大山のぶ代さんが亡くなったことで、少し前に見たザンボット3のことを思い出した。
ザンボットについてはスパロボでの知識しかなく、スパロボ知識のみでその作品を語ることは自分の美意識に反すると思っているので、少しずつではあるがスパロボ参戦作品のアニメは見るようにしている。
実際、バーニィはザクマニアだとか、ケンプファーは水中用のMSだとか言われたらイラっとする。
ザンボット3は人間らしさを描いたとてもいい作品で、終盤におけるのぶ代さんの演技も熱がこもってて素晴らしかった。
スパロボだとバンドックってすぐ撤退するから撃墜しにくかったなあなどと懐かしみながら見ていたが、やはり実際に見てみないと分からないいろんな発見があった。
イオン砲がザンボットの武器というわけではなかったり、千代錦(犬)ってそんなとこに搭乗してたのかと驚いたり、勝平が思った以上にガキだったり、恵子のキャラクターデザインって今でも十分通用するよなと感銘を受けたりした。
次もガンダム以外の何らかの富野アニメを見る予定。
というわけで9月に読んだ本の紹介をする。
念のためネタバレ注意で。
↓先月分↓
mezashiquick.hatenablog.jp
↓今回読んだもの↓※赤字の漫画は完結済み
ルリドラゴン (2)
しばらく休載していたため久しぶりの続刊で嬉しい。
今まで周りがなんやかんやドラゴンのことを受け入れてくれていたが、そんなルリに「話しかけないで」と言い放つ前田さんが登場した。
この間モームの『人間のしがらみ』を読んだからか、自分も昔はこういうところがあったし若いときって潔癖でナンボだよなあと思いながら読んでいた。
前田さんは「キモい」で感情の全てを正当化できると思っている節があり、ルリに面と向かって「キモい」と言っている顔は非常に邪悪なツラである。
彼女は、ルリが同じ友人とばっかり絡んでいるのが気に食わないらしく、「狭いコミュニティで延々よその悪口を言っている」と決めつけているわけだが実際はそんなことはない。(同じメンツでつるんでいるというのは事実)
じゃあなぜ前田さんがそう思い込んでいるのかと言うとルリとは価値観が合わないのでキモいわけであり、キモい人間はきっとこういうことをしているだろうし、自分が嫌いなものは"悪い"に違いないので安易に否定しても問題ないという、好き嫌いと善悪の区別ができていない一方的な決めつけである。
前田さんのことで悩んでいるルリに対して友人のユカは「同じクラスで一年過ごすだけだから全員と仲良い必要はない」と言う。
自分はこのセリフを聞いて、甲本ヒロトが言った(と言われている)言葉を思い出した。
「クラスメート」と「友達」は違うんだよ、うん。たまたまさ、同じ年に生まれて、近くに住んでただけじゃん。それはさ、例えば、渋谷から山手線に乗って、「はい、今この瞬間この電車に乗ってる人はみんな友達」って言われるのとおんなじだよ。そんなの、「仲良くできるかどうかは自信ねえな」って思うでしょう。当たり前じゃないですか。クラスメートと仲良くなんかできるわけないんですよ、うん。それ普通。友達なんかできるわけない。でも、学校っていうのは何をしにいくとこかっていうと、仲良くもないし友達でもない奴と、「うまくやること」を勉強しにいくんです。
前田さんに欠けているのは「うまくやること」の視点であり、人間関係において白か黒かをハッキリさせることではなく、グレーで曖昧な存在に放り込んでもいい人間もいることを知ることである。
全員と仲良くする必要がないのはそうだが、あえて波風を立てるのも違うからだ。
「キモい」から他人を否定し排除してもいいのなら、自分が誰かにとって「キモい」から否定され排除されても文句は言えない。
まあ前田さんがルリに「キモい」と言った場面は、自分のことが嫌いな理由を詳しく教えてほしいとルリが迫ったからであるので積極的に波風を立てに行ったわけではないものの、「話しかけないで」の先制パンチはやっぱりいただけない。
とは言えルリに全く問題がないこともなく、他人に無関心で相手の名前を覚えられないのはかなり失礼である。
