公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2023年9月に読んだ本

2023年9月末、アニメ版呪術廻戦にて起こったとある展開にアニメ派が騒然となったというネットニュースを見た。
展開についての言及は避けるがそのニュースがyahooに転載されており、記事に対していくつかのコメントがついていた。
気になったのは、「アニメ派はとにかく原作を見ろ」という旨のコメントである。
「これ以降も地獄」「今後の展開はこの程度でショックを受けていたら耐えられない」「メンタルが彼岸を渡りそう」といったコメントを複数のユーザーが投稿しており、「ショックを減らすために先に原作を見ておけ」と言いたいらしい。
ぼくはONE PIECE以外のジャンプ漫画は本誌で見ているが、もしもぼくがアニメ派の人間だったら「余計なお世話」だと思うし、「こいつは日常生活を問題なく送れているのだろうか」とも思う。
まず、アニメを見ている人間が全員漫画版を見たいだろうと思っているのがおかしい。
アニメで展開を追うだけで満足な人、漫画を読むことがあまり好きではない人、いろいろいるわけだ。
原作ありでしかも未完の場合、終わってから見ればいいかという考えの人もいる。
こういうやつは結局のところ親切心で言っているのではなく、心の深奥では初見の感想を眺めて「初見の悲鳴からしか得られない栄養がある」とニヤニヤしたいだけの気色の悪い人間なのだ。
よくもまあたまたま先に原作を読んでいたというただそれだけの理由で、思い上がった阿呆みたいなことが上から目線で言えるものだと感心する。
また、確かに呪術廻戦の渋谷事変、更にそれ以降の展開は衝撃的なものが続くが、「耐えられない」「立ち直れない」ほどではない。
ネットに生息しているオタクは漫画やアニメの理不尽展開についてあたかも人生の終わりかのような大げさなコメントをするが、見ていて本当に寒々しい。("地獄"とか本当にしょうもない)
フィクションのストーリーで立ち直れなくなっていて、現実の理不尽にどう立ち向かっているのだろうか。
それとも、娯楽で楽しんでいる創作物だからこそショックを受けてしまうということなのだろうか。
展開を先に知っていてマウントを取る間抜けは鬼滅の刃進撃の巨人、現在放送中の葬送のフリーレンなどの人気作品には軒並みいると思われるので恐ろしい。
悪意がなさそうなぶん、ネタバレしてくるやつよりよっぽど害悪でうっとおしい存在だ。
前置きが長くなったけれど9月に読んだ本の紹介をする。
念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

サンダー3 (4)

GANTZの人ではないかと(自分の中で)話題の漫画ではあるけれど、作者も世間に言われていることを自覚しているらしく、巻頭のコメントで「GANTZは好きな漫画」とやんわり本人説を否定していた。
まあ誰の漫画でも面白ければ特に問題はない。
並行世界に迷い込んだ妹を助けるため、中学生の主人公たちが奮闘するSFストーリー。
今巻はバトル展開がほとんどであった。
これまでは重火器がメインであった戦場に人型っぽい兵器が導入されたり、人間サイドにも奥の手があったりと戦闘が多様化してきたことで、作者の兵器デザインやアクションシーンの見どころが増えている。
敵サイドにもなんか重鎮っぽいやつが登場してきて、戦場において対話や交わりのなかった両勢力にどんなコミュニケーションが発生するのか楽しみだ。
そもそも、世界観の説明がそんなにないので、敵方からの意見をもうそろそろ聞いてみたいところである。

ZOMBIE POWDER. (1-4)

久保帯人先生の連載デビュー作にして、『BLEACH』の前に描いていた作品。
死者を蘇らせ、生者に不死の肉体を与えるとされている粉末「ゾンビパウダー」を求めて旅する主人公の物語。
残念ながら打ち切りという形で作品は幕を閉じており、なんかすごいとこでぶった切っていきなり終わったなあという印象だった。
正直なところ、ウエスタンな世界観をいまいち生かし切れていないなあとは思った。
また、主人公の芥火ガンマはチェーンソーと幅広の刀を組み合わせたようなカッコいい武器を使うのだが、突然謎の剣術を使いだし、剣術を学ぶに至った経緯の説明がない上に流派についてもふわっと触れられただけなのであれは一体なんだったのだろうかという気持ちが拭えない。
おそらく連載の中で謎が明かされていく予定だったと思われることが散りばめられていたため、消化不良感は否めない。
とは言え中身は久保先生のエッセンス満載で、BLEACHにもあった巻頭ポエムや、各話のカウントが「track.○○」なのがセンス大爆発で開始からにやけてしまう。
ガンマは元々和装に近いデザインで侍をイメージしていたとのことでそのデザイン画も掲載されているのだが、BLEACHで登場した死神の死覇装に通じるものがある。
また、BLEACHで"斬術"という言葉が出てきたときに"剣術"でないのは珍しいなと思っていたが、本作でも主人公の剣の流派「火輪斬術」で使われていたので、剣術とは明確に区別をしているのだろう。
ガンマの戦い方はBLEACHにも受け継がれていたと思われる部分があり、白一護が斬月の柄に巻かれた布を解いて刀を振り回すシーンなど連想した。
メインのキャラ4人の造形はそこまで派手ではないものの、他の登場人物や武器などはさすが久保先生と言わんばかりの唯一無二なキャラクターデザインを発揮している。
主人公サイドが割と強めなのでストレスを感じず安心して読むことのできるものの、決して無双系ではないところのバランス感は見事だ。
2巻から4巻にはそれぞれ読み切りも収録されているため、久保帯人先生ファンは必読の内容である。

無頼伝 涯 (1-5)

カイジ』や『アカギ』でお馴染み福本信行先生が初めて少年誌で連載した漫画。
本当はカイジを揃えたかったのだが収納スペースの関係で見送ることとなり、同作者の作品で巻数少なめのものはないかと探して見つけた。
福本先生の作品ながらギャンブルは絡んでこない。
無実の罪を着せられた主人公の少年・涯が己の正しさと力を証明するために大人たちと闘う話。
涯は15歳にしては頭が回るものの、周囲に馴染むことをやめて孤独に生きている少年だ。
その彼の内心の叫びや葛藤や成長が福本節でたっぷりと描かれており、非常に見ごたえがある。
ところがそのたっぷりさ故に序盤の展開は遅く、打ち切りという形で作品は終了している。
しかしながら起承転結は破綻しておらず物語としてはきっちり完結しているため、打ち切りを感じさせない仕上がりだ。
福本先生の作品はどうしても間延びしてしまうこともあるのだが、そうした作風が苦手な人にもお勧めできる。
涯は実のところ世間に自分を受け入れてもらえないことを不貞腐れてこじらせてしまっているだけの子供であり、「肝心な問題や困難な現実に立ち向かわない卑怯者」と大人には看破されてしまう。
なぜ立ち向かわないかと言うと負けるのが怖いからで、孤独を好むのも誰かに拒絶されるのが怖ろしいからで、でもそんな自分から目を逸らすために小さな反抗を繰り返して「世間におもねらない自分」「学校の馬鹿共とは違う自分」に陶酔して満足してしまっているのだ。
この作品で頻出する言葉に"力"がある。
涯は力を単純に腕っぷしのことだと思っているが、この作品にはいろんな力を持った人物が登場する。
具体的には財力や権力、人脈や組織などであり、現代社会においてそれらに対して15歳の少年の腕力などでは何も解決しない。
暴力のみで現状を打破しようとする涯に対して刑事が「力とは未来を切り開けてこそ」と諭す場面がある。
最終的に涯は多くの人の助けを借りて本懐を遂げるのだが、困ったときに誰かが助けてくれる人徳もまた"力"であって、それに彼が気が付いたからこそああいうラストになったのだと思う。
この作品は大人もいい味を出しており、涯の本心を看破したり諭したりして理解者っぽいポジションにいた刑事が、肝心なことを後回しにしてずるずる生きてきた人なのが現実っぽくていい。

鳥肌が

歌人穂村弘さんが、個人的に怖いと思うことを綴ったエッセイ。
勉強不足でこの方については存じ上げなかったのだが、言葉をこねくり回す歌人という仕事なだけに物事の捉え方がユニークだった。
人間は自分の知っている言葉でしか考えられないため、言葉を多く知っているということは己の感じたことをうまく認識したり処理できるということになり、それは思考の幅に繋がっていく。
作中では読者から寄せられた短歌を元に話題を展開している回もあり、その中に「恋人が自分を起こすために頬を軽く叩いたことがあり、今思えばあれが最初のビンタだった」ということを詠んだ歌がある。
どんな歌かはぜひ読んでみてほしいのだが、この詠み人(性別不明)が感じた不穏な空気と、その後恋人からどんな扱いを受けたかを端的に表現した名文だと思う。
エッセイは全体的にどことなく都会的な感じのする文章で、そして節々で抱くこの違和感は何だろうと思いながら読み終わった。
その後、以下で紹介する別の人のエッセイを読んだ際に「全てのエッセイは自慢」と書いてあって謎が解けた。
どことなく文章が自慢っぽいのだ。
よくよく考えてみれば、好きでよく読んでいるリリー・フランキーさんやみうらじゅんさんのエッセイにも女性との交流の描写はいくつも出てくるので、あれも遠回しの自慢と言えば自慢である。
ただあれらを自慢とあまり感じないのは、あえて情けないところを見せたりカッコ悪い場面を誇張したり、エロを強調したりしているからなのかと思う。(実際、みうらさんも「モテた自慢話なんて面白くないから笑いに落とし込まないと気が済まない」と言っている)
ベンチャー企業の経営者や従業員が社内でしょうもないTikTokを撮影するのが体育会系のユーモアなら、このエッセイは文化系のユーモアというかそういう香りがした。
とは言え作中で紹介されている短歌やそれらに対する作者のコメントは面白かったので、今後も何作か読んでみるつもりだ。

