公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

きみのこだわりをみせてもらってるよ

mezashiquick.hatenablog.jp

前回の続き。

江戸時代・吉原の遊女であれば「年増」とされ、とっくに引退しているような年齢の女性のことを頑なに「アラサー女子」と言いたい系雑誌でお馴染み、【CLASSY】というファッション誌がある。
そちらの企画である【着回しDiary】について前回から書いているわけだ。
いい年をして男子・女子と名乗っている人間に嫌悪感がある。
「アラサー女子」だの「アラフォー男子」だの、字面だけで既に気持ちが悪い。
年を取ることについて過剰にネガティブになる必要もないが、若い時のノリがいつまでも通用するわけでもない。
現実を直視して前向きに生きて、素敵な年のとりかたをすることも大切なのだ。
こんなときこそお前らが大好きな「ありのままの」自分で生きていけばいいのに、年齢だけはどうもありのままでは嫌らしい。


リリー・フランキーさんの受け売りだが、この世の中に真に個性的な人間など一握りだと思う。
突飛な服装をしてマニアックな音楽を聴いて映画を見て、エキセントリックな言動をしようと、根底にある精神が平凡なら真の個性とは言わないのだ。
モテたいから、他人と違って見られたいから、目立ちたいから。
結構な理由だけど、使い古された陳腐な動機であることも否めない。
本当にヤバイやつは髪形が七三分けやセンター分けでも尋常でない雰囲気は伝わってくるし、中途半端なやつは例え年中半ズボンだろうと「やらされてる感」が出る。


前回記事の冒頭でも書いたが、ユニクロジル・サンダーコラボのアイテムに行列を作る人があんなに多いあたり、「みんなが持っている」「ネットで話題」なんて宣伝文句は強いのだろう。
普通は嫌だと言いつつも振り切る勇気はなく、自分の属しているコミュニティの秩序からはみ出ない程度の、周囲から受け入れられる程度のキャラクターで終わるのだ。
「個性」と「気持ち悪さ」は紙一重だと思う。
じゃあ真の個性的と気持ち悪いのとは何が違うのかとなるが、そのへんはぼくも知らないので各々考えてもらって、いい意見があったら教えてほしい。
ただ、周りの様子をいちいち気にせず、「人は人、自分は自分」という考えを貫ける人はカッコいいなと思う。


前置きが長くなったがここからが本題となる。
冒頭で紹介したCLASSYの着回しDiaryは、着回しストーリーらしからぬ個性的な設定が話題になっているらしい。
中身が入れ替わってしまった男女だったり、150歳の魔女だったりと、ひと昔前の【エビちゃんOL】的な働く女性のリアルストーリーとは少々異なっている。
ちなみに11月は、ヤンキー高校に赴任した肝っ玉女教師が主役だ。

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そして先日、着回し企画を担当しているという編集さんとライターさんのインタビュー記事を見つけた。

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ぼくの知ってる着回し企画と言えば、女子大生が憧れの先輩といい感じになるまでのプロセスを描いたものや、OLが商社や広告代理店の男前と結ばれるというものだ。
設定も主人公が新人だったりちょっと仕事に慣れてきてたり失恋したばっかだったりで特に代わり映えがなく、お相手の男性も職業や主人公との出会い方が違うくらいだった。
なので、こちらのインタビュー記事で言っている、

今までの『CLASSY.』って、「王道にモテてお金持ちと結婚するのがゴール」みたいなイメージがあって。読者として読んでいた時も「なんでこの着回し主人公の相手は商社マンばっかりなんだろう、世の中にはたくさん男性がいるし、なんなら男じゃなくてもいいのに!」って思っていたんです。

というのは非常に共感できる。
しかし、CLASSYの着回しDiaryが個性的でぶっ飛んでるかというとそれは違うと思う。
なぜなら、チンコを物差しにして自分の価値を計っているスタンスは変わらないからだ。


