嫌いな言い回しのひとつに「○○からしか得られない栄養がある」というものがある。
例えば、衝撃的な展開をするドラマやアニメ等の創作物があったとして、既にそれを見たことのある人が初見の人の感想を見て上から目線でにやにやするというやつだ。
この場合は「初見の感想からしか得られない栄養がある」となり、理不尽な展開に驚いたりショックを受けていたりする人を高みから見物するという非常にニチャニチャ感のある悪趣味な行為である。
正直、オタクが思っている以上に人間は理不尽なことに対して耐性があると思う。(ましてやフィクションの創作物ならなおさら)
だから初見の人がお前の勧めたものを見て期待通りの反応をしてくれたとしたら、それは勧めてきたお前に対する接待であることを念頭に置かねばならない。
初見の感想を見て愉悦してもいいのは作者であって周囲の人間ではないので勘違いしないほうがいい。
それでは5月に読んだ本を紹介していくけれども、ネタバレもあるので要注意で。
↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp
↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み
- FLIP-FLAP
- 友達100人できるかな (1-5)
- サンダー3 (3)
- 児玉まりあ文学集成 (1-3)
- 中国共産党 世界最強の組織 1億党員の入党・教育から活動まで
- ジャンパーを着て四十年
- 郵便配達は二度ベルを鳴らす
- 僕たちはファッションの力で世界を変える ザ・イノウエ・ブラザーズという生き方
- ひみつのダイアリー
FLIP-FLAP
最近よく耳にする"推し"という言葉には空虚さを感じている。
いくらお金を使ったか、いかに推しの対象に精神的に依存しているかを競い合い、他人に見せるために"推し活"とやらをしているとしか思えない振る舞いには早くこのムーブメントが終わってくれないものかとため息を禁じ得ない。
"推し"については言いたいことがたくさんあるものの、それは本題ではないので今回はやめておく。
本作は買って積んであったのだが、こちらの作者さんの最新作『これ書いて死ね』がマンガ大賞2023を受賞したので慌てて読んだ。
ゲーセンに置いてあるピンボールゲームを主題とする男女のラブコメになるのだが、まずピンボールがメインの漫画を読んだことがないので新鮮だった。
主人公がヒロインに対して「どうしてそこまでピンボールに熱中できるのか」という旨の質問をした際、「幸せになりたい」「心を震わせてくれるものを純粋に楽しみたい」と返していたのには胸が熱くなった。
特に「幸せになりたい」ってのがすごくいい。
「楽しいから」より一歩踏み込んだ言葉というか、より根源的な欲求を感じる。
むしろこのセリフが出る時点でもう既に幸せなんだろうし、「幸せになりたいからやってる」というよりは「純粋に楽しんだ結果幸せであることに気が付いたから、もっと熱中してもっと幸せになりたい」ということだと思う。
好きなものにのめりこむのに理由や見返りやコスパは必要ない。
周囲の視線とか評価とか関係ないし、誰に見せるためでもなく本当に自分のために好きなことに没頭している人間を、短い一言で表現した素晴らしいセリフだ。
この後に紹介する作品も同じ作者さんの漫画だが、両方ともコマ割りや台詞のセンスが素敵で目を惹かれるページが多くてわくわくする内容だった。
友達100人できるかな (1-5)
上で紹介した『FLIP-FLAP』と同じ作者さんの漫画。
読み終わった後、面白いより先に「めっちゃいい漫画」とつぶやいた作品。
面白いのはもちろんそうなんだけど、"いい"という感想がしっくりくる気がした。
宇宙人からの地球侵略を阻止するため、36歳の主人公が1980年の小学3年生当時に戻って友達を100人作る話。
