公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

2024年10月に読んだ本

ダンダダンのアニメが放送されているが、もうアニメ主題歌はYOASOBIとCreepy Nutsにやらせとけみたいな風潮になっている。
それはともかくとしてかなり力が入った内容になっているので、放送前に懸念していた「これなら別に漫画でいいか」みたいなことにならなくてよかった。
アニメを視聴したりYoutubeでOPを見たりしていると、Youtubeアルゴリズムがダンダダン関連の動画をお勧めしてくるのだが、反応集系の動画やダンダダン関連のショート(公式以外)が上がってくるのが本当にうっとおしい。
反応集動画のチャンネル作成日を見ると明らかにアニメ放送前後に作られたものが多く、ブームに乗じたいっちょかみであることが分かる。
チャンネルの概要欄では「自動生成のツールで作ったものではなくチャンネル主が手作業で作成しています」みたいなことをほざいているが、別にそこはどうでもよくてそもそも反応集動画とかいうしょうもないものが嫌いなのだ。
そもそも作品に対しての反応をまとめるとか言う創意工夫の欠片もないものを作っているプライドのなさ、他人のコンテンツを利用してまで自己顕示欲を満たしたい浅ましさが痛々しい。
また、コミュニティ欄やTwitterにエロ画像を上げてそれで釣っている姿勢から、その作品を金儲けの道具としてしか見ていないことは明白だ。
後追いが嫌いなのではなく、金と承認欲求のニオイが嫌いなのだ。
では10月に読んだ本を紹介する。
一応ネタバレ注意で。


↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp


↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み

カグラバチ (4)

三巻ではチヒロの覚悟が決まったが、四巻ではハクリの覚悟が決まる回となった。
ハクリの顔の描き方が明らかに変わっているし、父親と同じように左目に仮面が顕現しているのも優男風のハクリの顔に冷たい仮面があるというギャップになっている。(あと破面の仮面みたいでカッコいい)
しかし、京羅は国重とはとことん違った父親の描かれ方をされている。
京羅が子供たちに言った「愛している」というのは嘘ではないと思う。
ただそれはあくまで漣家の当主としての責務を果たすための手段として愛という言葉を使っているに過ぎないだろう。
まず、漣家の"蔵"は譲渡できる珍しい妖術ではあるが、京羅曰く妖術の譲渡には"絆"が必要とのことなので、"蔵"ひいては漣家を絶やさないための手段としての愛である。
そして開催されている楽座市を無事に終了させるため、子供たちには京羅の盾となり剣となりがんばってもらわないかんわけで、父親が自分たちに期待してくれているんだからそれに応えなければと思わせるための愛でもある。
実際に天理は期待に応えようとして雫天石を使って自滅したわけだし、愛の効果は確実にあっただろう。
だけどそれは偽りの愛情ではなくてあくまでも当主としての愛情であったわけで、京羅が全うしようとしているのは漣家当主であって"父親"ではないわけだ。
まあその"愛"について意識の共有ができていたかは定かではないが、宗也なんかは京羅が父親としては自分を見てくれていないことに気づいており、更には自分より戦闘の才能がある天理にコンプレックスを感じていたからこそ、家族の中では劣っているハクリに執着していたのではないか。
一方の国重は刀匠の面と父親の面を両方チヒロに見せていたが、どちらかと言えば父親を全うしようとしていたように思う。
漣家の子供が"蔵"と漣家を継ぐのは自分の意志にかかわらず決められた道となっているようだったが、国重はチヒロに自分と同じ道を歩ませようと強制はしなかった。
それは自分が世間で言われている英雄なんかではなく、自分の作った妖刀で人がたくさん死んだこともあり、決して無条件に憧れてほしくないと考えていたからだろう。
チヒロの前で妙におちゃらけていたのも元々の性格もあるだろうが、六平の名前や妖刀とは無縁の世界で楽しく過ごしてほしいという国重の意思の表れだったのかもしれない。
斉廷戦争について描かれる過去編もあるだろうし、妖刀の原料になってる雫天石も何となく出自が怪しいし、国重自身もかなり重い体験はしていそうではある。
今回は全編通してシリアスだったが、それだけに作中でたまに使用されるコピペ顔が緊張を削いでしまい残念だった。

鍋に弾丸を受けながら (5)

