公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2023年5月に読んだ本

嫌いな言い回しのひとつに「○○からしか得られない栄養がある」というものがある。
例えば、衝撃的な展開をするドラマやアニメ等の創作物があったとして、既にそれを見たことのある人が初見の人の感想を見て上から目線でにやにやするというやつだ。
この場合は「初見の感想からしか得られない栄養がある」となり、理不尽な展開に驚いたりショックを受けていたりする人を高みから見物するという非常にニチャニチャ感のある悪趣味な行為である。
正直、オタクが思っている以上に人間は理不尽なことに対して耐性があると思う。(ましてやフィクションの創作物ならなおさら)
だから初見の人がお前の勧めたものを見て期待通りの反応をしてくれたとしたら、それは勧めてきたお前に対する接待であることを念頭に置かねばならない。
初見の感想を見て愉悦してもいいのは作者であって周囲の人間ではないので勘違いしないほうがいい。
それでは5月に読んだ本を紹介していくけれども、ネタバレもあるので要注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

FLIP-FLAP

最近よく耳にする"推し"という言葉には空虚さを感じている。
いくらお金を使ったか、いかに推しの対象に精神的に依存しているかを競い合い、他人に見せるために"推し活"とやらをしているとしか思えない振る舞いには早くこのムーブメントが終わってくれないものかとため息を禁じ得ない。
"推し"については言いたいことがたくさんあるものの、それは本題ではないので今回はやめておく。
本作は買って積んであったのだが、こちらの作者さんの最新作『これ書いて死ね』がマンガ大賞2023を受賞したので慌てて読んだ。
ゲーセンに置いてあるピンボールゲームを主題とする男女のラブコメになるのだが、まずピンボールがメインの漫画を読んだことがないので新鮮だった。
主人公がヒロインに対して「どうしてそこまでピンボールに熱中できるのか」という旨の質問をした際、「幸せになりたい」「心を震わせてくれるものを純粋に楽しみたい」と返していたのには胸が熱くなった。
特に「幸せになりたい」ってのがすごくいい。
「楽しいから」より一歩踏み込んだ言葉というか、より根源的な欲求を感じる。
むしろこのセリフが出る時点でもう既に幸せなんだろうし、「幸せになりたいからやってる」というよりは「純粋に楽しんだ結果幸せであることに気が付いたから、もっと熱中してもっと幸せになりたい」ということだと思う。
好きなものにのめりこむのに理由や見返りやコスパは必要ない。
周囲の視線とか評価とか関係ないし、誰に見せるためでもなく本当に自分のために好きなことに没頭している人間を、短い一言で表現した素晴らしいセリフだ。
この後に紹介する作品も同じ作者さんの漫画だが、両方ともコマ割りや台詞のセンスが素敵で目を惹かれるページが多くてわくわくする内容だった。

友達100人できるかな (1-5)

上で紹介した『FLIP-FLAP』と同じ作者さんの漫画。
読み終わった後、面白いより先に「めっちゃいい漫画」とつぶやいた作品。
面白いのはもちろんそうなんだけど、"いい"という感想がしっくりくる気がした。
宇宙人からの地球侵略を阻止するため、36歳の主人公が1980年の小学3年生当時に戻って友達を100人作る話。
主人公だけ精神年齢が30代なので大人の処世術を生かして打算的に友達を作ったり、友達との親密度が可視化できる装置があったりと決して優しさだけの世界ではないのだが絵柄なのか作風なのかそこまでブラックな印象は受けない。
正直言って展開は割とベタな感じであるのだが、どうも印象に残る作品だった。
やっぱり「いい漫画」という感想にふさわしい作品だと思う。
FLIP-FLAP』も本作もかなり好みだったので、作者さんの他の作品や『これ書いて死ね』も買うかどうか検討しているところだ。

サンダー3 (3)

2巻の帯には「王様のブランチで紹介」という、著しく購買意欲を減退させる文言が記載されていた。
そして本巻の帯には「麒麟・川島、かまいたち・山内も絶賛」とあった。
川島も山内も嫌いではないが、どうもこういうコピーは冷める。
こないだも、マツコの番組かなんかで紹介されたカレーうどん星野源が絶賛したというネットニュースを見たのだが、星野源が絶賛したから何だと言うのか。(別に星野源が嫌いなわけではない)
漫画としてはパラレルワールドものというか、主人公たちが並行世界に迷い込んだ妹を助けに行く話である。
主人公たちの元居た世界の画風がコミカルなタッチで等身が低めなのに対し、並行世界はリアル寄りで等身も高めと漫画ならではの表現がされている点がまず引き込まれる。
また、並行世界の画風が極めてGANTZっぽいので別名義ではないのだろうか。(GANTZに詳しい人に言わせると台詞回しも似ているらしい)
2巻は溜めの回で3巻も助走からの走り始めくらいで話が動き始めた頃なので、これから主人公たちが世界にどう関わっていくかは期待していきたいところ。
正直、話題になったのは作品の設定によるところが大きいと思っているので、キャッチーさで受けている点は否めないと思う。
キャッチーで分かりやすいからこその王様のブランチなわけだし、初っ端の瞬間風速だけではないところをこれからの展開で見せていってほしい。
平行世界の状況は徐々に明らかにされてきたものの、今のところ主人公たちのキャラクターの掘り下げが少ないためそこらへんの描写に期待。

児玉まりあ文学集成 (1-3)

ストーリーとかそういうのはあまりなくて、児玉さんと笛田くんが文学部部室やそこらへんで会話している内容がメインの漫画。
ただ日常ほのぼの漫画かと言うとそういうわけでもなくて、タイトル通り文学的なことを言いつつ叙述トリックヤンデレ的な要素も含まれている。
ジャンプ+で連載している『放課後ひみつクラブ』が好きな人はハマると思う。
本のことについて書いた漫画だと思い浮かぶのが『クズと眼鏡と文学少女』だが、あちらは文芸作品の話や読書をしている己の自意識みたいなものがメインだったが、こちらはひたすらに文学的かつ哲学的な内容になっている。
児玉さん曰く、笛田くんは妄想癖があり「現実を見るのをめんどくさがって、勝手に周りを作り変えて生活している」人なのだそうだ。
彼の妄想癖の一端は5話で明かされることになり、物語も基本的には彼から見た視点で描かれているため、この漫画の世界自体が彼の妄想の産物なのではないかと錯覚させられて常に不穏な気持ちで読んでいた。
そんな笛田くんに文学的素養を与えてどんな文学者になるのか見てみたいのが児玉さんの野望である。
児玉さんも児玉さんで笛田くんが他の女子と親しげにしているのが気に食わない風ではあるが、あくまで周囲から見た関係では「笛田くんが惚れた弱みで児玉さんに振り回されている」となっており、更に児玉さんが笛田くんに文学的素養を身につけてほしいと考えている"師と弟子"的な関係である以上、児玉さんが自分の気持ちを素直に伝えることができないのがもどかしい。
各話の終わりに「今回参考にした作品」が紹介されるのだが、どの本も聞いたことないものばかりで興味をそそった。
作者さんはかなり本の虫であることが伺える。
お話だけでなく絵も単行本の装丁も好みなので4巻が楽しみだ。

中国共産党 世界最強の組織 1億党員の入党・教育から活動まで

正しいとか正しくないとか好きとか嫌いとかは置いといて、中国共産党のことってよく知らんなあと思って読んだ本。
ニュースで扱われているような中国共産党の中央部がメインの内容ではなく、地域コミュニティや職場内における共産党下部組織について書かれている。
中国在住歴のある著者が中国社会や中国共産党組織に対する「誤解を解く」ことを目的として書かれているが、決して中国の現体制や共産党を賛美する内容ではない。
"誤解"というのは具体的にどういうことかと言うと、「共産党が強権で人民を支配している」「中国の社会システムは劣っている」とかそういうやつだ。
著者は中国が完全に民主的な社会かというと決してそうではないと述べているものの、共産党内部の「上意下達」「下意上達」がスムーズに行われるための仕組みや、共産党下部や共産党員ではない人たち("群衆"と呼ぶらしい)からの意見の吸い上げに関しては評価をしている。
また、共産党の強みは「常に知識をアップデートしている人材がいること」だとも述べている。(学習内容が中立であるか否かはさておき)
政治思想や経済思想のような現実社会に関する知識は常に学んでいないと現実の進歩に追い付かなくなり、実際に学んでいる人材が多いからこそ中国は社会の変化が速いのだそうだ。
中国と言えば報道統制・情報規制バリバリで上から押さえつける政治だと思われがちだが、よくよく考えてみればあそこまで自己主張の強くてやかましい人種を上から押さえつけるだけで管理できるものではない。
優れた政策も組織の隅々まで正しく共有・実行されなければ意味がなく、また上層部の独断による現実離れした政策立案を避けるために「ビジョンの共有と理解と実現」「現状に根差した方針決定のための現場からの意見の吸い上げ」が仕組みとして確立しているのだとか。
本書は中国共産党のことのみならず、自分の中の偏見を正してくれる一冊だと感じた。
「怖いから、怪しいから、中共について「知りたくない」「知る必要がない」という立場や視点については全面的に否定します」と筆者は述べている。
中国が好きではないというのもあってか共産党の仕組みは劣っているという偏見を持っていたのだが、決してそうではないことも分かった。
嫌いであるが故に知らないことを勝手に理想や願望で埋め、「自分が嫌いな国だから国の仕組みもきっとしょうもないだろう」という考えがあったことは確かである。
ところで中国には、教育政策や教育思想の分野で2010年代後半から使われるようになった言葉に「立徳樹人」というものがあり、「長期的な視野に立って徳を備えた人材を粘り強く養成する」という意味らしい。
また、共産党員は日常生活において群衆の模範となる行動を取るように求められているとのこと。
これらの教育思想や共産党員の模範的行動が早く実を結んで、中国人のモラルが向上してほしいものである。
また、本書の出版社である「星海社新書」の本は初めて購入したのだが、栞のデザインがオシャレだった。
と思ったら某Vtuberが「好きな栞は星海社新書」と発言していたのを聞き、見てる人は見てるものだなあと思った。