主人公だけ精神年齢が30代なので大人の処世術を生かして打算的に友達を作ったり、友達との親密度が可視化できる装置があったりと決して優しさだけの世界ではないのだが絵柄なのか作風なのかそこまでブラックな印象は受けない。
正直言って展開は割とベタな感じであるのだが、どうも印象に残る作品だった。
やっぱり「いい漫画」という感想にふさわしい作品だと思う。
『FLIP-FLAP』も本作もかなり好みだったので、作者さんの他の作品や『これ書いて死ね』も買うかどうか検討しているところだ。
サンダー3 (3)
2巻の帯には「王様のブランチで紹介」という、著しく購買意欲を減退させる文言が記載されていた。
そして本巻の帯には「麒麟・川島、かまいたち・山内も絶賛」とあった。
川島も山内も嫌いではないが、どうもこういうコピーは冷める。
こないだも、マツコの番組かなんかで紹介されたカレーうどんを星野源が絶賛したというネットニュースを見たのだが、星野源が絶賛したから何だと言うのか。(別に星野源が嫌いなわけではない)
漫画としてはパラレルワールドものというか、主人公たちが並行世界に迷い込んだ妹を助けに行く話である。
主人公たちの元居た世界の画風がコミカルなタッチで等身が低めなのに対し、並行世界はリアル寄りで等身も高めと漫画ならではの表現がされている点がまず引き込まれる。
また、並行世界の画風が極めてGANTZっぽいので別名義ではないのだろうか。(GANTZに詳しい人に言わせると台詞回しも似ているらしい)
2巻は溜めの回で3巻も助走からの走り始めくらいで話が動き始めた頃なので、これから主人公たちが世界にどう関わっていくかは期待していきたいところ。
正直、話題になったのは作品の設定によるところが大きいと思っているので、キャッチーさで受けている点は否めないと思う。
キャッチーで分かりやすいからこその王様のブランチなわけだし、初っ端の瞬間風速だけではないところをこれからの展開で見せていってほしい。
平行世界の状況は徐々に明らかにされてきたものの、今のところ主人公たちのキャラクターの掘り下げが少ないためそこらへんの描写に期待。
児玉まりあ文学集成 (1-3)
ストーリーとかそういうのはあまりなくて、児玉さんと笛田くんが文学部部室やそこらへんで会話している内容がメインの漫画。
ただ日常ほのぼの漫画かと言うとそういうわけでもなくて、タイトル通り文学的なことを言いつつ叙述トリックやヤンデレ的な要素も含まれている。
ジャンプ+で連載している『放課後ひみつクラブ』が好きな人はハマると思う。
本のことについて書いた漫画だと思い浮かぶのが『クズと眼鏡と文学少女』だが、あちらは文芸作品の話や読書をしている己の自意識みたいなものがメインだったが、こちらはひたすらに文学的かつ哲学的な内容になっている。
児玉さん曰く、笛田くんは妄想癖があり「現実を見るのをめんどくさがって、勝手に周りを作り変えて生活している」人なのだそうだ。
彼の妄想癖の一端は5話で明かされることになり、物語も基本的には彼から見た視点で描かれているため、この漫画の世界自体が彼の妄想の産物なのではないかと錯覚させられて常に不穏な気持ちで読んでいた。
そんな笛田くんに文学的素養を与えてどんな文学者になるのか見てみたいのが児玉さんの野望である。
児玉さんも児玉さんで笛田くんが他の女子と親しげにしているのが気に食わない風ではあるが、あくまで周囲から見た関係では「笛田くんが惚れた弱みで児玉さんに振り回されている」となっており、更に児玉さんが笛田くんに文学的素養を身につけてほしいと考えている"師と弟子"的な関係である以上、児玉さんが自分の気持ちを素直に伝えることができないのがもどかしい。
各話の終わりに「今回参考にした作品」が紹介されるのだが、どの本も聞いたことないものばかりで興味をそそった。
作者さんはかなり本の虫であることが伺える。
お話だけでなく絵も単行本の装丁も好みなので4巻が楽しみだ。
中国共産党 世界最強の組織 1億党員の入党・教育から活動まで
