公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

11月に読んだ本

今月は結構読み応えのあるものが多かった気がする。
ネタバレも含むので要注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓

ONE PIECE (104)

パンクハザードに上陸してから続いてきたワノ国を巡るあれこれがついに終わりを迎えた。
長編が終わった感慨深さに加えて、成長したモモの助が口上を述べるシーン、泣いている赤鞘たちや町人、途中に挟まれたお玉ちゃんの過去には感動を禁じえなかった。
モリモリの実が出てきたのはウミウミの実が登場する布石なのかどうか。
1055話『新時代』ではウタのシルエットが映っていたのも嬉しかった。
あとずっと思ってたけど、ヤマトって貞操観念低そう。
ヤリマン的な意味ではなくて、自分の身体がどう見えているかについて無頓着とかそういう感じ。
ヤマトが登場してからと言うものあいつは仲間になるのかどうかがぼくの脳内で活発に議論されていた。
それと時を同じくして当時ジャンプ+で連載していた『恋するワンピース』で「パウリーが仲間になると思い込んでいる人の話」が描かれていたのをよく覚えている。
たまたまかもしれないが、あの作者のONE PIECEに対する熱意は並々ならぬものだったのでヤマト登場のタイミングを見計らっていた可能性もある。

チクサクコール うすた京介短編集

うすた京介先生の読み切り作品集。
うすた先生の作品で読んだことがなかったものその1。
ジャガーはおもしろいけど、登場人物の性格が軒並み悪いので純粋な気持ちで読めないことがある。
タベルは単純に合わなかった。
これはファンにはたまらんなあとにやにやしながら読んでいたら、最後に収録されていた読み切りの主人公が『シブシゲ』でもうたまらんかった。
彼が後にゆうことステファニーと出会ってメガジェットしぶしげになるのかあと思うと感慨深い。

武士沢レシーブ (1-2)

うすた先生の作品で読んだことがなかったものその2。
マサルの後に連載された作品となる。
後半になると種族間の対立と対話という今までのうすた作品では見られなかった(結果的にその後の作品にもなかった)テーマが展開されるのだが、残念ながら打ち切りとなっている。
うすた先生のコメント曰く、途中からの展開は編集部に言われたわけではなく元々そうしようと思っていたとのことなので、当時はあれが本当に描きたかったものなのだろう。
マサルではチャームポイントを取り返しに来た宇宙人たちとハンケチの上で紳士に対話をして分かり合っていたが、もしも今作がうすた先生の納得いくように最後まで展開されていたらどうなっていたのか気になる。
『ゼリー』という敵組織の名称も好みだった。

生きる

全体的にとにかく暗い。
最後の一篇はそうでもないけど、あとの二篇はひたすらに暗く、その暗澹っぷりたるやあとがきでも触れられていたくらいだった。
この後紹介する作品もそうなんだけど、国や時代が違うと現代の常識では計り知れないことが是とされていることがあり逆もしかりだ。
例えば表題作の『生きる』は御家から追腹を禁じられた侍の話で、自分で言うのも何だが割と時代劇には詳しい方だと思っていたものの「追腹」という単語は初めて聞いた。

家臣が主君の死後、その後を追う風習は当時「追腹」と称され、家臣が主君に殉じるのは「一生二君に仕えず」とする武家社会のモラルに由来していた。当初は戦死の場合に限られていたが、のちには病死であっても追腹が盛行し、江戸時代初期に全盛期を迎えた。
wiki:追腹一件)

調べてみるとこういうことのようで、確かに考えてみればぼくが触れてきた映像・小説の時代劇作品は江戸中期~後期くらいのものが多かった気がするので、江戸初期の文化はあまり知らない。
ちなみに『生きる』の主人公は病死した藩主への忠義立てとして追腹をするつもりだったのだが、おそらく今の常識で考えるなら「藩主に恩があるなら生きて御家に返せよ」となるだろう。
ところが当時の価値観では「追腹が少ないと外聞が悪い」「藩主が寂しがる」ということで、追腹はむしろ推奨されていたのだ。
また、二作目の『安穏河原』が個人的には一番好みだった。
この話には苦界に身をやつしても誇りを失わずに気高く生きている元武家の娘が登場する。
彼女は過去に家族と過ごした楽しかった記憶と父の教えを頼りに強く生きているのだが、一方で今にも消えてしまいそうなほどに儚く描写されており、結末も含めてなんかもうちょっと見てられんかった。
こういう話を見ると、ToHeartのマルチED(コンシューマー版)にあったセリフを思い出す。
意訳すると、「ずっと眠っててもその思い出だけで楽しく過ごせるような日を過ごそう」というものだ。
過酷な環境でも思い出ひとつだけで人は折れずにやっていけるのだろうか。
それとも、周りにすがるものが何もない極限状態だと最後の頼みは思い出のみという精神状態になるのだろうか。
三作目は元カノを引きずっている侍の話で、どの話もぼく的には非常に印象に残った。
時代劇は苦手な人もいるだろうけど、何かおススメを聞かれたら間違いなくこの作品を挙げるし、多くの人に読んでもらいたい。
現実でも物語でも真面目に生きている人間には報われてほしいと思っているんだけど、悪い奴が堂々と生き延びていることだってあるのでご都合主義的にはいかんものだ。