ジャンパーを着て四十年

「考古学」ならぬ「考現学」の第一人者である人らしい。
関東大震災後の物資の欠乏をきっかけにとりあえず間に合わせでジャンパーを着るようになり、大使館のパーティや皇族に招かれた際にもそのスタイルを貫いていたことが本作のタイトルにもなっている。
内容としては前半は服装の歴史を紐解き、後半は"慣習"への疑問を投げかけるという構成だ。
ファッション論というよりは民俗学・生活風俗寄りの内容になるので中盤は正直言って退屈だった。
全体を通じて何が言いたいのかはいまいち掴めなかったが、世俗に対する視点には面白いなと感じる点もあり所々に共感できる部分はあった。
本作の初版は1967年なのだが、その時代で「今日の私たちは、信仰の自由、思想の自由などが公認されている自由社会に生活しているのに、衣服慣習からは解放されていない」「習俗に束縛されたり、新規を求める流行に支配されたりして、じぶんじしんの考えも行動も、まるっきりからっぽな人たちに見える」と言われていたのは驚いた。
その時代から60年経過しており、多様性だの何だの言われているけれども衣服慣習や流行から解放されているとは言い難い。
流行を追うことやファストファッションが悪いことだとは言わないがそれが全てであると思ってほしくはないのだ。
今だと若い男性はチンコの先っぽみたいな髪形をして黒のウレタンマスクを装着しており、女性は目の下にナメクジがいるようなメイクが流行っている。
それらも流行が終わるとすぐ別の流行へ飛びついてしまうのはもったいないことだと思っている。
流行っていなくても自分がいいと思えば続けていけばいいし、それが層を重ねるうちに自分のスタイルになるというのに。
また、ある程度年齢のいった男女に言えるのは「オンとオフの間くらいの服装がヘタ」だと思う。
作中でも「日本の男子はオシャレを知らない」「服装生活本来のたのしみをも社交性をもわすれてしまって、もっぱら儀礼的な装いで身をかためなければならないものと決めている気配がある」と言及されているが、これが具体的に当てはまるのは結婚披露宴等のパーティ的な場面だと思う。
披露宴には何度か招待いただいたことがあるが、20代そこらならともかく30代以降でもビジネススーツらしき装いで参加している男性や、服装や髪形は整えているのに紙袋に荷物をまとめている女性(ハイブランドのショッパーだったりすると余計に哀愁を誘う)などを見かけると非常に残念な気持ちになる。
また、異業種交流会等の砕けたビジネス的な集まりではジャケットにカットソーを着てドレスダウンしている男性がいるが、肝心のジャケットが明らかなビジネス用の上着だと着替えの途中の人みたいでちぐはぐな印象を受ける。
どこかの芸人さんがトークで「服屋で"ちょっとしたパーティにいいですよ"ってジャケット勧められたけど、ちょっとしたパーティって何やねん」と言っていたが、社会人になってみて気が付いたことは"ちょっとしたパーティ"の機会は意外とあるし、そこにビジネスの装い(儀礼的な装い)で参加する人も結構いるということだ。
それは無難でいいかもしれないけど面白味はないなあと思うわけだ。

郵便配達は二度ベルを鳴らす

新潮文庫版を所有しているのだけど、翻訳が古臭くてスムーズに読めなかった過去がある。
例えば、昔の海外翻訳にはよく「やっつける」という言葉が登場する。
「する」とか「やる」の語気を強めた言葉として使われており、「思い切ってやる」というニュアンスで用いられる。
おじさんビジネス用語で言うと「えいや」に近いと思われる。
だけども、実際「やっつける」は「成敗する」的な意味の方が馴染みのある用法なので、意図しないところでやっつけるが登場すると一瞬流れが止まってしまう。
また、新潮文庫版の特徴として、本作はハードボイルドを代表する作品としても挙げられているためか登場人物がやけにべらんめえ口調である。("おまえ"を"おめえ"と言ったりする)
原書からそうした荒っぽい口調なのか翻訳者が意図的にそうしたのかは知らないが、江戸っ子口調も読んでいて違和感を覚えることが多かった。
古い年代に翻訳された海外文学にありがちな相性の悪さを感じていたものの、どうして旧版を手放さずに持っていたのかと言うと当時読んだときに覚えていた「ヒロインがめっちゃわがまま」という点が心に残っていたからだ。
読んだ本の8割は内容を覚えていないのだが、その本に少しでも覚えていることがあれば得るものがあったと解釈しているため、この本の印象はヒロインによるところが大きかったわけだ。
ストーリーに触れますと、流れ者のフランクは偶然立ち寄ったレストランで店主のパパダキスの妻、コーラに一目ぼれをしてそこで働くことになる。
フランクとコーラはすぐに男女の関係になり、邪魔なパパダキスを殺害する計画を立てるのだが…。というお話。
先ほども述べたように昔読んだときはコーラの奔放ぶりが印象的だった。
感情的でその場の勢いで行動するのに気分次第ですぐ意見を翻し、簡単に股を開く割にはプライドが高い。
ところが今回改めて新訳で読んでみたところ、彼女は割と現実的な女性ではないかと思ったのだ。
コーラは高校のミスコンで優勝し、その特典としてハリウッドで映画のオーディションを受けるものの、自分が田舎から出てきた垢抜けない女であることを思い知らされて挫折する。
後ろ指をさされたくないから故郷に帰ることもせず、結局そこらへんでウェイトレスをやったり男の間を渡り歩いて生きてきたそうだ。
だからなのか「きちんと働いて、尊敬される人間になりたい」とフランクに伝える場面もある。
パパダキスの殺害に成功した後、全てを捨てて他の土地でやり直そうとするフランクと、この土地で引き続きレストランを経営しつつ生きてきたいとするコーラ、各々の現実との向き合い方にも違いが見られる。
駆け落ちしようとヒッチハイクをしながらふたりで街を目指していた途中で「疲れたし惨めな気持ちになるから帰る」と言い出したあたりは何だこいつとも思ったが、裏返せば地に足を付けて生きていたい気持ちの表れだったとも言えるだろう。
結局、今後の生き方に対する姿勢の違いや、どちらかが自分の犯行を密告しないかとの疑心暗鬼からふたりは悲惨な運命を辿ることになる。
人を呪わば穴二つではないけれども、ふたりにとっての救いは死しかなかったわけだ。
ひとつの作品で旧訳と新訳を読み比べたのは今回が初めてだったのだが、作品から受ける印象が全く変わるような描写の変更もあったので、読み比べが好きな人の気持ちが分かった。

僕たちはファッションの力で世界を変える ザ・イノウエ・ブラザーズという生き方

洋服が好きな人なら「The Inoue Brothers...」はご存じだろう。
デンマーク生まれの日系二世、兄の井上聡さんと弟の清史さんによるファッションブランドだ。
イノウエブラザーズのストールは持っているのでブランドとして認知はしており本書の存在も知っていたものの、読むまでには至らなかった。
ところが少し前、ご縁があってお兄様の話をお酒を飲みながら聞く会に参加させてもらい、いたく感銘を受けて本書を購入したのである。
井上兄弟はとあるきっかけで南米ボリビアのアルパカ繊維の質の良さと、アルパカ産業に従事する人たちの現状を知ることになる。
劣悪な環境での労働や、貧困から子供に教育の機会を提供できずに貧しさが連鎖してしまうこと、質の良いアルパカを用いているのにデザインや縫製がいまいちで土産物レベルでしかないこと、繊維の知識がない故にアルパカの毛を安く買い叩かれてしまうことなどを知り、「アルパカを通じてアンデス地方の人たちの暮らしをよくしたい」との想いからブランドとしての活動を開始する。
アルパカの品質に惚れ込んだのはもちろんだが、ボリビアの人たちの人柄に感銘を受けた点もあるのだそうだ。
貧しい暮らしをしているにも関わらず自分たちを家に招待して食事をごちそうしてくれ、ご飯をおいしいと言えば自分の分まで食べてもらおうとするし、生活の中でも笑顔を絶やさない。
決して生活が恵まれているわけでもないのに他人に親切にする姿勢に、お二人はいたく感銘を受けたそうだ。
ただ、イノウエブラザーズはチャリティではなくあくまでビジネスであるというスタンスでやっている。
施しでは一時しのぎにしかならないし、チャリティではこちらが「支援してやってる」という思い上がりから相手のことを下に見ることも考えられる。
ビジネスであるからこそ相手を尊敬して対等な関係を築け、謙虚な気持ちで相手から教えてもらい学ぶこともできるからだそう。
何より、一度ビジネスの仕組みを作ればボリビアの人たちが抱える上記したような問題を継続的に解決することができる。
これらは本に書いてある内容なのだが、正直なところこの本を読んだだけではお二人の活動について「すごいな」とは思う反面「本当かな」と懐疑的になっていたと思う。
聡さんのお話を聞いたときに印象に残っていたのが「自分の原動力は"怒り"である」とおっしゃっていたことだ。
当時のデンマークはゴリゴリの白人社会だったため、アジア人である兄弟は随分と酷い差別にあっていたらしい。
そうした体験からか、世の中の理不尽なことを許せないという気持ちが強いのだそう。
何より感銘を受けたことは原動力である"怒り"がマイナスの方向に向かなかったことだ。
差別されたから自分も他人を攻撃しようという思考ではなく、世の中の不公正や不条理と戦っていくという考えに至っただけでも尊敬に値する。
本を読んだり話を聞いたりしていると、攻撃心が他人に向かなかった理由はご両親の教育や過去の偉人の考え方を学んできたこと、それに自分たちが"地球市民"であるという意識からなのだと思った。

地球市民(ちきゅうしみん)とは、人種、国籍、思想、歴史、文化、宗教などの「違いをのりこえ、誰もがその背景によらず、人として尊重される社会の実現」を目指し、活動しようとする人々が自らを指し、コスモポリタニズムに賛同する人々を表すコスモポリタンの日本語訳の世界市民と同じ意味として好んで使われる造語である。地球市民は市民としての帰属を国家ではなくより広い概念に求めている。wiki

お二人が生まれ育ったデンマークは多種多様な人種が暮らしているため多様な考えに触れる機会が多かったことや、イノウエブラザーズの活動で世界中を飛び回る中で現代社会の抱える問題を目の当たりにしたことで、地球で起こっている問題を他人事ではなく己のことのように考えるようになったのだ。
聡さんはいい意味でファッションデザイナーっぽくない印象がありフランクで喋りやすく、何より生命力に満ち溢れている人であると感じた。(目力がすごい)
このご兄弟であれば本で語ったことはマジだろうし、決めたことは絶対にやり遂げるという強い意志が伝わった。
やはり本を読んだだけで知った気になるのではなく自分の目で見たり聞いたりするのは大切なことである。
また、「失敗してはいけない、絶対に成功しなければならないという考え方が、間違っているのではないか。それが今の息苦しい世の中を作っていると思えてならない。」という文章には頷くことしきりだった。
やっぱり今の自己責任論が蔓延している現代社会はどうにもこわい。

ひみつのダイアリー

週刊文春で連載されているエッセイを文庫化したもので、「人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた。」で始まるシリーズ。
本書はその4作目となるが順不同で読んでいるのであまり気にしていない。
みうらさんの書籍にはよく"人妻"が登場する。
本人曰く「自分と自分の身のまわりにしか興味がなかったぼくに、他人様のものまでようやく目が行き届く余裕ってものが出てきたということではないか」ということらしい。
ぼくとしても加齢とともに見るAVの幅が増えてきた気がするので、他人様のものが欲しくなるとかではなくて単に年を取ってストライクゾーンが広がったのだと思っている。
みうらさんの言う人妻の魅力は"品"にあるとのこと。
品のある人妻(そんなもの現実にいるのかというのはさておき)が快楽に溺れる様がたまらないらしい。
"品"とは"恥"や"エロ"の対極にあるものなので、人妻とは品を体現した存在とも言えるだろう。(品のある人妻が現実にいるかどうかはさておき)
以前に読んだみうらさんとリリー・フランキーさんの対談本では「昔のアイドルは「いい奥さんになりそう」という魔法をかけてくれた」ということであった。
そのあとに「今のテレビはアイドルが私生活をべらべら喋って、昔のアイドルは「昔はこうだった」ってバラしにかかって、もう魔法がかからない」とも言っている。
だからこそ人は概念としては完成された人妻を求めるのかもしれないと思った。
ただし「人妻は「他人のもん」であって「いい奥さん」ではない」「人のふんどしで相撲をとる」とお二人も述べているので、あくまでも倫理に外れたことであることは理解しておこう。

