこその思い込みからカッコいいと感じているものはよくよく考えてみればあることだろう。
また、いろんな音楽を聴くけど最終的にロックが好きという人と、ロックしか聞いたことないけどロックが好きという人とでは、どちらが音楽の幅が広くて説得力があるかは明らかだろう。
自分が「好き」だと思っているものを続けるのは簡単だけど、それは思考停止になっていないか、また「好き」の理由を深堀りしてみると上記のように単なる思い込みに起因していることがあり得るからこそ、自分のセンスを疑い続けろと町田さんは言っているのだろう。
別のくだりだが、「熱狂から離れてみる」と説明している回があって、それは世間の熱狂(流行っているもの)と距離を置いてみるという話なのだが、時には自分自身から距離を取るのも大切なことなのかもしれない。
話し言葉を書き起こしたものなので感覚的に説明している内容も多く、難しくて同じ箇所を何回も読み直した。
だけどこの本は何回も読み直したくなる。

コーヒーと恋愛

人を好きになるのもコーヒーの味も雰囲気だよなあと思った。
タイトルにもある通りこの作品はコーヒーが大きなテーマになってくる。
コーヒーをどこで飲むか、どんな気分のときに飲むか、誰が淹れるか、値段はいくらかなどなど、単純に豆の良し悪しや技量の問題でなく己のコンディションやコーヒー周りの様々な要素を事前に知ってるかにもよる。
某ラーメン漫画で言われている「情報を食ってる」というのはその通りだ。
本作にはコーヒー好きの集団「可否会」が登場する。
コーヒーには一家言ある集まりではあるが、会員のひとりがもったいぶって淹れたコーヒーがインスタントであることを見抜けず、しかも中の上というそこそこの評価を下していた。
主人公のモエ子は40代の女優であり、可否会の会員であるもののコーヒーに強いこだわりがあるわけではない。
ただ、コーヒーを淹れることに関しては天下一品で、その腕前で会員の一席に座っているほどだ。
モエ子はヨリを戻そうと言い寄ってきた元旦那や、求婚してきた可否会の会長が決定的な愛の言葉を言ってくれなかったことのみならず、自分のコーヒーの味のみを褒めることにやきもきし、最終的に「みんなあたしのコーヒーだけが目当てなのか」と嫌気が差してひとりで海外に留学に行ってしまう。
彼女はちゃきちゃきしているように見えて弱気で人の目を気にするタイプなので、コーヒーの味のように雰囲気に左右されるような不確かな評価ではなく、自分じゃなきゃダメだという確かな言葉が欲しかったのだと思う。
ただ、この作品は1962年から1963年にかけて連載されていた作品なので、もしかしたら時代的に男がべらべらと喋るのはみっともないという風潮があったのかもしれない。
別にモエ子に限ったことじゃなくて、恋人や結婚相手を判断するのに確かな言葉や自分なりの基準がないと不安な人はいるだろう。(年齢・身長・年収などなど)
こないだもコーヒー屋さんでマスターとお話していたのだが、マスターが最近行ったお店は店員さんと会話しながら豆を選び、自分好みのブレンドを作ってその場で飲めるのがウリらしい。
ところが諸々の料金が重なって最終的にはコーヒー一杯で1800円だったのだそうだ。
目の前でブレンドしてくれること、お洒落な空間であること、コーヒーにしては強気な価格設定であることなど様々な要素を加味して、半ば強制的においしいのだろうと納得しなければ元が取れない。
先ほどのインスタントコーヒーの例にも通じるけど、じゃあその1800円のコーヒーと同じものを自宅や幹線道路沿いにある大型のブックオフで飲んだら同じような味に感じられるかということだ。
作者の獅子文六さんについては恥ずかしながら知らなかったのだが、小説家としてではなく演出家として演劇の分野でも活躍していたらしい。
NHKの朝ドラで映像化された著作もあるようで、本作も一本のドラマを見ているかのように個性豊かな人物がドタバタ劇(死語かもしれない)を繰り広げる愉快な作品だった。

