公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

過去の青年と未来のジジイ

年寄りがキレやすくなるのは、脳の機能が衰退して感情を抑制できないからだそうだ。
気に食わないことがあるとすぐカッとなって怒りを爆発させてしまうらしい。
加齢によるものであって仕方のないことかもしれないが見ていて気持ちのいいものではなく、「年寄り笑うな行く道だ」と許容することも難しい。
全ての年寄りがキレやすくなるわけではないので、公共の場で醜態を晒している一部の高齢者に関しては余計に見苦しく感じてしまう。
ところでぼくも最近、感情が制御できなくて困っていることがある。


道を歩いていて、群衆の中に体臭がものすごくキツい人がいる。
シャンプーや香水や洗剤の匂いが混じっていたり、汗臭かったり洋服を洗っていなかったりと理由は様々だが、いい匂いでない人に遭遇することがある。
そんな人とすれ違うとき、瞬間的に鼻に入ってきた匂いに対して反射的に「くさっ」と言ってしまうのだ。
別にその人に向けて言っているわけでも非難しているわけでもなく、感想であって完全に独り言なんだけど、決して好ましい癖ではないと思う。
今はマスクをしているから声がこもって聞こえにくいかもしれないが、マスクをしなくて済むようになったときに相手に声が聞こえてしまう可能性がある。
そうなると余計なトラブルを招くおそれがあるだろう。
相手がぼくのように感情を制御できない人であった場合、キレられる危険性がある。


先日はこんなことがあった。
自転車に乗っているとき、前方を男性が歩いていた。
グレーのコートを着て細身の黒いパンツを履いているシュッとしたお兄ちゃんだったのだが、体型やファッションに対してなんとなく顔が大きかったように思う。
「あの雰囲気の割に顔がデカいなあ」と思っていたのだが、気が付くと括弧内の言葉をそのまま口に出してしまっていたらしい。
自転車だったのでマスクは着用しておらず、呟いたときにはお兄ちゃんと距離が近かったため、どうも聞こえていたらしく振り返って睨まれてしまった。
ちなみに本当に顔はデカかった。


また別の日。
その日も自転車に乗っていると、向こうからインド人の男性が歩いてきた。
距離があったのにも関わらずなぜインド人と断定できたかと言うと、色黒で頭にはターバンらしきものを巻いていたからだ。
まあインド人くらいおるわなと思って気にせず自転車を漕いでいて、彼との距離が近くなって気が付いたのだが実はインド人ではなかったのだ。
白に近い金髪をぴっちり横分けにしており、それがターバンの如く見えてしまったのである。
色黒と相まって、頭に巻いているものがターバンであると脳内で補完されてしまったのだ。
己の脳みそのいい加減さに妙にテンションが上がってしまって「インド人じゃないじゃん」と大きめの声でつぶやいてしまい、インド人の彼が怪訝そうな顔でこちらを見ていたのを覚えている。


巨顔の人もインド人も、自転車に乗っているときに遭遇したのでマスクを着用していなかったため、独り言が思ったより大きなボリュームで伝わったと思われる。
加えてマスクで顔が隠れていないため、表情が伝わりやすい。
自分とすれ違う相手がニヤニヤしていたら決していい気分ではないだろう。


そして先日、またしても自転車に乗っていたときのこと。
大きな交差点を渡る横断歩道を通るため、横断歩道の自転車通行帯の前で信号待ちをしていた。
朝なので人が多く、ぼくの後ろや横には信号待ちをしている何台もの自転車が待機していた。
信号が青に変わり、先陣を切って自転車通行帯を横断していると、前方右側からおじいちゃんが現れた。
おじいちゃんの進行方向的に横断歩道を渡ろうとしていたと思われるが、そのためには自転車通行帯を横切る必要がある。
ぼくは自転車群の先頭だったのだが、ここでブレーキをかけておじいちゃんを通すと後ろにいる他の自転車乗りの動線を妨害して迷惑をかける可能性があったので、そのまま通過することにした。
何より、幾台もの自転車が迫っているこの状況では、さすがに歩行者優先とは言ってもおじいちゃんも止まって自転車が通過するのを待つだろうと思ったのだ。


