公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2023年8月に読んだ本

眼鏡が増えてきたので眼鏡の有効な収納方法はないものかと「眼鏡 収納」とかで検索するのだが、インターネットというやつには何でもありそうで何にもないというのを思い知った。
壁に紐を渡してそこに眼鏡を縦にして引っかける収納方法がいくつか紹介されていたのだが、そんなことをしたらホコリが気になるしフレームが歪んでしまうのが分からないのだろうか。
結局、眼鏡がいっぱい入る収納ケースを買うことで事なきを得たものの、ああいう見栄え重視のしょうもない収納方法を検索結果から除外するフィルターをどこかのIT企業が開発してくれないものだろうか。
8月に読んだ本の記録となるが、念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

チェンソーマン (15)

一部が映画だとしたら二部は連ドラだなあとやっぱり思った。
普通の暮らしをして普通に幸せになりたいというデンジの思いを尊重して、チェンソーマンになるなという吉田の発言は理に適っている。
ところが、当初はアメリカンドッグとうどんを食うだけで満足していたデンジの幸せに対するハードルは上がりまくっているので、ちやほやされたいしセックスもしたいわけだ。
幸せの基準が上がったこともさることながら、アキやパワーを失ったこともデンジの心に穴を開けてしまっているので、何かで喪失感を埋めようと必死なのだろう。
吉田は友達になりえる存在だったかもしれないが、元々好感度がそこまで高くなかったところにナユタを殺すと言った彼とは友達になることはできない。
アサにしても、一人が寂しいということは自覚しているものの、人と接すると自分がやらかしたり何かが起きたりして積み上げてきたものが台無しになりそうで、誰かと関係を深めることに臆病になっている。
ただまあ、非常に月並みな言い方にはなるけれども、社会の中で他人と関わらないと自分の世界や価値観が狭まってしまう。
以前に読んだオスカー・ワイルドの小説で「どんな場所だって、好きになったところが世界」という台詞があったが、つまりは自分にとって居心地のいいところを自分の世界にしがちということだ。
「自分以上にしんどい思いをしている人なんていない」と断言するアサだけれど、他人を知ることによってみんなも同じような苦労をしてるんだと知ることができる。
もちろん、他人がどれだけ苦労していようと自分のしんどさが軽減されるわけではないが、どうやってツラい経験を回避したり乗り越えたりしてきたかを学んで自分の人生には生かせる。
結局、デンジにしてもアサにしても、人生は主体的に動かないと何も起きないのだ。
「今すぐできなくても…大人になりゃあそのうち彼女ができて…」と願望を述べていたデンジであったが、大人になったらいつの間にかができるのは決して「自然」でも「普通」でもない。
大人になったら自動的に仕事に就けるわけでも、常識が身につくわけでも、愛を誓うパートナーが見つかるわけでもないのが悲しいところである。
人生や他人にあんまり期待しすぎないのがいちばんだ。

七夕の国 (1-4)

寄生獣の岩明先生の漫画。
大学生の南丸洋二は自分に宿った不思議な力のルーツを探るうちに、とある町とそこに暮らす人々と関わっていくことになる。
寄生獣のシンイチと比べると本作の主人公である南丸くんはのほほんとしていて、「戦わない選択をした寄生獣」的な気持ちで読んでいた。
創作によく出てくる「よそ者を寄せ付けない閉鎖的な村」のような社会って外から見れば理解できない文化や風習があったりする。
Trickに出てくるような突飛な設定のものから、実際に存在していそうな村まで様々だが、今回の主な舞台となる「丸川町」の人たちの気持ちは共感することしきりだった。
丸川町の人たちには先祖代々受け継がれている力があり、またその力を遠い先祖に授けた謎の存在を夢に見ることもある。
力を使えるのは町でも限られた人間だけだが、夢はほぼ全ての町民が見ることができるのだ。
町の人たちが使える力は確かに人間離れしたものではあるが、それだけで物事を自分の思い通りに運んだり世界をどうこうしたりできるものではない。
力を持ちながら、その力が何のために与えられたのかハッキリとしないまま何も為すことができない感情のやり場のなさは、読んでいる自分にもひしひしと伝わってきた。
いつまでも存在を匂わせるだけであちらからのコンタクトはなく、それでも夢は見続けるため何かありそうで何もない焦燥感、そりゃ古くから続いている伝統を愚直に守るくらいしか精神を保つ術はないだろう。
作品にも「土地の風習やしきたり、そこに暮らす人たちの感情は軽んじるべきではない」という台詞が出てくるが、いくら外部の人間から見ておかしな習慣であったとしても、それが成立するまでには多くの人たちの感情があったのだ。
ぼくもどちらかと言えば保守的な人間であるものの、今まで触れてきた作品に登場した変化を好まない人たちにそこまで感情移入することはなかった。
先ほども書いた通り、本作では共感する点も多く個人的にはかなり刺さる作品だった。

レイリ (1-6)