2023年4月に読んだ本

最近youtubeを見ていると、おすすめにしょうもない動画が上がってくる。
5ch(旧2ちゃんねる)の面白スレッドをまとめた動画とか、boketeの名回答をまとめた動画とか、アニメや漫画のとある回についてネットの反応をまとめた動画とか、とにかくしょうもなくてみっともない。
見かけたらブロックしているのだが、雨後の筍のように似たようなのが次から次へと湧いてくる。
ああいう人の褌で相撲を取っているような動画を作るやつってプライドはないのだろうか。
というわけで今日も読んだ本を紹介する。
一応ネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

お姉さまと巨人 お嬢さまが異世界転生 (1-2)

異世界」「スキル」「無双」「最強」「追放」「スローライフなどが作品タイトルに入っているものやそれに類するストーリーの作品は見なくても問題ないと思っている。
見なくても問題ないし、そうやって決めつけても問題ないとも思っている。
上記のNGワードについて後ろのふたつはちょっと前に追加されたものなので、今後も増えていくことだろう。
もちろん、『異世界おじさん』のように例外はあるけれどあくまでも例外だ。
この作品もタイトルだけ見るとキツいなあという印象だが、それでも読んでみようと思ったのは、いろいろな作品に触れたいという思いが強かったからなのと一話がいい感じだったからだ。
自分の好きなものを詰め込んだと作者さんは述べており、読んでみるとかなりしっかりとした世界観である。
異世界転生」という概念が一般化し、その類の作品が濫造されているが、異世界転生について知らない人も多分まあ読めると思う。
物語の舞台から見ると異世界現代日本)から転生してきた主人公のお姉さまと、巨人族の妹がお互いの探し人を求めて旅をするお話だ。
異世界転生ものにおいてお約束となりつつあるのが、異世界の文明は転生前の世界に比べて遅れており、主人公以外がバカ」というやつである。
遅れている異世界文明に現代の知識で革新をもたらし、異世界の住民にちやほやされるというのはお決まりの展開となっているわけだ。(マヨネーズを作って称賛されたりとか)
また、主人公は自身を生み出した作者の知能以上の思考能力がないので作者がバカだと主人公もバカとなる。
そのため、頭の悪い作者が知的なキャラを描こうとすると周りをバカにして相対的に主人公を上げるしかないのだ。
まあ最近は主人公以外の人物が極端に頭が悪い作品は減ってきているが、主人公が謎にちやほやされる展開は似たり寄ったりだ。
本作ではそうした異世界が未開の文明であることへの風潮の皮肉とも取れる描写がある。
転生者をうまい具合にカモにして自分の利にしている現地住民が見受けられたり、"個"で強い異世界人に対して集団の優位性で対抗したりする現地の様が見られる。
異世界転生者に付与される能力をお姉さまが「ズル」と称している点からも、少なくとも、チート能力を付与された異世界転生者が何の努力もしていないのに持て囃されるといった類の作品ではない。
異世界物のお約束を揶揄する異世界作品は既にあるだろうが、本作はそれがメインではないので作者の「やってやった」感を味わわなくてすむ。
あと、本来武器ではないものを武器として使うキャラってどうも昔から惹かれる。(ツギハギ漂流作家もそうした点ではよかった)
妹はスコップを武器として使っているのだが、読み進めていくとスコップであることを活かしたとある演出があって痺れた。
タイトルからお姉さまと妹の百合的なものを連想するかもしれないが、実際の二人の関係は兄弟杯というか任侠的な関係性のように見える。
しかし、もう常識みたいになってるけど、SAOみたいにゲーム内を舞台にした作品ではないのに「スキル」「レベル」「ステータス」などの概念がある世界観って受け付けない。
結局、文章や絵で説得力のある強さの描写を見せることができないし、読者も読み取ることができないから分かりやすい数値に頼ってしまうのだと思う。
それは作者の技量不足もあるし、読者の読解力不足もある。
異世界系(いわゆる"なろう系")の作品にもムーブメントはあるらしいのだが、基本的には流行っているテンプレに当てはめるだけなのでタイトルやあらすじを読んでいるだけで頭が痛くなってくる。

機動戦士ガンダムF90

こないだF91を久々に見て、そういやあのへんの時代の話ってあんまり知らんなあと思って買った。(後述するが、F90に関してはGジェネでの知識しかない。)
現在ガンダムエースで『機動戦士ガンダムF90 ファステストフォーミュラ』というやつが連載されている。
そちらはF90本編開始前を描いた作品なのだが、いくらガンダムが好きでも広げた風呂敷の模様を全て把握するつもりはないので本作だけで十分だろうと判断した。
ガンダムはとにかくスキマ産業なので、「あの時代とあの時代の間に実はこんなことがありました」的な外伝がとにかく多い。
だけど、やっぱり人気があるのはアムロとシャアが生きていた時代くらいまでなので、逆シャア以降は外伝的作品はあまりない。
UC・NT・閃ハサなどはあるが、あのへんは逆シャアから近い時代の話なのでまだアムロやシャアを引っ張ることができるものの、F90の話は宇宙世紀0120年、F91は0123年なので、彼らが生きていた時代から30年経過しているのだ。
彼らの存在を匂わすだけで物語は盛り上がるので、今作でもF90の一号機・二号機それぞれにアムロ・シャアのパイロットデータをプログラムした補助システムが組み込まれている。
あとジョブ・ジョンも出てる。
カラーページでF90のスペックが紹介されており、巻末には宇宙世紀の年表も載っているので資料としての見ごたえもバッチリだ。
内容としてはよくあるガンダムものといった感じで裏切り者や無能な上官もお約束のごとく登場する。
ボッシュは最近、F90の新しい漫画版でロンド・ベル時代が描かれて注目されたらしい。
第二次ネオ・ジオン抗争後もラプラス事件があり、ハサウェイはテロリストになるし、アムロを間近で見ていたボッシュガンダムを悪魔の力と称した。
結局、アムロが見せた人の心の光を目の当たりにしても、人は争うわけだ。

機動戦士ガンダム シルエットフォーミュラ91

F90を読んだらこっちもだろと思って購入。
本作も同様にGジェネFの知識しかないので、どんなものか知りたかった。
アナハイム・エレクトロニクスサナリィから技術を盗用した、新型モビルスーツ開発計画『シルエットフォーミュラプロジェクト』
本プロジェクトで完成した三機の試作機の実戦試験に関わる事件(通称:ゼブラゾーン事件)を描いた話。
先ほどのF90が宇宙世紀0120年なのに対してこちらは0123年で、ゼブラゾーン事件が終息して数週間後にコスモ・バビロニア建国戦争が勃発している。
本作は主に連邦軍ネオジオン残党・AE・CV(クロスボーン・バンガード)の四者が登場し、現場レベルでは知らされていない思惑が交錯しているのだが、漫画を読んだだけでは正直なところ関係が分かりづらい。
MSの出番がそんなに多くないのは別にいいとしても、ガンダムにおいてMSなしの人間ドラマで話を動かすのは難しいので、何というかパトレイバーみたいなことをやろうとして空回っている感のある作品だった。
MS戦においてもMSの動きがいまいち分かりづらく、似たような見た目のMSが多いので誰がどう立ち回っているのか判断がしづらい。
F90はカラーページでMSのスペックと立ち絵を紹介していたが、こちらはそういったコーナーもないので絵の粗さを補う仕掛けがあったわけでもない。
キャラの書き分けにおいても不十分なので読むのに少し工夫が必要である。
シャアとかと違って基本的にMSパイロットはノーマルスーツを着てヘルメットを被っているので、ヘルメットありの状態だと顔があまり映らないのでキャラの書き分けが重要なのだ。
アニメと違って声もないし、カラーでもないから余計に判断がつかない。
また、敵サイドであるガレムソンもクズな上に脳筋すぎて指揮官としてはダメダメだった。
あれではF91にも勝ると言われているネオガンダムのスペックを全く生かし切れていない。
というわけで漫画としてはちょっとおススメできないかなという感じがした。
Gジェネで見たシルエットガンダムやネオガンダムはカッコよかっただけにもったいない。
サナリィ躍進の陰でアナハイムが何をしていたのかとか、あとはたぶんネオジオンも含めジオン軍残党が出てくる作品ってこれが最後ではないかと思うので、それらを知る意味では貴重な作品となる。

新機動戦記ガンダムW DUAL STORY G-UNIT (1-3)

本屋をふらふらしてたらたまたま見つけて、G-UNITってあのG-UNITか!とテンションが上がって買った。
コミックボンボンで連載していた作品の新装版になり、どうも2020年に出ていたらしく自分の情報感度の低さに呆れてしまう。
当時はボンボンでときた先生のガンダム漫画を毎月楽しみにしていたし、G-UNITはプラモも購入したのを覚えている。
本作はガンダムW本編と同じ時間軸で、タイトル通りWの外伝的作品になる。
Wは初めて見たガンダムのアニメ作品なので思い入れが強く、自然とG-UNITも好きだった。
数年後、GジェネFに初収録されたときは大興奮したものだ。
前述したF90やシルエットフォーミュラもそうだがGジェネFで初ゲーム化された作品は多く、閃ハサやクロスボーンガンダムなんかはスパロボ参戦の遥か前に登場している。
この両者に関してはとにかく力が入っていた印象で、Ξガンダムのファンネルミサイルの演出、クロスボーンの戦闘BGMのカッコよさにはしびれたものだ。
第二次スパロボαにクロスボーンガンダムが参戦した際にはBGMもキャストもそのままで、やっぱこれよなあと思った人は少なくないだろう。
クロスボーンは漫画も持っていたのだが手放してしまったので、近いうちにまた購入しようと思う。
さて、当時は子供だったので何の疑問もなく読んでいたが、今読むと『星屑の三騎士(スターダストナイツ)』とか『暗黒破壊将軍』とかネーミングがすごい。
暗黒破壊将軍ことヴァルダー・ファーキルはトレーズをライバル視しているようだが関係性は不明である。
まあ『暗黒破壊将軍』はトレーズに言わせれば「エレガントではない」だろう。
あと、OZプライズがMO-Ⅴを狙った理由が改めて読んでも不明すぎた。
規律を守るべき軍隊であんな好き勝手やってれば、そりゃお坊ちゃんたちのクラブ活動と揶揄されるわと。
でもスターダストナイツのカスタムリーオーは厨二心をくすぐるし、L.O.ブースターやグリープはとにかくカッコいい。
2巻にはときた洸一先生の書き下ろしエッセイ漫画も載っており、漫画家デビューからボンボンでガンダム漫画の連載に至るまでの過程が描かれている。
ときた先生のガンダム漫画はG・W・X・逆シャアと、ぼくの青春期と共にあった。
先生はGガンダム漫画化の際に作品のプロットを見せてもらったそうだが、「こんなのガンダムじゃない」と思ったらしく、やっぱみんなあれに関しては同じことを思っていたのである。

チェンソーマン (14)