コロナ禍のピークが過ぎてようやく本格的に海外旅行に行けるようになり、四巻ではその一発目として台湾を舞台としていた。
そして今回は原作者さんがアメリカの友人たちに会いに行く話がメインとなる。
今までは割と知らない料理が多く、自分にとってそしておそらく大多数の読者にとって「未知の食べ物」ばかりだったが、今回はパンケーキやハンバーガーやアメリカンドッグ(アメリカではコーン・ドッグと呼ぶらしい)といった、日本人にとっても馴染みのある料理がほとんどだった。
なら読んでいて退屈かというとそんなことは全くなく、作者さん曰く「本場の味」を心から実感していた様子だった。
材料やレシピはほぼ同じでも、何か「違う」ところがあり「こういう美味しさの出し方があるのか」を強烈に感じたとのこと。(例えばチーズを使うレシピでも、本場だと日本人がもう十分だろうと思っている量より遥かに多いチーズやバターを使うとか)
この漫画には、作者さんが現地で食べたものを日本でも売っている食材や器具で可能な限り再現できるレシピコーナーがある。
"可能な限り"としたのは、日本ではどうしても手に入らない食材や、家庭で再現するにはハードルの高い設備が必要な料理もあるからだ。
そのためか、現地の料理を日本人の味覚や感覚でも分かるように言葉や絵で表現するのが上手で、例えば老舗のシンプルなチーズバーガーを「本当に美味いうどん屋のかけうどん」と表した上で、「シンプル好きな日本人が感動する味」と述べているのは非常に分かりやすい。
単においしいとかまずいとかでなく、日本の料理で例えるとこれで、こういう理由で好まれるんじゃないかと説明する力が単純に優れている作者さんだ。
まあ結局、アメリカって国は「パンに肉挟んでるやつ」と「炭酸」を頼むのが鉄板」とのことなので、迷ったときはこの言葉を参考にするのもいいだろう。
また、コロナで海外の友人たちに会えなかったせいか、料理のことだけではなく「人との繋がり」にもかなりフォーカスして描写されている印象だった。
自分が橋渡しになってアメリカとブラジルの友人が会う未来に思いを馳せたり、アメリカの若者世代の変化を感じてみたりと、最近の本作は"人"に焦点を当てることが多くてこれもまた新たな魅力という印象だ。

旧事諮問録

明治20年頃に、東京帝国大学(今の東大)の学生たちが江戸幕府で役人をしてた人たちの話をインタビュー形式で聞いて本にまとめたもの。
年代的に江戸末期に幕府に仕えていた人の話になるため、大奥にいて和宮孝明天皇の妹で徳川家茂正室)の降嫁に立ち会った人であるとか、桜田門外の変生麦事件の取り調べに関わった人などが実際に登場するので結構すごい。
外国奉行をしていたとある人の証言では、兵庫・大阪の開港に関して連合艦隊との交渉に当時の老中と共に携わった臨場感のある話が聞ける。(この証言者は名前を検索すると出てくる)

兵庫開港要求事件 - Wikipedia

御庭番の人も出てきたが江戸城に侵入した賊を始末しているといったことはなく内偵や警備などをしていたので、るろ剣はやっぱりフィクションだった。
ある程度江戸時代に関する知識があった方がスムーズに読めるだろう。
岡本綺堂もこんな感じで江戸の話を聞いて『半七捕物帖』を書いたのかなと思った。

夜よ鼠たちのために

読ませるミステリーを書く作者さんの一作。
突然だが太宰治が書く女性の告白体小説は名作が多く、『灯籠』『きりぎりす』『葉桜と魔笛』なんかがある。
何作か読んで気づいたが、連城さんの書く告白体小説も同じくらい素晴らしい。
まあミステリー小説なので人が死ぬということであるため自然と暗い話になるわけだが、連城さんの書く人間の情念や執念や後悔のこもった文章は読むのに本当にエネルギーを使う。
自分は文章を読むとき印象に残った箇所や心にグッときた箇所を声に出して読む癖があるのだが、連城さんの作品を読むときは気を抜くとほとんどの箇所を音読してしまうため、読むのにカロリーを要する。
もはやミステリー小説というよりは人間の感情を咀嚼して味わうために読んでいるところがある。
それだけ自分に刺さる文章だということなので、この先も読み続けていく作家さんのひとりだと思う。

贋作吾輩は猫である

夏目漱石門下生のひとりである内田百閒が「贋作」と銘打って書いた『吾輩は猫である』の続編。
内田百閒は猫との生活を描いた作品『ノラや』において、いなくなってしまった猫のことを心底心配する描写があったので猫が好きなのかもしれない。
吾輩は猫である』ではビールを一舐めして酔っぱらってしまった"吾輩"が足を滑らせて水瓶の中に落ち、溺死してしまうという悲惨な終わり方をしている。
本作においては吾輩はなんやかんやあって生還しているが、1906年に水瓶に落ちたはずが這い上がった先は1943年だったようなので流行りの転生的なやつで別個体かもしれない。
ちなみに、時代を飛び越えた猫であるということは作中では明言されておらず、物語の舞台が1943年であるということは本編の解説やちくま文庫版のあらすじで知った。
その後、かつてお世話になっていた苦沙弥先生の家から、ドイツ語教師の五沙弥入道先生の家へ居を移して吾輩の新たな生活が始まる。
立て板に水の語り口で古さを感じず非常に読みやすい文章で、落語や講談を聞いている気分ですらすら読むことができる。
原典(作中で夏目漱石版を「原典」、内田百閒版を「贋典」だと吾輩が述べている)では猫の目線から人間社会のおかしさや面倒くささを皮肉るという内容だったが、贋典においてもそれは同様である。
あえて言うなら原典のほうが皮肉が効いていた気がしないでもない。
ただ言い回しは全体的に贋典のほうが好みで、吾輩が五沙弥先生を形容する際に「羽目を外したり取り繕ったりして過ごしている」と表現していたのがナイスな言葉選びでニヤリとした。
原典を読まなくても楽しめるが、どうせなら原典を読んでからのほうが同じテーマで子弟の比較ができるので読書が充実すると思う。