公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

ふぞろいの下着たち

今の仕事場に特に文句はないのだが、あえて絞り出すとしたら人に会わないことだ。
職場にはぼくと雇い主である友人しかいない。
友人は客先に行くこともあるが、ぼくは基本的に事務所にいるので、仕事で人と話す機会はあまりない。
ぼくは接客業に向いていないので、仕事中に他人やお客さんと話すのは基本的に好きではない。
なので職場環境としてはセンシティブかつワガママなぼくに向いているのだが、人に会わないとブログのネタに困ることもあるのだ。


以前の職場には、1時間以上かけて電車で通っていた。
何も良いところはなかったのだが、あえて絞り出すとしたらたくさんの人を見る機会があったことだ。
駅を利用する人、同じ電車に乗っている人、同じ職場の人、老若男女様々な人がおり、各々違った人生を歩んでいるだろう。
すれ違った他人がどんな人かを知るすべはないが、他人の公共の場での立ち振る舞いや仕草を見ていると、ふとインスピレーションが湧くことがある。
実際、ブログの序盤は割と電車内の出来事を書いていた気がする。
通勤時間は短いに越したことはないし、二度とああいう環境に戻りたくはないけれど、人の中にいることで見えてくるものはたくさんある。


先日、久しぶりに大学時代の友人と飲みに行った。
場所は人気の焼き鳥屋で、ちょっとお客さんが少ないこんな機会でもないとなかなか予約の取れない店だ。
ぼくはなぜか焼き鳥や串カツなどの竹串に刺さった食物が好きなので、前世は百舌鳥だったのかもしれない。
友人3人と個室で飲んでいたのだが、隣の個室には女性3人と男性1人のグループがいた。
入店するときに見えたのだが、若めの社会人グループのようである。
若さを謳歌しているであろう人たちで、若さゆえの根拠のない自信と万能感に溢れ、仕事に少し慣れてきた時期にありがちな調子乗りな気配を漂わせていて、訳もなく顔面を殴りたくなる衝動に駆られた。


ぼくらが入店したとき、彼らは既に飲み始めていた。
そのときのトークテーマは「スーツの上下が揃っていない男性は嫌だ」というもののようだった。
主に女性陣が声を大にして主張していたのだが、声のデカさに比例して中身の薄い、特に掘り下げることもないそのまんまの内容である。
今はオフィスでもジャケパンコーディネートが増えてきており、組み合わせの上手な人は見ていて感心するほどだ。
ぼくはフォーマルファッションは苦手なので、まだまだ見習うべきところは多い。
ただ単にジャケットとパンツを別のものにすればいいというものではなく、非常に奥の深いコーディネートであるのだが、短慮な彼女らにはそうは映らないのだろう。
というか、そんなことを言うやつに限って自分がどう見られているかは無頓着なものだ。
事実、ぼくはバカ話を大声でしている彼女らを見て、「こいつら下着の上下揃ってないんだろうな」と考えていた。
飲んでいたのは個室と言っても扉のない半個室みたいな空間だったので、トイレに立つ際に彼女たちの所作や服装、面構えを確認し、「あいつはスカートなのに迂闊だし、油断してるときは高校生からの10年物のパンツ履いてるな」などと科捜研の男はパンツプロファイリングを行っていた。


自分ができていないことを相手に求めるのは傲慢というものである。
片付けるのが苦手だから綺麗好きな人と付き合いたいとか、料理ができないから料理上手な人がいいとか、自分の至らなさを棚に上げて相手に甘えているだけである。
得手不得手があるのは仕方がないが、相手任せで寄生する気満々ではなく、お互いに高めあっていこうという姿勢が大切なのだ。
とはいえ、理想を口にするだけなら自由なので好きにすればいい。
まあ、彼女らの下着の上下が揃っていないというのは妄想なので、いついかなるときもテカテカのサテン地で常に臨戦態勢なのかもしれない。
上下不揃いの下着もサテンの下着も、高校生の頃からの10年物もどれも好きなのだが、いつも同じだと飽きるのでメリハリは大切にしよう。


たまにちょっと外に出るだけで、こうやって記事にできるような出来事が世の中には溢れているのだ。
普段は自分のこだわりや好きなもの、納得のいかないことなどを書いているが、自分の中に当たり前に存在している普通のことなので、アウトプットしようという気付きが必要になってくる。
気付かせてくれるのは他人であって、人との交わりの中で自分の考えを再認識・再定義できる。
人は一人でも生きていけると思うけど、誰かがいた方がきっと愉快だろう。