デンジくんが楽しそうでよかったなあと思いました。
デンジくんが水族館でアサと走り回っているときは、アキと一緒にサムライソードの金玉を蹴っている場面を思い出した。
アサの態度からパワーちゃんを思い出してちょっとおセンチになったデンジくんを見ていると、こっちも切なくなる。
アニメの勢いもあってか、第二部はそれまでと比べてどことなく足りない何かがあるなあと思っている人もいるだろう。
第二部はアサとヨルにフィーチャーしていることもあってか、デンジくんはともかくチェンソーマンの出番がいまいち少ない。
チェンソーマンが出てきて派手に殺す」的な爽快感が本作の面白い部分のひとつだと思っているので(だからこそマキマさんとの決着が静かだったのが際立つ)、スカッと不足による物足りなさではないだろうか。
実際に4/5のジャンプ+更新分からチェンソーマンのバトルが本格的に描かれているが、ぶっ飛んでいてやっぱこれだなあと思うことしきりだ。

一級建築士矩子の設計思考 (2)

一級建築士の女性が主人公の建築×お酒漫画。
作者さん自身も一級建築士と1級建築施工管理技士の資格を持っており、割と"ガチ"な漫画である。
建築がテーマである以上、図解と文章がページ内にどうしても多くなってしまうのだが、そういう作品だと分かっていればそういうもんだと思って読めるのでいい。
例えばこれがジャンプに乗っていたらもっと気楽に読みたいなあと感じてしまうが、本作については圧倒的な説明量がむしろ心地よく感じられる。
テーマ的に難しいのではと敬遠する人もいるかもだが、家ってみんな住んでるわけでどこかに引っかかる部分はあると思うし、豆知識的な感じで学べるのでとりあえず読んでみてほしい。
実際にこの漫画を読んでいると「へえ~」と呟くことがとにかく多く、こんなにへえが漏れたのはARMSを読んだとき以来である。(竹は絶縁体とか粉塵爆発の話とか)
実写化する可能性もありそうだから、勝ち馬に乗って「わしが育てた」顔で後方腕組み待機をしたい人は今からでも買おう。

戻り川心中

何冊かに一冊、「これは読ませる本だなあ」としみじみ思う作品がある。
世界観なのか登場人物なのか文章なのかは分からないが、引き付ける何かがあって世界観にのめりこんでしまいページをめくる手が止まらなくなるやつだ。
恋愛小説と推理小説が同居した作品で、花にまつわる男女の悲哀と殺人を描いた短編集となっている。
流れるような美しい文章と情感たっぷりの内容でとにかく没頭できる作品だった。
「なぜ犯行に至ったのか」を明らかにするいわゆる「ホワイダニット (Whydunit = Why done it)」形式のミステリーのため、犯人の内面描写が緻密に描かれている。
あまりにも真に迫った内容のため、表題作の「戻り川心中」に登場する歌人が架空の人物であると途中まで気が付かなかった。
というかフィクションでもノンフィクションでもどっちでもいいやと思わせる、有無を言わせない圧倒的な物語の世界が展開されている。
語りたいところはたくさんあるけど言葉を尽くすと安っぽくなってしまうのでぜひ読んでもらいたい。
この作者さんは今回初めて知ったのだが、世の中には本当にまだまだ知らない本がたくさんあるなあとしみじみ思った。

ガンダム」の家族論

ガンダムの漫画も読んだし、dアニメストアガンダム作品がいっぱい配信されだしたし、水星の魔女の2クール目も始まったしということでこちら。
富野さんが今までに監督したアニメ作品のエピソードを引用しつつ、家族について論じた一冊。
富野さんがガンダムファンに対して「大人になれ」とのメッセージをF91にこめたという話はネット上で有名だが、一体その発言のソースを確認した人間がどれほどいるだろう思っていた。
他にもVガンダムは病気のときに作ったから病気になるので見ないほうがいい」と発言したとも伝えられているが、それについても同様で実際に発言元を確認した人はどれほどだろう。
結局、ネットで有名人著名人の発言を引用して良いこと言ったとドヤっているやつは、その発言のソース元を確認もせず前後の文脈も把握せず言っているアホなので、ネットのデマにすぐ騙される情報強者気取りの情報弱者なのだ。(別にその分野に対しての素人であるとか関心が薄いのならそれでも構わないが、好きなら発言元くらい参照しようやと思う)
一応この本では上記の発言は両方触れられているので、ぼくは今後この本をソースにしようと思う。
内容としては富野さんファンやガンダムファンなら必読となっている。
ガンダムだけでなく今まで監督したアニメ作品について幅広く引用して家族論を語っているし、これはひょっとしてエヴァ批判ではないかと読み取れる興味深い記述もあった。
ところが、最後の章で富野さんが語った内容があまりにもインパクトが強すぎたのですべて吹っ飛んでしまった。
作品の内容をそのまま抜き出すのは出来の悪い読書感想文みたいで読書録としてはあまりやりたくないのだが、衝撃的だったその発言を引用して本の紹介は終わりたい。

ガンダム」におぶさっている人は、なんでも「ガンダム」で語ろうとする。
だが、たかだかロボットアニメの「ガンダム」には、それほどのキャパシティはないはずなのだ。
ガンダム」を使って、どれほどのものが言えるのか?
僕自身が「ガンダム」シリーズを作り続けなくてはいけないなかで、いろいろと考えたからよく分かるのだが、「ガンダム」はそれで人生を学べたといえるほど広く深いものではない。
だから、「ガンダム」世代という言葉を使う人にはお願いがある。
自分が「ガンダム」で幾ばくかの人生を学んだと思っているのなら、その足場は案外「脆い」ということを思い出してほしい。
自分が「ガンダム」で学んだことこそをまず疑い、最後は忘れるくらいでちょうどいい。
もし子供がいても、「ガンダム」世代の言葉をフィルターとして伝えるのなら、それは子供をすごく脆く狭く、対応力の低い人間に育ててしまうだろう。
たかだか三十年、四十年生きてきただけの世代が知っていることが、次の五十年以上を生きようとしている子供に役に立つのかどうかを考えるべきだ。
だから「ガンダム」世代は、「ガンダム」という言葉から早く離れたほうがいい。

高い城の男

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の作者の著作。
第二次世界大戦で日本・ドイツの枢軸国が勝利した世界線を描いている。
いかんせん登場人物が多く、それぞれの思想を把握するまで時間がかかったので、最初は読み方がいまいち分からなかった。
人物それぞれの言ってることに抽象的な内容が多く、翻訳の相性もあってかスッと入ってこなかったのだがそこは前後の文脈や状況と照らし合わせることで何とかなった。
「日本勝ったぜ気持ちいい」的な作品ではないので爽快感を期待して読むと肩透かしを喰らうと思う。
この世界ではアメリカは戦敗国なので日本や日本人に良い感情を持っていない登場人物もおり、戦争の勝ち負け以前に黄色人種に対する差別意識と白人の優越性がにじみ出ている場面もあるので、読んでいて嫌な気分になる場面もあった。(黄色人種に対する悪感情がその登場人物特有のものなのか作者が抱いているものなのかは分からない)
世界観は作りこまれており、特定の主人公はいない群像劇という形で各々が見た世界の形を描いている。
易経(古代中国の占術)」を行動の指針にしている人がいたり、アメリカの歴史ある工芸品を集めている人がいたり、戦後の不安定な情勢の中で何かに頼りたい・縋りたいと思うのは当然だよなと印象的だった。
一方で何のために登場したのかよく分からん人物もおり、起きる事件にも派手さはないというか割と淡々と進んでいく。
上記したが、抽象的かつ哲学的な描写が多いので理解が及ばない部分もあり、この作者の他の作品も読むつもりでいたのだが他のもこんな感じだとしんどいなあと。
まあ、自分には引っかからなくてよく分かりませんでした的な作品もたまにはあるよなあと思った。
登場人物のひとりにアメリカの伝統美術品・工芸品を日本人の富裕層向けに販売している人がいる。
彼が「アメリカの歴史」「幼いころとの絆」という言葉を用いて、アメリカのことを何も知らんくせに美術品や工芸品の良さが分かってたまるかと日本人に対して憤慨する場面があった。
それはまあ何となく、今の日本とアメリカの関係に置き換えると気持ちは分からんでもないなという感じはする。

恋文の技術

かってに改蔵』のとある話で松たか子は美人だけど、松たか子に似てる女はヤバい」というセリフがあって、妙に印象に残っている。
「ヤバい」というのは良い意味なのか悪い意味なのかは明言されていなかったが、「美人だけど」と言っているあたり良い意味ではないのだろう。
その言葉を借りるなら森見登美彦の文章は面白いけど、森見登美彦に似た文章を書くやつはヤバい」と言いたい。
昔、ある服屋のブログを読んでいたとき、森見さんの作風を明らかに意識した文章を書く店員さんがいた。
「自分はオシャレでありかつこんな軽妙洒脱な文章が書けますよ」という自意識が文字ひとつひとつにまで宿っており、若気の至りでは済まない痛々しさを感じた。
彼のバックボーンに森見さんがいたのかどうかは明かされていないが、森見さんの作品でくらいしか見たことがないような単語(例えば"麦酒"や"おもちろい"など)も使用されており、これはもう決定だろうと。
別にダメってことはない。ただイタいなと思っただけなのだが、本作でも森見さんの文章について「読んでいると若気の至りを思い出す」と表現されているので、彼の森見構文も使いどころとしては間違っていなかったのかもしれない。
本作は京都の大学院から能登半島の実験所に行くことになった主人公が、友人知人を相手に文通を始め「恋文の技術」を確立するまでの話。
主人公の手紙形式で物語が進行していく、森見さん初の書簡体小説となる。
彼には本当に手紙を書きたい人がいるのだが、文通修行という名の現実逃避をしてなかなかその人に手紙を出そうとはしない。
一応書く練習はしており、失敗書簡集の形で物語内で公開されているのだが、自意識と見栄と恋心が顔を出しすぎてどうにも上手く書くことができないのだ。
作品の表題にもあるように「技術」と言ってしまうと下手な詩みたいに「うまいこと言わなくては」という意識が先行するため、納得のいく仕上がりにはならない。
だから主人公のように嘘くさくなったり書いててイライラしたり、混乱したりするわけだ。
「どうでもいいことを楽しく書く」という境地に至った主人公の手紙は、確かに読んでいて楽しかったのでそれを狙って書くなんて小説家ってすごい。
以前は森見さんの新刊は毎回買っていたのだけど、今は有頂天家族の第三部を待つだけとなってしまった。
久しぶりに森見さんの大学生ノリ(これは森見さんが大学生ノリで執筆しているという意味ではなく、"大学生ノリ"について書いているということ)の作品を見て、正直ちょっとそろそろ自分には合わないかなという気がしてきた。
ペンギン・ハイウェイ』とか『熱帯』は大学生が主人公ではないっぽいので、次に読むとしたらそのへんになると思う。

