公共の秘密基地

好きなものも嫌いなものもたくさんある

営業に告ぐ その2

以前、事務所にかかってくる営業の電話や、自宅にやってくる訪問営業がうっとうしいという話をした。

mezashiquick.hatenablog.jp

ぼくは仕事中、基本的に事務所にいて外出することはあまりないため、少なくとも業務時間内に関しての営業の電話は気分転換になると言えばなる。
ネタみたいな電話はこうしてブログに書くこともできるし。


以前に書いた記事では電話・訪問等の営業マナーがクソだという話をした。
こちらが喋っているのに被せるように話してくる、丁重にお断りしているのに機嫌が悪くなるなど、ぼくがパワハラ上司じゃなくても「お前この仕事向いてないよ」と言いたくなるような営業ばかりだ。
世の中には海千山千の営業ハウツー本があり、いかに顧客の心を掴むかというノウハウが語られているが、【相手の会話を遮らない】【お客さんに断られても機嫌悪くならない】ということを最初に書いておいてほしい。
人間には良いやつ悪いやつがいるのだから、営業にも良い営業と悪い営業がいるのは当たり前なのだけど。
最近は態度の悪い営業電話が事務所にかかってくることも、コロナの影響からか光回線の訪問営業が自宅に来ることも減った。
それに代わるようにして登場した最近の営業手法は「知ってる風を装う」というやつだ。


先日かかってきたどっかの会社の営業電話は、開口一番に「先日はお世話になりました」と述べてきた。
業務においても個人的にもそこと付き合いはないし、そもそも何をしている会社なのか知らない。
では一緒に働いている友人のお客さんかと思ったがそれも違うだろう。
なぜなら、事務所で働いているのはぼくと友人しかおらず、お互いの予定はカレンダーアプリで把握しているため彼がそうした人と会っていれば分かるのだ。
普段からコミュニケーションも取っているため、そうした付き合いがあれば聞いていただろう。
適当なことを言って電話を切ったあと友人に確認してみたのだが、確かにその会社のエリア担当から事務所宛に挨拶状みたいなのは来ていたらしい。
だがその担当とは面識もなく会話もしたことがないようで、そう考えると前口上の「先日はお世話になりました」というのは不適切だろう。
だからこういうのも手口なんだろうなあと思う。
面識があるかのような適当なことを言っといて、目当ての人間に繋いでもらうことを期待した電話なのだ。


また、とある別会社からの営業電話は社名がいまいち聞き取りづらかった。
妙にこなれた感じで社名を言うやつはいるので、最初は電話してきた担当の癖かなと思っていた。
しかし、後日同じ会社の別の担当からかかってきた電話でも同様に社名を聞き取れなかったのである。
どいつも早口でごにょごにょした感じで社名を言うので、これもひとつの手口なのだろう。
自分は知らないけどたぶんそいつの知り合いなのだろうと思わせて電話を取り次がせるのだ。
やつらの手口に気づいてからは社名を聞き返してやろうと身構えているのだが、あれから一向に電話がないのが残念である。


知ってる風を装う以外で悪質なのは「グレーな範囲で要件を偽装する」パターンだ。
最近、インターネット回線光コラボ系の会社から、フレッツ光を利用している顧客向けに電話料金を無料にするという電話がかかってくる。
しかし、やつらは要件を伝えるときに「ご請求の件で話があるので、代表者か担当者に代わってほしい」と言ってくるのだ。
「ご請求の件」なんて言い方をされると、料金が引き落とされてなかったとか値上げのお知らせとかの契約周りの要件で、代表や担当に繋がないとならない雰囲気である。
が、実際は上で述べた電話料金無料の話であって、確かに「ご請求の件」ではあるのだけど釈然としない。
代理店からの電話は多いらしく、所管のNTTから注意喚起の電話がかかってきたほどだ。
NTTは簡単な住所と入っているビルの名前をわざわざ名乗り、うちは代理店ではなく本家本元のNTTですよということを強調したいように見えた。
注意喚起の内容は、うちの所管で光コラボ系代理店からの電話が増えており、勧められるままに切り替えをして今まで通りに使えなくなったという問い合わせが増えているということである。
で、回線を切り替えてしまうとうちでは対応ができかねるので、よく考えてから見直しをしてほしいとも言っていた。
代理店は事業者だけでなく、個人にも電話をしているのだろう。
わざわざこんな電話をしてくるなんて、よっぽど問い合わせが多かったと思われる。