幸福な王子/柘榴の家

オスカー・ワイルドの童話をまとめた作品集。
耽美主義の作家と言われるだけあって、童話と言っても愛や美についてフォーカスしたものが多かった。
表題作の『幸福な王子』については絵本などで読んだことのある人もいるだろう。
街の中心に据えられたゴージャスな王子像が、ツバメの協力を得て自分の身体の一部である宝石や身体を覆っている金箔を剥がし、貧しい人々に分け与えていくという話だ。
自己犠牲や博愛・利他の精神について書かれたものだと思うが、「幸福な王子は本当に幸福だったのか」という疑問は残る。
王子目線で見た場合、概ね幸せだっただろう。
全ての恵まれない人を救済できたわけでも貧困を完全に根絶できたわけでもないため、悔いは残るものの自分のできる範囲でやれることはやれたはずだ。
ところが、客観的に見ると王子の幸せはツバメを犠牲にすることで成り立っている。
ツバメは越冬のためにエジプトに出発しなければならなかったのだが、王子はそんな彼をいつまでも引き留めていた。
そのままずるずると王子の頼みを聞くうちにすっかり冬が来てしまい、旅立つ機を逸してしまうと同時に寒さからツバメの身体はどんどん衰弱していく。
いよいよ死期を悟ったツバメは王子に別れを告げるのだが、王子は何を勘違いしたのか「いよいよエジプトに出立するんだね」と呑気に言う。
この台詞については本当に無自覚の極みだなと思って呆れてしまった。
もうツバメがエジプトに向かう時期を逃してしまったことも分からず、何なら死にそうなほど衰弱しているのに、自分だけやりたいことをやって満足しきっている配慮のなさ。
自己犠牲の精神は結構なことだが、同意していない誰かを自爆に巻き込むのはよろしくない。
物語の中でツバメは王子に好意を抱くようになるので好きな相手のために死ねるのなら本望なのかもしれず、それなら外野がとやかく言うことではないかもしれないが、どうも全面的に賛同はしかねる。
王子像に宿っている人格は像の元となった人物のものであり、描写された暮らしぶりと死後に豪華な像が立てられるあたり相当に身分の高い人だっただろう。
周囲の人物はみんな自分に優しくしてくれて、自分のやることを認めて称賛してくれるし、何をするにも手を貸してくれる環境にいたことが伺える。
恵まれた生まれ故に周囲の優しさを当然と思ってしまう無自覚な傲慢さが、一番身近で手を貸してくれていたツバメの命を奪うに至ったのだ。
そういう人は現実でもお目にかかることがある。
図々しいとはまたちょっと違うし、生まれもあまり関係ない気がするが、人を使うことを何とも思わないというか助けてもらうことに何の呵責も感じない人を何人か見てきた。
物語に関してはさすがに穿った見方かもしれないが、ハッピーエンドとはいかず胸糞の悪い話も多い内容なので絵本にするくらいがマイルドでいいのかもしれない。

無恥の恥

いつか読んだみうらじゅんさんのエッセイの巻末で対談していたことで作者さんを知り、読んでみた本。
大まかには人間の"恥"とSNSについて述べている。
海外では行動の規範が宗教的な「罪」に基づいているのに対して、日本では周囲からどう見られるかという「恥」の概念が基準となってきたというところから話が展開されていく。
「恥」と共に謙遜の文化が発達してきた日本では大っぴらに自慢をすることがみっともないとされてきたが、日本人の心に燻っていた自慢欲求がSNSによって解放されたのだと言う。
SNSで友人がいい感じの風景と共に謎のポエムを投稿しているところを目撃して恥ずかしくなるなど、SNSによって個人個人の「恥ずかしいと思うこと」の範囲が可視化されたというのは確かに同意する。
結婚相手は好きなものが一緒かどうかより、嫌いなものが一致しているかどうかで判断しろと聞いたことがあるが、恥ずかしいと思う行為が同じかどうかも重要だと思う。
共感できる部分が多かったエッセイだったが、印象に残っているのは「若者のファッション」について述べた個所だ。
作者は制服のない高校に通っていたそうで、当時の生徒たちはそれぞれが思い思いの服装で通学していたのだそう。
ところが現在、母校の生徒たちを見ると、チェックのスカートに紺のハイソックスを履くなどして制服と変わらない着こなしをしている生徒が多いらしい。
その高校に通っている子に話を聞いてみると「みんなが私服で登校する日を設けてほしい」と言っていたとのこと。
今の着こなしもほとんど私服みたいなもんなのに何が違うのかと作者が聞いたところ、「みんなと違う服だと恥ずかしい。白のソックスすら無理。みんながそれぞれ着たい服を着る日があればいい。」と返ってきたのだそうだ。
作者はこれを「皆で一体となって田植えをする先祖の霊が寄り添っている」とし、「チェックのスカートが相互監視組織になっている」と述べている。
みんなと一緒が安心するというのは昔からそうではなかったのかと思いきや、校内暴力全盛の時代に青春を過ごした作者に言わせると、当時の若者は暴力という手段で大人や学校への反抗を示していたそうだ。
これは、かつてのガングロや古くは竹の子族のように、今の若者が「恥ずかしい格好」をしなくなったことにも繋がってくると作者は言う。
かつては有り余るエネルギーを昇華するためや、大人や学校や社会への反抗から、後で冷静になって考えてみたら「恥ずかしい格好」かもしれない服装をしていた若者たち。
ところが、今の若者は昔のように大人たちに過剰に抑えつけられることも少ないから過激な反抗をする必要もなく、恥ずかしい格好をすることもない。
一方でハロウィンは年々騒がしくなっていくし、「制服ディズニー」とかもあるくらいだから、派手な格好をしたくないわけではないらしい。
つまり、現代の若者は「ここでは変わった格好をしてもいいですよ」と決められたところでしか弾けられないという、「祭のときに羽目を外す江戸時代の農民」のようなムーブをしていると本の中では述べられている。
要約が長くなったが、感想を綴るにはこの部分は外せなかったので書かせてもらった。
なるほどなるほどと思うところもあったが、こういう論調を見るといつも思うのは「個性のない若者が増えたとも限らない」「若者は別に大人しくなったわけではない」ということだ。
確かにユニクロ等で比較的安価でそれっぽく見える服が広まったことで、小ぎれいにしている人は増えた印象ではある。
一方でみんな似たような格好をしているとは思うし、面白みのないファッションだなとも思わないではない。
でも個性は服装だけで表現できるわけではないし、有り余るエネルギーの発露や反抗や自己表現は何も見た目でアピールしなくてもいい。
それに、今の若者は「恥ずかしい格好」はしないかもしれないが「恥ずかしいこと」はしている。
TikTokなんかで、顔のフィルターをバチバチにかけて宇宙人みたいな顔をした男女が、上半身と手の動作だけで完結する盆踊りみたいな動きをしている動画や、脚を出して乳を揺さぶってアップテンポなリズムに乗って踊っている女性の動画を見たことがあるだろう。
回転寿司をぺろぺろしたり、映えとか言ってマナーやモラルに反することをしたり、あまつさえそれをインターネットに流すなんて恥ずかしいことはなかなかできることではない。
彼ら彼女らにとってSNSは友人との交流に欠かせないもので、友人や自分の知っている人しか見ていないという認識だから、「恥ずかしいこと」はそれぞれのコミュニティできっちりやっていると思う。
若いうちに恥ずかしい格好をしておくと年齢を重ねる頃には落ち着いてきて恥ずかしい格好から卒業し、若者たちの恥ずかしい格好を温かい目で見ることができるが、今の若い人たちのようにハロウィンなどのイベントごとでだけ騒いでいると、いつまで経ってもハロウィンから卒業できないと作者は語っている。
「今の若者無個性論」みたいなのを見るたびに、ブルーハーツの『ロクデナシⅡ(ギター弾きに部屋は無し)』の歌詞を思い出す。

どこかのエライ人 テレビでしゃべってる
今の若い人には 個性がなさすぎる
僕等はそれを見て 一同大笑い
個性があればあるで 押さえつけるくせに

若者が恥ずかしい格好をするのは、大人から「自分もああいうときあったなあ」と生暖かい目で見られるためでも、押さえつけられるためでもない。
ぼくも若いころは今思うとかなり目立つ服装をしていたが、自分が好きでやっていることでも、そのときの気分によっては他人からのどうでもいい意見に落ち込んでしまうこともある。
当時の自分も反抗とか欲求の昇華とかそうした崇高な目的があったわけではなく、ただ単に好きだからという理由でしていたことなので、若者からしても放っておいてほしいのが本当のところではないだろうか。
まあこれは学術論文ではないので、作者の主観がメインであっても誰かを傷つける意図がないかぎりは責められるものではないし、エッセイとはそもそもそういうものだ。
女性作者のエッセイはあまり読んでこなかったので、この作者さんの著書はもうちょい読んでみるつもりだ。