しかしおじいちゃんはどうも自転車側が止まってくれると思っていたらしく、自転車通行帯の寸前で急停止し、ぼくはおじいちゃんの真横ギリギリを通り抜けることになった。
その際に「危ないだろうが!アホ!!」と言われたのだが、ぼくは自分が悪いとは全く思っていないのでそのままジジイの眼を見つめながら通り過ぎた。
歩道においては確かに歩行者優先かもしれないし、ジジイもそのルールに則って行動していたのだろう。
しかし前述したようにあの状況で停止することは後ろからくる自転車にぶつかられる危険がある。
ルールや決まりは世の中を回すためにあるけれど、杓子定規にならないために思いやりとしてのマナーが存在するのだ。
歩行者だってマナーを守らなくてもいいという道理はない。
あえて言うなら意地を張って直進したぼくにも改善の余地はある。
状況を見ればジジイが一旦停止して自転車を行かせたほうが人の流れは順調ではあるけど、もしジジイにぶつかりでもしていたらややこしいことになっていたに違いない。
空気を読むことをジジイに要求して直進するのではなく、せめてもうちょい大回りをして避けるとかすればよかった。
ちなみに、横断歩道を渡った先は大きめの道路なので車道を自転車で走るのは危険であるから、歩道にも自転車通行帯が設けられているゾーンだ。


とある本で読んだことがあるのだが、【イラっとしたときは自分の中で"減ったもの"を考えてみる】といいのだそうだ。
お金や食料が減れば暮らしが成り立たなくなるし、人間関係が減れば孤独になるし、"減る"ということは生きとし生けるものにとって根源的に恐怖を煽るものらしい。
あのジジイはおそらく、「自分が横断歩道を渡ろうとしているのにけしからん」という心理から「自尊心」が減ってカッとなったのだろう。
店員さんや駅員さんにキレ散らかしている年寄りも、自分の思い通りにいかないから憤慨しているというのもあるだろう。
しかしその深層心理では、「自分がないがしろにされている」という勝手な思い込みから自尊心や誇りが減ったと勘違いしていると思う。
高齢者は認知機能が低下して自分の思い通り身体を動かせないわけだから、現役の頃と同じように振舞わずに一歩引いて行動してほしい。
現実はプライドばかりが肥大化して、譲ってもらうことが当然みたいに考えているやつもいるだろうけど。


ジジイとの遭遇後そんなことを考えながら自転車を走らせていたら、思考をそのまま口に出すことの危険性と子供っぽさを改めて実感した。
思ったことを素直に口に出してしまう悪癖を友人たちに話したところ、面白がりながらも一様に「やめたほうがいい」と止めてくれた。
こうやって諫めてくれる存在がいるうちがまだ華で、忠告を無視して我が道を進み続けていればいずれ親切な周囲は離れて行ってしまうだろう。
ぼくが自転車の運転マナーを悪いと思っていないように、あのジジイも自分が道を譲るべきだったとは思っていないのだから。
迷惑高齢者予備軍となる可能性のある自分を思いとどまらせたのは、人の振り見て我が振り直せの精神だった。


おそらくあのジジイは未来のぼくなのだ。
周囲のアドバイスに耳を貸さず、個性と迷惑をはき違えて自分のやりたいことだけをやり、孤独をこじらせてわざと人に迷惑をかけることで己の存在意義を見出す哀しきモンスターなのだ。
行いの愚かさを懇々と説いたところで、素直に言うことを聞く人間でないことは未来の自分ならよく知っていることだろう。
だからあえて落ちぶれて頭がおかしくなった自分の姿を見せることで、ショック療法的に目覚めてもらおうと思ったに違いない。
ぼくが今日から悪癖を改めることで、あのジジイつまり未来のぼくは消滅するはずだ。