まあ"他人に無関心"の部分は誤解であるとして前田さんも謝罪しているし、ユカも「ルリは他人の目も言葉もすごい気にする」という理由から否定している。
でもそれって無関心でないことの否定にはなってないというか、「他人の名前は覚えられないくせに自分に向けられた悪意には敏感なやつ」ということにはならんだろうか。
ルリがドラゴンのことをヌルっと受け入れたのって、ドラゴンであること自体に対する悪意が向けられていないからであって、もしもドラゴンのことを理由で嫌ってくる人がいたらこんな平和な展開にはなってなかったと思う。
また、一巻を読み返してみたところかなり絵柄が変わっていたことに気が付いた。
一巻の最後と二巻の冒頭では休載を挟んでいるので一年以上空いているのだが、その期間に何があったのだろうという変わりっぷりである。
漫画って長期連載になると作者がキャラクターを描くのに慣れてきて簡略化されがちで線が丸っこくなってくるものだが、一巻より二巻のほうが線が増えている感じがした。
前田さんなんかかなり険しい顔になっていて、本当にルリのこと苦手なんだなというのが伝わってくる。
ちなみに本作は「次にくるマンガ大賞」のweb部門で2位を受賞したが、その際の作者コメントで「口内フェチではない」ことが明らかになった。
二巻の表紙でも思いっきりルリの口内を書いているのだが、作者直々に否定が入ったので誤解を正したいと思う。
雷雷雷 (3)
害獣の能力は元々スミレが持っていたものということが明らかになったが、明らかになった謎の数以上に新たな謎が提示されてやきもきしている。
"害獣の能力"という呼び方ではなく"UFOの力"という呼称や、それに伴う"主機"と"補機"という用語も絶妙に外している感じで気になる度が爆上がりだ。
毎度毎度、展開や設定の見せ方がうまいなあと感心している。
コンバットスーツと過剰に同期すると悲惨な末路を辿る可能性があることも示唆され、ポップな絵柄で暗めの話をするというまあ最近の流行りっぽいと言えばそうだけど、最近の怪獣系漫画では頭ひとつ抜けていると思う。
サンダー3 (7)
引き続き無敵のサンダー3ではあるが一緒に戦っている仲間たちは違うので、彼らの目の前でどんどん人が死んでいく展開となっている。
書き込みはすごいが1ページ当たりの情報量は相変わらずそんなになく、分かりやすく読めるとは思うが物足りなさを感じている。
正直、書くことはあまりない。
ザ・キンクス (2)
この漫画めちゃくちゃ面白いんだけど、マンガ大賞とかこのマンガがすごいみたいな賞にノミネートされていないのはどういうわけだろうか。(されてたかもしれんが)
今回は手旗信号の回と、深夜ラジオの回が特に好きだった。
ラジオ回の主役だった長女のモチは基本的に死んだ目をしているのだが、自分のハガキが深夜ラジオに採用された際の目の輝きは、この演出のために彼女の眼をああいうデザインにしたのかと感じるくらい印象的だった。
作中で嫁が旦那に「アナタの持ち味はフツーの経験をフツーじゃない発想で料理して、誰も見たことない風景を生み出すところ」と言っており、まさにこの作品を象徴する言葉である。
嫁は自分に課せられた役目を逃れるためのおべんちゃらとして上記の言葉を言ったので心はこもっていないと見せかけて、実は旦那の作品をめっちゃ読んでいるというのも良い。
一巻を読んだときにも書いたがコマ割りや構図や見開きの使い方が本当に上手くて、よくもまあこんなにたくさんの魅せ方ができるものだなと関心しながら読んでいる。
ニセモノの錬金術師 (3)
原作者がkindleで公開しているネーム版に作画をつけることで連載しているわけだが、三巻では結構グロいシーンも多く、やはりエロとグロは映えますなあと思った。
一巻の帯には「異世界」とか「チート」とか書かれているが、異世界はともかく主人公サイドにチート能力持ちは今のところいないので、粗製濫造のなろうっぽいと敬遠している人も読んでもらいたい。
よくあるチート無双の何が萎えるかって、読者にも開示されていない万能チート能力があることによって、この先どんな展開があっても主人公は苦戦することがないんだろうなあと感じるからだ。