されど人生エロエロ

週刊文春で連載されているエッセイを文庫化したもので、「人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた。」で始まるシリーズ。
本作はその二作目となるが順不同で読んでいるのであまり気にしていない。
巻末に収録されている対談でも触れられていたが、エロに"恥"は必要かどうかは見解の分かれるところだ。
みうらさんは「昭和の人間だからエロには恥ずかしさが欲しい」と言っている。
ぼくもそれには同意だが、たまにはバコバコバスツアーみたいに知性も恥も欠片ほどもないAVを見たくなる。
というか重要なのは作中でも触れられているように"知性"だろう。
"知性"と"エロ"は対局の存在であるからこそ振れ幅に興奮するわけだし、"恥"を感じない様はどことなく馬鹿に見える。
収録されているとある回で昔の洋モノピンク映画の邦題について触れられており、そこで挙げられていた作品が『情欲』『変態白書』『先天性欲情魔』などなど、想像を掻き立てる素晴らしいタイトルだった。
「覚えれば覚えるほど学力は低下する一方だったエロ漢字」とみうらさんは言っているが、何と言うかカタカナや英語の題名よりも「湿ってる」感がするのが良いと思う。
タイの風俗に行った人の話を聞いたことがあるが、「日本の風俗と違って明るくてよかった」と語っていた。
確かに日本のエロには「和室感」があってどことなく後ろ暗さも感じるので、そこはタイの風俗が好きな人のように明け透けなエロが好みである人もいるはずだ。
でもやっぱ、海外のAVのように行為中に変なBGMが流れていたり、歯のスキマから空気が漏れているようなあの喘ぎ声はどうも好きになれん。
文化の違いで片づけるのではなく、アメリカのセックスというかAVがなぜああいう形になったのかは知りたい。
みうらさんに「あれは戦勝国のセックス」と呼ばれていたのには笑ってしまった。

斜陽

読んだこともあるし家にも置いてあったはずだけど、いつの間にかなくなっていたので再度購入した。
たぶん借りパクされたのだと思う。
とはいえ読んだのはかなり前の話なので内容は忘れていたから新鮮な気持ちで読むことができた。
テーマが「滅び」であることはさすがに覚えているので、女二人のままならなくて危なっかしい暮らしは穏やかでありながらネジを一本引き抜けばたちどころに崩壊するような予兆を感じながら読んでいた。
全体的に寂寥感の漂う作品で、母子が家を売り払って引っ越す場面は実家を離れて一人暮らしをするときのことをなぜか思い出した。
『女生徒』『燈籠』『きりぎりす』なんかもそうだが、太宰治の書く女性の告白体小説はどうしてこんなにも魅力的なのだろうか。
主な登場人物は4人いて、身内から「最後の本物の貴族」と呼ばれている母。「恋と革命のために生きる」と豪語する私(かず子)。徴兵されて行方不明になっている弟の直治。直治が憧れており退廃的な生活を送っている小説家の上原。
太宰治は登場人物それぞれに己を託したと言われているが、やはり一番気持ちが入っているのは直治だと思う。
直治は自分自身の弱さと貴族の生まれであることに苦悩しており、民衆の間に混ざろうとしてあえて下品に振る舞うものの彼らが真に自分を受け入れてくれることはないと気が付いていた。
太宰治青森県の大地主の生まれであることや大家族の六男である自分に引け目を感じていたらしい。
家を継ぐのが長男である以上は六男なんて当時はいないもの同然の扱いだったようで、実際に『晩年』に収録の『思い出』なんかでも家族との不和や女中さんとのエピソードが多い。
加えて、生家の地主稼業が周囲の貧しい同級生の家庭にも多くいた労働者階級から搾取することで成り立っている事実にも悩んでいた。
さらに当時の若者の間で流行していた「プロレタリア文学」(労働者の厳しい生活を描いた文学)にも影響を受けたことで、左翼的活動に傾倒していく。
ところが左翼的・共産主義的活動において真っ先に倒されるのは自分たちのようなブルジョア階級であることに気づいた彼は絶望し、薬物中毒になり自殺未遂を繰り返す。
ぼくは正直言って太宰治の文学は「金持ちゆえの贅沢な悩み」だと思っている。
なんぼ流行りの思想か何なのか知らんが金持ちであることに安穏としていればよかったし、金持ちには金持ちにしかできんこともあるだろう。
自身が金持ちの家に生まれたのは親やそのまた親や先祖代々のおかげであって自分自身の功績ではないし、ましてや"罪"なんて大仰なものでもない。
女性と共に何度も心中未遂を繰り返していることからも、それなりにモテる人物であったことだろう。
人間はその立場に応じた悩みがあり、それは異なる立場の人間から理解することは難しい。
それなのにぼくが太宰治に惹かれてしまうのはなぜなのだろうと考えるがいまいち結論が出ていない。
ひとまず、彼の顔がぼくの伯父さんに少し似ているからというのは一因としてある。

2023年3月に読んだ本

本屋へ行く全ての人へ。
本は丁寧に扱おう。
読みたい本があったのでいつもの本屋へ行ったのだが、表紙カバーの上部がへこんで折れ曲がっていたので店員さんに新しいものを出してもらおうと思ったところ、在庫はそれのみとのことだった。
別の本屋では4冊置いてあったが、全てカバーにダメージがあった。
店員さんの扱いが荒かったパターンもあるかもしれないが客に起因する部分も大きいと思うので、本を手に取るときや戻すときは別の誰かが手に取るかもしれない可能性も念頭に置こう。
毎月の読書記録になるが、本を紹介するというよりは自分が読んでどう感じたのかを綴っている部分が大きい。
例によってネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓

ONE PIECE (105)

だから言ったじゃん、ヤマトは仲間にならんって。
ずっと主張してたけどさ。
カイドウの抑止力がなくなったワノ国が海軍あるいは他の海賊からマークされることは必然だから、ヤマトがおでんなら国を守るために残るだろうとは思っていた。
さすがに緑牛クラスが来るとは予想してなかったけど。
ヤマトが単行本読者にも知れたタイミングで、当時ジャンプ+で連載していた『恋するワンピース』の作者が『パウリーが仲間になると思い込んでいる人の話』を描いたのは偶然じゃないと思っている。
105巻は25巻と表紙の構図が同じところも往年のファン心をくすぐるところだ。
しかしONE PIECEはおもしろい。
ここまで続いてるのにまだまだワクワクする展開や設定が出てくるし、大きな章が終わって次の章が始まる間の、実は裏で世界がこんなことになってました回は相変わらずたまらん。
長期連載なのに目立った矛盾がないし、以前の巻を読み返すたびに新たな発見がある。
後付けが多いという意見もあるけれど、仮にあったとしてもどれが後付けか分からない時点で構成は巧みであるとしか言えない。
ルフィの夢が一味に明かされたシーンにカリブーがいた事実は後々効いてきそう。(タルの中にいたからよく聞こえなかった可能性もあるが)
また、黒ひげが新型パシフィスタと戦った際に発した「こいつでけェ」という一言が気になる。
順当に考えれば覇気のことだと思うが、黒ひげの身体の秘密に関連して彼しか感じ取れない何かなのではないかとも予想される。

虎鶫 とらつぐみ -TSUGUMI PROJECT- (6)

核戦争で荒廃した日本に眠るという秘密兵器を見つけるため、某国から送り込まれた無実の死刑囚である主人公が見たものは異形の生命体が闊歩する土地だった――。
なんかフランスの漫画出版社が手掛けてるらしくて、こないだまでジャンプ+で連載されていた『リバイアサン』も同じところの作品だった。
二作品に共通することで文化の違いなのか何なのか知らんけど、たまに吹き出しの文字を左から右に読ませるのだけ気になるんで勘弁してほしい。
なんやかんや問題がありつつも受け入れられてきたつぐみが、ここにきて爆弾になりだした。
生きるか死ぬかのサバイバルにおいて主人公よりも強いつぐみの存在は何よりの武器だったし、ひとりで暮らしてきたがゆえの社会性のなさからくる非常識さも、殺伐とした世界では”無邪気”や”天真爛漫”と捉えられてある種の癒しとして受け取られることもあった。(実際、この漫画のレビューを見ていると「つぐみちゃんかわいい」というものが多い)
ところが同行者が増えれば彼女に対してよくない感情を持つ人も出てくるわけで、つぐみに対する新規メンバーのフラストレーションが溜まっている感じはするとは思っていた。
レオーネにとってつぐみは命の恩人だから多目に見ている感はあるし、つぐみはレオーネに依存しているので、この関係性がよくない方向に作用しやしないかと心配している。
たまに至っては殺されかけているのにギャグ的な描写で終わらせるのはよくない。
ストーリーが最終局面に近づきつつあり、つぐみが物語のキーパーソンであることが明らかになった以上、変につぐみを犠牲にして溜まったヘイトを開放するみたいな雑なことはやめてほしいと思っているがこの作者さんはたぶん大丈夫だろう。
日本列島から人間はいなくなってしまったが、異形の生命体たちは彼らなりに秩序や文明を保ちつつ暮らしている。
個の存在って曖昧なもので、つぐみは確かに強いしその無茶苦茶さが事態を好転させることもあるけれど、秩序ある集団の中で暮らしていく以上は腕っぷしが強いだけの個体は不適合とみなされてしまう。
ONE PIECEでガン・フォールが「戦争時の英雄も生きる時代を間違えれば人殺しになる」と言っていたことがあるが、適材適所と自分を納得させて集団に馴染むか、孤高の存在として生きていくか。
絵に躍動感があって動きが分かりやすいし、ヒロアカの堀越先生曰く「気温や湿度までもペンで描かれている」とのこと。
たぶんこれアニメ化すると思うから勝ち馬に乗って「わしが育てた」顔をしたい人は今からでも読もう。

鍋に弾丸を受けながら (3)

「日本のように安全な国では70点から90点のものがどこでも食える、でも危険とされるところ、グルメなどでは絶対に赴かないようなエリアだと20点か5万点のものが食える」という信条を持つ作者が、世界の危険地帯でグルメを食べるほぼノンフィクション旅グルメ漫画
毎回紹介される5万点グルメは本当においしそうなだけでなく、それが成立した背景を紹介したり作った人たちの気持ちに思いを巡らせていたりと素晴らしい。
今回は20点のグルメが紹介されている回も収録されており、5万点グルメ同様に聞いたことのないものばかりで毎回読むのが楽しい漫画だ。
連載も追いつつ漫画を購入しているのはジャンプ系以外だとこれのみである。(ONE PIECEは単行本派なので本誌では読んでいない)
食べ物ばかりでなく現地の人々にもきっちりフォーカスを当てている作品で、毎回の読後感も爽やかだ。
今回は「人種差別」について解説している回がある。
アメリカ国内では差別はよくないという認識は共有されているが、それでもやるやつはいる」らしい。
「セクハラやパワハラと同じようなもの」で、「あいつは差別されても仕方ない」「女(男)はこういうとこダメだよね」などと仲間内で盛り上がっている場面を想像してもらえれば分かりやすいそうだ。
そしてまた、手軽に買える拳銃を持っており、それを相手も持っているだろうという事実が、人間の残酷性を助長しているのではないかと。
日本でも差別はあるものの、外国と比べて実際に危害を加えられたりましてや命の危機に晒されるようなことは少ない。
差別はよくないという認識がいくら共有されているとはいえ彼らの黄色人種に対する絶対に人間扱いしないという意志や、コロナ禍で相次いだアジア人へのヘイトクライムを見ているとやっぱり海外に行きたいとは思わない。
作者さんが出会った海外の人々は親切な人ばかりのようで、それを否定する気もないしそうした人たちが多数派であると信じたいところではあるので、自分としてはこうした人づての話で海外について知るくらいで十分だ。
3巻の最後ではコロナ禍が落ち着いてきたことから海外旅行を再開する描写があり、3月10日更新の最新話ではついに外国に降り立っている。
今後は新鮮な思い出を投下してくれそうなので楽しみだ。

私の文学史: なぜ俺はこんな人間になったのか?