人魚の嘆き・魔術師

谷崎潤一郎の割と初期の作品。
彼は関東大震災後に関西に移住しているのだが、移住する前の作品となる。
谷崎潤一郎と言えば『春琴抄』『鍵』『瘋癲老人日記』などのようにフェチや性癖を全開にした作品が広く知られていることだろう。
ところが、彼がそうした作風になったのは関西に住むようになってからのことなので、本作はそこまでフェティシズムを全開にした作品というわけではない。
しかしながら文章の優美さは変わらずで、美しく芸術性の高い文章が流れるように頭に入ってくるので読んでいて気持ちがいい。
カラっとした美と言うよりは、妖しく暗いドロドロとした美しさといった感じだ。
オスカー・ワイルドしかり谷崎潤一郎しかり、"美しい"という事象を"美しい"という言葉を用いずに表現できるのは本当に唯一無二の世界観である。
ただ意外だったのが、谷崎潤一郎が割と西洋贔屓の考えを持っていたことだ。
『人魚の嘆き』においてやけに白人の容貌を称賛する描写があり(しかも主人公はアジア人)、妙に西洋賛美というか白人コンプレックスみたいなものを感じる一幕だなと感じていた。
後で解説を読んだところによると、当時の彼の作品には白人至上主義の傾向が見られたとのこと。
ぼくは谷崎潤一郎の人物像については詳しくないのだが、彼がそうした思想を持つに至ったのはどういうわけなのだろうか。
ジメっとした和風のエロとカラっとした西洋のエロは取り合わせが悪いと思うのだが、彼の性癖の一端を知ることができた気がするので、今後の作品の読み方でひとつポイントができた。
ちなみに、本作にはオスカー・ワイルドの『サロメ』とその挿絵について言及している箇所がある。
岩波文庫版のサロメには挿絵も一緒に収録されているので、そちらも併せてチェックすれば作品への理解が深まるだろう。

好色一代男

歴史の授業で作品や作者について聞いた覚えはあるが詳細については知らなかったので、勉強も兼ねて読んでおくか程度の気持ちだったのだが思った以上に楽しく読めた。
主人公の世之介は7歳で腰元を口説くほど早熟で、色事が大好きな男。
遊びがたたって親から勘当されるも、諸国を放浪しつつそこでも好色な生活を続けた彼の生涯を描いた作品。
江戸時代前期の1682年に刊行されたもので、単なる娯楽小説に留まらず当時の流行や文化・風俗を知ることができる。
逢引の様々な方法や、ファッションや流行の歌、粋とされる女遊びの振る舞いなどは現代にも通じるところがあり(「服装は時代の流行に従うのがいい」という一文もある)、興味津々で読んでいた。
各ページに挿入されている脚注や巻末の解説によれば、作中の台詞や展開などには謡曲や句をもじったものや、古典などのパロディが多いらしい。(主人公の世之介自身も源氏物語光源氏のパロディとのこと)
また、脚注の量やあとがきが膨大で、訳者の本気を感じられる。
訳者は井原西鶴が大好きらしいので文章量にも納得である。
ページの半分以上を脚注が占めている箇所もあるので、人によっては物語に没頭できないと感じるかもしれないが、分かりやすさを重視するならありがたい。
惜しむらくは、自分の知識不足によって理解できないポイントも多々あったところだ。
世之介は女性に非常にモテる上、衆道(男色)の嗜みもあるので男性にもモテる。
物語中盤以降は父親の遺産を相続しそれを使い切る勢いで色事に没頭するのだが、男前がチートスキル(財力)を得て無双する様子は、現代で例えるならパロディ多めのラノベと言った印象を受けた。
晩年、世之介は「死んだら地獄で鬼に食われるまで」「いまさら心を入れ替えても、ありがたい仏の道に入れるというわけでもない」と己の人生にちょっとだけ虚しさを覚えている。
色事に耽るのは彼が本当にやりたかったことだろうけど、やりたいことだけやって生きていっても「自分の人生には他の可能性があったのかもしれない」と頭によぎるものなのだろうか。

供花 町田康詩集

町田康さんが小説家デビューする前に発表した詩集。
書き下ろしのものから、アルバムやライブの歌詞に手直しを加えたものも含まれている。
町田さんの小説は退廃的かつ自堕落な内容が多いのだが、この詩集に関しては破壊的で破滅的な印象を受けた。
調べてみたところ30才前後の作品のようなので、若さゆえの疾走感みたいなものがあるのだろう。
まあ正直言って詩の内容は何を言っているのかさっぱりだが、町田さんの小説によく出てくる「肉屋」「猿」「うどん」などのワードは詩においても変わらず登場する。
ロゼッタ洗顔パスタ(ロゼットの間違いか?)」が出てくる詩なんて初めて読んだ。
以前に読んだ町田さんの自分語り本『私の文学史』によれば、面白い詩の条件は大まかに4つあるそうだ。

  1. 感情の出し方がうまい
  2. 調子で持っていく(音楽的である)
  3. そいつ自身がおもろい
  4. 詩の中に書かれている意味内容が正しかったり、役に立ったりする

1から3は十分に当てはまっていると思う。
特に2に関しては町田さんがバンドを組んでいた経験もあるからか、そのまま曲の歌詞にできるような作品も多かった。
そして4に関してだが、町田さんは意図的にこうならないように詩を書いているのだそうだ。
詩を書く人の中には「いい感じのことや重大なことを言わなければならない」という意識を持ちがちな人もいるらしい。
その意識を突き詰めると詩の内容が「俺」「私」になるとのこと。
どういうことかと言うと、自分にとって最も重大なことは自分自身の存在であり、己が生まれてここにいることやいつか死ぬこと、これらを途方もないことだと捉えてそのことを詩に書いてしまう。
自分に対する限りのない拘泥ゆえに詩が「俺」「私」になってしまうのだが、自分の存在が最も重大であることはみんな同じであってありふれたことなので、9割の詩はおもしろくないのだそう。(「おもろいな」と思うサンプルを探すほうが難しいらしい)
ところが詩を長く書いていると1と2の技術がどんどん上手くなっていくので、よくよく見れば大したことを言っていない詩でもなんだかいい感じに見えるらしい。
じゃあ町田さんがどんな詩を書いているかというと本人曰く「アホみたいな詩」とのことらしいので、ぜひ読んでいただきたい。
ちなみにリンクで貼っているのは旧版なので、新潮文庫から出ている新版が手に入りやすくなっている。

2023年8月に読んだ本

眼鏡が増えてきたので眼鏡の有効な収納方法はないものかと「眼鏡 収納」とかで検索するのだが、インターネットというやつには何でもありそうで何にもないというのを思い知った。
壁に紐を渡してそこに眼鏡を縦にして引っかける収納方法がいくつか紹介されていたのだが、そんなことをしたらホコリが気になるしフレームが歪んでしまうのが分からないのだろうか。
結局、眼鏡がいっぱい入る収納ケースを買うことで事なきを得たものの、ああいう見栄え重視のしょうもない収納方法を検索結果から除外するフィルターをどこかのIT企業が開発してくれないものだろうか。
8月に読んだ本の記録となるが、念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
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↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

チェンソーマン (15)

一部が映画だとしたら二部は連ドラだなあとやっぱり思った。
普通の暮らしをして普通に幸せになりたいというデンジの思いを尊重して、チェンソーマンになるなという吉田の発言は理に適っている。
ところが、当初はアメリカンドッグとうどんを食うだけで満足していたデンジの幸せに対するハードルは上がりまくっているので、ちやほやされたいしセックスもしたいわけだ。
幸せの基準が上がったこともさることながら、アキやパワーを失ったこともデンジの心に穴を開けてしまっているので、何かで喪失感を埋めようと必死なのだろう。
吉田は友達になりえる存在だったかもしれないが、元々好感度がそこまで高くなかったところにナユタを殺すと言った彼とは友達になることはできない。
アサにしても、一人が寂しいということは自覚しているものの、人と接すると自分がやらかしたり何かが起きたりして積み上げてきたものが台無しになりそうで、誰かと関係を深めることに臆病になっている。
ただまあ、非常に月並みな言い方にはなるけれども、社会の中で他人と関わらないと自分の世界や価値観が狭まってしまう。
以前に読んだオスカー・ワイルドの小説で「どんな場所だって、好きになったところが世界」という台詞があったが、つまりは自分にとって居心地のいいところを自分の世界にしがちということだ。
「自分以上にしんどい思いをしている人なんていない」と断言するアサだけれど、他人を知ることによってみんなも同じような苦労をしてるんだと知ることができる。
もちろん、他人がどれだけ苦労していようと自分のしんどさが軽減されるわけではないが、どうやってツラい経験を回避したり乗り越えたりしてきたかを学んで自分の人生には生かせる。
結局、デンジにしてもアサにしても、人生は主体的に動かないと何も起きないのだ。
「今すぐできなくても…大人になりゃあそのうち彼女ができて…」と願望を述べていたデンジであったが、大人になったらいつの間にかができるのは決して「自然」でも「普通」でもない。
大人になったら自動的に仕事に就けるわけでも、常識が身につくわけでも、愛を誓うパートナーが見つかるわけでもないのが悲しいところである。
人生や他人にあんまり期待しすぎないのがいちばんだ。

七夕の国 (1-4)

寄生獣の岩明先生の漫画。
大学生の南丸洋二は自分に宿った不思議な力のルーツを探るうちに、とある町とそこに暮らす人々と関わっていくことになる。
寄生獣のシンイチと比べると本作の主人公である南丸くんはのほほんとしていて、「戦わない選択をした寄生獣」的な気持ちで読んでいた。
創作によく出てくる「よそ者を寄せ付けない閉鎖的な村」のような社会って外から見れば理解できない文化や風習があったりする。
Trickに出てくるような突飛な設定のものから、実際に存在していそうな村まで様々だが、今回の主な舞台となる「丸川町」の人たちの気持ちは共感することしきりだった。
丸川町の人たちには先祖代々受け継がれている力があり、またその力を遠い先祖に授けた謎の存在を夢に見ることもある。
力を使えるのは町でも限られた人間だけだが、夢はほぼ全ての町民が見ることができるのだ。
町の人たちが使える力は確かに人間離れしたものではあるが、それだけで物事を自分の思い通りに運んだり世界をどうこうしたりできるものではない。
力を持ちながら、その力が何のために与えられたのかハッキリとしないまま何も為すことができない感情のやり場のなさは、読んでいる自分にもひしひしと伝わってきた。
いつまでも存在を匂わせるだけであちらからのコンタクトはなく、それでも夢は見続けるため何かありそうで何もない焦燥感、そりゃ古くから続いている伝統を愚直に守るくらいしか精神を保つ術はないだろう。
作品にも「土地の風習やしきたり、そこに暮らす人たちの感情は軽んじるべきではない」という台詞が出てくるが、いくら外部の人間から見ておかしな習慣であったとしても、それが成立するまでには多くの人たちの感情があったのだ。
ぼくもどちらかと言えば保守的な人間であるものの、今まで触れてきた作品に登場した変化を好まない人たちにそこまで感情移入することはなかった。
先ほども書いた通り、本作では共感する点も多く個人的にはかなり刺さる作品だった。

