公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

5月に読んだ本

以前、Twitterでバズった投稿に「小1の息子はYoutubeを至高の娯楽で本は音の出ないゴミだと思っている」という旨の内容があった。
承認欲求の化物がしのぎを削っているTwitterで話題になるためには強い言葉を使う必要があるとは言え、随分と品のない物言いだなと軽蔑したのを覚えている。
小1の息子が本のことをゴミと言ったのか、親が息子の考えを代弁しているのかは分からない。
前者であればどういう教育を受けているのか知れた子供だし、後者であれば本のことをゴミ呼ばわりする親に育てられた子供なんぞロクな育ち方をしないだろう。
強い言葉を使うだけでなく主語がデカいのもSNSの特徴なので、あくまでもそいつの子供がそうなのであってお前がそういう育て方をしただけの話だ。


できるだけ毎月更新していこうと思い、3月から始めたレビュー企画。
仕事も落ち着いてきたので、じっくり読書のできる時間が取れてよい。
がんばってネタバレなしで紹介していく。

十角館の殺人

途中にどんでん返しがあるというのは聞いていたし、裏表紙にも『ミステリ史上最大級の、驚愕の結末が読者を待ち受ける!』とあるので、警戒しつつ読んでいた。
ところが件の箇所が自分の想像を超える内容だったので、「ひゃー」となってしまった。
「ひゃー」となりたい人はぜひ読んでほしい。
本格ミステリとされているけど、予備知識とかなくても十分に楽しめる作品。

極端な話、「謎」も「論理」も全く重視されず、いわんや作中に存在すらしない、そんな小説までが「ミステリー」の中に含めて語られてしまうような状況が、現在ではもはや当たり前になってしまっているのです。

という作者コメントをあとがきの筆者が引用していたのが印象的だ。
コメントについては深堀りされていなかったので詳細は掴みかねるが、作者さんにミステリーとは何ぞやというのを聞いてみたくなった。
本屋に行けば、アニメっぽいカラフルな絵柄で”なんとか探偵の事件簿”みたいな「半ライトノベル」的な小説が多いが、こういうのはきっと狭義のミステリーには含まないのだろう。(そういう作品がダメだと言っているわけではない)


快楽主義の哲学

まえがきを三島由紀夫が書いている時点で激熱だった。
「快楽」と銘打っているものの性的快楽を特筆しているわけではなく、満ち足りた生活を送るためのアイディアが記されている。
御仕着せの娯楽なんか抜け殻で楽しくないから、自分なりの快楽を追求しようぜ!ってスタンス。
特に、「性器の優位性」ってワードが気に入った。
どういうことかと言うと、人間の性感帯は性器に集約されている。
それは、近代化に伴って労働が細分化されていくに従って身体の機能も細分化されているから、肉体が労働としての役割に特化して性感帯としての機能を失いどんどん非エロス化が進行していっているからであると。
で、性器の優位性を解消するためにはどうするかと言うと「全身を性感帯にする」ことが望ましいとのこと。
全身を性感帯にすることで性行為はもちろん、仕事なども楽しむことができるとのこと。
詳しくはぜひ本編を読んでもらいたい。
確かにぼくがちんこや乳首の立場だったら、足の指とかにめっちゃマウントを取ると思う。
奇抜なことが書いてあるように思えるが、作者のメッセージは前向きでシンプルなものだ。
「歌ってみなければ歌の楽しさが分からないように、楽しいから笑うのではなく笑うから楽しいのだ」
「仕事だったり毎日の生活だったりを懸命に楽しんで、死の想念(ネガティブなこと)を跳ね除けよう」

日常生活の大きなウェイトを占めている労働を楽しむためのひとつの案として、筆者は全身性感帯を推奨しているというわけだ。

椿姫

この作品を読んでいる最中に話題のお嬢様VTuberがデビューしたので、キャラは全然違うけどもヒロインと重なってしょうがなかった。
フランス文学は今のところ全部面白い。
高級娼婦マルグリットと青年アルマンの恋愛物語。
「娼婦」と翻訳されているが娼館で働いてたり路上で客を取ったりしているわけではなく、貴族や金持ちの愛人である「囲われ者」というニュアンスのようだ。
読んでいて思い出したのは、鬼平犯科帳の1巻に収録されている「暗剣白梅香」という話だ。
ざっくり言えば「過去に囚われていた自分と決別して未来に生きていこうと思ったところでその過去に殺される」という内容なのだが、何だか琴線に触れるものがあったので覚えている。
椿姫のキーワードは「贖罪」だと思う。
マルグリットにとってこの恋が償いの意味も込められているのは読んでいてこちらも苦しかったし、アルマンもやたら高いプライドは置いといて理解してやれよ!と憤慨しながら読んでいた。
罪だの許しだのって言葉は使い方や使う人によっては傲慢な言い回しになるから、安易に言うものではないなと実感した。
昔だったらマルグリットとアルマンの恋を応援してたろうけど、子供がいてもおかしくないような年齢に自分がなると周りの大人たちに共感してしまうようになりましたなあ。
最近読んだ本で面白いのあった?と聞かれたら確実に勧める作品。