正しいとか正しくないとか好きとか嫌いとかは置いといて、中国共産党のことってよく知らんなあと思って読んだ本。
ニュースで扱われているような中国共産党の中央部がメインの内容ではなく、地域コミュニティや職場内における共産党下部組織について書かれている。
中国在住歴のある著者が中国社会や中国共産党組織に対する「誤解を解く」ことを目的として書かれているが、決して中国の現体制や共産党を賛美する内容ではない。
"誤解"というのは具体的にどういうことかと言うと、「共産党が強権で人民を支配している」「中国の社会システムは劣っている」とかそういうやつだ。
著者は中国が完全に民主的な社会かというと決してそうではないと述べているものの、共産党内部の「上意下達」「下意上達」がスムーズに行われるための仕組みや、共産党下部や共産党員ではない人たち("群衆"と呼ぶらしい)からの意見の吸い上げに関しては評価をしている。
また、共産党の強みは「常に知識をアップデートしている人材がいること」だとも述べている。(学習内容が中立であるか否かはさておき)
政治思想や経済思想のような現実社会に関する知識は常に学んでいないと現実の進歩に追い付かなくなり、実際に学んでいる人材が多いからこそ中国は社会の変化が速いのだそうだ。
中国と言えば報道統制・情報規制バリバリで上から押さえつける政治だと思われがちだが、よくよく考えてみればあそこまで自己主張の強くてやかましい人種を上から押さえつけるだけで管理できるものではない。
優れた政策も組織の隅々まで正しく共有・実行されなければ意味がなく、また上層部の独断による現実離れした政策立案を避けるために「ビジョンの共有と理解と実現」「現状に根差した方針決定のための現場からの意見の吸い上げ」が仕組みとして確立しているのだとか。
本書は中国共産党のことのみならず、自分の中の偏見を正してくれる一冊だと感じた。
「怖いから、怪しいから、中共について「知りたくない」「知る必要がない」という立場や視点については全面的に否定します」と筆者は述べている。
中国が好きではないというのもあってか共産党の仕組みは劣っているという偏見を持っていたのだが、決してそうではないことも分かった。
嫌いであるが故に知らないことを勝手に理想や願望で埋め、「自分が嫌いな国だから国の仕組みもきっとしょうもないだろう」という考えがあったことは確かである。
ところで中国には、教育政策や教育思想の分野で2010年代後半から使われるようになった言葉に「立徳樹人」というものがあり、「長期的な視野に立って徳を備えた人材を粘り強く養成する」という意味らしい。
また、共産党員は日常生活において群衆の模範となる行動を取るように求められているとのこと。
これらの教育思想や共産党員の模範的行動が早く実を結んで、中国人のモラルが向上してほしいものである。
また、本書の出版社である「星海社新書」の本は初めて購入したのだが、栞のデザインがオシャレだった。
と思ったら某Vtuberが「好きな栞は星海社新書」と発言していたのを聞き、見てる人は見てるものだなあと思った。
ジャンパーを着て四十年
「考古学」ならぬ「考現学」の第一人者である人らしい。
関東大震災後の物資の欠乏をきっかけにとりあえず間に合わせでジャンパーを着るようになり、大使館のパーティや皇族に招かれた際にもそのスタイルを貫いていたことが本作のタイトルにもなっている。
内容としては前半は服装の歴史を紐解き、後半は"慣習"への疑問を投げかけるという構成だ。
ファッション論というよりは民俗学・生活風俗寄りの内容になるので中盤は正直言って退屈だった。
全体を通じて何が言いたいのかはいまいち掴めなかったが、世俗に対する視点には面白いなと感じる点もあり所々に共感できる部分はあった。
本作の初版は1967年なのだが、その時代で「今日の私たちは、信仰の自由、思想の自由などが公認されている自由社会に生活しているのに、衣服慣習からは解放されていない」「習俗に束縛されたり、新規を求める流行に支配されたりして、じぶんじしんの考えも行動も、まるっきりからっぽな人たちに見える」と言われていたのは驚いた。