瘋癲老人日記

みうらじゅんさんのエッセイ『ラブノーマル白書』の巻末に収録されていた週刊文春編集局長との対談で、みうらさんのエッセイを『瘋癲老人日記』に例える一幕があり、確かになあと思うと同時に読んだことがなかったので買ってみた。
同作者の『鍵』と並んで老人性欲を描いた作品で、新潮文庫版だと二作品が同時に収録されたバージョンで発売されている。(ちなみに『鍵』の夫は56歳、『瘋癲老人日記』は77歳)
ぼくはそれぞれの作品を単品で読みたかったし、棟方志功の版画が表紙や作中に挿入されている装丁が好みだったので中公文庫版を購入した。
老人の性について見聞きすると、リリー・フランキーさんの『誰も知らない名言集』に登場した『ナメ専親方』を思い出す。
親方は男性としては不能なのだが性欲は旺盛で、デリヘルを読んでは読んで字の如くただ舐めまくる人なのだそうだ。
本人曰く「ナメ専になってからのほうが性行為に奥行きが増した」とのこと。
当時はまだ若かったのでインポの心配はなかったし、周囲に老いてなお盛んな人もいなかったのでそういう人もいるんだな面白いなくらいにしか思っていなかった。
現在もおかげさまで(当時ほどの勢いはないかもしれないが)インポの疑いはないものの、いずれ来る不能の季節をどう受け止めるかはたまに考えたりする。
『瘋癲老人日記』の主人公・卯木督助も性欲冷めやらぬ老人で、タイツは気に食わんので生足に限るとか、同性同士でのセックス経験を暴露するなど冒頭から飛ばしていた。
彼は周囲が年寄りに抱いている、「もう女性に対して性欲はないだろう」「女性に好かれようとは思っていないだろう」という気持ちを利用し、無害な年寄りであることをいいことに美女の傍にいてあわよくば性癖を遂げようと思っているスケベ老人だ。
欲求に駆られて衝動的な行為に走るのではなく、周りからどう見られているかを分析した上でギリギリの立ち回りを演じるあたり、大人の男性のずる賢さが出ている。
性の対象は息子の嫁の颯子で、督助の欲求に気付いている節はあるものの気づかぬ振りをしたり思わせぶりな態度を取ったりしている。
結局、男性の性的快感は射精に占める割合が大きいので、勃起しなくなった時点で男としては終わりと考える人は多いと思う。
ところがナメ専親方しかり卯木督助しかり、そうなったらなったで別の方向性を模索して女体と関わることを止めない探究心は恐るべきものがある。
ジャニーさんの過去の性加害が問題になっているけど、自身が勃つか勃たないかが問題ではない人もいるのだ。
作中で督助が披露した性癖は恐らく作者本人のものだろう。
また、ヒロインの颯子にはモデルとなった人物がおり、彼女との往復書簡をまとめた書籍も出ている。
なので書いているときは楽しかっただろうなあというのが伝わってくる内容である。
『鍵』も本作も面白くて人に勧めたいのだが、前者は本編の半分、後者は9割がカタカナ書きで書かれているためちょっと読みづらい。
谷崎潤一郎作品が全てカタカナ書きというわけではなく、年配者の日記形式で物語が進んでいくので古い文体で進行しているのだと思われる。
オーディオブックって今まで何の興味もなかったけど、現代の文体とちょっと異なる作品に接するときにはいいかもしれないと思った。