るろうに剣心明治剣客浪漫譚・北海道編 7(既刊)

剣心が北海道にアイヌ埋蔵金を探しに行く話ではなく、西南戦争で戦死したはずの薫の父親を探しに行ったらめんどくさいことに巻き込まれたという話。
ファンなら知っていて当然であるけども、北海道編は連載当初から構想にあった話だ。
そのため作品の評判がどうであろうと、幾度となく妄想した好きな漫画の続編が読めるのは単純に嬉しい。
今回の巻は新選組がメインであり、長倉新八に続いて元新選組隊士が登場する。(これは単行本の裏表紙にも書いてあるのでネタバレではないと思いたい)
そしてその登場人物が斎藤を揶揄するシーンがあるのだが、いつまでも好き勝手生きてるぼくにはかなり刺さるやりとりだった。
斎藤って人気のあるキャラだし、その名台詞をいじるのって結構な覚悟が必要だと思うし賛否もあったと思う。
斎藤が気にしていたかはさておき、読んでた人には効いただろう。
ところが言った当人も「あの頃」にこだわってるので、今回の新選組メイン回は過去をこじらせた男たちの話なのだ。
悔いの残る青春、本懐を遂げられなかった青春、たまに取り出して眺める青春、いつまでも心の真ん中に居座る青春、いろんな青春を抱えてみんな必死に生きている。
維新の敗者側であった幕府側や新選組って、時代に取り残された武士とどんどん近代化していく明治時代をどんな気持ちで受け止めていたんだろうか。
ところでまさかとは思うけど、敵側の首魁が土方ってことはないだろうかとドキドキしている。
本誌で追いかけていた頃、左之助が台詞と後ろ姿のみで登場して次回に続くとなり「おっ」となったところ、その後作者が例のあれで書類送検されてしまい連載がしばらく止まっていたのは今でも忘れない。
和月先生!ぼくもToHeart好きです!!

自虐の詩 上・下(完結)

阿部寛中谷美紀主演で映画化されたこともあるらしく、「日本一泣ける4コマ漫画」という日本一センスのないキャッチコピーが付いていた。
正直、これほどまでに感情移入できない作品も久しぶりだった。
この作品の本質は下巻にあるというのは聞いていたので全部読んだが、予備知識がなかったら上巻で挫折していたと思う。
無職の夫とそれを献身的に支える妻の話で、上巻では働かない夫に振り回される妻を(お互いの過去も挟みつつ)ギャグ4コマで延々と描いている。
ときおり夫が妻に見せる優しい態度がDV旦那のそれを連想させた。
夫は計算して妻に優しくしているのではなく、気まぐれだったり自分の振る舞いに罪悪感を抱いてだったりの思いやりなので、一応は人の心はあるようだがそれなら働けばいいだけの話である。
過去の夫とあまりにもギャップがありすぎて、なぜここまで変わってしまったのか、どうして仕事をしないのか本当に不思議だった。
直接的に夫が暴力を振るうことはなく、気に食わないことがあるとちゃぶ台をひっくり返すのだが、妻に当たらないように角度を調整しているとのこと。
妻もそれには気付いていて「心根は優しい」と言っているが、なんかもう共依存みたいで見てられんかったし、優しさとは何だろうかというのを考えさせられた。
もし実体験がある人がいたら教えてほしいんだけど、どん底にいた自分を救い上げてくれた人がいたとして、その人がその後上記の旦那のような人間になったとして、その人のことをいつまでも支えて一緒にいようって思うもの?
助けてくれて本当に嬉しかったって気持ちを人質に取られてるようなもんじゃん。
この漫画に関しては、旦那が過去の恩を笠に着て傍若無人に振舞っているわけではない。
ただ妻に関しては「優しくされた思い出」にいつまでもすがっているように見えた。
過去がどれだけ辛かったか、助けてくれたときどれだけ嬉しかったか、それは人によって違うから一概には言えんけど。
恩義だって感謝だって摩耗すると思うけど、そんなことないんだろうか。
ジュディマリさんも言うてはったで「想い出はいつもキレイだけど それだけじゃおなかがすくわ」って。
まあでもこの人らがおなかがすかないのは、想い出の中だけでなく今も幸せだからなんだろう。
作品についての捉え方、解釈の違い、それによって感じたことをここまで考えてみたのも久しぶりなので、そういう点では読んだ意味はあった。
「ヤンキー実は良い奴」という風潮が嫌いなので、つまらんわけではない、あくまでも合わなかったという作品。


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