その時代から60年経過しており、多様性だの何だの言われているけれども衣服慣習や流行から解放されているとは言い難い。
流行を追うことやファストファッションが悪いことだとは言わないがそれが全てであると思ってほしくはないのだ。
今だと若い男性はチンコの先っぽみたいな髪形をして黒のウレタンマスクを装着しており、女性は目の下にナメクジがいるようなメイクが流行っている。
それらも流行が終わるとすぐ別の流行へ飛びついてしまうのはもったいないことだと思っている。
流行っていなくても自分がいいと思えば続けていけばいいし、それが層を重ねるうちに自分のスタイルになるというのに。
また、ある程度年齢のいった男女に言えるのは「オンとオフの間くらいの服装がヘタ」だと思う。
作中でも「日本の男子はオシャレを知らない」「服装生活本来のたのしみをも社交性をもわすれてしまって、もっぱら儀礼的な装いで身をかためなければならないものと決めている気配がある」と言及されているが、これが具体的に当てはまるのは結婚披露宴等のパーティ的な場面だと思う。
披露宴には何度か招待いただいたことがあるが、20代そこらならともかく30代以降でもビジネススーツらしき装いで参加している男性や、服装や髪形は整えているのに紙袋に荷物をまとめている女性(ハイブランドのショッパーだったりすると余計に哀愁を誘う)などを見かけると非常に残念な気持ちになる。
また、異業種交流会等の砕けたビジネス的な集まりではジャケットにカットソーを着てドレスダウンしている男性がいるが、肝心のジャケットが明らかなビジネス用の上着だと着替えの途中の人みたいでちぐはぐな印象を受ける。
どこかの芸人さんがトークで「服屋で"ちょっとしたパーティにいいですよ"ってジャケット勧められたけど、ちょっとしたパーティって何やねん」と言っていたが、社会人になってみて気が付いたことは"ちょっとしたパーティ"の機会は意外とあるし、そこにビジネスの装い(儀礼的な装い)で参加する人も結構いるということだ。
それは無難でいいかもしれないけど面白味はないなあと思うわけだ。
郵便配達は二度ベルを鳴らす
新潮文庫版を所有しているのだけど、翻訳が古臭くてスムーズに読めなかった過去がある。
例えば、昔の海外翻訳にはよく「やっつける」という言葉が登場する。
「する」とか「やる」の語気を強めた言葉として使われており、「思い切ってやる」というニュアンスで用いられる。
おじさんビジネス用語で言うと「えいや」に近いと思われる。
だけども、実際「やっつける」は「成敗する」的な意味の方が馴染みのある用法なので、意図しないところでやっつけるが登場すると一瞬流れが止まってしまう。
また、新潮文庫版の特徴として、本作はハードボイルドを代表する作品としても挙げられているためか登場人物がやけにべらんめえ口調である。("おまえ"を"おめえ"と言ったりする)
原書からそうした荒っぽい口調なのか翻訳者が意図的にそうしたのかは知らないが、江戸っ子口調も読んでいて違和感を覚えることが多かった。
古い年代に翻訳された海外文学にありがちな相性の悪さを感じていたものの、どうして旧版を手放さずに持っていたのかと言うと当時読んだときに覚えていた「ヒロインがめっちゃわがまま」という点が心に残っていたからだ。
読んだ本の8割は内容を覚えていないのだが、その本に少しでも覚えていることがあれば得るものがあったと解釈しているため、この本の印象はヒロインによるところが大きかったわけだ。
ストーリーに触れますと、流れ者のフランクは偶然立ち寄ったレストランで店主のパパダキスの妻、コーラに一目ぼれをしてそこで働くことになる。
フランクとコーラはすぐに男女の関係になり、邪魔なパパダキスを殺害する計画を立てるのだが…。というお話。
先ほども述べたように昔読んだときはコーラの奔放ぶりが印象的だった。