今まで見てきたCLASSYの着回しDiaryは基本的に、「女性が男性と出会って自分の価値観や常識を見直して前に進む」というテーマだった。
男性と結ばれることもあれば関係性に結論が出ずに終わることも、何なら彼氏ができないパターンだってある。
自分のやりたいことや進むべき道を見つけたり、友人や家族との絆を再認識したりと、ゴールが「モテ」「素敵なカレを見つける☆(ゝω・)v」であった従来の着回し企画とは一線を画しているように思える。
しかし、これを果たして「個性的」と言っていいものだろうか。


人との出会いによって自分の意識が変革することや、それこそ人生が変わるようなこともあるだろう。
しかしそれは何も男性でなくてもいいはずだ。
同性の友人だって、テレビの中の芸能人だって、ネット上の見知らぬ他人だって、どんな縁があって自分の人生に関わってくるか分からない。
CLASSYの着回しDiaryは、確かに主人公の前向きな未来を示唆する結末で終了するが、そのきっかけはすべて男性によってもたらされている。

『CLASSY.』の読者って、恋愛にしろ仕事にしろ世間体を気にしちゃってて自由に楽しめなかったり、動けなかったりする子がまだ多い印象で。でも、自分がいかに幸せになれるかがポイントで、決して競争なんかじゃない。だから、「もっと自分主体で生きていいんだよ」というメッセージを散りばめているんだよね。

人と比べるとか、相手に選んでもらうとか、そういう“しがらみ”から解放されて、「私が主人公よ!」というくらいの図々しさが欲しいなと。モード誌からしたら「個性」「自分らしく」みたいなものって当たり前だと思うんですけど、王道コンサバ誌の『CLASSY.』がそういうスタンスを発信するっていうことに意味があるんじゃないかなって。

インタビュー記事ではこんなことを言っているが、「自分主体で」「相手に選んでもらうしがらみから解放」と言っても結局は男性との出会いをきっかけにして話が進んでいる以上、主体性があるとは言い難いし、異性の目をバリバリ気にしている。
CLASSYが王道コンサバ誌であることは初めて知ったのだが、そういうコンセプトの雑誌であれば男性からの好みや恋愛要素は外せないだろう。
好きな異性によく見られたいという意識で、メイクやファッションにも力が入るだろうし。
しかし、「選択の自由」を掲げているのなら、男性からの目線だけ気にするのもナンセンスなのでは。
もっと言うと、恋愛要素だって必須でなくともいい。
「自分がいかに幸せになれるか」がポイントであれば、彼氏や意中の男性がいることが幸せと捉えられかねないストーリーにも疑問が残る。
「女の価値は男の数で決まる」なんて昔のドラマで言っていたが、自分の価値なんか自分で創出すればいいのだ。
誰かや何かに依存して作り上げた価値や幸福なんて、その対象がなくなったらあっという間に瓦解してしまう。
ぼくが男性との出会いでしか己の身を顧みることのできない女性を、「チンコを物差しにしている」と呼んでいるのはこういうことだ。


そして、結局「モテ」を標榜している以上、「個性的」「ぶっ飛んでいる」という括りも妥当ではない。
根底にある動機が普通であるがゆえに、いくら設定を盛ったところで平凡の域は脱しないのだ。
まあ、万人受けしない設定とストーリーを練っても雑誌の売り上げに結びつかないのだろうが。
今のままのスタンスが続くようであれば例え主人公の女性が殺し屋でも、片腕にドリルが付いていても、夜な夜な黒人と乱交パーティをしていても、いつかは企画に行き詰まると思う。


以前に書いた記事と似たような内容になってしまったけど、もうどうすることもできなかった。

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しかし、CLASSYが王道コンサバ誌って知らなかったのもそうだけど、改めて見ると女性ファッション誌って本当にたくさんある。
コンサバなのはnon-noやMOREくらいで十分なのではと思っていたが、あれはまた対象年齢が違うのだろう。
ファッション誌の種類はたくさんあるのに、街ゆく女性の服装がみんな似たような感じで制服化しているのも不思議だ。
とりあえず、ナチュラル派の「ていねいに暮らしている」的なアラサー以上の女性がリンネルを読んでいる率は異常。