ミステリー作品の種明かしで、実は読者は知らなかった隠し部屋がありましたと言われるようなものだ。
今回は敵方のチート能力持ちと対峙することになるが、どんな強力な能力でも相性と思考次第で有利に立ち回れる展開は、頭を使った戦闘が好物の人には楽しめるだろう。
やっぱりこの漫画はヒロインのキャラクターが強烈である。
水車館の殺人
本作は「館シリーズ」の第二作目となる。
そういうシリーズがあることを知らなくて、『十角館の殺人』の後に4作目の『迷路館の殺人』を読んでしまったので順番通りに読むことにした。
いきなり館シリーズの最終巻から読むならともかく、十角館の後に迷路館を読んでも不都合はなかったのだがここはまあ一応ということで次は『人形館の殺人』を読む予定。
正統派のミステリーという感じで、作中にちりばめられている要素から自分のようなヘボ探偵でもある程度推理することはできる。
水車館は十角館や迷路館のように見取り図を見ただけで笑ってしまうような突飛な設計の館ではないので、青沼青司も置きにいった設計をするんだなあと妙に人間味を感じてしまった。
熱帯樹
三島由紀夫の戯曲三編をまとめた一冊。
なんか基本的にみんな下半身がだらしなく、どうしてそんな簡単にセックスするのだろうと思わざるを得ない。
三島由紀夫作品に頻出するテーマとして「近親相姦」「マザーコンプレックス」「父親との確執」があると思っているが、本作でもそれらは登場する。
登場人物のキャラクターも印象的で、例えば表題作の『熱帯樹』に登場する父親の恵三郎は「自分の前では誰もが笑顔でいるべき」という信念を持っている。
一見すると慈愛に満ちた人間であるように映る彼だが、実際はめんどくさいことを考えたくないことの裏返しであり、「俺の目に見えないものは存在しないも同然」「たのむから俺に何も見せずにおいてくれ」と、積極的に面倒に目を向けない男なのだ。
他にも『薔薇と海賊』では、「私たちには孤独なんてありはしない」という言葉を受けて、37歳の人妻が「そうでしょうよ。裸でいるときはね。でも着物を着るとすぐ孤独がきます。二人乗りの自転車はあっても、二人で着られる着物はありませんから。」と返しており、意味分かるようで分からんけどなんか気持ちよかった。
小説ではなくて戯曲だから、台詞回しやキャラの強さを印象付けるような書き方をしているのだろうか。
自分のやりたいこと(主にセックス)に対して理屈をこねくり回して正当化する登場人物たちが滑稽で、自分は三島由紀夫作品のこういうところが好きなんだよなあと再認識した。
それと同時に、性に対する欲求ってここまで強いもので、思考の主体が脳みそから金玉や子宮に移動したかのような突拍子もない行動をさせてしまうものだよなあと感じ、自分もこの人たちのように下半身中心の生活ができればなあと思わないでもない。
三島作品は耽美的と言われているが決してセックスが前面に出た話ではなく、本作に関しても自分がそう感じただけなので誤解なきようお願いしたい。
あくまでもセックスは舞台装置というか、別にそれを夢とかなんかに置き換えても成立しないこともないだろうが、やっぱ性のことは分かりやすいですからな。
土間の四十八滝
町田さんの詩集。
長めの詩が多いが、言葉のテンポや韻の踏み方が心地いいのですらすら読むことができる。
このへんはさすが音楽をやっていただけのことはある。
町田さんの言葉を借りるなら「わからんけどわかる」と「わからんけどわからん」の二種類の詩が多いと感じた。
長尺の詩に関してはストーリー仕立てになっているものもあり、いつもの町田さんの世界観での短編を見ているようでたまらない。
印象に残っている一節に「ひとりの屈辱は夫婦の場合、倍です」というのがある。
世間一般に言われているような「ふたりだと楽しいことは倍に、悲しいことは半分に」みたいな陳腐な言葉に真っ向から唾を吐きかける最高にカッコいい詩だった。
他には「女を八尾に捨てた反逆」というタイトルも語呂が良くて好き。
やっぱ詩ってリズムなんだなあと実感させられる一冊だった。