町田康さんの初となる自分語り本。
今までもエッセイとかはあったが、自分が影響を受けたものや文学的背景を語るのは初めてなのだそうだ。
よく知ってる町田さんの文章とは違うなと思って読んでいたが、書き下ろしではなくて講座でしゃべった内容を本にまとめたものとのこと。
他の作品でもそうだが、町田さんはぼんやりとした概念を説明するのがうまく、かつそれにあてはまる言葉を考え出すのが巧みだ。
今回も、「わからんけどわかる」「オートマチックな言葉」など、ああそういうのあるよねという現象や感情にバシッとはまる名前をつけていて使いたくなる。
ぼくは町田さんのバンド時代は全く知らないのだが、音楽性が二転三転していたり、従来のロックとは違った魅せ方をしていたりしたとは聞いたことがあった。
本作を読んで、それは迷走ではなくて町田さんなりに「好き」ということに懐疑的になり続けた結果なのだと思った。
町田さんは本書において「自分の感覚がどれだけ研ぎ澄まされているかは常に己に問うていないと」「自分がカッコええと思ってるもんをもう少し疑ったほうがいい」と発言している。
例えば、町田さんの青春期には西洋のものは高尚で国内のものは卑俗であるという雰囲気が世間にあったそうだ。(現代においても、特定のジャンルにおいては海外のものを無条件に良いものとする風潮はあると思う)
他にも、当時は情報を得る手段が少なかったことからレコードをいわゆる「ジャケ買い」することも多かったようだが、必ずしもそれが自分にはまる音楽ではないこともあったとのこと。
だけど高いお金を出しているから意地で聞いているうちにだんだん好ましく感じて、英語で何を言ってるかも分からないのにいいこと言ってるに違いないと思っていたらしい。
そうした世間の風潮や、長く接したり何度も接触してきたからこその思い込みからカッコいいと感じているものはよくよく考えてみればあることだろう。
また、いろんな音楽を聴くけど最終的にロックが好きという人と、ロックしか聞いたことないけどロックが好きという人とでは、どちらが音楽の幅が広くて説得力があるかは明らかだろう。
自分が「好き」だと思っているものを続けるのは簡単だけど、それは思考停止になっていないか、また「好き」の理由を深堀りしてみると上記のように単なる思い込みに起因していることがあり得るからこそ、自分のセンスを疑い続けろと町田さんは言っているのだろう。
別のくだりだが、「熱狂から離れてみる」と説明している回があって、それは世間の熱狂(流行っているもの)と距離を置いてみるという話なのだが、時には自分自身から距離を取るのも大切なことなのかもしれない。
話し言葉を書き起こしたものなので感覚的に説明している内容も多く、難しくて同じ箇所を何回も読み直した。
だけどこの本は何回も読み直したくなる。

コーヒーと恋愛

人を好きになるのもコーヒーの味も雰囲気だよなあと思った。
タイトルにもある通りこの作品はコーヒーが大きなテーマになってくる。
コーヒーをどこで飲むか、どんな気分のときに飲むか、誰が淹れるか、値段はいくらかなどなど、単純に豆の良し悪しや技量の問題でなく己のコンディションやコーヒー周りの様々な要素を事前に知ってるかにもよる。
某ラーメン漫画で言われている「情報を食ってる」というのはその通りだ。
本作にはコーヒー好きの集団「可否会」が登場する。
コーヒーには一家言ある集まりではあるが、会員のひとりがもったいぶって淹れたコーヒーがインスタントであることを見抜けず、しかも中の上というそこそこの評価を下していた。
主人公のモエ子は40代の女優であり、可否会の会員であるもののコーヒーに強いこだわりがあるわけではない。
ただ、コーヒーを淹れることに関しては天下一品で、その腕前で会員の一席に座っているほどだ。
モエ子はヨリを戻そうと言い寄ってきた元旦那や、求婚してきた可否会の会長が決定的な愛の言葉を言ってくれなかったことのみならず、自分のコーヒーの味のみを褒めることにやきもきし、最終的に「みんなあたしのコーヒーだけが目当てなのか」と嫌気が差してひとりで海外に留学に行ってしまう。
彼女はちゃきちゃきしているように見えて弱気で人の目を気にするタイプなので、コーヒーの味のように雰囲気に左右されるような不確かな評価ではなく、自分じゃなきゃダメだという確かな言葉が欲しかったのだと思う。
ただ、この作品は1962年から1963年にかけて連載されていた作品なので、もしかしたら時代的に男がべらべらと喋るのはみっともないという風潮があったのかもしれない。
別にモエ子に限ったことじゃなくて、恋人や結婚相手を判断するのに確かな言葉や自分なりの基準がないと不安な人はいるだろう。(年齢・身長・年収などなど)
こないだもコーヒー屋さんでマスターとお話していたのだが、マスターが最近行ったお店は店員さんと会話しながら豆を選び、自分好みのブレンドを作ってその場で飲めるのがウリらしい。
ところが諸々の料金が重なって最終的にはコーヒー一杯で1800円だったのだそうだ。
目の前でブレンドしてくれること、お洒落な空間であること、コーヒーにしては強気な価格設定であることなど様々な要素を加味して、半ば強制的においしいのだろうと納得しなければ元が取れない。
先ほどのインスタントコーヒーの例にも通じるけど、じゃあその1800円のコーヒーと同じものを自宅や幹線道路沿いにある大型のブックオフで飲んだら同じような味に感じられるかということだ。
作者の獅子文六さんについては恥ずかしながら知らなかったのだが、小説家としてではなく演出家として演劇の分野でも活躍していたらしい。
NHKの朝ドラで映像化された著作もあるようで、本作も一本のドラマを見ているかのように個性豊かな人物がドタバタ劇(死語かもしれない)を繰り広げる愉快な作品だった。

瘋癲老人日記

みうらじゅんさんのエッセイ『ラブノーマル白書』の巻末に収録されていた週刊文春編集局長との対談で、みうらさんのエッセイを『瘋癲老人日記』に例える一幕があり、確かになあと思うと同時に読んだことがなかったので買ってみた。
同作者の『鍵』と並んで老人性欲を描いた作品で、新潮文庫版だと二作品が同時に収録されたバージョンで発売されている。(ちなみに『鍵』の夫は56歳、『瘋癲老人日記』は77歳)
ぼくはそれぞれの作品を単品で読みたかったし、棟方志功の版画が表紙や作中に挿入されている装丁が好みだったので中公文庫版を購入した。
老人の性について見聞きすると、リリー・フランキーさんの『誰も知らない名言集』に登場した『ナメ専親方』を思い出す。
親方は男性としては不能なのだが性欲は旺盛で、デリヘルを読んでは読んで字の如くただ舐めまくる人なのだそうだ。
本人曰く「ナメ専になってからのほうが性行為に奥行きが増した」とのこと。
当時はまだ若かったのでインポの心配はなかったし、周囲に老いてなお盛んな人もいなかったのでそういう人もいるんだな面白いなくらいにしか思っていなかった。
現在もおかげさまで(当時ほどの勢いはないかもしれないが)インポの疑いはないものの、いずれ来る不能の季節をどう受け止めるかはたまに考えたりする。
『瘋癲老人日記』の主人公・卯木督助も性欲冷めやらぬ老人で、タイツは気に食わんので生足に限るとか、同性同士でのセックス経験を暴露するなど冒頭から飛ばしていた。
彼は周囲が年寄りに抱いている、「もう女性に対して性欲はないだろう」「女性に好かれようとは思っていないだろう」という気持ちを利用し、無害な年寄りであることをいいことに美女の傍にいてあわよくば性癖を遂げようと思っているスケベ老人だ。
欲求に駆られて衝動的な行為に走るのではなく、周りからどう見られているかを分析した上でギリギリの立ち回りを演じるあたり、大人の男性のずる賢さが出ている。
性の対象は息子の嫁の颯子で、督助の欲求に気付いている節はあるものの気づかぬ振りをしたり思わせぶりな態度を取ったりしている。
結局、男性の性的快感は射精に占める割合が大きいので、勃起しなくなった時点で男としては終わりと考える人は多いと思う。
ところがナメ専親方しかり卯木督助しかり、そうなったらなったで別の方向性を模索して女体と関わることを止めない探究心は恐るべきものがある。
ジャニーさんの過去の性加害が問題になっているけど、自身が勃つか勃たないかが問題ではない人もいるのだ。
作中で督助が披露した性癖は恐らく作者本人のものだろう。
また、ヒロインの颯子にはモデルとなった人物がおり、彼女との往復書簡をまとめた書籍も出ている。
なので書いているときは楽しかっただろうなあというのが伝わってくる内容である。
『鍵』も本作も面白くて人に勧めたいのだが、前者は本編の半分、後者は9割がカタカナ書きで書かれているためちょっと読みづらい。
谷崎潤一郎作品が全てカタカナ書きというわけではなく、年配者の日記形式で物語が進んでいくので古い文体で進行しているのだと思われる。
オーディオブックって今まで何の興味もなかったけど、現代の文体とちょっと異なる作品に接するときにはいいかもしれないと思った。

男気の作法 ブロンソンならこう言うね。

かつて一世を風靡したアクション俳優『チャールズ・ブロンソン
みうらじゅん田口トモロヲ両名がお互いの悩みにブロンソンに成りきって回答するという、雑誌のコーナーを書籍化したもの。
みうらさんの著書に何度か名前が挙がるブロンソンであるが、世代ではないので全く知らないし顔を見てもピンとこなかった。
ぼくが知っているブロンソン北斗の拳の原作担当である武論尊と、ジャガーに出てきたエビのブロンソン(その日の晩御飯に出てきた)やつのみである。
ふたりともブロンソン本人には会ったことがないようだが作品の読み込みっぷりや彼へのリスペクトは半端ないので、ブロンソンに成りきっているというよりは自分の中のブロンソン像で質問に答えていると感じた。(実際に「人の威を借りて悩みに答えている」と明言している)
しかし、こんなにオンリーワンの人たちでも自分が揺らぐようなことがあるんだなと思った。
みうらさんが田口ブロンソンに悩みを相談する回で、「我が道を歩くという境地に達したい」「立派にプロ仕事をして世界的評価を受けている友人を羨ましく思うこともある」と言っている。
確かにみうらさんはいろんなことをやっていて(一人電通)、みうらさんのことは知ってるけど何をやっているか分からないという人もいるだろう。
だけどそんな仕事っぷりなのにそのオリジナリティたるや他の追随を許さない。(タモリ倶楽部では「日本一不要不急な男」と紹介されていたが、そんな称号が似合う人間が他にいるだろうか)
みうらブロンソン回答回で「棺桶のギリギリまで好きなものの名前を覚えていられることが浄土に向けてのマイ念仏になる」「時代に流されっぱなしでひとつも好きなことが残らなかった亡者は永遠に責め苦が続くもの」なんて言ってるけど、好きなことと自分自身を突き詰めてきた人間でないとたどり着けない答えだ。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