レイリ (1-6)

岩明先生が原作を担当した戦国漫画。
主人公のレイリは落武者狩りの雑兵たちに家族を殺された過去を持つ。
彼女は戦場で敵を殺しまくって、そして自分を守って死んでいった家族のように誰かの盾になって死にたいと思うようになっていく。
キャラクターの台詞回しや振る舞いはかなり現代風にアレンジされているので、戦国時代に詳しくなくても問題なく読めると思う。
時代も時代だし、史実を元にした話なのでハッピーエンドとはいかんまでも、富士山の描写でレイリの成長を表現したラストはいい読後感を味わうことができた。
いくら自分に確固たる信念があっても、どれだけ武芸に長じていても、大勢の中では己の想いや存在などはあやふやで儚いものだ。
機動戦士ガンダムで例えるならばアムロガンダムの存在がなくても連邦は一年戦争に勝利していただろうと思うし、人ひとりで変えられる範囲なんてたかが知れている。
レイリは確かに物語を通じて成長していくのだが、それに反して周囲の大切な人たちは彼女の元から去ってしまうという人生のままならなさは、なんだかもうとにかく切ないとしか言えない。
どれだけ自分が強くても大切な人の運命さえ変えることのできなかったレイリの虚しさたるや計り知れないものだが、彼女には幸せになってもらいたいと切に願う作品だった。
「世界の広さ」というテーマとしては上で紹介した『七夕の国』と似ていた部分があった気がしないでもない。

幻想の未来

表題作の『幻想の未来』を読み終わってアンパンマンの歌が頭に浮かんだ。
人類が核戦争的なもので滅亡した後の地球で生きる異形の生物たちの長い長い歴史を書いたSF作品。
星の歩みを書いているためとにかく壮大で、よく分からんけどなんかすごいことが起こっているなあと思いながら途中まで読んでいた。
章が変わると一気に時代が数千万年飛ぶこともあるが、物語が地球の歴史そのものであるため数年そこらではスケール的に足りないのだろう。
作中で、宇宙からやってきた生命体に「宇宙規模で見れば意味のないことなんて何もない」と地球の生命体が言われているシーンがある。
大体そういうのって「宇宙規模で見ればお前の存在なんてちっぽけ」になりそうなものなので、なかなか印象に残るシーンだった。
ところが、自分が生まれてきたことは宇宙規模で見れば意味があるとか言われてもピンとこないのが実際のところだ。
むしろ宇宙の広さを知ったところで自分がちっぽけだとは思わんし、自分以外にもしんどい人がいたところで自分がしんどいことに変わりはないし、自分は何のために生まれてきたなんていちいち考えたこともない。
「滅び」を全力で描いた作品ではあるけれど悲壮感はなく、むしろ清々しいまでに世界はそこに存在しているので、人類がいなくなった程度で地球はどうにもならないわけだ。
後で調べたところ作品の初出は1968年らしく、50年以上経過した作品とは思えず古さを全く感じないのはすごい。
時代に合った作品を生み出すのも難しいとは思うが、何十年経っても普遍的なテーマに基づいた作品を考え付くのも創作者としては念願だろう。
長いページと壮大な表題作の後に収録されていた短編『ふたりの印度人』はページが短い上に意味が分からんすぎて笑ってしまった。
筒井先生はナンセンスな不条理物を得意としている印象があったので、他の短編もイメージ通りの内容で楽しく読むことができた。
今回が初の筒井作品であったが、これを機にいろいろ読んでみるつもりである。

サロメ

今、サロメと言えばお嬢様を目指している一般人女性VTuberが思い浮かぶだろうが、ぼくが初めて知ったサロメはこちらだった。
オスカー・ワイルド旧約聖書を元に書き起こした戯曲なので、聖書に詳しい人であればそちらの観点からも楽しむことができるだろう。
本作は光文社古典新訳文庫からも出ているが、本編が70ページくらいしかないのにまえがきだのあとがきだの宮本亜門の寄稿文だのを足して内容と金額をモリモリにしているのが気に食わなくて買わなかった。
さらには、光文社版の訳者が好きではないことも相まって岩波版一択である。
話は逸れるが、光文社古典新訳文庫は翻訳はいいのだが作品と関係の薄い付録を足してページ数と価格を盛る傾向にあるのが不満だ。
以前も鴨長明の『方丈記』を読んだのだが、作品の解説や当時の京都の地図などは本編と関連しているからいいものの、『サロメ』に関しては本文よりも関係の薄いおまけの方が多い始末だ。
訳には少々古臭さを感じたものの問題なく読めたし、古めかしさがむしろ格調の高さを感じさせていた気がしないでもない。
挿入されていたイラストも退廃的かつ官能的で作品の世界観を反映していた素敵なものだった。
サロメファム・ファタール(男を狂わせる魔性の女)としても挙げられることがあるものの、作品を読んでいるとおかしいのはサロメってより登場人物がそれぞれに薄っすらと狂気を内包しており、サロメの行動でみんなの狂気が噴出した感じがした。
想像だけど、古代の権力者が住んでたお城や宮殿みたいなところって誰もが出入りできるわけではない閉じた空間だったと思うから、権力者の持つ狂った万能感が周囲に伝播していって倫理観が乱れていたんじゃないだろうか。(経営層だけじゃなくて一部の社員もコンプラ意識がなかったビッグモーターみたいに)
本作は小説ではなく戯曲なので、本編は登場人物の台詞と簡単なト書きのみで心理描写はない。
そのため、登場人物の心理は如何様にも解釈できるので読む人によって無数の感じ方があることだろう。
サロメがどうして愛しい人の首を所望したのかということについても、ぼくは「愛してるって言わないと殺す」的な愛情とプライドと独占欲であると感じたのだが、他にはどういう解釈があるのか色んな人の意見を聞いてみたい。
ちなみに、サロメの父親であるエロドが妻であるエロディアのことを「近親相姦」と罵る場面が何ヶ所かあったのでどういうことか気になって調べてみた。
ロディアは元々エロドの兄の奥さんだったのだが、弟であるエロドが兄を殺して王位を簒奪したためにエロドに嫁いだ経緯がある。
当時のヨーロッパでは夫を亡くした妻が夫の兄弟と結婚することを近親相姦と見なしていたらしいが、好きで娶った奥さんに随分な物言いをするものだ。

夜と霧の隅で

こちらの作品も、上で紹介した『幻想の未来』も町田康さんの自分語り本を読んで購入した作品だ。
美しい文章を書くなあという印象で、こんな気持ちになったのは三島由紀夫を読んで以来だった。
表題作の『夜と霧の隅で』はナチスホロコーストと並行して行われていた、回復の見込みのない精神病患者の安楽死計画に反対する医師達の姿が描かれている。
ヒトラーナチスドイツのことについては詳しくないが、彼がどうしてユダヤ人を憎み、虐殺という極端な手段をとったのかについては分かっていないと聞いたことがある。
ただまあヒトラーの行動が「狂気」だとするならば、精神病患者を救おうとした医師達の行動も「狂気」と見える場面も少なくはなかった。
人間の脳みそなんて分かっていないことのほうが多いらしいので、現代ほど医学の発達していなかった第二次世界大戦当時であればなおさらだろう。
そのいわば人体のブラックボックスとも呼べる存在を、いくら患者を救うためとは言えいじくりまわす医者たちの姿はどうにも人体実験じみていた。
ユダヤ人とそれ以外の人種、精神病患者と健常者、またはコロナ禍のマスク警察のように、社会が作り出した”分断”というのは人の心に妙な正義感を生み出してしまうのかもしれない。

三島由紀夫スポーツ論集

新聞や雑誌に掲載された、三島由紀夫のスポーツ論をまとめた作品。
オリンピックの観戦記や自身が熱中したスポーツの体験記などが収録されている。
名文家としても知られた三島由紀夫であるが、本書の収録作の中に「違和感を感じる」の一文があったのが心に残っている。
「筋肉痛が痛い」のようなもので二重表現になるのではと思っていたが、現代の言葉狩りの風潮が厳しすぎるだけで昭和31年当時は問題のない表現だったのだろうか。
とはいえ内容はスポーツライティングとしては非常に読みやすく構成されており、スポーツの内容を比喩表現などを用いて簡潔に説明するのはさすがとしか言いようがない。
三島由紀夫の写真を見たことがある人は、ムキムキの逞しい身体をした男性を想像する人もいるだろう。
ところが彼の幼少期は体が弱くスポーツなどもしておらず、己の身体能力にコンプレックスを持っていたほどだ。
作中で三島由紀夫が主張していたところによれば、スポーツ振興のためにはアスリートでもない成人が気軽に自由にスポーツを楽しめる場を設けるべきなのだそうだ。
当時の体育館やグラウンドなどはスポーツガチ勢に占領されていたらしく、働いている大人が身体を動かしたいと思ってもできる環境ではなかったらしい。
今ほど街中にスポーツジムが溢れていた時代ではなかっただろうしなおさらだろう。
それに、自分もそうなのだが、体育の授業のように集団でスポーツをするのが苦手であっても、体を動かすこと自体は嫌いではないという人はいると思う。
体育の授業が苦手な理由に「自分の運動神経のなさでチームに迷惑をかけるのがいたたまれない」「運動のできなさを周りに見られたくない、笑われたくない」というのがある。
己の身体にコンプレックスを抱えていた三島少年が同じような悩みを持っていたであろうことは想像できるので、いくら後年はムキムキであったとしても彼の主張は信用できる。
また、後半に収録されている『太陽と鉄』も作者を知るには重要な随筆だ。
スポーツを始めた理由や、肉体と死にまつわる彼なりの考えが綴られている。
読み込んでいけば、三島由紀夫がどうしてああいう最期を遂げるに至ったかに迫れそうなのだが、どうにも書いてあることが哲学的かつ観念的すぎる難解な内容で、正直理解が及ばない部分も多かった。
三島由紀夫について何周かしてからまた読み返そうと思う。

