公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2023年7月に読んだ本

こうして本の感想を書くことを続けているのは単に文章を書くことや読書が好きということもあるが、「自分の頭で考える」ことを忘れないようにするためだ。
SNSなどで自分と似た感性の人の感想を見て、自分が言いたかったことはこれなんだよねで済ませてロクに言語化もしないと、最終的に考える力が退化したり考えることが億劫になってしまう気がする。
作品を見てどう思ったかを己の頭からひねり出さないでどうするのか。
7月は忙しかったのであまり本が読めなかった。
念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

ONE PIECE (106)

今回の未来島編はルフィたちの場面だけが描かれるのではなく、裏で同時進行的にいろんな大事件が起きているので気が抜けない。
エッグヘッドの設備がかなり充実していることや、CP0の実力ではルフィを止めるのに心許ないこと、ベガパンクが政府にスパイを潜り込ませていたことなど、割とルフィたちの側に有利な状況になりつつある。
ところが、ベガパンクの本体が行方不明になったことにより、エッグヘッド側にも裏切り者がいるのではないかという疑念が浮かんだ。
ベガパンクの分体が怪しいと思うのだが、元々スパイだったというよりは政府に取り込まれたのではないかと思う。
彼が全ての分体をコントロールできているかというと怪しい面もあるので、知識欲や権力欲などを満たす何かを提供してもらうことと引き換えに政府のスパイをしている分体がいてもおかしくない。
また、ここにきて200年前の事件が蒸し返されてきたのも気になる。
ベガパンクが保管していた鉄の巨人は200年前にマリージョアを襲撃したとされているが、ロビン曰く魚人たちへの差別が撤廃された時期と重なるとのこと。
魚人の歴史についてはシャボンティ諸島で説明があり、それによると魚人族と人魚族は以前「魚類」と分類されており、それは200年前に世界政府が魚人島との交友を発表するまで続いていたそうだ。
鉄巨人の襲来が先か、魚人島との国交が先かはまだ分からないが、この二つの出来事が無関係ということはないだろう。

百万畳ラビリンス (上・下)

失礼ながらそこまで期待せずに読んだけどかなり満足度の高かった作品。
ゲーム会社でデバッグのバイトをしている女子大生・礼香と庸子は気が付くと巨大な構造物の中に迷い込んでいた、というところから物語は始まる。
主人公である礼香の思想や思考を見ているうちになんとなく結末は予想できたのだが、そこに至るまでの設定や伏線の回収が見事だった。
設定を分かりやすい言葉に置き換えて説明してくれているのもありがたく、物語に置き去りにされることなく楽しむことができた。
ゲーム知識を生かして自分たちが置かれている現状を把握するあたりはゲームに詳しい人ならアイディアに感心するだろうし、ゲームに詳しくない人でも説明が丁寧なので問題ない。
自分にこれといった専門知識がないので、己が今まで培ってきた経験や知識で情報収集をして状況の理解に努めるシーンはどうにも見入ってしまう。
礼香は既成概念に囚われない人物で(作中では「選択肢が多い」と言及されていた)その自由な発想は巨大迷路攻略においても頼もしくはあるが、彼女には大切なものや存在がないため、自分の命を顧みない危険な行動を取ることがある。
一方で相方の庸子は彼氏もいて現実的な思考で、未知の状況に対しての各々の対応はどちらも理に適っているため、どちらに感情移入しても楽しく読めると思う。
異なる個性を持った二人はいいパートナーのように見えるが、結末は意見の分かれるところだろう。
お互いの個性や生き方を尊重して、否定することのなかったふたりは最後まで"パートナー"だったと思うので、自立した人間としてあの終わり方もアリではないか。
礼香を涼宮ハルヒと会わせたらどうなるのだろうかと読みながら考えていた。
なんか見たことある絵だなあと思って作者さんの名前を調べたら、コミックLOの表紙を描いている人だった。
イラストレーターだと思っていたが本業は漫画家なのだろうか。

デビルマン (1-5)

人類サイドに害を為す勢力の異能を身に宿してしまった主人公の物語って寄生獣だったり東京喰種だったりチェンソーマンだったりいろいろあるわけだけど、その元ネタとも言える。
で、そういう作品は敵勢力との決着をどうするか、人間でも敵勢力側でもなくなってしまった主人公はどんな選択をするのかっていうのが見どころでもあるわけだけど、どうもデビルマンはアニメ版と漫画版で結末が違うらしい。
本作は1972年に発表されて多くの改訂版が出ているが、そういう作品については個人的なこだわりから改訂版ではなくオリジナル版を購入するようにしている。(上に貼った商品URLはオリジナル版のもの)
まあ正直状態はそこまで良くないのだが古びて黄ばんだ本も歴史であり、古文書みたいでそれはそれでテンションが上がる。
改訂版は加筆カットがあったり差別的な用語が修正されたりしており、人によっては「改悪」とする人もいるようだ。
オリジナル版を読んでいて、インターネットで見たことある画像だーって思って嬉しくなった。

