公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2024年4月に読んだ本

少し前に本屋に行ったとき、綾辻行人の『十角館の殺人』の装丁が新しくなっていて、帯に「実写化決定」みたいなことが書いてあった。
それよりも気になったのは「ミステリー小説史上最も衝撃的なあの一行がどうたらこうたら」と書いてあったことである。
確かに小説ならではの表現ではあったし衝撃的だけど、そんなに匂わせんでもと思う。
思いもよらぬところから飛んでくるからびっくりするのであって、"一行"とか言っちゃうと一行を警戒しちゃうので面白みに欠ける。
本の帯と、洋楽や洋画の邦題はセンスのないやつはとことんセンスがないのでいたたまれなくなる。
というわけで4月に読んだ本の読書記録を書く。
念のためネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

チェンソーマン (17)

散々言われてきたことだろうけどデビルマンみたいになってきた。
ようやくチェンソーマンになれて笑みを浮かべていたデンジを見てナユタがちょっと引いており、あれを狂ってるみたいな描かれ方してたけどちょっと強調されてただけでそうではないと思う。
デンジはチェンソーマンになって周りの人間を皆殺しにしたいとかそういうことじゃなくて、チェンソーマンになれば状況が打開されるかもしれないと漠然と考えていた。
そうでなくても、あれだけチェンソーマンになるななるな言われてたから、やるなって言われたことほどやりたくなるしやったらすっきりするだろう。
彼は世のため人のために悪魔を退治しているわけではなく、モテモテになってセックスしたいからやっていることなので、ここでいいところを見せたら今度こそ一発ヤレるかもと思っていたからこその笑顔だったのかもしれない。
また、デンジのその「セックスがしたい」という欲望を引き出したポチタもやっぱり悪魔なんだなあと実感した。
今まではマスコット的にデンジに寄り添っているだけの存在でしかなかったが、ここにきてポチタの悪魔的な面も見えてきたので楽しみ。

雷雷雷 (2)

世界観や設定の説明がされたり、主人公のスミレに友達ができたりといった2巻。
不安なこともあるけどなんとかやっていけそうと己を奮い立たせていたスミレが、今回も相変わらずかわいそうな目に遭う。
バトルコメディーで絵柄も明るく、キャラの表情も豊かで読んでいて楽しいのだが安心はできない。
害獣の力はエイリアンからもたらされたものではなく、元々スミレの中にあったものか?という気がしてきた。
また、本作もこの次に紹介する作品もそうだが、とにかくキャラクターが魅力的で良い。
物語の没入感を損なったり、不愉快に感じたりする原因ってキャラによるところが大きいのだが、今のところ本作にはそれがない。
逆に言えば物語に難ありでもキャラが魅力的なら何とか読めるということだが、本作はストーリーにも不満はないので素敵である。

スノウボールアース (7)

今まで「家族」や「帰る場所」にフォーカスしてきたため拠点の近所でのストーリーが主だったが、今回は世界観が一気に広がる話になった。
怪獣の四天王みたいなやつらが地球の各国に散らばっており、そいつらを倒していくことになりそうではあるけど、一体ずつ出向いて戦っていくとなると長くなりそうなのでじっくり腰を据えて描いてもらいたい。
それともあっちから出向いてきたり、ブレイバーンみたいに勢いでまとめて倒したりするのだろうか。
また今回、人類側の二体目のロボットが登場した。
パイロットのひとひらは主人公のユキオ同様コミュニケーション能力に難ありで、人間的には未熟という感じがするため、ロボットが親代わりみたいな点は同様だ。
ところで本作の3巻の感想を見返したら、「早々に人類 vs 人類になって冷めた」と書いていた。
今思えば、最初の敵を人間にしたのって「対話できる敵」を最初に出すことによって対話できない怪獣側の異質さを際立たせるためじゃないんだろうか。
人間同士でも価値観の相違はあれど、同じ人間ってことでなんか話し合いの余地がありそうな雰囲気は作れる。
だけどいくら人語を解したとしても、バックボーンが全く違う怪獣であれば話しても分かってもらえなさそうな感がすごい。
本作では、怪獣は捕食した生命体の特徴を取り込んで強くなるため、人を喰いまくった怪獣ほど人間臭くなるという設定がある。
初登場した四天王的な怪獣は自分のことを「社長」と称し、ビジネスマン的な考え方をするのだが、人間的な価値観を吸収しても人間を捕食することも地球を破壊することも止めない。
人間の言葉を理解して価値観も共有しているのに人類に害を成す矛盾が、全く話が通用しない感を醸し出している。
そこを対話にもっていくか、人類の敵として絶滅させるか、ふたりのコミュ障がどういう選択をしていくのか期待している。

