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【ネタバレなし】今日の日はさようなら-シン・エヴァンゲリオン劇場版感想-

早速エヴァを見てきたわけだけれども、人の多いところに出向くのが嫌いなぼくがなぜ早々に劇場に足を運んだか。
理由を説明するために前書きからスタートさせていただく。
前も似たようなことを書いたが、漫画やアニメ等の創作物を楽しむリテラシーが低いバカが多い。
どんな分野でも傑出した人物になるためには努力と才能は欠かせないものだが、リテラシーの低いやつはその点で言うと「創作物を嗜む才能」「想像力」がとにかく欠けている。
知らないことは知らないで仕方ないし、そこは努力で補っていけばいいのだが、努力以前に才能と想像力のないバカが多すぎる。
鬼滅の刃がブームになったとき、猫も杓子も鬼滅鬼滅でうんざりしていた。
普段は漫画のことなんか取り上げないであろう、女性誌ビジネス誌が鬼滅に乗っかってアクセス数稼ぎをしようとしたり。
普段何やってんのか分からん五流芸能人が鬼滅のコスプレで話題になろうとしたり。
また、有象無象の木っ端webメディアも「鬼滅の刃を見るときあるある」みたいなしょうもない特集をしていた。


あるあるネタのひとつに「鬼滅の話をするときに相手がどこまで見ているか分からないから話題選びに慎重になる」というものがあった。
アニメだけ視聴している人は単行本や本誌の内容は知らないから、物語の核心に触れる話題を避ける必要がある。
本誌派から見た単行本派も同様で、単行本化されていない範囲の話をすることはネタバレになってしまう。
そんなの当たり前のことなのだが、わざわざあるあるネタにして記事にすることだろうか。
しょうもないwebメディアがしょうもない記事を作成したソースは不明なので妄想と言われかねないが、ネタバレを無自覚に垂れ流すアホは意外にいるのだ。
鬼滅でもどこぞの芸能人が劇場版公開時、ブログで劇中のセリフを紹介していたが、見出しにも本文にも【ネタバレあり】の脚注は見られなかった。
配信元は忘れたが、鬼滅のことをしたり顔で分析したどっかのweb記事には、当時単行本化されていない話について注意書きもなしに触れられていた。
ぼく自身も、テレビの地上波番組でお笑い芸人の手によってONE PIECEの重大なネタバレを喰らった悲しい経験がある。


こういうバカは、普段は漫画やアニメに触れる機会が少ないから媒体によって物語の展開にタイムラグがあることを理解できないのだと思っていた。
ジャンプなどの週刊漫画雑誌に掲載された漫画はすぐさま単行本になり、アニメもあっという間に最終回まで到達すると勘違いしているに違いないのだと。
それなら仕方がないと思っていたがそうではないのだ、彼ら彼女らは単に想像力の欠如した間抜けなのだ。
少し想像して考えを巡らせれば理解が及びそうなものの、才能と想像力がない上に自他の境界が曖昧なため、自分が嗜んでいるものを周りが嗜んでいるとは限らないと分からないのだ。


というわけでぼくがエヴァを早々に見に行ったのは、第一にネタバレ回避のためだ。
もちろん長年のファンだからというのもあるが、好きだからこそ余計な情報を仕入れずにまっさらな気持ちで楽しみたい。
ただエヴァの場合はアニメ以外での物語の展開はない。(漫画版は既に終了している)
そのため、映画のネタバレをするやつは上記したようなアホだからという理由ではなく、悪意を持って内容を広めようとしているやつだ。
ネットのどこかでその悪意に遭遇するかもしれないが、ネットを断つことは不可能なので、それならもう見ちゃえと思ったのである。