岩明先生が原作を担当した戦国漫画。
主人公のレイリは落武者狩りの雑兵たちに家族を殺された過去を持つ。
彼女は戦場で敵を殺しまくって、そして自分を守って死んでいった家族のように誰かの盾になって死にたいと思うようになっていく。
キャラクターの台詞回しや振る舞いはかなり現代風にアレンジされているので、戦国時代に詳しくなくても問題なく読めると思う。
時代も時代だし、史実を元にした話なのでハッピーエンドとはいかんまでも、富士山の描写でレイリの成長を表現したラストはいい読後感を味わうことができた。
いくら自分に確固たる信念があっても、どれだけ武芸に長じていても、大勢の中では己の想いや存在などはあやふやで儚いものだ。
機動戦士ガンダムで例えるならばアムロガンダムの存在がなくても連邦は一年戦争に勝利していただろうと思うし、人ひとりで変えられる範囲なんてたかが知れている。
レイリは確かに物語を通じて成長していくのだが、それに反して周囲の大切な人たちは彼女の元から去ってしまうという人生のままならなさは、なんだかもうとにかく切ないとしか言えない。
どれだけ自分が強くても大切な人の運命さえ変えることのできなかったレイリの虚しさたるや計り知れないものだが、彼女には幸せになってもらいたいと切に願う作品だった。
「世界の広さ」というテーマとしては上で紹介した『七夕の国』と似ていた部分があった気がしないでもない。

幻想の未来

表題作の『幻想の未来』を読み終わってアンパンマンの歌が頭に浮かんだ。
人類が核戦争的なもので滅亡した後の地球で生きる異形の生物たちの長い長い歴史を書いたSF作品。
星の歩みを書いているためとにかく壮大で、よく分からんけどなんかすごいことが起こっているなあと思いながら途中まで読んでいた。
章が変わると一気に時代が数千万年飛ぶこともあるが、物語が地球の歴史そのものであるため数年そこらではスケール的に足りないのだろう。
作中で、宇宙からやってきた生命体に「宇宙規模で見れば意味のないことなんて何もない」と地球の生命体が言われているシーンがある。
大体そういうのって「宇宙規模で見ればお前の存在なんてちっぽけ」になりそうなものなので、なかなか印象に残るシーンだった。
ところが、自分が生まれてきたことは宇宙規模で見れば意味があるとか言われてもピンとこないのが実際のところだ。
むしろ宇宙の広さを知ったところで自分がちっぽけだとは思わんし、自分以外にもしんどい人がいたところで自分がしんどいことに変わりはないし、自分は何のために生まれてきたなんていちいち考えたこともない。
「滅び」を全力で描いた作品ではあるけれど悲壮感はなく、むしろ清々しいまでに世界はそこに存在しているので、人類がいなくなった程度で地球はどうにもならないわけだ。
後で調べたところ作品の初出は1968年らしく、50年以上経過した作品とは思えず古さを全く感じないのはすごい。
時代に合った作品を生み出すのも難しいとは思うが、何十年経っても普遍的なテーマに基づいた作品を考え付くのも創作者としては念願だろう。
長いページと壮大な表題作の後に収録されていた短編『ふたりの印度人』はページが短い上に意味が分からんすぎて笑ってしまった。
筒井先生はナンセンスな不条理物を得意としている印象があったので、他の短編もイメージ通りの内容で楽しく読むことができた。
今回が初の筒井作品であったが、これを機にいろいろ読んでみるつもりである。

サロメ

今、サロメと言えばお嬢様を目指している一般人女性VTuberが思い浮かぶだろうが、ぼくが初めて知ったサロメはこちらだった。
オスカー・ワイルド旧約聖書を元に書き起こした戯曲なので、聖書に詳しい人であればそちらの観点からも楽しむことができるだろう。
本作は光文社古典新訳文庫からも出ているが、本編が70ページくらいしかないのにまえがきだのあとがきだの宮本亜門の寄稿文だのを足して内容と金額をモリモリにしているのが気に食わなくて買わなかった。
さらには、光文社版の訳者が好きではないことも相まって岩波版一択である。
話は逸れるが、光文社古典新訳文庫は翻訳はいいのだが作品と関係の薄い付録を足してページ数と価格を盛る傾向にあるのが不満だ。
以前も鴨長明の『方丈記』を読んだのだが、作品の解説や当時の京都の地図などは本編と関連しているからいいものの、『サロメ』に関しては本文よりも関係の薄いおまけの方が多い始末だ。
訳には少々古臭さを感じたものの問題なく読めたし、古めかしさがむしろ格調の高さを感じさせていた気がしないでもない。
挿入されていたイラストも退廃的かつ官能的で作品の世界観を反映していた素敵なものだった。
サロメファム・ファタール(男を狂わせる魔性の女)としても挙げられることがあるものの、作品を読んでいるとおかしいのはサロメってより登場人物がそれぞれに薄っすらと狂気を内包しており、サロメの行動でみんなの狂気が噴出した感じがした。
想像だけど、古代の権力者が住んでたお城や宮殿みたいなところって誰もが出入りできるわけではない閉じた空間だったと思うから、権力者の持つ狂った万能感が周囲に伝播していって倫理観が乱れていたんじゃないだろうか。(経営層だけじゃなくて一部の社員もコンプラ意識がなかったビッグモーターみたいに)
本作は小説ではなく戯曲なので、本編は登場人物の台詞と簡単なト書きのみで心理描写はない。
そのため、登場人物の心理は如何様にも解釈できるので読む人によって無数の感じ方があることだろう。
サロメがどうして愛しい人の首を所望したのかということについても、ぼくは「愛してるって言わないと殺す」的な愛情とプライドと独占欲であると感じたのだが、他にはどういう解釈があるのか色んな人の意見を聞いてみたい。
ちなみに、サロメの父親であるエロドが妻であるエロディアのことを「近親相姦」と罵る場面が何ヶ所かあったのでどういうことか気になって調べてみた。
ロディアは元々エロドの兄の奥さんだったのだが、弟であるエロドが兄を殺して王位を簒奪したためにエロドに嫁いだ経緯がある。
当時のヨーロッパでは夫を亡くした妻が夫の兄弟と結婚することを近親相姦と見なしていたらしいが、好きで娶った奥さんに随分な物言いをするものだ。

