公共の秘密基地

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善意の隣人として生きる

子供の頃にいじめをしていた人が結婚して子供ができて親になったとき、
自分の子供がいじめられないか、もしくはいじめに加担しないか心配するという話を聞いた。


どんな親であれ子供がいじめに巻き込まれないかは心配だと思うが、
自分がいじめをしていた分、より実感を持って迫ってくる問題なのだと思う。


いじめをしていた人間は幸せになるなとは言わんし、一秒たりとも被害者のことを忘れるなと言うつもりもない。
(被害者当人であればまた感想は変わってくると思うが。)


だけど自分が誰かをいじめていたという事実は消えないし、自分のせいで傷ついた人間は間違いなくいるのだから、
十字架は背負っていくべきだと思う。


そして性格の悪いことを言わせてもらえば、
悪事の因果は自分ではなく周囲の大切な人間に降りかかってほしいところだ。


多くの人間は自分が過去にやった行いを悔いており、ふとした瞬間に思い出して自己嫌悪に陥ると思うが、
仲間内での集まりで武勇伝的にいじめの話をするようなアホは、
自分や周りに災いが起きない限り事の重大さが理解できないので、そうでもしないと反省しないと思う。


どんな理由があっても他人をいじめることは悪ではあるので、親がいじめっ子だったからと言って
子供がいじめられていい理由にはならないし、そもそも子供はそんなこと知ったことではない。


だけど、自分がいじめというどうしようもなくくだらなく、人の尊厳や人生を傷つける行為に
加担していたのだということは、何らかの形で報いを受けてほしい。


あくまでも災難とか天災とか、偶発的な理由で片付けるのではなく、
自分が犯したいじめという罪の代償であることをきっちり把握した上で、
行いを反省してほしい。


必殺仕事人のような復讐代行業は、ある意味理にかなっていると言える。
(こちらも犯罪ではあるけど)


そもそも、いじめという言葉が甘っちょろく生ぬるいのもある。


いじめで自殺した子のニュースを見ると、暴行というレベルの被害を受けているケースもあるが、
学校の中だとなぜか『いじめ』で片付けられてしまう。


悪いことをしたのだという意識が希薄になるので、言葉も罰則も厳しいものにしていけばいいのだ。


ぼくはいじめられたこともいじめたこともないが、
もしかしたらぼくの振る舞いをいじめだったと判断して、もやもやしている人もいるかもしれない。


そんなことを考えたら自分ももやもやするので、いじめをなくすことは無理かもしれないし、
社会問題に切り込める頭はぼくにはないが、せめて普段から冷静かつ親切に過ごすことを心がければ
後から行動を振り返って後悔することは減るんじゃないかと思っている。