2023年7月に読んだ本

こうして本の感想を書くことを続けているのは単に文章を書くことや読書が好きということもあるが、「自分の頭で考える」ことを忘れないようにするためだ。
SNSなどで自分と似た感性の人の感想を見て、自分が言いたかったことはこれなんだよねで済ませてロクに言語化もしないと、最終的に考える力が退化したり考えることが億劫になってしまう気がする。
作品を見てどう思ったかを己の頭からひねり出さないでどうするのか。
7月は忙しかったのであまり本が読めなかった。
念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

ONE PIECE (106)

今回の未来島編はルフィたちの場面だけが描かれるのではなく、裏で同時進行的にいろんな大事件が起きているので気が抜けない。
エッグヘッドの設備がかなり充実していることや、CP0の実力ではルフィを止めるのに心許ないこと、ベガパンクが政府にスパイを潜り込ませていたことなど、割とルフィたちの側に有利な状況になりつつある。
ところが、ベガパンクの本体が行方不明になったことにより、エッグヘッド側にも裏切り者がいるのではないかという疑念が浮かんだ。
ベガパンクの分体が怪しいと思うのだが、元々スパイだったというよりは政府に取り込まれたのではないかと思う。
彼が全ての分体をコントロールできているかというと怪しい面もあるので、知識欲や権力欲などを満たす何かを提供してもらうことと引き換えに政府のスパイをしている分体がいてもおかしくない。
また、ここにきて200年前の事件が蒸し返されてきたのも気になる。
ベガパンクが保管していた鉄の巨人は200年前にマリージョアを襲撃したとされているが、ロビン曰く魚人たちへの差別が撤廃された時期と重なるとのこと。
魚人の歴史についてはシャボンティ諸島で説明があり、それによると魚人族と人魚族は以前「魚類」と分類されており、それは200年前に世界政府が魚人島との交友を発表するまで続いていたそうだ。
鉄巨人の襲来が先か、魚人島との国交が先かはまだ分からないが、この二つの出来事が無関係ということはないだろう。

百万畳ラビリンス (上・下)

失礼ながらそこまで期待せずに読んだけどかなり満足度の高かった作品。
ゲーム会社でデバッグのバイトをしている女子大生・礼香と庸子は気が付くと巨大な構造物の中に迷い込んでいた、というところから物語は始まる。
主人公である礼香の思想や思考を見ているうちになんとなく結末は予想できたのだが、そこに至るまでの設定や伏線の回収が見事だった。
設定を分かりやすい言葉に置き換えて説明してくれているのもありがたく、物語に置き去りにされることなく楽しむことができた。
ゲーム知識を生かして自分たちが置かれている現状を把握するあたりはゲームに詳しい人ならアイディアに感心するだろうし、ゲームに詳しくない人でも説明が丁寧なので問題ない。
自分にこれといった専門知識がないので、己が今まで培ってきた経験や知識で情報収集をして状況の理解に努めるシーンはどうにも見入ってしまう。
礼香は既成概念に囚われない人物で(作中では「選択肢が多い」と言及されていた)その自由な発想は巨大迷路攻略においても頼もしくはあるが、彼女には大切なものや存在がないため、自分の命を顧みない危険な行動を取ることがある。
一方で相方の庸子は彼氏もいて現実的な思考で、未知の状況に対しての各々の対応はどちらも理に適っているため、どちらに感情移入しても楽しく読めると思う。
異なる個性を持った二人はいいパートナーのように見えるが、結末は意見の分かれるところだろう。
お互いの個性や生き方を尊重して、否定することのなかったふたりは最後まで"パートナー"だったと思うので、自立した人間としてあの終わり方もアリではないか。
礼香を涼宮ハルヒと会わせたらどうなるのだろうかと読みながら考えていた。
なんか見たことある絵だなあと思って作者さんの名前を調べたら、コミックLOの表紙を描いている人だった。
イラストレーターだと思っていたが本業は漫画家なのだろうか。

デビルマン (1-5)

人類サイドに害を為す勢力の異能を身に宿してしまった主人公の物語って寄生獣だったり東京喰種だったりチェンソーマンだったりいろいろあるわけだけど、その元ネタとも言える。
で、そういう作品は敵勢力との決着をどうするか、人間でも敵勢力側でもなくなってしまった主人公はどんな選択をするのかっていうのが見どころでもあるわけだけど、どうもデビルマンはアニメ版と漫画版で結末が違うらしい。
本作は1972年に発表されて多くの改訂版が出ているが、そういう作品については個人的なこだわりから改訂版ではなくオリジナル版を購入するようにしている。(上に貼った商品URLはオリジナル版のもの)
まあ正直状態はそこまで良くないのだが古びて黄ばんだ本も歴史であり、古文書みたいでそれはそれでテンションが上がる。
改訂版は加筆カットがあったり差別的な用語が修正されたりしており、人によっては「改悪」とする人もいるようだ。
オリジナル版を読んでいて、インターネットで見たことある画像だーって思って嬉しくなった。

たださすがに90年代くらいの改訂版では既に修正されているとのこと。
これくらい昔の漫画を読んだ経験があまりないのだが、昔の作品は総じて民度が低い。
ジョークやいじりにデリカシーがなく、人間の生き方や価値観は割と画一的だ。
不良高校でもないのに木刀やナイフ、カミソリなどで武装したチンピラが校内におり、しかも「斬馬刀の斬左」的なノリで自分の獲物を異名にしている。
上の画像のヒロインもまあまあやばくて、本来は心優しく気弱であった主人公は悪魔の力を宿して少々粗暴になるのだが、主人公が不良をしばき倒したところを見てメスを全開にして自ら進んで彼のカバン持ちをするという「殴る男に魅力を感じる殴られる女」的なムーブをする。(主人公がヒロインを殴るわけではないが)
民度が低いことで作品の評価が左右されるわけではなくてあくまで感想なわけで、現代だとこういう露悪的な役って不良から迷惑系動画配信者とかになっていたりするなあと思った。
3巻くらいまではヒーローものとして話は進むが、その後は人類と悪魔の戦いになり、物語は終末に向けて加速していく。
デビルマン誕生のきっかけが、「両性具有である敵のボスが主人公を愛してしまったから」というのは当時からしたらセンセーショナルだったのではないだろうか。
詳しくはぜひ本編を読んでほしいのだが、人類を敵だとしながらも一つの種を滅ぼすことについての葛藤がひしひしと感じられる。
50年も前にこんな漫画が存在していたら後世に影響を与えるのは当然だろう。
作品のテーマを現代に置き換えても十分成立する普遍的なものだし、正義と悪の単純な二元論でもなく、弱い立場に置かれた側が必ずしも道徳的に正しくて守るべき存在というわけでもない。
5巻という短い巻数ながらかなりの密度でまとまっているので本当に読んでもらいたい。

ハンチバック

読書記の下書きを書いた後に芥川賞の受賞が決定したらしい。おめでとうございます。
重度障害を持つ作者さんが、同じ障害を持つ主人公を描いた作品。
主人公の女性は親が遺したグループホームの一室でwebライターとしてコタツ記事を書いたり、SNSの裏アカウントで赤裸々な欲望をぶちまけたりして暮らしている。
ぼくがこの作品を読もうと思ったのは、作者さんのインタビューをたまたま拝見したからだ。
インタビューの中で作者さんは「自分には書くことしかなかった」と述べており、どんな作品が生み出されたのかとても興味があった。
執筆活動は20年続けており、様々な公募にも挑戦してきたのだとか。
同じ障害を持つ主人公が描かれているので、日常生活のこまごまとした描写も普段の作者さんの生活風景なのだろう。
印象に残ったのは「紙の本に対する憎しみ」「障害者の読書環境」が切々と語られていたことだ。
主人公は障害の関係で本を両手で持ったり読書の姿勢を長時間保つことが困難であり、何の問題もなく読書ができる"特権性"を自覚していない健常者の傲慢さと無知さに怒りを覚えているシーンは、他の作品で読んだことのない場面だった。
電子書籍に対しても、日本はまだまだ読書環境のバリアフリー化(電子機器の使いやすさの問題や、そもそも電子化されていない本が多い)が進んでいないらしく、また、電子書籍を無意味に貶める紙の本好きな健常者に対しても主人公は呆れている。
読書バリアフリー環境が前進しないことは執筆の一番の動機だったと作者さんは語っている。
読み終えてみてこれは私小説なのだろうか?と思ったのだが、インタビューで語っていた内容曰く「重なるのは30%くらい」とのこと。
あえて言わせてもらえば若干攻撃性が高い文章だと見受けられたので合わない描写もあった。
だけど、「書くことしかなかった」という執念や、そこまでの言葉を用いて言いたいことは伝わってきたので、作者さんが書く他の世界も見てみたい。
芥川賞受賞ということはこの作品は純文学ということになるのだろうが、純文学って割と自由なんだなと思った。
逆にエンタメ小説とかのほうが時流に乗らないといけないから難しいのかもしれない。