たださすがに90年代くらいの改訂版では既に修正されているとのこと。
これくらい昔の漫画を読んだ経験があまりないのだが、昔の作品は総じて民度が低い。
ジョークやいじりにデリカシーがなく、人間の生き方や価値観は割と画一的だ。
不良高校でもないのに木刀やナイフ、カミソリなどで武装したチンピラが校内におり、しかも「斬馬刀の斬左」的なノリで自分の獲物を異名にしている。
上の画像のヒロインもまあまあやばくて、本来は心優しく気弱であった主人公は悪魔の力を宿して少々粗暴になるのだが、主人公が不良をしばき倒したところを見てメスを全開にして自ら進んで彼のカバン持ちをするという「殴る男に魅力を感じる殴られる女」的なムーブをする。(主人公がヒロインを殴るわけではないが)
民度が低いことで作品の評価が左右されるわけではなくてあくまで感想なわけで、現代だとこういう露悪的な役って不良から迷惑系動画配信者とかになっていたりするなあと思った。
3巻くらいまではヒーローものとして話は進むが、その後は人類と悪魔の戦いになり、物語は終末に向けて加速していく。
デビルマン誕生のきっかけが、「両性具有である敵のボスが主人公を愛してしまったから」というのは当時からしたらセンセーショナルだったのではないだろうか。
詳しくはぜひ本編を読んでほしいのだが、人類を敵だとしながらも一つの種を滅ぼすことについての葛藤がひしひしと感じられる。
50年も前にこんな漫画が存在していたら後世に影響を与えるのは当然だろう。
作品のテーマを現代に置き換えても十分成立する普遍的なものだし、正義と悪の単純な二元論でもなく、弱い立場に置かれた側が必ずしも道徳的に正しくて守るべき存在というわけでもない。
5巻という短い巻数ながらかなりの密度でまとまっているので本当に読んでもらいたい。

ハンチバック

読書記の下書きを書いた後に芥川賞の受賞が決定したらしい。おめでとうございます。
重度障害を持つ作者さんが、同じ障害を持つ主人公を描いた作品。
主人公の女性は親が遺したグループホームの一室でwebライターとしてコタツ記事を書いたり、SNSの裏アカウントで赤裸々な欲望をぶちまけたりして暮らしている。
ぼくがこの作品を読もうと思ったのは、作者さんのインタビューをたまたま拝見したからだ。
インタビューの中で作者さんは「自分には書くことしかなかった」と述べており、どんな作品が生み出されたのかとても興味があった。
執筆活動は20年続けており、様々な公募にも挑戦してきたのだとか。
同じ障害を持つ主人公が描かれているので、日常生活のこまごまとした描写も普段の作者さんの生活風景なのだろう。
印象に残ったのは「紙の本に対する憎しみ」「障害者の読書環境」が切々と語られていたことだ。
主人公は障害の関係で本を両手で持ったり読書の姿勢を長時間保つことが困難であり、何の問題もなく読書ができる"特権性"を自覚していない健常者の傲慢さと無知さに怒りを覚えているシーンは、他の作品で読んだことのない場面だった。
電子書籍に対しても、日本はまだまだ読書環境のバリアフリー化(電子機器の使いやすさの問題や、そもそも電子化されていない本が多い)が進んでいないらしく、また、電子書籍を無意味に貶める紙の本好きな健常者に対しても主人公は呆れている。
読書バリアフリー環境が前進しないことは執筆の一番の動機だったと作者さんは語っている。
読み終えてみてこれは私小説なのだろうか?と思ったのだが、インタビューで語っていた内容曰く「重なるのは30%くらい」とのこと。
あえて言わせてもらえば若干攻撃性が高い文章だと見受けられたので合わない描写もあった。
だけど、「書くことしかなかった」という執念や、そこまでの言葉を用いて言いたいことは伝わってきたので、作者さんが書く他の世界も見てみたい。
芥川賞受賞ということはこの作品は純文学ということになるのだろうが、純文学って割と自由なんだなと思った。
逆にエンタメ小説とかのほうが時流に乗らないといけないから難しいのかもしれない。