デビルマン外伝-人間戦記-

チェンソーマンがデビルマンじみてきたので、買って積んであったこちらを読もうと思った。
デビルマンのストーリー(主に3巻以降)を不動明の舎弟であった「ドス六」の視点から描いている。
ちなみにドス六とは短刀を武器にしている不良高校生で、他にも「木刀政」や「メリケン錠」「カミソリ鉄」「チェーン万次郎」という治安の悪い仲間たちがいて、ドス六が最も殺意の高い武器を持っていることになる。
基本的にこういう外伝やスピンオフは本編の作者が書いたものでないと読まないのだが、こちらの外伝は「外伝としての完成度が非常に高い」という話を聞いたので気になっていた。
悪魔が人類に対して宣戦布告した後、「人間社会に強い不満を持つ者が悪魔になる」と政府が発表したことにより、国の手で「悪魔狩り」が行われていくことになる。
そのあたりは本編の内容だが、本作ではそれが民間人の間で過激化していく様が描かれている。
人間の中に悪魔が紛れ込んでいると知った人間は各々で悪魔狩り部隊を組織し、さながら中世の魔女狩りのように気に食わない人間を悪魔に仕立て上げて殺していく。
一方で、ドス六を始めとする舎弟たちは不動明の仲間になってもらうためにデビルマン(主人公のデビルマンのことではなく、「身体は悪魔になったが人間の心を失っていない者」を指す)を探すことになる。
人間のことを信用せず疑心暗鬼に駆られて人間同士で争う人たちと、人間を信用して一緒に悪魔と戦おうとする人たちの対比という感じで物語は進み、デビルマン軍団と悪魔軍団の決戦すら描かれずダイジェストで語られるため徹頭徹尾「人間」の戦いについて描かれていた。
終わり方には神話っぽさというか童話っぽさを感じて、あれは本当にドス六が望んだことなのか上位存在との意思疎通がうまくいかなくて比喩表現を理解されずにああなったのか、自分の中で解釈が分かれた。
でもまあ、どちらにしても人間が争わなくなるにはああするしかないのかもしれない。
こうやって見ると、スピンオフってハードルが高いなあと思う。
スピンオフにスピンオフを重ねた結果、一年戦争時にはガンダムが10体くらいいたみたいなことになってる例もあるし。

ご冗談でしょう、ファインマンさん (上・下)

ノーベル物理学賞受賞者リチャード・P・ファインマンの自伝。
彼は幼少期より好奇心が旺盛だったようで生活を便利にする子供なりの発明をしたり、物理学だけでなくバンド活動に勤しんだり女性への感じのいい声のかけ方を研究したりなど、興味のあることはとことんまで追求してみないと気が済まなかったらしい。
未知のことに期待して冒険的な選択をしたり、専門家の意見を鵜呑みにせずに自分で確かめることをモットーにしていたりと、教訓じみたことも書いてあり子供にも読ませられそうないい感じの伝記だと思っていたが、女性をナンパして普通にワンナイトしていたので教育として読ませるかどうかは判断の分かれるところだ。
ファインマンは少し前に映画が公開されて話題になった「オッペンハイマー」がリーダーを務める「マンハッタン計画」に参加している。
マンハッタン計画とは原子爆弾を開発するプロジェクトのことで、計画は成功し広島と長崎に原爆が落とされることとなる。
原爆開発に携わっていたということは本書の主題ではないかもしれないが、やはり自分としてはその部分が気になった。
当時は戦争中かつ計画は軍部の主導で進められたわけで、計画の成果物が軍事利用されることはみんな分かっていたと思うが、少なくともファインマンはこれで敵国に一泡吹かせてやろうとか考えてたわけではなさそうだった。
彼は未知の分野に挑戦し、解明していくことが愉快で楽しかったから研究に没頭していたということは本書を読めば一目瞭然である。
だから、原爆の実験が成功したときにも「僕らはとんでもないものを造っちまったんだ」と恐怖していた同僚の言葉にいまいちピンときてない様子であった。
彼のそのときの心境は「僕をはじめみんなの心は、自分たちが良い目的をもってこの仕事を始め、力を合わせて無我夢中で働いてきた、そしてそれがついに完成したのだ、という喜びでいっぱいだった。そしてその瞬間、考えることを忘れていたのだ。つまり考えるという機能がまったく停止してしまったのだ。」と語られており、あくまで「良い目的」のつもりだったとされている。
終戦後、ファインマンが原爆で破壊された都市に思いを馳せる一幕がある。
ニューヨークの工事現場の風景を見て、壊れるかもしれないのにこんなものを作っても無駄だとヤケになっており、多くは語られていないが日本のことを思い浮かべたのだろう。
以前読んだ岩明均先生の『ヘウレーカ』でも触れられていたし、創作や史実でもよく話題になるが「兵器を造った人間の罪の意識」というやつは実際のものを目にする機会が少ない。
造られたものに罪はなく使う側の問題だとする意見もあるが、それによって殺された人の遺族や関係者からすれば使った人間も造った人間も等しく恨みたくなる。
工事現場からファインマンが何を連想したのか、もしかしたら罪悪感に苛まれたのか、そのへんは分からないが「人間の一生は一回きりしかなく、その間さまざまな間違いもしでかすが、おかげでしてはいけないということも学ぶものだ。だがやっとそれを学んだころには、もう人生は終わりなのかもしれない。」と述べている場面がある。
ノーベル物理学賞を獲るほどの頭のいい人であってもこんな言葉を残すくらいで、彼の場合はいろんな人の人生を終わりにしたものを造る一翼を担ったことで過ちにひとつ気付けたのだ。
長々と書いたが、自分はファインマンに対してあの野郎、原爆なんか造りやがってとか思っているわけではない。