book.asahi.com

花のあと

藤沢周平の短編集。
全体的に「温度」を感じる本だった。
季節の温度、人と人が触れ合うときの体温、暖かかったり冷たかったりする人の心など。
そのため、直接的な色気のある描写はなくてもどうにも艶めかしさがある。
おっぱいめっちゃデカい的なお色気ではなく、なんかこう家庭内に普通に存在しているけど見ようとしなければ気が付かない何気ないエロという感じ。
本作では武家の恋愛について書かれた物語が多く、武家って大変だなあと思う。
最近は「身分違いの恋」なんて言わなくなったけど身分制度のあった昔はそんなのはよくあることだったし、結婚相手も親が決めて結婚当日まで顔を合わせないのだって普通だった。
大きな戦もなくて江戸幕府が泰平だった江戸中期以降は武士が手柄を立てられる機会が激減し、江戸後期になると扶持の少ない御家人なんかは御家人身分である「御家人株」を裕福な商人に売却するということもあったらしい。
昔の人たちの生き方を現代の尺度で「生きづらかった」と言うけれど当時は"それ"しかなかったわけで、あるものでやっていくしかない。
例えば「昔の人はクーラーも扇風機もなしで夏をどうやって乗り越えたのか」なんて言ったって、クーラーも扇風機もそもそもないのだから、存在を知ってて使えないのと元々存在を知らないのとでは大きな違いがある。
今の価値観から見れば窮屈そうな社会だったとしても、昔の人たちは意外と楽しくやっていたかもしれない。
もしも自分たちが当時の社会に暮らしていたとしても先進的な考えを持つには至らずに、当時の考えに従って生きていくしかないと思う。
だからデビルマンのくだりで触れた"民度"についても、あの時代はああだったわけだから我々の価値観で正しいとか間違いとか言うのはナンセンスなわけである。
向き不向きは当然あるが、あれが社会にとって一番力を発揮しやすい在り方だったのだろう。

記憶の盆をどり

頭の中で言語化できない支離滅裂な考えが交錯することってある。
まれにそうした考えに囚われて物事の進行に支障をきたすこともある。
町田さんの作品はその言語化できない滅茶苦茶な思考をどうにか文章に落とし込んだものなので、合わない人は合わない。
正直、何を言ってるのか分からない作品もあるが、町田さんの作品にしては結末が明確で読みやすい作品も収録されている。
『ずぶ濡れの邦彦』や『百万円もらった男』なんかは後者だが、前者に属する作品は読んでて困ってしまうと思う。
最近は町田さんの長編を読むことが多かったので短篇は久しぶりだったが、こんなのだったなあと改めて実感した。
『少年の改良』で主人公がギター少年に「自分の感性を愛し、自分が自分であることに誇りを持つ」と言っていたのは、これから芸術活動を始める人たち向けの町田さんからのメッセージだろうか。
町田さんの作品を紹介するたびに書いているが、彼の作品に興味のある人はぜひ"家に置いてあった大黒像を捨てに行く話"の「くっすん大黒」からぜひ読んでみてもらいたい。

永遠の詩 茨木のり子

久しぶりに詩集を読んでみた。
人に勧めてもらったのだが、やはり表紙にもある「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」が最高に痺れる。
だが、収録されていた「わたしが一番きれいだったとき」という詩を読んで思い出したことがあった。
作者は1926年生まれで終戦時には19歳だったのだが、この詩は戦争によって青春を奪われたことを詠ったものである。
思い出したことというのは、先日、ファッションビルの上階にある店舗に向かおうとエスカレーターを上っていたときのこと。
途中の階からぼくの前にセーラー服を着た女性が立った。
女性がエスカレーターに乗る前から気が付いていたのだが、彼女のスカートはとんでもなく短くて、普通に立っているだけで太ももの付け根を通り越してオケツの始まる部分が見えるくらいの丈だった。
そんな短さだから、当然エスカレーターの下に立ったぼくからはスカートの中が丸見えである。
しかも女性は結構な年齢のおばちゃんで、白髪の割合が多かったことからおばあちゃんと言っても過言ではないくらい年を重ねた様子であった。
ぼくは、ああいう人の後ろに立った時点で既に負けだなと腹を括るしかなかった。
とりあえず常識的に考えてスカートの中を凝視するわけにはいかない。
かと言って手持ち無沙汰を解消するためにスマホでもいじろうものなら、盗撮を疑われる可能性がある。
じゃあ爪でもいじっとこうかとなっても、「あの人すごい気を遣ってるなあ」と周りに憐れまれる可能性もあり、客観的に自分を見ても「今すごい気を遣ってんなあ」となんかいたたまれない気持ちになってしまう。
最終的にエスカレーターの溝の数を数えて目的地までやりすごした。
年相応とかそんな世間の決めたしょうもないものに従う必要はないのでどんな年齢でも性別でも好きな格好をしたらいいと思う。
だが、せめてスカートを押さえるとか間にショートパンツを噛ませるとかしてほしかった。
まあそんな出来事がまだ記憶にあるうちにこの詩集を読んで、あのおばちゃんに思いを馳せるに至ったのだ。
もしかしたらあの人も"わたしが一番きれいだったとき"に何らかの事情があって好きな服を着ることができずに、今になって青春を謳歌しているのかもしれない。
今が一番若いので何かを始めるのに遅すぎることはないと言うけれど、年を取ってから新しいことを始めるのはちょっと億劫だったり周囲の目が気になったりすることもある。
件のおばちゃんのバックボーンについては知る由もなく、ああやって人の評価を気にせずに好きなように振る舞うのは非常に勇気を要することだと思うけど、"感受性を守る"というのはああいうことかもしれない。

2023年6月に読んだ本

本棚のゆとりは心のゆとりということで新しい本棚を探しているが、絶対に避けている商品の基準がある。
それは商品名に「北欧」と入っているものだ。(本棚に限ったことではないが)
本当に北欧にルーツを持つ商品なら名乗るのは構わないが、ほとんどの商品は北欧とは関係ないにも関わらず検索に引っかかるために商品名に北欧を併記しているエセ北欧に過ぎない。
一定数「本棚 北欧」とかで検索する人がいるから成立するわけで、どうしてこうも「北欧」とか「パリ」が好きなやつらってそれらに縁もゆかりもない上っ面だけで満足できるのか謎である。
というわけで6月に読んだ本の記録となるが、今月は漫画の割合が多めになった。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

びんちょうタン (1-4)

備長炭の擬人化である「びんちょうタン」の日常を描いた漫画。
漫画の紹介文に"萌えキャラ"と書いてあり、"萌え"って言わなくなったなあと昔を懐かしんだ。
ちなみに発音はびんちょう(↓)タン(↑)となるので備長炭のアクセントとは異なる。
本作はアニメ化もされており、ぼくの好きなアニメのひとつなのだがどういうわけか最近まで存在を忘れていた。
家にあったあずまんが大王を読み返していたところ突如として存在を思い出し、購入に至ったのだ。
ただ、全くの初見であれば序盤は退屈だと感じるかもしれない。
2巻までは4コマがメインで、びんちょうタンやその周りの人たちの日常を描いている。
びんちょうタンは決して裕福な暮らしではなく、山奥の家(修繕できていないのでボロボロ)に一人で暮らしている。
彼女は街に出て日雇いの仕事を探したり、路上で野菜を売ったりして生計を立てているのだが、なんかもうその時点で見てられない人もいるだろう。
幼女が健気にがんばっているのを見て心が動かされる人は多いと思うのだが、その感情の揺れ動きがどういう類のものかは受け手によると思う。
"かわいそう"と感じるか"応援したい"と思うか"感動"するのかはそれぞれなのだが、「こんな描き方されたらそりゃそうなるだろう」と、どういう形であれ心が揺さぶられるのは間違いない。
身も蓋もない言い方をすれば、「焼いた牛肉をご飯に乗せて焼き肉のタレをかけて食べるとおいしい」と言うことを体現した作品と言える。
後半はびんちょうタンの唯一の肉親であるおばあちゃんとの思い出がメインとなる。
一応言っておくとハッピーエンドではあるのだがそこに至るまでの過程がしんどいので、興味のある人はアニメから入るといいかもしれない。
ここまで読んで『ちいかわ』との共通点を見出した人もいるだろう。
等身が低くてかわいらしいキャラクターに試練を与えるあたり、ちいかわと同様に作者の癖(ヘキ)によるものなのかどうかは定かではない。
一応、ちいかわと違ってびんちょうタンの世界は優しいし不穏な登場人物もいない。
ただびんちょうタンの世界が優しさ一辺倒ではないのは、この世界には日雇いの仕事で生計を立てている子供が珍しくないことだ。
仕事は毎朝役場の掲示板に張り出されて早い者勝ちとなるのだが、子供も大人も大勢仕事を探しに来ている。
また、仕事を受けたい子供専用の窓口も役場にはあることから、子供が仕事をするのが当たり前の世界であるようだ。
かと思えば良家の子女たちが通う学校もあり、格差は目に見えて分かりやすい。
かわいらしいキャラクターに惑わされがちだが、格差社会・日雇い労働・貧困・孤独死などを描いた社会派漫画なのだろうか。

子供はわかってあげない (上・下)