ぼくは電話対応というやつがとにかく嫌いだ。
あれには社会の理不尽さがこれでもかと詰め込まれていると思う。
新卒入社なり転職なりで、その会社で初めて働くことになったとする。
どこの会社でもというか、社会人としては電話の相手に所属と名前と要件を告げるのが常識だしスムーズだと思う。
だけど、その事業所の責任者なり会社の社長なりの知り合いや出入りしている業者の場合は、自分が顔パスの人間だという傲慢な意識でいるため、苗字しか名乗らないことが多い。
名乗りもこなれた感じで流し気味に言うので聞き取りづらく、聞き返す羽目になり効率が悪い。
また、聞き返されたほうも「おれのこと知らんの?」的な空気を出すのだが、狭い世界でしか通じない名前に固執するしょうもないやつのことなんか一生覚える気はない。
新卒で勤めていた会社は、事業所の責任者の知り合いとおぼしき人からしょっちゅう電話がかかってきていたため、上記のような思いをすることもしばしばだった。
しかも責任者の気分で電話を取り次いだり取り次がなかったりするため、名指しの電話だったからと言って全て回せばいいというものでもないのだ。


前職も似たような会社で、社長が出先からこちらの部署に電話をかけてくることが多かった。
しかも名前も名乗らずに要件のある人間に代わるよう求めるので、声で社長と判断して受け答えをするしかないという理不尽さだ。
社長の声で判断し、名前を尋ねずにスムーズに取り次ぐべきというのは初日に教えてもらったのだが、そんな無意味な緊張感を社員に強いて何になるというのか。
ちなみに社長と気が付かずに名前を聞くと不機嫌になるらしい、本物のバカである。


電話応対が初めての新卒は、研修で相手の要件と名前を聞くようにと教えられるのだ。
うっかり名前だけを聞いて要件を聞き漏らした電話を取り次いでしまい、「要件は必ず聞いといて」と不機嫌そうな顔で言われたこともある。
まして社会の理不尽さにも慣れ切っていない、打たれ弱い新卒の話である。
こちらはそれに従って業務をこなしているのに、いちいち例外を設けるなんて非効率なことで脳みそのリソースを使わせないでほしい。


www.j-cast.com

「電話がかかってきたらフルネームを確認しなさい。でも、それが社内のエライ人の場合はフルネームを確認してはいけません。うまく察して対処しなさい」
ということですね。でも、そういうのをダブルスタンダードというのではありませんか。

紹介した記事にもこう書かれているが、まさにその通りである。
何でもかんでも「察して」対応することを求めるなんて、アホ経営者にしても旦那の悪口を言っている嫁にしても、しょうもないやつは一体何を察してほしいのだろうか。

地獄の自己アピール

自転車に乗って帰宅しているとき、一方通行の道を高校生くらいのカップルが向かいから並走してきた。
彼らは自転車に乗りながら手を繋いでおり、お互いに手を伸ばしていたため道の横幅をそこそこ占拠していた。
広めの道だったのですれ違う余裕はあったものの、もしぼくに何も失うものがなく、もうちょい頭のおかしい人間だったら高校生の間に突っ込んでいたと思う。
歩きスマホなんかもそうだけど、ぼくはああいう無言で周囲に配慮を強いている人種が嫌いだ。
自分は特に注意を払わないので周りに避けてほしい、という傲慢な考えを(意識的か無意識的かはさておき)持ちつつあの人らは歩きながらスマホをいじっている。
件の高校生にしても、「青春」を盾にすれば誰もが多めに見てくれるだろうというのは大間違いなのだ。
そして、「青春」に苦言を呈することは下手すれば「嫉妬」と捉えられかねないのでタチが悪い。
あのカップルが酷い転び方をして顔面に消えない傷でも負ってくれればいいのになあと思いながら帰宅した。


今日もぼくのブログで舞台になりがちなコーヒー屋さんでの話。
行こうと思ったタイミングが恐らく混んでいる時間だと予想はできたが、最近行ってなかったし今日を逃すとしばらくこの辺に来る予定がないため、とりあえず訪問してみることにした。
案の定店内はほぼ満席で、オーナーさんが慌ただしく動いている。
(後で聞いたが、今日に限ってバイトの子が来られない日だったようだ)
迎えてくれたオーナーさんに注文は後でいいんでと告げ、席について本を読み始めた。
ぼくは本来静かなコーヒー屋さんが騒がしいのは嫌いなのだが、これだけお客さんが多いと仕方がない。
基本的にどのお客さんも身内同士で声のトーンを抑え目で話をしていたのだが、ある一人のお客さんの声が妙にデカく、会話が丸聞こえであった。


