公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

性と死と

今日は最近読んで面白かった小説の話だけど、ちょっと前置き。
物語作品を評価するときに、よく『舞台装置』という言葉が用いられる。
例えば、最近見た書評だと「全てがキャラクターを不幸にするための舞台装置」「作者の都合で泣かせたり可哀そうにさせたりしている」というものがあった。
こういう評価は今回に限ったことだけでなく割とよく見るのだが、正直言って意味が分からない。
どういうことだろうか?次から次へと不幸な目に遭いすぎるのが説得力がないとか、ご都合主義が過ぎるとかそういうことだろうか?
それならまだ分かる、そんな都合よく不幸展開は頻発しないし、多少は人生が上向くこともあるだろう。
ただ意味は分かるけど納得はできないし、「作者の都合で~」というくだりはやっぱり分からない。
だって作者は不幸な物語を書きたいから書いてるわけで、そこは100%自己都合なわけである。
都合がよすぎると言うのなら少年漫画はいいタイミングで力が覚醒しないし、少女漫画には優しい幼馴染も男前の転校生も登場しないことになるし、野島伸司作品とか見られなくなっちゃう。
ミステリ小説の登場人物は殺されるために登場するし、悪代官は黄門様に懲らしめられるために存在するのだ。


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今回読んだのはこちら。
谷崎潤一郎の【鍵】である。
みんなに読んでほしいのでネタバレにならない程度に書いていく。
端的に言ってとても面白かった。
うわー、どろどろしてんなあって作品が好きなんだけど、それによって嫌な気持ちになりたくなくて、なかなか難しい。
【鍵】は人間の業というか汚い部分が書かれているものの嫌悪感を抱かない、ただただ関心するぼく好みの作品だ。
ぼくは三島由紀夫とか太宰治が書く【滅びの美学】みたいのが好きだ。
現実においては自殺は肯定も否定もしないけど、物語においては死によって完成するものもあると思っている。
るろ剣の志々雄のように地獄に落ちても信念を曲げなかったり、ガンダムSEEDのクルーゼのように相撲に勝って勝負に負けるようなキャラクターも好きだ。
最近読んだ本だと、アチェベの【崩れゆく絆】も滅びの美学においては好みだった。

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ではここで簡単に登場人物紹介。

  • 夫(先生)

56歳。
大学教授をしている。
妻のことが大好き。
脚フェチ。
性欲はあるものの身体がついていかず、妻の旺盛な性欲に押され気味。
自分の性欲と妻への愛情を昂らせるためのある方法を思いつく。

  • 妻(郁子)

45歳。
本人曰く「極度の淫乱と極度のハニカミが同居している」
ドスケベ淫乱人妻。
年齢の割には若く美人で、本人も自覚しているっぽい。
京都の古風な家に生まれて昔ながらの道徳を守ることを良しとしており、自分のことは『夫に忠実で貞淑な妻』だと思っている。
夫のことは半分愛していて半分嫌悪しているが、そんなことを思う自分のことも染み付いた道徳観によって嫌悪している。
セックスに満足していない。

  • 娘(敏子)

大学生くらい。
父親が変態的な性欲を母親にぶつけていると思い込んでいて、父を嫌っている。
一方、自分の容姿が母親に劣ることをコンプレックスに思っている。
木村のことが好き。

  • 木村

夫の教え子。
ちょいちょい家にやってくる。
木村主観の語りはないので、先生や郁子の日記を通じてしかこいつの人物像は掴めない。
(木村に関しては言いたいお気に入りのフレーズがあるんだけど、それを言うとネタバレになるので控えざるを得ないのが残念)


小説や映画などの表現技法で【信頼できない語り手】というものがある。
語り手が精神を病んでいて発言に信憑性がないとか、ミステリ小説で実は語り手が犯人だったとか、読んでる人にミスリードを誘う仕掛けのことだ。
涼宮ハルヒシリーズにおける語り手のキョンも、ハルヒからの好意を自覚していないという点では信頼できない語り手に分類されるらしい。
【鍵】は夫と妻の日記を交互に公開していく形の作品で、それぞれ一人称で書かれている。
最後まで読んでみて、誰とは言わないけどこの人も信頼できない語り手だなあと思った。


タイトルに使った『性と死』は作品の解説からお借りした。
解説によれば【鍵】が雑誌に連載された昭和31年、売春禁止法案を審議する国会でこの作品が取り上げられたのだそうだ。
青少年の健全な育成を阻害するとか何とかで、猥褻文書扱いされかかったのだとか。
実際この作品は非常に官能的である。
乳を揉まれてどうの、チンコを吸われてどうのという直接的な描写はもちろんないのだが、ダイレクトな書き方をせず、一般の文芸誌に掲載されるレベルの作品でそそる内容になるのはすごい。
『余白』というやつは大事だなあと思わされた。
文字であり、直接的な描写を避けている分、こちらにたくさんの想像の余地を与えてくれる。
AVで見るおっぱいより、昔のバカ殿で不意に見えたおっぱいのほうがやけに興奮するみたいなものだ。
中公文庫からしか刊行されていないのも描写が過激だからとかそういうことだろうか。
谷崎潤一郎の作品は【春琴抄】しか読んだことがないので、他の作品とも見比べてみたい。


ぼくがこの作品で好きなところは、登場人物が基本的に「いいのかなあ…。まあしゃーないか!」の精神で動いている点だ。
自分のやることが100%正しいと信じているわけでもなく、時には迷いながら、時には都合よく正当化しながら欲求の赴くままに進んでいる。
最後の最後までいまいち反省も後悔も伝わってこなかったし、なんなら自分のいいように解釈している面もあるけれど、かと言って結末に諸手を挙げて喜んでいるようにも見えなかった。
自分の心情はその本人ですらまだ消化しかねているようにも思える。
これから後悔が始まるにせよ、幸福な生活が待っているにせよ、終わり方までも「まあしゃーない」で済ませるあたりも好みだ。
ぼくは未婚だけれど、既婚者が読んだらまた感じ方が変わるのではないだろうか。


『舞台装置』については書いているうちにちょっとまとまってきた。
明確な定義がなかったのでぼくなりの解釈になるけれど、登場人物の設定や行動理念が薄いため人格がないように見え、『装置』のように扱われているということだろうか。
冒頭で触れた書評については、何でも限度があるということだと思う。
多分、ぼくが読んだ書評の人はそんな不幸不幸で来られても逆に冷めちゃうって言いたかったのだろう。
結局は好き嫌いの話だから、自分がどこまで許容できるかとなる。
物語なんて基本的には作者の書きたいように書いているわけだからご都合主義の塊だろうし、となると好き嫌いが出てくるのは当然だ。
ぼくが絶賛した【鍵】だって非現実的すぎる!と思う人もいれば、ドスケベ人妻があと10人は登場してもいいんじゃないですかね?と思う人もいるかもしれない。