公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

子供優先のファッション

夏ごろに、友人から電話がかかってきた。


『今日は奥さんに休憩してもらおうと子供を連れて実家に来てて、自分の母親と一緒にどっか出掛けようと思ってたけど、都合が悪いとのことで行けなくなった。
もし暇なら一緒に博物館でもどうでしょう。』


要は子守りに付き合ってくれるかということなのだが、なかなか愉快そうだし、友人もぼくを信用して頼んでくれてるだろうから無下にするわけにもいかんので二つ返事で行くことにした。


ぼくのような矮小な人間の休日を消費して、友人夫婦の家庭円満に繋がるのならこんなに嬉しいことはないなとこのときまでは思っていた。


子供は女×1(3才)男×2(1才)の3人構成で、男児は双子なので友人宅は一気にちん毛だらけの家庭になった。


長女とは二度くらい会ったことがあり人見知りをしない子だったのだが、問題は生まれたばかりに会ったきりでほぼ初対面の双子だ。


とは言ったものの、今までいろいろな友人の子供に会ってきたが割とみんな打ち解けて接してくれるので、ぼくは子供にすらこいつは見下しても大丈夫だと思われていたのだろう。


今回の双子との邂逅にも自信があり、子供たちも車内で流れているディズニーのおかげか大人しく、道中は和やかな雰囲気のドライブだった。


ところが長女がトイレに行きたいというのでガソリンスタンドで友人と一緒に降車した瞬間、車内の空気が一変した。


知らんおっさんと取り残された自分たちという状況に気が付いた双子は堰を切ったように泣き出し、お父さんを求めて外に出ようとしたので止めようとしたのだが、ぼくが近寄ると余計に泣くのでとにかく参った。


将来的な伸び率を考えれば彼らがぼくのような緩み切った男に何ら遅れをとることはないのだが、彼らは自分たちの可能性に気が付いていないのでとにかく恐怖と不安でいっぱいだったに違いない。


なんやかんやあって双子ともぼくになついてくれ、博物館に着く頃には手を繋いで廻っていたのだが、やつらはとにかく走り回るし行動の予測もつかんのでてんやわんやしていた。


友人もぼくの存在をありがたがってくれ、一人で来てたらどうなっていたことかと感謝してくれていたが、自分の子供でも三人を一人で見るのは無理があるだろうと身をもって感じた。


その博物館は知的好奇心をくすぐる展示をメインとしていて家族連れが多く来ていたが、ここにいる人たちはほとんど全員こんな大変な思いをして家族を形成しているのかと考えるのもしんどくなった。


帰り、疲れて後部座席で眠る子供たちを尻目に、友人に
「この子らがどうとかではないけど、自分に子育ては無理だと思った。」
と正直な思いを吐露した。


友人は「まあそれも人生だよ」と、昔の鋭く尖っていたやつの面影を微塵も感じさせないすっかり丸くなったパパとしての顔で答えた。


そんな知ったようなぼんやりしたセリフが聞きたいのではなかったけど、まあこれも人生なのかもしれない。


子供たちと遊んでいて感じたことがあって、ぼくはブレスレットや指輪を着けているが、子供たちと手を繋いだり抱っこしたりするに当たっては危ないので外していた。


周囲のお父さんお母さんたちはみんな動きやすい服装をしており、ぼくみたいにややこしい恰好をしている人はいなかった。


年を取ると、若いころのようにウールや革のコートが重たくてしんどいと感じ、綿や化繊のアウターをついつい着てしまうという話を聞いたことがあるが、子供ができるということもファッションにおいては転機になるのだろう。


育児においては動きやすく、汚れても洗濯できる服装で、アクセサリーは子供が誤飲する危険もあるから身に着けない。


何より、今まで自分の洋服に使っていたお金を子供のために使うようになるという、優先順位の変化が大きいと思う。


洋服とは日々を共にするもので、あんな思い出やこんな思い出を一緒に過ごしてきた服たちがいて、子供が生まれたときに着ていた服と、子供を育てているときの服ってきっと違ってくるんだろう。


いくつになっても着ていて楽しく、自分の気分が上がる服を相棒にしていたいが、いつかのぼくが心を揺さぶられる服と、着なきゃいけない服って違ってくるのだろうか。


好きなデザイナーさん(53)が、
『ピュアな心で好きなものに囲まれて、ただ気分を上げることだけを考えたグッズのチョイスで生きていけたらどんなに幸せか』
と言っていて、ぼくみたいな若造が悟ったようなことを言うなんてまだまだ早いなと恥ずかしくなった。