男女ペアのお客さんで、話の内容から推察するに大学生だろう。
付き合ってはないと思われ、どちらかに好意があるのかは分からないものの、男性の方は女性と行為をしたいと思ってはいるだろう。
声が大きいのは、そのうちの女性のほうであった。
店内にぼくとそのペアしかいなかった場合はイラつくタイプの客であるが、前述の通り周りもまあまあ騒がしかったのでそこまで気にはならなかった。
そのため、デカい声の女性の話を余裕を持って聞くことができたのだが、なんというか香ばしい感じの子だった。


身に覚えのある方はいるかもしれないが、大学生だったり、高校を卒業して社会人になったりする二十歳前後は自意識が肥大しがちである。
使えるお金や交遊関係、行動範囲が一気に広がり、今まで自分になかった価値観を吸収する機会が増える。
加えて体力も有り余っているため周囲に刺激を受けて何かしたいとは思いつつも、自分がないので何をしたらいいか分からない状態になるのだ。
自分の強みは分からないけど何か大きなことがしたいと無計画に考えているやつは悪い人からすればカモでしかなく、マルチ商法に引きずり込まれたり持続化給付金の詐欺に加担したりする。


件の女性がする話の中身は「自分がいかに変わっているか」に終始していた。
自分の趣味は一般受けしない(文具収集らしい)、仲良くなる人にも変な人が多い、外国人の友達がたくさんいるなど、とにかく変わっている自分が超大好きのようだった。
ぼくに言わせれば彼女は限りなく普通の、どこにでもいる女性だと思う。
自分が変わっていると思い込んだり、個性的であることを周りにアピールしたりするのは誰もがやっていることだ。
文具収集についても「文具女子」なんて言葉があるくらいだからポピュラーな趣味ではある。
また、本当に周りの人間がすごかったり変わっていたりしても、すごいのも変わっているのもその人らであってお前ではない。


正直、自分が関わっている人間の属性で自分が優れていることをアピールするやつはしょうもない。
専業主婦が旦那の仕事や給料でマウントをとるようなものだ。
コーヒー屋さんの彼女は話の中でことあるごとに「○○人の友達が言ってた」という枕詞をつけていたが、外国人というフィルターを通さないと己をアピールすることも、発言に説得力を持たせることもできないのだろうか。
ぼくの友人に外国人と結婚して海外に嫁いだやつがいる。
友人は独身の頃から外国人との交友関係が広く、彼ら彼女らとの絡み(夜のほうも含む)について話題に上ることもしばしばあった。
しかし、そうした話をする際に友人が「○○人の友達 or 彼氏が…」と付け足したことはほとんど記憶にない。
日本人と外国人の価値観の違いについて話すときや、話題を深く掘り下げたときに当人の出自を明らかにするのみで、決して「外国人と日常的に関わっている」アピールはしなかった。
友人にとっては様々な国籍の人と交流(夜のほうも含む)することは日常的なことであって、ことさらに吹聴することではなかったのだろう。
フリーザ様の最終形態みたいなもので、本物ほどあっさりしているものだ。


こういう人らって自分が変わってると思わないと、個性的でないと、周囲と同じだと死んでしまうのだろうか。
個性って上下でも勝ち負けでもないし、たぶん誰が見てもそれと分かる究極に個性的な人間って一般受けしないし「気持ち悪い」って言われることもあると思う。
周囲からの視線に耐えてまで彼女が真に個性的な生き方を貫くことなどできないはずだ。
彼女が目指しているのはほどほどに周囲と差異のあるオシャレな自分であって、しょうもない自尊心が保てればいいのだから。


ぼくは男女ペアが帰るまでコーヒー屋さんにいたのだが、延々と自分の話をしていた彼女が終盤になってようやく男性のほうに話を振った。
「好きな映画って何なの?」という、相手の話を聞くと思いきやカウンターで自分の趣味嗜好をアピールしたいやつのテンプレみたいな質問である。
彼は「ワイルドスピード」と答えていたが、食い気味で彼女に「あれつまんなくない?」と切り捨てられていた。
人の好きなものを平気で傷つけるあたりも、よくいる"普通"の人間がやることである。
予想通り彼女はワイルドスピードの話について掘り下げることはなく、驚異の切り替えの早さで自分の好きな映画について語っていたのだが、残念ながらタイトルは聞き逃してしまった。
しかし「岡田くんが」という一文は聞き取れたため、結局男前のジャニーズかい!!と本当にどこまでも普通の子だなあと思ったのだった。