男気の作法 ブロンソンならこう言うね。

かつて一世を風靡したアクション俳優『チャールズ・ブロンソン
みうらじゅん田口トモロヲ両名がお互いの悩みにブロンソンに成りきって回答するという、雑誌のコーナーを書籍化したもの。
みうらさんの著書に何度か名前が挙がるブロンソンであるが、世代ではないので全く知らないし顔を見てもピンとこなかった。
ぼくが知っているブロンソン北斗の拳の原作担当である武論尊と、ジャガーに出てきたエビのブロンソン(その日の晩御飯に出てきた)やつのみである。
ふたりともブロンソン本人には会ったことがないようだが作品の読み込みっぷりや彼へのリスペクトは半端ないので、ブロンソンに成りきっているというよりは自分の中のブロンソン像で質問に答えていると感じた。(実際に「人の威を借りて悩みに答えている」と明言している)
しかし、こんなにオンリーワンの人たちでも自分が揺らぐようなことがあるんだなと思った。
みうらさんが田口ブロンソンに悩みを相談する回で、「我が道を歩くという境地に達したい」「立派にプロ仕事をして世界的評価を受けている友人を羨ましく思うこともある」と言っている。
確かにみうらさんはいろんなことをやっていて(一人電通)、みうらさんのことは知ってるけど何をやっているか分からないという人もいるだろう。
だけどそんな仕事っぷりなのにそのオリジナリティたるや他の追随を許さない。(タモリ倶楽部では「日本一不要不急な男」と紹介されていたが、そんな称号が似合う人間が他にいるだろうか)
みうらブロンソン回答回で「棺桶のギリギリまで好きなものの名前を覚えていられることが浄土に向けてのマイ念仏になる」「時代に流されっぱなしでひとつも好きなことが残らなかった亡者は永遠に責め苦が続くもの」なんて言ってるけど、好きなことと自分自身を突き詰めてきた人間でないとたどり着けない答えだ。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

タイトルに惹かれて購入した一冊。
著者曰くジャンルは「自然哲学」になるらしい。
データに基づいた結果をあれこれ分析して結論を出す内容というよりは、実際に人から聞いた内容や著者自身の知識から日本人の精神性の変化を論じている。
そもそも「キツネにだまされる」ということが科学的な論証の彼方にあることなので、このテーマに論証性を持たせようとすると本が成り立たないと著者は述べている。
日本人の精神が変化した原因としては5つくらいの理由が挙げられているが、やはりというか敗戦から高度成長期を経た日本人が経済を優先する思考になっていったのは大きかったようだ。
太平洋戦争開戦時、日本の資源も物資の生産能力もアメリカには遠く及ばなかったのだが、日本の軍部が彼我の圧倒的不利を埋める理由として掲げたのが日本や日本人の優れた精神性だったらしい。
日本は神の国であること、日本人は器用なので優れた兵器を造り出せることなどが喧伝され、日本の不利を補うに足るものであったと。
結果として日本の「大和魂」は敗北をするわけだが、それをきっかけとして科学技術の発達や経済的成長を日本人が求めるようになり、一方で科学的には説明のできないことを軽視する風潮になっていったそうだ。
この本を読んでいるときにたまたまガンダム0083を見ていて、ガンダム試作二号機を奪取したデラーズ・フリートが地球連邦政府に対して宣戦布告を行う回だった。
何でもかんでも旧日本軍に例えるのは左翼っぽくて好きではないのだけど、デラーズの演説もかなり思想的なもの(武士道的な)が入っているなあと感じた。
物量差にも屈せず戦い抜いたジオンの雄姿、3年もの間雪辱を果たす機会を待っていたこと、連邦政府の腐敗っぷり、そしてスペースノイド自治権という大義名分。
味方を鼓舞するためには「お前らはこんなにすごいんだよ」と激励することは効果的だけど、発言の中身が具体性に欠けるとマルチ商法に通じるものがあって大丈夫かなと思ってしまう。(別にデラーズ・フリートが嫌いなわけではない)
逆に日本が第二次世界大戦で勝利していたらどんな世界線だったのだろうと考えたりするが、そういえば積んである本の中にそんな話があったので来月の読書記録の際に紹介する。