昨日、ジブリについての記事を書いた。
大人でも見られるアニメ作品だし、
大人になってから見ると違った感じ方ができるのでそれはそれで楽しい。
子供と大人で異なった見え方ができる作品というのは貴重だと思う。
今年いよいよエヴァンゲリオンの劇場版最新作が公開されるということで、
TVシリーズを見て予習をボチボチしている。
エヴァを初めて見たとき、この大人たちはなんてダメなんだろうと思っていた。
もっとシンジくんの話を聞いていれば彼があんなにナーバスになることもなかったし、
アスカや綾波に関しても同様だ。
大人たちは自分のことしか考えておらず、アドバイスを少年たちに投げかけることはあっても、
基本的には我が身かわいさで行動していた。
もっと優しくしてやれよ、きちんと説明してやれよ、
大人なんだしもっと余裕をもって接してやれんのかと、
子供たちの立場になって憤慨していた。
そりゃシンジくんもウジウジせざるを得ないだろう。
で、自分が大人と呼ばれる年齢になってみて思うのは、大人ってあんなもんだなということだった。
ネルフの大人たちが子供たちに与える助言も、
割と知ったようなことで事情を少しかじっていれば誰でも言えそうなことだ。
薄っぺらい人間だなと思われないような取り繕いも、大人になると上手になる。
子供らは自分たちのことだけ(エヴァに乗ることだけ)考えていればいいかもしれないが、
大人には責任とか義務とかいろいろあって、少年たちのヒステリーや反抗期に構っていられる余裕はないのだ。
生きることはしんどくて大変で、でもそれを子供に説明したって理解できないし、
説明するのもアホらしいので、ストレスを感じない付かず離れずの距離を保つのだ。
ましてや人類の存亡に関わるようなお仕事である、大人だってナーバスにならざるを得ない。
ぼくは特にミサトさんに共感するところが大きい。
綾波が自爆して部屋で落ち込んでいるシンジくんの手を彼女は握ろうとしたが、拒絶されてしまう。
当時このシーンを見たときは、ミサトさんは純粋にシンジくんを慰めてあげるつもりだったと思っていたが、
大人になってから見ると、慰めるふりをして自分の寂しさを埋めたかっただけなんだなと思った。
そう思って見ると生々しいシーンだし、乳や尻がでかいとかの単純な描写で表現されたわけではない、
ミサトさんの女の部分が強調されているシーンだ。
加地さんが死んで新しい依存先を見つけたかったミサトさんにとって、
同居している中学生男子のシンジくんは格好の獲物だった。
ちょっとカマをかければ自分になびくだろうと踏んでいただろうし、
シンジくんから迫ったことにもできるので心の中での言い訳も立つ。
他にも慰め方はあったかもしれないが、おそらくミサトさんはセックスでしか人と繋がれない女性のため、
あの手段しか知らなかったんだろう。
手を握ることが綾波が死んで悲しんでいるシンジくんのためになるとも思えないし、
やはりミサトさん自身の寂しさを埋めることを優先して行動していたんだと思う。
あくまでも選択権はシンジくんに与えるフリをして、自分の思う通りの行動を取らせたかったのだ。
シンジくんに拒絶され、部屋から出た後のセリフも印象的だ。
『寂しいはずなのに。女が怖いのかしら。いえ、人との触れ合いが怖いのね。』
『そっか、誰でも良いんだ。寂しかったのは私のほうね。』
2行目のセリフはペンペンに声を掛けて無視された後のものだが、
シンジくんに迫ったことが自分の寂しさからくる行動だとそこでやっと気付いたのだ。
いろんな人の心に触れてきて、身体を重ねてきて、世の中の渡り方を知ったズルい大人が中学生にすることではないかもしれないが、
でもやっぱり、今のぼくにとっては『大人ってそんなもん』で片付いてしまう。
エヴァ破で綾波を助けようとするシンジくんの背中を押すようなセリフを叫んだかと思えば、
Qではもう何もしないでと吐き捨てるあたり、ミサトさんも変わってないなと安心したものだ。
もしもミサトさんとシンジくんの性別が逆で、29歳の男性と14歳の女子中学生が同居することになったと考えれば、
ミサトさんに同情する気も起きるだろう。