公共の秘密基地

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駅伝とめざましテレビと改造人間と昔の自分

1/5(火)の日記


毎年正月に、駅伝のニュースを目にするたびに思う。
駅伝って見てて楽しい?
ぼくは自分で走ったり筋トレをしたりはしているが、スポーツ全般に基本的に関心がない。
それは体育会系の人間性がクズだと思っているというのもあるが、観戦することにとにかくそそられるものがない。
特に駅伝だのマラソンだのなんて、走っているだけなのに何が面白くて見ているんだろう。
サッカーや野球みたいに得点が入るわけでも、相撲みたいに一瞬の攻防があるわけでもない。
テレビを見て「ああ、走ってるなあ」と思ってチャンネルを変え、見ていた番組のCM中にさっきの駅伝を見るとまだ走っている。
前と違う人なのかもしれないし区間も違うのかもしれないが、興味がないので同じ人が延々同じ所を走っているだけのように感じる。
あえて言うなら沿道に立っている応援のフリーザ様を見つけるくらいが楽しみだが、その場面だけなら後からyoutubeでも見ればいい。
走っている人は真剣だろうし真面目に応援している人もいるだろうが、あんな変化のない競技を楽しむコツが知りたい。
水泳のメドレーみたいに区間ごとに走り方を変えるとかすればいいのだ。
最初の区間は普通に走って、次はスキップで走る区間、次は後ろ走りで次は側転でというように。
それかフィギュアスケートの芸術点のように、走り方やパフォーマンスによってポイントを追加するとか。


昨年の話になってしまうが、地味にビックリしたのがこのニュースだ。

www.sponichi.co.jp

記事から抜粋。

昨年、八木アナは線維筋痛症で番組を欠席し、事務所の後輩である中野美奈子アナ(40)が代役を務めた。

中野美奈子ってもう40歳なの!?と割と驚いた。
数年前まで「元気のミナ!モト!」とか言ってたような気がしたが、あれは思いのほか昔のことだったらしい。
めざましテレビのお天気キャスターは毎シーズンどこぞの芸能事務所の見た目の良い子が務めており、今の担当もエロいと評判のようだ。
この先どれだけのお天気キャスターが出てきたとしても、愛ちゃんが一番かわいかった事実は揺らがないと思う。


あとは驚いたと言えばこちらもだ。

www.oricon.co.jp

元AKBの人ってほとんどが卒業してからパッとしないので、結婚という選択をするのは賢明だと思う。
ジムやボールみたいに集団運用することにより真価を発揮するのがAKBの人らなので、ピンになるとあっという間に撃墜されてしまう。
彼女も顔をいじったり歌手っぽいことをしてはいるようだがいまいち芽が出ないので、無事に結婚出来て安心していることだろう。
しかし、旦那さんのほうは奥さんが改造人間であることは気にしていないのだろうか。
一般人なら過去の写真を処分して交友関係も清算すれば、整形の事実が明るみになることはない。
しかし、芸能人となれば話は別だ。
ネットを漁れば板野友美の昔の写真がいくらでもヒットするが、言われても本人だと分からないくらいの変貌ぶりである。
もちろん彼女は整形であることを認めていないので限りなく黒に近くても疑惑止まりだ。
結婚発表と同時に二人のツーショット写真を公開していたが、相変わらずホームベースのようなシャープすぎる顎で安心した。
ミュージックステーションでデビュー当初のAKBの映像が流れたことがあり、AVに行ったメンバーにはモザイクがかかっていた。
そこまでするのなら、当時と顔が全く違う板野友美にもモザイクとはいかんまでも顔面を今の顔に寄せて加工してあげるくらいの優しさは見せてほしい。
整形のメンテナンス費用のためにも、夫婦共々がんばってもらいたいものだ。


年末に大掃除とはいかんまでも、部屋を整理したり不要なものを捨てたりしていた。
そしたら、2019年の夏頃から2020年の頭くらいに書いていた日記が出てきた。
当時はメンタルがどうにもやられており、ある人のアドバイスに従って日記を書くことにしたのだ。
自分が「しなければならない」と思い込んで自縄自縛になってることを捨ててシンプルに生きること。
私生活が満たされていても自分らしさを表現できる場がないと精神的に安定しない自分のために、己を発揮できるステージを見つけること。
今でこそ日記を書いた目的をこのように明確にすることができるが、当時はこういったことを見つけるために自分の考えを整理していた。
無印良品の白無地A5ノートの各ページにびっしり、耳なし芳一の如くに毎日書かれた日記には我ながら鬼気迫るものがあった。
そう言えば当時は転職活動もしていたため、面接の自己フィードバックも行っていたのだ。
帰りの電車の中でペンを走らせていたのを覚えている。
面接の反省点だけでなく当時の仕事のことや新しく出会った人、既知の友人や家族とのやり取りなど、ぼくの遠回りな文章で感想を差し挟みつつ記されていた。


日記でもブログでもそうだが、昔の自分が書いていた文章を読み返すのはとても恥ずかしい。
これはリリー・フランキーさんの受け売りだが「肉体は老いるほど醜く、精神は老いるほど美しい」ので、今より少しでも若い頃の自分が書いた文章というのはそれだけ無知でアホなため、妙な自意識が働いて真正面から直視することができないのだ。
でも、あのとき自分の考えを整理する必要に迫られたという事実と、そこから導き出された結論はこの先も確実に役立つものだという予感がする。
若い頃の自分は確かにアホかもしれないが、当時の自分から教えられることだってある。
自分に影響を与えるのは何も年上や老成した人ばかりではない。
読み返すのは恥ずかしい日記だけれど、原点に立ち返るためにも処分するわけにはいかないなと思って保管してある。
というか当時の自分には日記にあれだけのエネルギーを放出する元気があったのに、今の自分には危機感が足りない気がする。
危機感がないということは何も考えずにぼーっと生きているということなので、ブログのネタも思いつかないのだ。