きれぎれ

画家の主人公が、自分より売れている上に自分の惚れている女と結婚した同業の男に金を借りに行く話。
町田さんの小説によく出てくる、関西弁のダメなおっさんが主人公だ。
更に彼は芸術家なので、大衆を馬鹿にしながらも生活のために大衆に迎合しないといけないジレンマも見え隠れする。
現実なのか妄想なのかよく分からない不条理な話が展開され、意味わからんと途中で投げてしまう人もいるかもしれない。
自分は町田さんの作品を読むときはあまり深く考えないようにしている。
流し読みしているということではなく、自分が好きなギャグがあったとしてそのギャグがなぜ面白いのか考えないのと一緒で、言葉選びや擬音や文章の綴り方が好きで感性に合うのだ。

女神

女性の美に偏執的なこだわりを持つ木宮周伍はかつて妻・依子の美しさをプロデュースしていたが、彼女が事故で顔に火傷を負ってしまったことから依子の美を追求することを断念する。
そんな男が次なる教育対象として目を付けたのは彼の娘・朝子であった、という話。
「芸術家の人間性と生み出される作品の質に相関関係はない」みたいな話を聞いたことがある。
とんでもないクズから後世に残るような素晴らしい作品が生み出されることもあるし、清廉潔白なのに鳴かず飛ばずな芸術家もいるということだ。
妻の依子や娘の朝子が周伍の芸術作品だとすれば、そりゃもう素晴らしい出来栄えだったことが描写されている。
依子は社交界で一目置かれる存在であり、外国人の女性と並んでも見劣りしないスタイルと雰囲気を兼ね備えていたらしい。
朝子もまだ女学生ながら淑女の雰囲気を醸し出しており、日々モテテクニックを駆使して同性異性問わず好感を得ている。
周伍が妻や娘に施した教育は決して外見のことだけではなく、趣味や教養や言葉遣いに関しても自分なりの理想があった。
例えば、夢見がちで現実に満足にできない女にならないように小説はあまり読ませないとか、芸術に関しても、難しく専門的な知識を要するもの(ピカソとか)よりもみんながいいと思うものをいいと思わせるような感性を好んだとのこと。
見た目だけではなく中身も兼ね備えた美しさを理想としていた周伍だが、彼の女性美の土台にはあくまでも「外見の美」があってこそなので、「美しくない女に価値はない」とまで言っているほどだ。
だから火傷をした依子に興味がなくなったわけで、依子も旦那が常々「ブスは嫌い」と言っていたのを知っているから、顔を晒せない自分には価値がなくなったと思い込み、自分にそんな教育を施した周伍を憎みさえする。
周伍は当然クズなわけだけど彼がプロデュースした女性たちに魅力が備わらなかったかというとそうではないし、彼の教育は全面的に賛成できるものではないにしても誰もが魅力的に感じる女性を創造することには成功している。
周伍の教育がどういった形で実を結ぶのか、依子の復讐は果たされるのかなどはぜひ読んでみてもらいたい。
美しい娘とそれに献身的な愛情を注ぐ裕福な父親という、線グラフで言えば上り調子のところからストーリーが始まっていくので、これからどんなふうに父親の思い通りにならない展開になっていくかなあと楽しみながら読んでいた。
最近読んだ三島由紀夫の作品はエンタメ寄りのものが多かったので、純文学の三島作品は久しぶりだったがとても好みの内容だった。