かれぴっぴに会いたい人の歌

春色の汽車に乗って 海に連れて行ってよ
タバコの匂いのシャツに そっと寄り添うから

松田聖子の【赤いスイートピー】にこんな一節がある。
クサいだの健康に悪いだの何かと目の敵にされがちなタバコであるけれど、好きな人のタバコの匂いなら愛おしく感じてしまうのだ。
いわゆる「あばたもえくぼ」というやつだろう。
副流煙まみれの黄ばんだくせえシャツを着ていても好きな男性であれば気にならないし、恋する気持ちから汽車が春色に見えるほど頭がピンクなのだ。
先日、ある人が香水の匂いで過去の恋愛を思い出すという旨のブログを書いていてぼくも思い出したことがある。


五感の中で最後に記憶から失われるのは嗅覚なのだそうだ。
他にも味覚は忘れられにくく、逆に視覚や聴覚の記憶は忘れられやすいらしい。
記憶に長く留めておきたいからこそ、人間は何かを堪能するときに鼻や舌を駆使するのだと思う。
食事やセックスのときなんかが例えとしては分かりやすいだろう。


コロナ禍でマスクをする生活にもすっかり慣れてしまったが、マスクはマスクでメリットがあるとしている人もいるようだ。
気合の入った化粧をしなくてもいいとか、自分や相手の口臭が気にならないとか。
だが口臭に関しては言いたいことがある。
ぼくは日々の歯磨きに加えて歯間ブラシとフロスとマウスウォッシュをしている。
これだけやっても、マスクの中で跳ね返ってきた自分の息が鼻に入ると、あまりよろしくない匂いがすることがあるのだ。
しかしそこまでクサいというわけではなく、何ならちょっと懐かしい気持ちになる匂いだと感じることもあり、何でだろうかとコロナ初期のころから考えていたのだが先日その答えに思い至った。
元カノの口内と同じ匂いがするのだ。


昔付き合っていた子は出会った当初から歯列矯正をしており、踊る大捜査線が好きなぼくは「キョンキョンが着けてたやつだなあ」と思ったものだ。
矯正用の金具はどれだけ気を付けても汚れが溜まりやすいらしく、彼女は嫌な匂いがするかもしれないと気にしていた。
確かに無臭とするには強引ではあるが決して不快な匂いではなかったのを覚えている。
かと言ってあばたもえくぼ理論でチャームポイントだと思えたわけでも、癖になる匂いというわけでもなかった。
特に何とも思っていなかったはずだが数年後に自分の口臭を通じて思い出すあたり、ぼくの記憶には深く刻まれていたのだろう。
体臭で過去の恋愛を思い出すことがあっても、口臭(くさくないけど)で過去に思いを馳せることができるのも貴重な経験かもしれない。


前置きはこれくらいにして本題。
懐メロというにはぼくより世代が上になるが、太田裕美の【木綿のハンカチーフ】という歌がある。
有名なのでタイトルくらいは知っているだろうし、知らない人は適当に探して聞いてみてもらいたい。
故郷を離れて都会へ行った彼氏と、田舎で待っている彼女とのすれ違いや心の機微を唄った歌だ。
初めて聞いたときは切ない別れの歌だなあくらいに思っていたのだが、最近になって聞くとずいぶん印象が違う。
どうも彼女がねちっこいというか、一言で言うと「重い」のだ。

恋人よ ぼくは旅立つ
東へと進む列車で
華やいだ町で 君への贈り物
探す 探すつもりだ


いいえ あなた 私は
欲しいものはないのよ
ただ都会の絵の具に
染まらないで帰って
染まらないで帰って


これが歌の最初のパートだ。
最初の歌詞が彼の、次が彼女のセリフとなっており、曲の構成はすべて彼氏→彼女のターン制になっている。
都会に出て新しい環境に浮かれている彼氏と、そんな彼にそのままでいてほしいと心配する彼女。
新生活への高揚感、変わらない良さや変わりたいと思う気持ち、大切な人には変わってほしくないと思うエゴなどが感じられる歌だ。
彼氏が「なんか欲しいもんある?」って聞いてんのに、「何もいらないけどあなたに変わってほしくない」って、見方によっては健気に映るかもしれないが、どうにもめんどくさい。


「会えないけど泣かないで、流行りの指輪を送るよ」
「ダイヤも真珠もあなたのキスほどきらめかない」
「今も化粧とかしてないの?ところでスーツ買ったんよ、写真見てよ」
「草に寝転ぶあなたが好きだった、とりあえず体調に気を付けて」