感情的でその場の勢いで行動するのに気分次第ですぐ意見を翻し、簡単に股を開く割にはプライドが高い。
ところが今回改めて新訳で読んでみたところ、彼女は割と現実的な女性ではないかと思ったのだ。
コーラは高校のミスコンで優勝し、その特典としてハリウッドで映画のオーディションを受けるものの、自分が田舎から出てきた垢抜けない女であることを思い知らされて挫折する。
後ろ指をさされたくないから故郷に帰ることもせず、結局そこらへんでウェイトレスをやったり男の間を渡り歩いて生きてきたそうだ。
だからなのか「きちんと働いて、尊敬される人間になりたい」とフランクに伝える場面もある。
パパダキスの殺害に成功した後、全てを捨てて他の土地でやり直そうとするフランクと、この土地で引き続きレストランを経営しつつ生きてきたいとするコーラ、各々の現実との向き合い方にも違いが見られる。
駆け落ちしようとヒッチハイクをしながらふたりで街を目指していた途中で「疲れたし惨めな気持ちになるから帰る」と言い出したあたりは何だこいつとも思ったが、裏返せば地に足を付けて生きていたい気持ちの表れだったとも言えるだろう。
結局、今後の生き方に対する姿勢の違いや、どちらかが自分の犯行を密告しないかとの疑心暗鬼からふたりは悲惨な運命を辿ることになる。
人を呪わば穴二つではないけれども、ふたりにとっての救いは死しかなかったわけだ。
ひとつの作品で旧訳と新訳を読み比べたのは今回が初めてだったのだが、作品から受ける印象が全く変わるような描写の変更もあったので、読み比べが好きな人の気持ちが分かった。
僕たちはファッションの力で世界を変える ザ・イノウエ・ブラザーズという生き方
洋服が好きな人なら「The Inoue Brothers...」はご存じだろう。
デンマーク生まれの日系二世、兄の井上聡さんと弟の清史さんによるファッションブランドだ。
イノウエブラザーズのストールは持っているのでブランドとして認知はしており本書の存在も知っていたものの、読むまでには至らなかった。
ところが少し前、ご縁があってお兄様の話をお酒を飲みながら聞く会に参加させてもらい、いたく感銘を受けて本書を購入したのである。
井上兄弟はとあるきっかけで南米ボリビアのアルパカ繊維の質の良さと、アルパカ産業に従事する人たちの現状を知ることになる。
劣悪な環境での労働や、貧困から子供に教育の機会を提供できずに貧しさが連鎖してしまうこと、質の良いアルパカを用いているのにデザインや縫製がいまいちで土産物レベルでしかないこと、繊維の知識がない故にアルパカの毛を安く買い叩かれてしまうことなどを知り、「アルパカを通じてアンデス地方の人たちの暮らしをよくしたい」との想いからブランドとしての活動を開始する。
アルパカの品質に惚れ込んだのはもちろんだが、ボリビアの人たちの人柄に感銘を受けた点もあるのだそうだ。
貧しい暮らしをしているにも関わらず自分たちを家に招待して食事をごちそうしてくれ、ご飯をおいしいと言えば自分の分まで食べてもらおうとするし、生活の中でも笑顔を絶やさない。
決して生活が恵まれているわけでもないのに他人に親切にする姿勢に、お二人はいたく感銘を受けたそうだ。
ただ、イノウエブラザーズはチャリティではなくあくまでビジネスであるというスタンスでやっている。
施しでは一時しのぎにしかならないし、チャリティではこちらが「支援してやってる」という思い上がりから相手のことを下に見ることも考えられる。
ビジネスであるからこそ相手を尊敬して対等な関係を築け、謙虚な気持ちで相手から教えてもらい学ぶこともできるからだそう。
何より、一度ビジネスの仕組みを作ればボリビアの人たちが抱える上記したような問題を継続的に解決することができる。
これらは本に書いてある内容なのだが、正直なところこの本を読んだだけではお二人の活動について「すごいな」とは思う反面「本当かな」と懐疑的になっていたと思う。
聡さんのお話を聞いたときに印象に残っていたのが「自分の原動力は"怒り"である」とおっしゃっていたことだ。