書道部の門司くんと水泳部の朔田さんは共通の趣味をきっかけに意気投合し、なんやかんやあって離婚して家を出て行った朔田さんの父を捜すことになる、という夏休みの体験を通じた男女の成長を描いた漫画。
「わかってあげない」とタイトルに入っているのだが、ふたりとも割と周りの気持ちを考えて行動しているあたりは意外に複雑な家庭環境によるものだろうか。
恋愛ものは読まないのだけれどこれは画風もあってかサラッとしていて、爽やかで甘酸っぱい雰囲気がくどくないので色恋で敬遠している人にもお勧めしたい。
逆に、少女漫画等のねっちょりした感情の描写が好きな人には物足りないと思う。
「誰かから渡されたバトンを次の誰かに渡すこと」が作品のテーマのひとつになっている。
それは経験だったり親切だったりお金だったり、子供を作って次の世代に繋げることだったりするわけだけれども、何でそんなめんどくさいことせないかんのか、自分は一人で生きていくと言う人もいるだろう。
思うに、何かを誰かに渡すことは「世間と繋がることができる」のだ。
門司くんのお兄さんはお姉さんになってしまったので子供が作れない身体になったぶん、探偵の仕事を通じて、または「自分が受けた親切を他の誰かに返す」ことで世間と繋がっているように見えた。
朔田さんのお父さんは自分にしかない力を信者のために使うことで居場所を求め、世間と繋がりたいように見えた。
自分が誰かから受けた親切を他の人に返すとき、自分の中には親切にしてくれた"誰か"の存在が残っているし、自分が親切にした人にも"自分"の存在が残る。
ひとりでいることが孤独なのではなく、人と繋がっていない・結びついていない状態が孤独なんだよなあと物思いに耽る作品だった。

田島列島短編集 ごあいさつ

上で紹介した『子供はわかってあげない』の作者さんの短編集。
なんというか、日常にある疑問や心の機微を自分なりに昇華して漫画にするのがうまい人だなあと感じた。
例えば、一作目の『ごあいさつ』では不倫をしている主人公の姉の元へ不倫相手の奥さんが訪ねて来る。
姉は飄々とスカしているように見えて現実から逃げているだけなので、奥さんから逃げてしまい対応を妹に任せる。
奥さんも奥さんで旦那に不倫されたという現実から目を逸らしており、妹の感情はどことなく奥さんに味方をしだしていく。
もしも奥さんがブチ切れつつ乗り込んで来るような人であれば妹も早々に姉の味方をしていたかもしれない。
ひとりで不倫相手の家を訪ねるという思い切りのよい行動をしつつも、肝心なところで踏み切れていない優柔不断な姿勢に妹の態度も軟化したと言える。(まあ奥さんの計算であると言えなくもないが)
「女性は大人になったら女性のおっぱいを吸うことができない」というテーマで書かれた話も、(後で気付いたけど)女性作者さんならではの視点だ。
作者さんの他の作品でもそうだが、あっさりした絵も相まってか行間を読む作品であるという印象を受けたので、何でもかんでも説明してもらわんと分からんという人には向いていないと思う。
以前にネットニュースで「Z世代は行間が読めない」という内容の記事を読んだのを思い出した。
例えば、「映画を見ていたら"好き"と伝えたわけでもキスしたわけでもないのに登場人物がいつの間にか付き合っていた」というZ世代からの感想があったとする。
作中ではお互いが絆を育む描写はいくらでもあったはずなのに、言葉や行動などの決定的な描写がないとZ世代は分からないと記事では述べられていた。
いくらなんでも若い人を馬鹿にしすぎだと思うし、行間を読めない人は年齢性別問わずいるわけなので世代の問題にしたいのなら明確なデータでも持ってきてほしい。

みちかとまり (1)

前2作品の作者さんの最新作。
8歳の女の子・まりはある日竹藪でみちかと名乗る少女と出会う。
彼女がもたらす不思議な体験に戸惑うまりだが、ある日みちかはいじめっ子の大切なものをほじくり出してしまう。
今までの作品と違ってグロ描写も含まれた作風で、雰囲気は静かなんだけど日常が徐々に浸食されていく不穏さを感じる。
バトル漫画のグロや欠損描写よりも、こういう穏やかな画風の漫画でそうした描写があるほうが異質感があるので余計に怖い。
1巻を読み終わってから、1話冒頭で少し成長した二人が何かを燃やしているシーンを見ると嫌な予感しかない。
「言葉で理解できる世界の外側」に住んでいる、神様と思われるキャラクターの造形も有機物をモチーフにしているけれども妙に無機質で敵にも味方にも転じそうで不気味だ。
今までの作品とは全く違った一面を表現できる世界も持ってるなんて、創作者という人たちはすごい。
さっきも言ったけど今までの作品とは雰囲気が違って、苦手な人もいるかもしれないので試し読みなり何なりで下調べをしておくことをお勧めする。

水は海に向かって流れる (1-3)

上3作の作者さんの作品。
あらすじだけ見て、年上女性と年下男性の恋愛ものっぽかったのであんまり好きではないし読む予定はなかったのだけど、他の3作がよかったのでこちらも読むことにした。
主人公の直達くんは高校進学を機に叔父さんの家に居候をすることになるが、駅まで彼を迎えに来たのは榊と名乗る初対面の女性だった。
叔父さんは榊さんを始めとする4人で共同生活を送っており、直達くんは5人目として同じ家で暮らすことになる。
しかし、実は直達くんと榊さんにはとある因縁があって、というお話。
空気感がとにかく好みで、『子供はわかってあげない』もよかったのだが本作はよりシンプルかつ洗練されていたというか、ずっと読んでいたい気分になる漫画だった。
高校生男子のありあまるエネルギーと正義感と怒りと性欲。
26歳女性の達観しているようで割り切れておらず時が止まっているだけの人生。
ぼくは26歳女性であったことはないけれど男子高校生であったことはあるので、直達くんの行動にはうんうんと頷きながら読んでいた。
榊さんに関しても、「怒ってもどうしょうもないことばっか」とならざるを得なかった理由は分かるというか、例えとしては少し違うけど引きずりすぎて擦り切れてしまったと言うか、怒るタイミングを見逃してしまっていつまでも決着をつけられずに燻っている感がある。
創作物にたまに登場する、妙に達観しているキャラクターがあまり好きではない。
特に高校生くらいで「世界の全てを知ってます」みたいにスカしてるやつは鼻で笑いたくなる。(key作品とかによく出てくる)
まあそれも年齢を重ねるにつれ、各々にはいろんな事情があって、自分にとっては取るに足らないことでも誰かにとっては一生を左右するほどのこともあるよなあと思うようになった。
本作に登場する榊さんも、「怒ってもどうしょうもない」という域に達してもしょうがないよなと思ってしまうことを経験している。
最後まで読んで作者さんが女性であることにようやく気が付いた。
女性キャラクターの描き方や随所に挟まれる小ネタが男性っぽいなあと思っていたのだが気のせいだったようだ。
こちらの作者さんの漫画はどれも面白かったし、既刊全てを購入しても7冊なので興味のある人は今からでも買ってみよう。

お姉さまと巨人 お嬢さまが異世界転生 (3)

現実世界から転生したお嬢様とその妹である巨人の異種族バディもの。
ふたりはお互いの探し人を求めて旅をしている。
異世界に転生してチートスキルで無双して巨乳巨尻の万年発情美少女にちやほやされる類の作品ではないので、いわゆるテンプレなろう系の異世界ものが苦手な人にもお勧めできる一冊だ。
世界観はまあまあ暗めで、他の異世界ものでは持て囃されがちな異世界転生者が「亜人」として人間と同じ扱いを受けていない国もある。
お姉さまと妹はお互いの存在やお互いから学んだことに縋り、時には支えにして生きているように見える。
「百合」とかいうぽわぽわしたものではなくて、「任侠」もしくは「共依存」という言葉が近いように思えた。
二人が如何にして出会い、絆を育むに至ったかは断片的にしか触れられていないものの、暗めの世界観も相まってか二人して滅んでしまいそうな気もしてしまうのでハラハラしている。
作者さんの趣味や好きなものが詰め込まれたことが伝わってくる作品で、今巻では有機的な巨大ロボっぽいものも登場する。
3巻ではバトル描写がかなり多めとなり、戦闘中の細かいギミックなどは好きな人が見たらニヤリとしてしまうことうけあいだ。
「死ねよやあ!」の台詞はやっぱりジョナサン・グレーンのパロディなのだろうか。

不連続殺人事件

坂口安吾の書いた推理小説
登場人物が多く、性格が破綻しているやつも多いので最初は読むのに苦労した。
ぼくはミステリー小説には全く詳しくないのだが、この作品が傑作と言われている所以は人間関係そのものをトリックとしたことだと思う。
本作が雑誌に連載されていた当時、犯人を当てた人には作者から懸賞金を進呈するイベントが開催され、その挑戦状も収録されている。
挑戦状の中で作者が語っていたことによると推理小説が犯人当てゲームである以上、犯人の行動や心理は合理的でなくてはならない」ということらしい。
そのため、ミステリー作品にありがちな大掛かりなトリックやアリバイ工作があると思って読むと肩透かしを喰らうことだろう。
なぜかと言うと、アリバイ工作とか密室のトリックを仕込むことがその人物の心理を表してしまうから、つまり犯人の足跡や考えを残してしまうことで不自然になってしまうからなのだ。
犯人が犯行の痕跡を残したくないと思うのは当たり前のことなので、仕込みは少なければ少ないほどいいのは確かにその通りである。
この読書記録はネタバレ注意で書いているがさすがにトリックの詳細や犯人をバラすほど無粋ではないので、気になった人はぜひ読んでみてほしい。