夜と霧の隅で

こちらの作品も、上で紹介した『幻想の未来』も町田康さんの自分語り本を読んで購入した作品だ。
美しい文章を書くなあという印象で、こんな気持ちになったのは三島由紀夫を読んで以来だった。
表題作の『夜と霧の隅で』はナチスホロコーストと並行して行われていた、回復の見込みのない精神病患者の安楽死計画に反対する医師達の姿が描かれている。
ヒトラーナチスドイツのことについては詳しくないが、彼がどうしてユダヤ人を憎み、虐殺という極端な手段をとったのかについては分かっていないと聞いたことがある。
ただまあヒトラーの行動が「狂気」だとするならば、精神病患者を救おうとした医師達の行動も「狂気」と見える場面も少なくはなかった。
人間の脳みそなんて分かっていないことのほうが多いらしいので、現代ほど医学の発達していなかった第二次世界大戦当時であればなおさらだろう。
そのいわば人体のブラックボックスとも呼べる存在を、いくら患者を救うためとは言えいじくりまわす医者たちの姿はどうにも人体実験じみていた。
ユダヤ人とそれ以外の人種、精神病患者と健常者、またはコロナ禍のマスク警察のように、社会が作り出した”分断”というのは人の心に妙な正義感を生み出してしまうのかもしれない。

三島由紀夫スポーツ論集

新聞や雑誌に掲載された、三島由紀夫のスポーツ論をまとめた作品。
オリンピックの観戦記や自身が熱中したスポーツの体験記などが収録されている。
名文家としても知られた三島由紀夫であるが、本書の収録作の中に「違和感を感じる」の一文があったのが心に残っている。
「筋肉痛が痛い」のようなもので二重表現になるのではと思っていたが、現代の言葉狩りの風潮が厳しすぎるだけで昭和31年当時は問題のない表現だったのだろうか。
とはいえ内容はスポーツライティングとしては非常に読みやすく構成されており、スポーツの内容を比喩表現などを用いて簡潔に説明するのはさすがとしか言いようがない。
三島由紀夫の写真を見たことがある人は、ムキムキの逞しい身体をした男性を想像する人もいるだろう。
ところが彼の幼少期は体が弱くスポーツなどもしておらず、己の身体能力にコンプレックスを持っていたほどだ。
作中で三島由紀夫が主張していたところによれば、スポーツ振興のためにはアスリートでもない成人が気軽に自由にスポーツを楽しめる場を設けるべきなのだそうだ。
当時の体育館やグラウンドなどはスポーツガチ勢に占領されていたらしく、働いている大人が身体を動かしたいと思ってもできる環境ではなかったらしい。
今ほど街中にスポーツジムが溢れていた時代ではなかっただろうしなおさらだろう。
それに、自分もそうなのだが、体育の授業のように集団でスポーツをするのが苦手であっても、体を動かすこと自体は嫌いではないという人はいると思う。
体育の授業が苦手な理由に「自分の運動神経のなさでチームに迷惑をかけるのがいたたまれない」「運動のできなさを周りに見られたくない、笑われたくない」というのがある。
己の身体にコンプレックスを抱えていた三島少年が同じような悩みを持っていたであろうことは想像できるので、いくら後年はムキムキであったとしても彼の主張は信用できる。
また、後半に収録されている『太陽と鉄』も作者を知るには重要な随筆だ。
スポーツを始めた理由や、肉体と死にまつわる彼なりの考えが綴られている。
読み込んでいけば、三島由紀夫がどうしてああいう最期を遂げるに至ったかに迫れそうなのだが、どうにも書いてあることが哲学的かつ観念的すぎる難解な内容で、正直理解が及ばない部分も多かった。
三島由紀夫について何周かしてからまた読み返そうと思う。