ここまでが、映画を見る前にあらかじめ書いておいた内容。
ここからが3/11に映画を見た後の内容になる。


見た感想としては「説明不足の部分はあったけど分かりやすくまとまっていたように思う」だろうか。
テレビアニメ版のラスト付近や旧劇場版は見ておいたほうがいい。
何より、25年越しの完結ということもあり感慨深いものはあった。
熱いシーンや旧シリーズのオマージュみたいな光景、ファンからするとニヤッとする場面もあり(アンチ風に言えば「庵野また始まったよ」的な)、謎の感動と若干の寂しさに包まれた。
テレビ版完結の1996年から新劇場版の序まで11年、序からQまで5年、そしてQからシンエヴァまで9年、長いこと待たされた人も多いだろう。
当時はシンジくんたちと同世代だったぼくも、いつの間にかミサトさんたちと同じ年齢になってさらに追い抜いていたと思ったら、Qの作中で14年経過していてまた追い抜かれてしまった。
今やゲンドウや冬月にシンパシーを感じるファンもいることだろう。
個人的にはマダオゲンドウに親近感を覚えるシーンがあり、序の主題歌である宇多田ヒカルの【Beautiful World】もゲンドウのことを歌ったように思えてきた。
もしもぼくに子供がいたらより真に迫って感じられただろうし、当時のファンで結婚して子供がいるような人にはぜひ見てもらいたい。


作中の言葉を用いれば我々ファンも「エヴァの呪縛」に囚われていたのかもしれない。
ぼくとしては概ね満足のいく終わり方だったので、「ああ、エヴァは終わったんだなあ」とこれ以上なく感じた。
もちろん、キャラクターの扱いや説明不足の感に不満があることも承知している。
ちょっとネットを漁れば、今作に対する呪詛が無数に書き連ねられている。
エヴァ公式が同人誌に代表される二次創作を禁止したのも、これら不満が噴出することを見据えた上での対策と言われかねない。
監督と声優との関係を推測して展開にキレている人、オタクを馬鹿にしていると憤慨している人もいた。
全ての人が納得する展開にすることは不可能だから、批判があるのは仕方のないことだ。


旧劇場版の展開は、多くのエヴァファンに「アニメばっか見てないで現実を見ろ」と言いたかったんだと受け取った。
当時大人気だった綾波を巨大化してグロテスクに表現したり、シンジがアスカでオナニーしてたり。
量産機にぐちゃぐちゃにされて鳥葬にされる弐号機は見るものに衝撃を与えたし、ファンからの脅迫文「庵野殺す」が画面に一瞬映り込む演出があったのは有名な話だ。
見た人に冷水を頭から浴びせるような作品を作ってエヴァを神格化するファンの目を覚ましたかったんだろうし、監督自身も作品を取り巻く現状に嫌気がさしていたのかもしれない。
確かに、当時はアニメばっかり見て現実がままならないいわゆる「オタク」が多かったし、日陰者の存在だったのだろう。
今やアニメを見ることは必ずしも恥ずかしいことではないとされ、芸能人もテレビでオタク趣味を公言し、エヴァンゲリオンだって日本を代表するアニメになった。
昔からのエヴァファンも庵野監督自身も年を取り、当時熱狂した劇場版は「旧劇場版」と表現される始末だ。
だから新劇場版を通して監督が言いたかったことは「昔いろいろあったけど、受け止めて前に進んでいこうぜ」だと思う。
旧劇場版と違って、作品全体に暖かいものを感じた。
庵野監督を脅迫した人も、エヴァに対する様々な意見もまさに現実に存在するのだから、現実はクソでどうしようもないものかもしれない。
嫌なこともあったけど良いことだってあっただろうし、前を向いて生きていくしかないのだ。
また、見た作品に対して文句を言うのは自由だが、反対の意見を有する人、この場合は作品の出来を褒めている人まで貶すのは間違っていると思う。
ファンも「大人になれ」であり「大人になったな」と言われる必要があるだろう。


予告編でシンジくんも言っているように「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」であって、もうエヴァンゲリオンはいないのだ。
ヤマトみたいに数十年越しでリメイクしたり、庵野監督自身がまた作り直したりするのも可能性は低いだろうがある。
ただ、ディープなファンはそれこそ死ぬまで考察を続け、語り続けるとは思う。
ファンもアンチも、褒めている人も貶している人も、発端は愛なのだ。