公共の秘密基地

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例えと男子女子と祝日と現状維持

2021/5/11(火)の日記的なもの


先日、いつも行く洋服屋さんに行ったときのこと。
素敵なポロシャツがあったので試着させてもらっていたのだが、仲良くしている店員さんがぼくのポロシャツ姿を見てスパイク・リーみたい」と称してくれた。
ぼくの知っている中国人は張五飛だけでその人については知らなかったため、誰なのかを聞くと映画監督らしい。
その店員さんは例えが逐一オシャレな人で、よく海外の映画俳優や映画監督を用いた比喩表現をしてくる。
ぼくは映画や海外の有名人については詳しくなく、店員さんのようにオシャレな例えはできないのだ。
この間もジョギング中の男性がマスク代わりに口元にバンダナのようなものを巻いていたのを目撃したのだが、ドクロの口元があしらわれたようなデザインだった。
それを見て尸魂界・西梢局(ソウルソサエティ・ウエストブランチ)の魔陣隊(インクス)隊長、ブルーノ・バングナイフが戦闘時に巻いてるやつみたいだなと思ったのだが、全然オシャレじゃない例えだなあと自分で辟易してしまった。
とある人がブログで「"例え"の感性が合う人とだけ仲良くしたい」と言っていて、とにかく納得した覚えがある。
ブルーノ・バングナイフの例えが分かる人を募集しています。


最近のぼくは女子キラーと化している。
それは女子と片っ端からワンナイトするというラテンな意味ではなく、女子を拉致してはバラバラにしておっぱいだけ収集するというシリアルキラー的な意味でもない。
「○○女子」を目ざとく発見するという意味でのキラーだ。
日頃から主張しているが、個人的に「男子」「女子」を名乗っていいのは10代までだと思っている。
譲歩に譲歩を重ねて22~23歳くらいまではギリギリ男子女子の肩書をつけてもいい。
しかし、世の中には「○○男子」「○○女子」がとにかく氾濫している。
いい年をした人間がいつまでも子供を名乗るなんて情けないと思わないのだろうか。


本来、男子女子とは年齢関係なく、「男子トイレ」「女子サッカー」のように性別一般を指す言葉として使われる。
ところが巷に溢れている男子女子的呼称は、ことさらにかわいさと若さのみを主張したキャッチーな印象を与えたいだけのように思う。
いや、分かるよ、いつまでも若くいたいという気持ちは。
だったら内に秘めるとか年齢以外のところで若さを追求すればいいだけの話で、自分から子供であることを名乗るなんてみっともない。
年を重ねたのなら年齢だけでは測れない魅力もあるはずなのに、いつまでも若さに執着して若い子と張り合っているのは最高に見苦しいし気持ちが悪い。
おそらく、今まで積み上げてきたものが何もないから自称する若さくらいしか誇れないのだ。
それに、「○○男子」「○○女子」なんてカテゴライズをしておけば、それ流行ってんのかと勘違いした間抜けの購買意欲をそそる効果もあるだろう。
こないだは「アラカン女子」という言葉を見つけたので、「アラウンド棺桶」かと思ったら「アラウンド還暦」の意味らしい。
墓から蘇ったゾンビの如き、おぞましい呼称を久しぶりに発見したなと武者震いがした。
ババアなのか子供なのかとにかくはっきりしてもらいたいところだ。
しかし最近はあまり活きのいい男子女子ムーブを見つけることができず、不満が少々溜まっている。
あったらあったで文句をつけるくせにないならないで寂しいのだから、男子女子的呼称から脱却できないのはぼくも同様であるらしい。


ゴールデンウィークが終わり、次の祝日は7月である。
今年はこういうご時世なので、去年に引き続き基本的には家にいた。
いつもなら連休の終わりを気怠く思うところだが、昨年から職場が変わったこともあって長期休暇が終わったことに対するダメージは少ない。
仕事をしたくてしょうがないとか、仕事大好きという気持ちはもちろんない。
ないのだが、朝起きて「仕事行きたくねえなあ」と憂鬱になるわけでもないのだ。
人生においてこれ以上ないかもしれないくらいの職場環境に恵まれたことはとにかく感謝なのだが、その一方で危機感が欠如しているのも自覚している。
ぼくは基本的に向上心がないので、現状に満足するあまり新しいことをいまいち求めないのだ。
嫌な職場であれば脱出するための努力や健全に過ごせるための努力をするのだが、差し当たって逃避したい気持ちはない。
上昇志向を持ち続けるのは性格的に無理でも、せめて今の環境を保つための努力と、何かあったときの備えはしないといけない。
永遠に続くものなどないのだから、節目が来たときに慌てないように準備と心構えをしておくのが大人というものだろう。


祝日で思い出したけど五輪改正特措法の施行によって7月の祝日は例年とは異なっている。
施行は2020年の12月末なので、現在市販されている2021年の手帳やカレンダーには移動後の祝日が反映されていないのだ。
仮にオリンピックが中止や再延期になったとしても特措法が再改正されない限りは祝日に変更はないらしいので、どうぞ平日と休日を間違えないように。


書いていて気が付いたのだが、ぼくのブログの導入ないし舞台になるのは自宅か洋服屋さんかコーヒー屋さんが多い。
前職では電車通勤だったので通勤時に思い付いたことや刺激を受けたことを元に記事を書くことができた。
どれだけ自分の行動範囲が狭いのか再認識したし、変化を求めない自分が浮き彫りになったと言える。
ぼくはどうにも【時間・お金・健康】が揃っていないと動かない癖がある。
それらがパーフェクトに整っていることなど少ないし、年齢を重ねるにつれ徐々にどれかが欠落していくかもしれない。
自分を奮い立たせて3要素が揃っていると錯覚させて動かないといけないのだ。