口訳 古事記

古事記を現代の言葉に口語訳した作品。
そもそも古事記とは、日本神話について書かれた歴史書で神様が日本という国そのものを作るところから始まる、日本最古の書物である。
神様が登場する絵本が家にたくさんあったので話の内容にはいくつか知っているものもあった。(天照大神とか素戔嗚尊とか大国主命とか)
登場人物は全て神なのでキャラ設定はもりもりかつダイナミックで、剣の一振りで一面の草を薙ぎ払ったり、神が号泣すると人が死んで国の植物が全て枯れたり海が干上がったりする。
神様だからと言って慈愛に満ちた高尚な性格というわけでもなく、嘘と裏切りと暴力と愛にまみれており平気で浮気とかもする人間と変わらない生活をしているのだ。
そりゃそんな神様が作った我々人間もめちゃくちゃするわけである。
町田さんの作品ではしばしばキツめの関西弁が使われる。
河内弁というのだろうか、言葉として聞くならともかく文字にするとちょっと理解しづらい点もあるだろう。
例えば、倭建命が故郷を懐かしんで詠んだ歌があるのだが、「懐かしい 家の方から 雲きょんが」と訳されている。
「きょんが」というのは「来よんが」つまり、「雲が来てる」という意味である。
文字にすると「来よんが」のほうが適切かもしれないが、話し言葉では確かに「きょんが」となるので関西弁に馴染みがないと理解するのに時間がかかるかもしれない。
口語訳であればみんなに分かる言葉で訳すべきと言う人もいるだろうが、町田さんがあえて日常の言葉を用いた作品を書くのは「感覚に直結した本音の言葉」を大切にしたいと思っているからである。
他にも、琴の演奏の例えにフォークギターを用いたり、狩りについて説明するのにランドクルーザーモルトウイスキーを持ち出したりしている。
その時代になかったものを用いるのはいかがなものかと言われることも多いらしいのだが、詳しくは町田さんの自分語り本『私の文学史』に書いてあるのでぜひ読んでみてほしい。

ハリネズミのジレンマ

週刊文春で連載されているエッセイを文庫化したもので、「人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた。」で始まるシリーズ。
本書は最新作となる6作目であるが順不同で読んでいるのであまり気にしていない。
以前に読んだ5作目の『メランコリック・サマー』において、シルバー料金で映画を見に行った話が収録されていたことから、みうらさんもとうとう還暦を迎えられた。
そして本作では、後期高齢者である65歳まであと数ヶ月となったと書かれていた。
数年前、某所で開催された『マイ遺品展』の会場で来場者に向けたみうらさんのメッセージ映像が流れていたのだが、久々に見たお姿がすっかり老けていたのに失礼ながら驚いてしまったことがある。
なんか勝手なイメージでいつまでも年齢不詳の若々しさがある印象だったが、きっちり年を重ねられていたのだ。
過去作には幼稚園へのお迎えといった子供関係のことも書いてあったが、本作では本格的にみうらさんの子供が登場し台詞もある。
ところがその子供が登場する回で書かれていたエピソードが「ホテルの窓際で立ちバックしていると思われるカップルを目撃した」なので、ちょっと安心してしまった自分がいた。
ひとまず週刊文春でのエッセイの刊行分はこれで読み終わったので、新作が出るまでは他の著作を読んでいくつもりだ。

異常

フランスで出版されたSF小説で、あちらではなんかいい感じの賞を受賞したらしい。
ちなみに読みは"アノマリー"だ。
まずは殺し屋が登場し、次は小説家兼翻訳家、その次は映像編集者と、登場人物が多数登場する群像劇の形式を採っている。
読み進めていくとどうも彼らは過去に同じ飛行機に搭乗していたことがあるらしく、そこから物語は急展開を迎える。
よくこんな話を思いつくなあと感心してしまった。
後味が悪いというよりは不気味な印象を受ける話だった。
哲学的かつ宗教的な描写もあるが特に専門知識がなくても楽しめると思う。
非常に含みを持たせた終わり方で、これは原書で読んだらどういう書き方をしてあるのだろうと興味を持った翻訳作品は初めてだ。
登場人物は多様な職業や年齢であり、人物ごとに文体が微妙に変わるだけでなく、手紙形式や対話、テレビ番組や歌の歌詞など様々な文章形式の物語を楽しむことができる。
本作について言葉を尽くして語ろうと思うとネタバレになってしまうのだが、このブログはネタバレ承知で書いてるしなあと葛藤した結果、ネタバレは書かないことにした。
自分としては映像編集者と弁護士の人のお話が好きだった。

これから読みたいと思って積んである本

今週のお題「読みたい本」

よっぽど予算がない限り気になった本は買うことにしている。
本が気になったときの自分の感性を大事にしたいので、その本を手に取ることで当時の気持ちを思い出せたり思い出せなかったりする。
また、食べ物にも食べ合わせがあるように本にも読み合わせみたいなものがあるはずだ。
これの後に前買っといたあれ読むとテーマ的に繋がって気持ちいいかもしれん、ということが割とあったりするので、積んでおくのは決して無駄ではない。
すぐに読むものと買った順番に読むまで寝かしてあるものなどが下記以外にもたくさんあるが、とりあえず特に楽しみにしているものをピックアップしてみた。

デビルマン (1-5)

有名な作品って、読んだことはなくても人生の中で多少なりともそのエッセンスに触れる機会があると思う。
この作品の場合はSMAP×SMAPで草彅くんが演じていたデビルマンのコントの印象が強い。
永井先生の作品は読んだことがなく、マジンガーZゲッターロボ鋼鉄ジーグスパロボの知識しかないので、巻数も少ないしこのへんからいくかなとなった。
たぶんこれは6月中に読むと思う。

七夕の国 (1-4)

寄生獣』の岩明先生の作品。
表紙の感じを見るに何となく寄生獣っぽさを感じたので買った。
デビルマンと違って予備知識は何一つないので、どんな作品かは知らない。
ただ、よく考えたらデビルマンって寄生獣の元ネタみたいなもんだよなと思う。

子供は分かってあげない (上・下)

なんか昔に誰かから勧められて名前だけは覚えていた。
ぼくは週刊少年ジャンプが好きなので自然とジャンプ系の漫画を読むことが多いのだが、最近は意識してそれ以外の作品も読むようにしている。
人が殴り合ったり死んだりする以外の世界にもたまには触れないといけないが、この作品に対する事前情報はないのでもしかしたら人死にが出るかもしれない。

ゾンビパウダー (1-4)

久保帯人先生がBLEACHの前に連載していた作品。
何度か買おうと思って、でもまあBLEACHだけで十分かと思ってその都度やめていた。
最近またBLEACHを読み返して、千年血戦編の2シーズン目も始まるしちょっと今度こそいっとくかとなって購入に至る。
内容はよく知らないけど久保先生が好きならまあいけるだろう。

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会[復刻版]

1993年に発行された同人誌を復刻させたもの。
責任編集は庵野秀明監督で、庵野監督とその周りのクリエイターたちが逆シャアについて語るという内容になっているらしい。
当時のオリジナルにはかなりのプレミアがついているとかなんとか。
たぶんだけど、商業出版じゃなくて同人誌なのでボロクソ言っている人もいると思う。
逆シャアは評価の高い作品なので肯定的な意見が多いのだが、否定的な人の話も聞いてみたい。

江戸の岡場所 非合法〈隠売女〉の世界

江戸幕府が公認している遊郭である「吉原」に対して、非合法の私娼窟が集まったのが「岡場所」
時代劇を読んでいると割と出てくる言葉ではあるけど、実情がどんなものかは知らなかったので買った。
江戸期の文化や生活慣習には興味があるのでこういう本は読むようにしている。
今回紹介した本の中では発売日がいちばん新しいものになる。
出版社は栞がオシャレなことでもお馴染み星海社新書だ。

半七捕物長 (1-6)

作家の町田康さんが『私の文学史』で紹介していたので購入した。
シャーロック・ホームズシリーズを読んで作者はこの作品を思いついたらしい。
かなり以前に鬼平犯科帳を読んで以来の長編時代劇になるので楽しみだ。
流れ的に岡場所の本の後に読むと思う。

幻想の未来

半七捕物帳と同じく、町田さんの本で紹介されていたので買った。
町田さんが中学生の時に読んで「とんでもない小説だ」と衝撃を受けたらしい。
「人類の滅亡の力ずくの肯定」が描かれているとのこと。
ぼくは町田さんではないので町田さんが「とんでもない」と感じたこととおんなじことを感じることはできないだろうから、どんな感想に至るだろうか。
筒井先生の作品も読んだことがなかったのでちょうどよかった。

恋文・私の叔父さん

こちらの作者さんの『戻り川心中』がものすごく心に響いたので、次はどれにしようかと探していたときに見つけた。
戻り川心中と違ってミステリーではないみたいだけど、どんな世界を展開してくれるのか楽しみだ。

姫君を喰う話

谷崎潤一郎三島由紀夫が好きな人におすすめとの話をどこかで聞いて購入した。
それらの作者名が挙げられていることや表紙の雰囲気からして耽美的な内容になるのだろうか。
正直、タイトルでネタバレを喰らっているようなものだけどあまり気にしないことにする。

そして誰もいなくなった

さっきのデビルマンもそうだけど、これくらいの有名作品になるとその作品に影響を受けたものやパロディーがたくさん生み出されているし、内容についてもおぼろげに把握していたりする。
本作についてもなんとなく結末は知っているのだが何とか忘れることにする。
ハヤカワ文庫から表紙デザインと翻訳を一新した新版が出ているが、旧版(リンクを貼ってあるやつ)のほうが好みのデザインなのでそちらを購入した。

漱石書簡集

これを読んで面白かったから森見登美彦さんは『恋文の技術』を執筆しようと思った、と本人が語っていたので購入。
夏目漱石の作品も久しぶりだ。
パラっとめくってみたが旧仮名遣いの箇所も多かったのでちょっと時間がかかりそうではある。

幸福な王子/柘榴の家

『ドリアン・グレイの肖像』は好きな作品のひとつなので、いつかこれも読みたいと思っていた。
話については幼少期に読んだ絵本の内容で知っている。
以前、VTuberの壱百満天原サロメ嬢が「幸福な王子は本当に幸福だったのか」というテーマで同僚と盛り上がったという話をしていた。
絵本で読んだときはたぶん幸せだったんだろうという感想だったが、今の自分がどう感じるのか楽しみにしている。


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