book.asahi.com

花のあと

藤沢周平の短編集。
全体的に「温度」を感じる本だった。
季節の温度、人と人が触れ合うときの体温、暖かかったり冷たかったりする人の心など。
そのため、直接的な色気のある描写はなくてもどうにも艶めかしさがある。
おっぱいめっちゃデカい的なお色気ではなく、なんかこう家庭内に普通に存在しているけど見ようとしなければ気が付かない何気ないエロという感じ。
本作では武家の恋愛について書かれた物語が多く、武家って大変だなあと思う。
最近は「身分違いの恋」なんて言わなくなったけど身分制度のあった昔はそんなのはよくあることだったし、結婚相手も親が決めて結婚当日まで顔を合わせないのだって普通だった。
大きな戦もなくて江戸幕府が泰平だった江戸中期以降は武士が手柄を立てられる機会が激減し、江戸後期になると扶持の少ない御家人なんかは御家人身分である「御家人株」を裕福な商人に売却するということもあったらしい。
昔の人たちの生き方を現代の尺度で「生きづらかった」と言うけれど当時は"それ"しかなかったわけで、あるものでやっていくしかない。
例えば「昔の人はクーラーも扇風機もなしで夏をどうやって乗り越えたのか」なんて言ったって、クーラーも扇風機もそもそもないのだから、存在を知ってて使えないのと元々存在を知らないのとでは大きな違いがある。
今の価値観から見れば窮屈そうな社会だったとしても、昔の人たちは意外と楽しくやっていたかもしれない。
もしも自分たちが当時の社会に暮らしていたとしても先進的な考えを持つには至らずに、当時の考えに従って生きていくしかないと思う。
だからデビルマンのくだりで触れた"民度"についても、あの時代はああだったわけだから我々の価値観で正しいとか間違いとか言うのはナンセンスなわけである。
向き不向きは当然あるが、あれが社会にとって一番力を発揮しやすい在り方だったのだろう。

記憶の盆をどり

頭の中で言語化できない支離滅裂な考えが交錯することってある。
まれにそうした考えに囚われて物事の進行に支障をきたすこともある。
町田さんの作品はその言語化できない滅茶苦茶な思考をどうにか文章に落とし込んだものなので、合わない人は合わない。
正直、何を言ってるのか分からない作品もあるが、町田さんの作品にしては結末が明確で読みやすい作品も収録されている。
『ずぶ濡れの邦彦』や『百万円もらった男』なんかは後者だが、前者に属する作品は読んでて困ってしまうと思う。
最近は町田さんの長編を読むことが多かったので短篇は久しぶりだったが、こんなのだったなあと改めて実感した。
『少年の改良』で主人公がギター少年に「自分の感性を愛し、自分が自分であることに誇りを持つ」と言っていたのは、これから芸術活動を始める人たち向けの町田さんからのメッセージだろうか。
町田さんの作品を紹介するたびに書いているが、彼の作品に興味のある人はぜひ"家に置いてあった大黒像を捨てに行く話"の「くっすん大黒」からぜひ読んでみてもらいたい。

永遠の詩 茨木のり子

久しぶりに詩集を読んでみた。
人に勧めてもらったのだが、やはり表紙にもある「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」が最高に痺れる。
だが、収録されていた「わたしが一番きれいだったとき」という詩を読んで思い出したことがあった。
作者は1926年生まれで終戦時には19歳だったのだが、この詩は戦争によって青春を奪われたことを詠ったものである。
思い出したことというのは、先日、ファッションビルの上階にある店舗に向かおうとエスカレーターを上っていたときのこと。
途中の階からぼくの前にセーラー服を着た女性が立った。
女性がエスカレーターに乗る前から気が付いていたのだが、彼女のスカートはとんでもなく短くて、普通に立っているだけで太ももの付け根を通り越してオケツの始まる部分が見えるくらいの丈だった。
そんな短さだから、当然エスカレーターの下に立ったぼくからはスカートの中が丸見えである。
しかも女性は結構な年齢のおばちゃんで、白髪の割合が多かったことからおばあちゃんと言っても過言ではないくらい年を重ねた様子であった。
ぼくは、ああいう人の後ろに立った時点で既に負けだなと腹を括るしかなかった。
とりあえず常識的に考えてスカートの中を凝視するわけにはいかない。
かと言って手持ち無沙汰を解消するためにスマホでもいじろうものなら、盗撮を疑われる可能性がある。
じゃあ爪でもいじっとこうかとなっても、「あの人すごい気を遣ってるなあ」と周りに憐れまれる可能性もあり、客観的に自分を見ても「今すごい気を遣ってんなあ」となんかいたたまれない気持ちになってしまう。
最終的にエスカレーターの溝の数を数えて目的地までやりすごした。
年相応とかそんな世間の決めたしょうもないものに従う必要はないのでどんな年齢でも性別でも好きな格好をしたらいいと思う。
だが、せめてスカートを押さえるとか間にショートパンツを噛ませるとかしてほしかった。
まあそんな出来事がまだ記憶にあるうちにこの詩集を読んで、あのおばちゃんに思いを馳せるに至ったのだ。
もしかしたらあの人も"わたしが一番きれいだったとき"に何らかの事情があって好きな服を着ることができずに、今になって青春を謳歌しているのかもしれない。
今が一番若いので何かを始めるのに遅すぎることはないと言うけれど、年を取ってから新しいことを始めるのはちょっと億劫だったり周囲の目が気になったりすることもある。
件のおばちゃんのバックボーンについては知る由もなく、ああやって人の評価を気にせずに好きなように振る舞うのは非常に勇気を要することだと思うけど、"感受性を守る"というのはああいうことかもしれない。