タイトルに惹かれて購入した一冊。
著者曰くジャンルは「自然哲学」になるらしい。
データに基づいた結果をあれこれ分析して結論を出す内容というよりは、実際に人から聞いた内容や著者自身の知識から日本人の精神性の変化を論じている。
そもそも「キツネにだまされる」ということが科学的な論証の彼方にあることなので、このテーマに論証性を持たせようとすると本が成り立たないと著者は述べている。
日本人の精神が変化した原因としては5つくらいの理由が挙げられているが、やはりというか敗戦から高度成長期を経た日本人が経済を優先する思考になっていったのは大きかったようだ。
太平洋戦争開戦時、日本の資源も物資の生産能力もアメリカには遠く及ばなかったのだが、日本の軍部が彼我の圧倒的不利を埋める理由として掲げたのが日本や日本人の優れた精神性だったらしい。
日本は神の国であること、日本人は器用なので優れた兵器を造り出せることなどが喧伝され、日本の不利を補うに足るものであったと。
結果として日本の「大和魂」は敗北をするわけだが、それをきっかけとして科学技術の発達や経済的成長を日本人が求めるようになり、一方で科学的には説明のできないことを軽視する風潮になっていったそうだ。
この本を読んでいるときにたまたまガンダム0083を見ていて、ガンダム試作二号機を奪取したデラーズ・フリートが地球連邦政府に対して宣戦布告を行う回だった。
何でもかんでも旧日本軍に例えるのは左翼っぽくて好きではないのだけど、デラーズの演説もかなり思想的なもの(武士道的な)が入っているなあと感じた。
物量差にも屈せず戦い抜いたジオンの雄姿、3年もの間雪辱を果たす機会を待っていたこと、連邦政府の腐敗っぷり、そしてスペースノイド自治権という大義名分。
味方を鼓舞するためには「お前らはこんなにすごいんだよ」と激励することは効果的だけど、発言の中身が具体性に欠けるとマルチ商法に通じるものがあって大丈夫かなと思ってしまう。(別にデラーズ・フリートが嫌いなわけではない)
逆に日本が第二次世界大戦で勝利していたらどんな世界線だったのだろうと考えたりするが、そういえば積んである本の中にそんな話があったので来月の読書記録の際に紹介する。

マッチングアプリの男と女とこれからのヤングへ

最近は読書日記みたいになっているけど、ちょっと印象的な出来事があったので久しぶりに書く。
ぼくは、マッチングアプリには変な男しかいない」と言う女性は架空の生き物なのだと思っていた。
そんな女性の話を聞くたびにイラっとするものの、だけど本当は存在しないのだと。
「変な男しかいない」と言った時点でその発言がブーメランとなって自分に返ってくるだけなのだから、冷静に考えてそんな自分のことを棚の上の上に置いたおこがましい発言、良識のある人なら言うわけないだろうと。

ーーーーー

先日の月曜日は有休を使って休みにしたので、あちこちをふらふらした帰りにいつも行っているコーヒー屋さんに行った。
そこは分かりづらいところにある上に、営業しているかしていないのか判断がしづらく入りにくいので休日でもあまりお客さんが来ないのだが、そのため静かな空間でゆっくりすることができる。
平日のしかも閉店一時間前であれば尚更人は来ないだろうと高を括っていたのだが、ぼくが入店してしばらくして女性の二人組がやってきた。
正直、入ってきた時点で嫌な予感はしていたのだが、片割れの女性がとにかく声が大きくて非常に閉口した。
そのお店は全部で6席ほどしかないこじんまりとした店内な上、店主さんが物静かでBGMも控えめなので大体のお客さんは声のボリュームを落として会話をするのだが、その片割れの女性は音量調整機能が壊れているのか単に頭が悪いのか、デカい声で喋ったり爆笑したり、とにかくわんぱくである。
連れの女性もそれに釣られたのか徐々に声のボリュームが大きくなり、ぼくの憩いの空間はあっという間に台無しになった。
コンパクトな店内である上に声の音量調整機能がバグっているため二人組の会話は筒抜けで、ジムに行ってるけど成果が出ないとか、ダイエットのいいサプリがあるとか、実家の母親のご飯の文句とか、カスみたいな話ばかりしていた。
(実家暮らしの男性を敬遠したり、「子供部屋おじさん」と言うのはOKだが、実家暮らしの女性を「子供部屋おばさん」と呼ぶのは差別なのでNGらしい)
こういうとき、店を出てしまったら負けだと変に意地を張って長居しても精神衛生的に何も良いことはないので、ストレスの原因を取り除く意味でもさっさと退店してまたの機会に来ればいい。
二人組の女性の不幸を祈りつつ帰る準備をしていると、例の「マッチングアプリには変な男しかいない」が聞こえてきたので、これはぜひ拝聴させてもらおうと思い、浮かせた腰を落ち着けて兜の緒を締め直した。

ーーーーー

人間誰しもが聖人ではないので、愚痴のひとつも言いたくなるときだってあろう。
自分のことを棚に上げていると分かっていても、吐き出したいものがある。
話を聞いてみれば、同性の目から見ても確かにそれはロクでもない男であると言わざるを得ないこともある。
それを踏まえて彼女(実家暮らしのほう)のマッチングアプリ体験談を聞いていた、というか耳に入ってきたのだが、彼女が出会った変な男はこういうことのようだ。
(ちなみに実家暮らしの女と声のデカい女は別)
まず、職業が「公務員」の男性と出会ったそうだ。
メッセージのやり取りをしていたとき、彼女は「公務員って言っても色々いるから具体的にはどんな仕事をしているのか聞きたかった」らしい。
そこで相手に「何の仕事をしてるんですか?」と聞いたところ、「公務員です」と返ってきたそうだ。
そして男性も彼女に仕事を聞いてきたらしいのだが、まずそれが不満だったらしい。
曰く、「自分の仕事も明かさないのにこっちの具体的な仕事を聞いてくることは”普通は”おかしい」とのこと。
もう本当にホラーだと思った。
会ったこともない相手の会話の裏を読み取って思った通りの返答ができないと、「変な人」とされてしまうなんて緊張感が半端ない。
共有していない”普通”を押し付け、相手に全ての責任があるかのように振る舞うのはコミュニケーションとは言えない。
彼女の質問の意図は分かる、公務員と言っても役所で働いている人から警察官や消防士など様々である。
だったら、「公務員って具体的にはどんなお仕事なんですか?」とでも聞けばいいわけだ。
関係性が築けていない相手へ伝える努力もせず、自分の頭の中で勝手に思い描いていた会話のフローチャートから少しでも外れるともう減点対象になるなんてこの人は貴族かなんかだろうか。

ーーーーー

そしてまた別の男性の話。
その人ともメッセージをやりとりしていて、あるご飯屋さんの話になったそうだ。
そのお店は彼女が知っているものの行ったことのないお店だったようで、彼女としてはその男性と行ってもいいかなという気分だったらしい。
なので「私その店知ってますよ」と返答したらしいのだが、色よい返事がなかったことが彼女はご不満だったらしい。
曰く、「”普通なら”こっちがそう言ったら誘ってくるでしょ」とのことだ。
女性に聞きたいんだが、みんながみんなここまで察してちゃんで会話に対してのハードルが高いもんなのだろうか。
ぼくの友人たちは大体が結婚しているのだが、男友達は奥さんが求めるバカ高いハードルを乗り越えたのならなんてデキるやつなんだと見直さざるを得ない。
女友達は男にここまでの高いハードルを設定しておきながら、それに見合った相手を見つけることができたのならなんてスゴいやつだと認識を改めざるを得ない。

ーーーーー

なんかもう、彼女らの話を聞きながら日本の行く末に思いを馳せてしまった。
こんな手前勝手なことを思っている女性ばかりではないことは承知している。
だけど、歩きたばこしかり、回転寿司ペロペロしかり、アホというのは悲しいかな目立ってしまうので、こんな自己中心的な意見ほど印象に残ってしまう。
少し前に話題になった『女性は美容やファッションにお金がかかっているから食事は男性が奢れ論争』を思い出した。
こんな意見が目立ち、少なからず共感する人が現れ、話題になってしまうようでは若い人がめんどくさくて恋愛したがらんのも頷ける。
男性は女性と食事をする際、スムーズにお店を決め、スマートにエスコートをし、ウィットに富んだ会話をして楽しませ、サッとお会計を済ませなければならないし、ひとつでも選択を間違えればナシ認定の烙印を押されてしまうのだ。
一応言っておくと、これらは全てぼくが自分の耳で聞いた話で作り話ではない。
架空の女性を創造してまで女叩きをする趣味などない。
店内の環境や向こうの声のボリュームなどの諸条件が重なったことで、「門前の小僧習わぬ経を読む」状態になったのだ。(使い方は間違っているが)

ーーーーー

男性も女性も各々生きていれば苦労もあるだろうけど、正直言って、出会いに関して言えば遥かに女性が恵まれていると思う。
だけどそのことを自覚していない女性は多い。
女性の「いい人いない」は『自販機に欲しい飲み物が売っていない状態』、男性の「いい人いない」は『砂漠で飲み物がない状態』とはよく言ったものだ。
恋愛に苦労しているような男性は女性の眼中にも入らず、認識すらしてもらえないのだから彼らの心中を慮ることなどできないだろう。
話を横で聞いていた限り、件の女性は割と何人かとメッセージのやり取りをしたり実際に会ったりしたようだ。
あんな自分勝手な思考しかできない女性でもマッチングまでこぎつけられるのだから、性別による差は本当に大きいと感じる。
(顔面のことについて触れるのはフェアではない気がするのでやめておくがまあお察しである)
ぼくは、ああいうブスほどマッチングアプリをやったほうがいいのではと最近思う。
とにかく大量のアプローチがあると聞くし、自分がまだ選べる立場にあると錯覚させられることで自己肯定感が爆上がりするからだ。
上がった自己肯定感をプラスに使って、自分が女性だからここまでのボーナスがあるのだと気が付いて謙虚になり、相手に感謝の気持ちを抱くことができるようになれば素敵なことだ。
まあ大体の人はぼくが今回出会った女性のように勘違いし、減点方式でしか人を判断できないモンスターになってしまうわけだが。
男性は女性に比べてセックスに対するリスクやハードルが低いから、別に好きでもない相手とも関係を結べる人が多い。
だから、世間では二軍三軍の女性にも、マッチングアプリという狩場においては一軍の男性からアプローチがある。
ところがまあそれは所謂「穴モテ」というやつなので相手に愛情はないのだが、普段は拝むことのない一軍男性のチンコを見たという自信は二軍三軍の女性を変にこじらせる。
件の女性がエリートのチンコとお突き合いをした経験があるかどうかは知らないが、まあまあ年齢がいっているように見えたのにも関わらずああも幼稚で攻撃的かつ他責志向であれば、真実に目覚めるよりはあのまま生きていったほうが本人のためだと思う。