当時のデンマークはゴリゴリの白人社会だったため、アジア人である兄弟は随分と酷い差別にあっていたらしい。
そうした体験からか、世の中の理不尽なことを許せないという気持ちが強いのだそう。
何より感銘を受けたことは原動力である"怒り"がマイナスの方向に向かなかったことだ。
差別されたから自分も他人を攻撃しようという思考ではなく、世の中の不公正や不条理と戦っていくという考えに至っただけでも尊敬に値する。
本を読んだり話を聞いたりしていると、攻撃心が他人に向かなかった理由はご両親の教育や過去の偉人の考え方を学んできたこと、それに自分たちが"地球市民"であるという意識からなのだと思った。
地球市民(ちきゅうしみん)とは、人種、国籍、思想、歴史、文化、宗教などの「違いをのりこえ、誰もがその背景によらず、人として尊重される社会の実現」を目指し、活動しようとする人々が自らを指し、コスモポリタニズムに賛同する人々を表すコスモポリタンの日本語訳の世界市民と同じ意味として好んで使われる造語である。地球市民は市民としての帰属を国家ではなくより広い概念に求めている。(wiki)
お二人が生まれ育ったデンマークは多種多様な人種が暮らしているため多様な考えに触れる機会が多かったことや、イノウエブラザーズの活動で世界中を飛び回る中で現代社会の抱える問題を目の当たりにしたことで、地球で起こっている問題を他人事ではなく己のことのように考えるようになったのだ。
聡さんはいい意味でファッションデザイナーっぽくない印象がありフランクで喋りやすく、何より生命力に満ち溢れている人であると感じた。(目力がすごい)
このご兄弟であれば本で語ったことはマジだろうし、決めたことは絶対にやり遂げるという強い意志が伝わった。
やはり本を読んだだけで知った気になるのではなく自分の目で見たり聞いたりするのは大切なことである。
また、「失敗してはいけない、絶対に成功しなければならないという考え方が、間違っているのではないか。それが今の息苦しい世の中を作っていると思えてならない。」という文章には頷くことしきりだった。
やっぱり今の自己責任論が蔓延している現代社会はどうにもこわい。
ひみつのダイアリー
週刊文春で連載されているエッセイを文庫化したもので、「人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた。」で始まるシリーズ。
本書はその4作目となるが順不同で読んでいるのであまり気にしていない。
みうらさんの書籍にはよく"人妻"が登場する。
本人曰く「自分と自分の身のまわりにしか興味がなかったぼくに、他人様のものまでようやく目が行き届く余裕ってものが出てきたということではないか」ということらしい。
ぼくとしても加齢とともに見るAVの幅が増えてきた気がするので、他人様のものが欲しくなるとかではなくて単に年を取ってストライクゾーンが広がったのだと思っている。
みうらさんの言う人妻の魅力は"品"にあるとのこと。
品のある人妻(そんなもの現実にいるのかというのはさておき)が快楽に溺れる様がたまらないらしい。
"品"とは"恥"や"エロ"の対極にあるものなので、人妻とは品を体現した存在とも言えるだろう。(品のある人妻が現実にいるかどうかはさておき)
以前に読んだみうらさんとリリー・フランキーさんの対談本では「昔のアイドルは「いい奥さんになりそう」という魔法をかけてくれた」ということであった。
そのあとに「今のテレビはアイドルが私生活をべらべら喋って、昔のアイドルは「昔はこうだった」ってバラしにかかって、もう魔法がかからない」とも言っている。
だからこそ人は概念としては完成された人妻を求めるのかもしれないと思った。
ただし「人妻は「他人のもん」であって「いい奥さん」ではない」「人のふんどしで相撲をとる」とお二人も述べているので、あくまでも倫理に外れたことであることは理解しておこう。