人生エロエロ

週刊文春で連載されているエッセイを文庫化したもので、タイトルは違えど書き出しはすべて「人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた。」で始まるシリーズ。
順不同で読んでいて今回で2冊目となるが、たぶんどこから読んでも問題ないと思う。
今回印象に残ったのは「セックスの向き不向き」という一言だ。
素人投稿写真雑誌を毎月読んでいるくだりから始まり、毎回パートナーとの写真を投稿してくる常連さんもいるらしい。
この話を書いていたときのみうらさんは50代半ばだったとのことだが、周囲は「パートナーの欠陥を言い訳にセックスレスで放置している」人ばかりなのだそうだ。
パートナーとのめくるめく性の時間を写真や映像に残してあまつさえ周囲に披露する人もいる一方で、望んで一緒になった相手とスキンシップさえとらなくなった人もいる。
日本ではある程度の年齢になると性を匂わすことが「みっともない」とされがちなのでなおさらだろう。(かといって場所を選ばずのべつ幕無しに接吻する欧米的な文化が良いとは思わないが)
素人投稿雑誌から世間のカップルや夫婦のセックス事情に思いを馳せる一幕はリリー・フランキーさんのエッセイにも登場する。
リリーさんは彼ら彼女らのやってることは変でもなんでもなく、「普通なんです」と断言している。
写真を雑誌に投稿しているから色眼鏡で見られているけど、特段性欲が強いとかそういう訳ではない気がするのでただ単に「セックスに向いている人たち」なんだと思う。
この本を買うとき、みうらじゅんさんの書籍の間に「宮部みゆき」さんの著書が挟まっていたが、本はちゃんと元の場所に戻そう。

マノン・レスコー

以前読んだフランス文学の『椿姫』にこの作品が登場するので興味を持っていた。
椿姫の作者はこの作品に影響を受けたとされていて、『ファム・ファタール』(男を破滅させる魔性の女)が出てくるところも同様だ。
中身は「そりゃそうなるよ」としか言えないストーリーなのだが、語り手次第で世界の見え方ってここまで違って見えるんだなと実感した作品。
漫☆画太郎先生がジャンプ+で連載中の『漫古☆知新-バカでも読める古典文学-』という漫画でも「古典文学って コンプラ ガバガバでエログロ描写満載」と言及されているのだが、この作品もまさに現代とのギャップを味わえる。
主人公は貴族のボンボンで、たまたま街で見かけたマノンに一目惚れをして駆け落ちする。
そこからくっついたり離れたりを繰り返して物語は進行していくのだが、ふたりとも考えが浅薄なので後のことを何も考えていない。
ロクに仕事もせずに浪費するばかりなので金銭面の不安からふたりはパパ活詐欺に手を染め、未遂で終わるものの監獄にぶちこまれる。
どう考えても悪事を働いた方が悪いのだが、男の方は執念深い上に認知が歪んでいるため「無常で残酷な運命によって愛する人を奪われた」と本気で思い込んでいるのだ。
基本的にこの物語で起きていることは彼らの無軌道な行動の結果によってそうなった(そうならざるを得なかった)だけなのに、自分たちが「されたこと」しか目が向いておらず、「何をしたか」が抜け落ちている。
父親や友人を何度も裏切っているのにいざというときには彼らが助けてくれると本気で信じており、それを「善意」という言葉で押し付けることに何の躊躇もない。
「貧すれば鈍する」を体現したようなふたりで、貧乏が嫌なら働けばいいのにと思うのだがそうしないのは当時の貴族事情にもよるのだろうか。
ヒロインであるマノンの描写も少ないので悪女という印象も薄く、どちらかと言えば忍耐力の足りない考えの浅はかな金遣いの荒い女としか思えなかった。
主人公にもヒロインにも何一つ共感できないが、ぼくにとって登場人物に共感できるか否かは物語を楽しむ必須条件ではなかったので、珍獣を見るような目で楽しく読んでいた。
物語の中では「貴族がなぜ貴族たりえて、他の凡人と比べて卓越しているか」といった貴族論や、パリの華やかな暮らしや宗教観など当時の文化を知ることができるのも興味深い。
人によってはイライラするかもしれないけれど、とりあえず読んでみてほしい。