ーーーーー

人は一人では生きていけないとよく言うが、それは死生観とかの話ではなくて価値観が偏らないようにするためにも大切なことだと思う。
若い人が恋愛・結婚をしたがらない原因はいろいろあるだろうが、SNSに蔓延っている極端な意見を鵜呑みにして自分の人生を決めるのはやめたほうがいい。
SNSの隆盛によって今まで日の目を見なかったマイノリティの意見が目立つようになった。
もちろん、マイノリティだからといって無視していい理由にはならないが、中には目立ちたいがためにあえて過激なことを言うやつや、ただのバカも存在する。
それらの意見に同調する人も多数いるかもしれないが、それが決してその属性の総意ではないことは踏まえておくべきだ。
『男がおごるべき論争』もそうだが、あれに同調した人がいるからと言って全ての女性がおごりを望んでいるわけではないし、全ての男性がおごるべきと思っているわけではない。
SNSには「夫が家事をしない」「妻が浮気している」「育児しんどい」などの体験談やそれを元にした漫画などが溢れている。
本気で問題提起をしようとするパターンもあれば、極端なことを言ってバズりたいやつ、創作で特定の属性を叩きたいやつなどいろいろ存在する。
謙虚が美徳とされる日本では大っぴらに幸せアピールをすることはみっともないとされたり、余計な嫉妬を招いたりしがちなのだが、日々忙しくしながらも楽しく愉快に暮らしている家庭も存在するわけだ。
いろんな価値観と接することで、自分が普段接している考え方や、話題になっている意見だけが正しいわけではないと理解できる。
過激なことを言っている人って、見てるだけでもこっちが消耗してしんどくなるから興味本位でも見にいくのはやめよう。
ああいう人らは一生すみっこから世間に呪いを吐いて生きていけばいいのだ。
怖いもの見たさ・クサいもの嗅ぎたさの気持ちも理解できるけど、あんまり頻繁にうんこの匂いを嗅ぎに行ってるといつの間にか自分にも匂いが移っているかもだから気を付けよう。
あと、こないだの女どもに言いたいけど、店内で喋るなとは言わんがデカい声で話したいのならそれなりに広い店とか賑やかな店に行け、本当にうるさいから。
”普通は”それなりの気遣いを備えているものでは。

2023年2月に読んだ本

2月は忙しかったけど作品との相性もあったのか割といろいろ読めてよかった。
2月の末あたりからdアニメストアで怒涛のように古いロボットアニメの配信が始まったので、可処分時間の配分が難しいところではある。
例によって作品のネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓

スノウボールアース (5)

人類に害を為す怪獣を宇宙の果てで討伐して地球に帰った主人公が見たものは、氷河期を迎えていた地球だったという漫画。
続きが気になる漫画の上位にくるこちら。
首を長くして新刊を待っていた。
ロボット、SFという好きな要素に加えて先が読めそうで読めない展開がたまらない。
地球文明が崩壊してしまって人類が強者ではないのに、登場している人たちはみんな明るく強かに生きてて騒がしいのもよい。
二巻で早々に人類vs人類になって何だかなあと思ったけど、主義主張も生まれも育ちも違う人間がぶつかり合ってお互いを知り、手を取り合ってひとつの方向へ進む展開はやっぱ熱いわけだ。
ガンダムエヴァもそうだったけど、自分の殻の中で生きてきた主人公が多様な価値観に触れて、他人を認めてそして自分のことも肯定できるようになる”存在の確立”ともいえる(人によっては青臭いと感じる)テーマが大好きである。
人類の命運を託されたが故(もしくは人と隔絶した力を持ってしまったが故)の葛藤や疎外感、一方で何の力もないのに大切なもののために命をかけられる一般人が登場する作品はいろんなところに感情移入できて楽しい。
鉄男は「ユキオに乗っていない自分には誰も興味がない」と言っていたけど、ユキオに乗っていなくても誰かのために動ける人間だ。
周囲の人間とも徐々に交流できるようになって親代わりの存在でもあるユキオは嬉しくもあり寂しくもあったところに、自分のシステムが破損しつつあるという事実を知る。(ハードではなくシステム周りが壊れていくという展開はなるほどと思った)
自分はもう鉄男にとって不要なのではないかという焦りが二人の間に不協和音をもたらすわけだが、ユキオはロボットでありながら決して完璧な存在ではないので、彼もまた鉄男と一緒に成長していく余地がある。
故障したって戦えなくなったって鉄男にはユキオがかけがえのない存在なわけだし、逆もまたしかりだ。
これから鉄男はユキオに依存しない”自分自身”を認めていくと思うのだが、彼だけでなくユキオも自分のことを肯定してあげてほしい。
「いてくれるだけで十分」って言われても自信がないとなかなか受け入れられないし、「相手の役に立ててるかな」とか変に気負って空回りしてしまうこともある。
若いうちは分からんかもしれんけど、いてくれるだけでありがたい存在というのは確実にいるのだ。

新世界より (上・中・下)

読了後、人類は滅亡した方がいいと思った作品。
調子に乗った人類の愚かさと傲慢さを味わうことができた。
なんか不穏な空気を醸してるけど、最終的には「いろいろ大変だけどまあがんばっていこうや」的に終わるだろうと途中までは思っていた。
ところが結末まで読むととにかく胸糞が悪くなって重たい気分になる。
”呪力”と呼ばれる力を文明の中心に据えている未来の日本が舞台となった作品。
ジャンルとしてはSFになるけど、子供たちが世界の真実に触れていく流れはミステリーの要素も含んでいる。
ぼくは野心も向上心もないのでこの作品みたいなディストピア世界ってそんなに悪くないんじゃって思っていた。
PSYCHO-PASS』のシビュラシステムみたいに秩序を乱すやつを自動で排除してくれるなんて最高じゃん。
歩きタバコ煽り運転も回転寿司ぺろぺろもなくなるわけだから、その他大勢の善良な人々にとっては暮らしやすいことこの上ない。(自分が排除される側ではないという保証はないわけだが)
でもこの作品の世界は裏に隠されているものが汚すぎるし人類の業が深すぎる。
作中では人類が持っている”呪力”について、「宇宙の根源に迫る神の力」などと言われていた。
「長い進化を経た末に、ようやく、この高みに達した」とも述べられているが、己を神に等しいとする思い上がりが甚だしい。
仮に神が人類に呪力を授けたとしてそれは神が人類のことを認めたわけではなく、分不相応な力を与えたときの反応を見て楽しもうと考えたに違いない。
この作品はアニメ化や漫画化もされており、どちらも未見なのだが実は作品についてのネタバレを喰らったことがある。
なのでまあ「これがネタバレのあれか」と思って読んでいたのだが、実はそっちではなくあっちだったのには驚いた。
上中下巻でどの巻もなかなかの分厚さなため、2月いっぱいじっくり読んでいくかと思っていたが面白すぎて2週間くらいで読み終えてしまった。
興味が出てきたのでアニメも見てみる予定。
ところで漫画版の表紙だけ見たがおっぱいでかすぎやせんか。
そういうのじゃないと思う。

メランコリック・サマー

週刊文春で連載されているエッセイを文庫化したもので、「人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた。」で始まるシリーズ。
今のところ刊行されている分ではこれが最新刊となるが、順不同で読んでいるのであまり気にしていない。
ちなみに最新刊は3月に出る。
今回は幼稚園に子供を迎えに行った話や、自分のいびきに家庭内から苦情が来ているなど、みうらさんの家族関係を匂わせる描写が多めだった。
そういえばみうらさんのプライベートって全く知らんなと思っていたので軽く調べてみたが、割とだらしない下半身をしていた。
現在の奥さんは元々不倫相手で、相手の妊娠が発覚したことから前妻とは離婚したのだそうだ。
その後は籍を入れずに同居していたのだが、第2子の妊娠をきっかけに入籍したらしい。
本エッセイではテーマ上女性絡みのエピソードが多いのだが、みうらさん曰くマイナスに盛って書いている部分や友人知人の体験を自分のことのように書いているものもあるそう。(本人曰く「あえてエロの汚名を着ている」)
童貞をこじらせて青春ノイローゼになったと様々な著作で本人は述べているが、こじらせた童貞を取り戻すかのように奔放に恋愛を楽しんでしまった結果だろう。
本作にはシルバー料金で映画『花束みたいな恋をした』を見に行った話が収録されているが、その回での記述は上記の事実を踏まえて読むと印象に残る。

随分、思いやりに欠ける人生を送ってきた僕が、かつて同じ花を見て美しいと言ってくれた優しい人に今更、泣きを入れた涙だったように思う。

新撰組血風録

司馬遼太郎の幕末物は大体読んだと思っていたのだが、有名どころであるこちらはなぜか未読だった。
(よく考えたら『花神』も『世に棲む日日』も『峠』も『十一番目の志士』も読んでなかったので大体読んだと思っていたのは嘘だったようだ)
るろ剣でも元新選組が主題の回があったことだし、久しぶりに幕末を舞台にした作品でも読もうかなと思ったのだ。
坂本龍馬が歴史の教科書から消えかけたとか他の歴史小説でも彼独自の解釈が問題になったとかいわゆる「司馬史観」が見直されてきている昨今。(調べてみると面白いので興味のある人は適当に検索してみてほしい)
正直、ぼくとしては彼の史観はどうでもよくて物語として楽しめればそれでいいと思っているが、誤った解釈から風評被害を受けた実在の人物の子孫からすればたまったものではないだろう。
それでまあ、今回久しぶりに司馬遼太郎の作品を読んでみたのだが、なんかこう物語としての没入感が薄いなと感じた。
司馬作品を読んだことのある人は分かると思うが、物語だと思って読んでいるとちょいちょい本人が登場してくる。
せっかく話を楽しんでいても、ひょっこり顔を出す彼の自我が読者を現実に引き戻す。
本人の所感や取材記などが話の最中に突然登場することは珍しくなく、確か「竜馬がゆく」だったと思うが、物語の進行をぶった切って取材時の出来事を挟んでくることもあった。
今作では「○○については後で述べる」「■■については主題ではないから触れない」のような明らかに物語本編には必要のない記述が多く、その度に「これはいらんだろ」と熱が冷めるのを感じた。
会津藩大砲奉行の●●の話から派生して)「余談だが、会津藩●●家の隣には確か藩の若年寄の▲▲家があるという話を聞いた記憶がある。当時の▲▲家の当主は現在のソニーの▲▲氏の曽祖父にあたるはずだ。」って情報、いる?余談レベルの話ならいらんくない?
幕末の京都の話の最中にどうしてソニーの話題になるのかが理解できない。
物語であることをいったん忘れて司馬遼太郎が調べた幕末史研究として読もうにも、司馬史観に疑問が残る今となっては純粋な気持ちで楽しめない。
ぼくは読んだ本の内容の8割は覚えていないので、既に読んだ司馬作品も同様に作者が顔を出すタイプだったかどうかは忘れた。
昔は気にならなかったのに、今はやけに作者の主張が目に付くようになってしまった。
とりあえず上に挙げた未読の作品については読んでみるつもりなので、また感想は書く。
司馬遼太郎が描いた歴史と史実との差異について書いた書籍だと、一坂太郎『司馬遼太郎が書かなかった幕末』なんかは分かりやすくておススメ。
人物の名前とか幕末の用語や勢力関係などを覚えることができたのは司馬遼太郎作品のおかげなので、変に腐したくはないところではある。
一応本編の話にも触れておくと、御陵衛士一派との決闘の話で服部武雄に止めを刺したのが十番隊の原田左之助になっていたが、るろ剣の回想でも原田が同じく服部を仕留めていた。
服部はかなりの使い手だったようで「燃えよ剣」でも新選組は彼に苦戦した描写はあるものの、誰が止めを刺したのかまでは書かれていなかった。
るろ剣の展開と同じだったのはたまたまなのか、新選組血風録から拝借したのかどちらなのか気になる。(和月先生が本作を読んでいないとは思えないので)
また、新選組の強さが己の得意技を徹底的に磨き上げて絶対の必殺技にまで昇華させた点にあることも触れられていたが、記憶が正しければこの説明も本作とるろ剣でしか見たことがない。
あら捜しをしたいわけではなく、和月先生がどういうところから創作のアイディアを得ているのか気になるのだ。