歌詞をそのまま載せるのがめんどくさかったので要約したものがこれだ。
ぼくの主観なので恣意的なものや偏見が混じっているという前提でお読みいただきたい。
言ってることが茫漠としすぎとるわけですわ、この彼女は。


彼もきっと彼女に不満や直してほしいところがあっただろう。
都会で着飾った華やかな女性を見て、「彼女も化粧したらいいかもしんない」と思って言ってはみたのだが、彼女が化粧のことについて言及した様子はない。
自分は彼氏の問いにああしてほしいこうしてほしいと願望を述べるばかりで、察してほしいと思うばかりで、彼のことは察しようとしない。
いつまでも草に寝転んでる彼氏というわけにはいかんだろう。
都会に出て調子こいてる彼氏にちょっとイラっとする気持ちもわからんでもない。
だが、彼女にとってふさわしい男になるために都会に出たのかもしれないから、その気持ちは汲み取ってほしい。
彼女からすれば変化は求めておらず、今のままのあなたで十分と言いたいのだろうが、今はよくてもいつまでも草の上で安穏としている彼氏に不満を抱かないとも限らないのだ。

恋人よ 君を忘れて
変わってく ぼくを許して
毎日愉快に 過ごす街角
ぼくは ぼくは帰れない


あなた 最後のわがまま
贈り物をねだるわ
ねえ 涙拭く木綿の
ハンカチーフ下さい
ハンカチーフ下さい


このパートを持って歌は締めくくられる。
とりあえず、「木綿」という質素な素材をわざわざ指定しているあざとさがある。
シルクのスカーフくらい送ってこいやとなぜ言えないのか。
お前なんてこっちから別れてやるわと啖呵を切るぐらいの気概を見せてみろ。
もしくは遮二無二になってすがりつくなり、建設的な提案でもするなりして、別れを考え直してもらえよ。
それか、綿の吸水性を活かして、プレゼントしてもらったハンカチに自分の汗や匂いを染み込ませ、彼氏に送り付けて香りで自分を思い出してもらえばいい。


この時代は貞淑な女性が好まれており、清楚で自己主張をしないことが良しとされていたのかもしれない。
しかし現代において、慎ましやかで奥ゆかしくパートナーに対して操を立てる女性など存在しない。
どの女性も一本でも多くの棒とお突き合いをしたいと思っているため、この曲のような思考にはまず至らないか、殊勝なことを言いつつも裏では代わりの棒を求めて励んでいるのだ。
ぼくは木綿のハンカチーフアンサーソングとしては、Coccoの【強く儚い者たち】を推したい。
パートナーのためにと誓いを交わして海に出た人に対して、語り掛ける視点で書かれた歌だ。

そうよ 飛魚のアーチをくぐって
宝島が見えるころ 何も失わずに
同じでいられると思う?


だけど 飛魚のアーチをくぐって
宝島に着いたころ あなたのお姫様は
誰かと 腰を振ってるわ

木綿の彼女だって彼氏からもらったハンカチなど処分して、別の男性とよろしくやればいいのだ。
別にそれを責めたり、ダメだと言いたいわけではない。
「そんなもんだよね」って言いたいだけだ。
世知辛い現実を知ってるからこそ、歌の世界だけでも綺麗なものを求めたいのかもしれないが。


なぜ今回は懐メロの話になったかと言うと、エレカシ宮本浩次さんのカバーアルバムを購入したからなのだ。
女性歌手の歌のみをカバーしており、誰とは言わんけど偏差値の低い恋愛ソングとかは入っていないので老若男女におすすめのできる内容になっている。
宮本さんの好きなところは、歌詞が限りなく本人の思っていることであろうという点だ。
きっと本当に不器用な人で、生きづらそうな人だなあというのが見てると伝わってくる。
(失礼な言い方かもしれないが)

※オフィシャルの動画です

www.youtube.com

「七国山病院」の語呂の良さについて

最近となりのトトロを見て、違和感を覚えたことがある。
不在の父親の元に電報が届き、それを代わりに見たサツキが慌てて父親に電話するシーンでのこと。
あの、今までのほのぼのしたノスタルジックな作中のムードが急激に転換するあれだ。
その際におばあちゃんが「本家に行って電話を貸してもらい」という旨の発言をする。
サツキはカンタと一緒に本家に向かうのだが、そこで登場した本家のおばあちゃんは異常性を感じるほどに穏やかなのだ。


サツキが本家の電話から交換台に繋ぎ、父親を呼び出してもらっているとき、彼女は傍目にも分かるほど憔悴している。
しかし本家のおばあちゃんはそんなサツキを見て「かわいい子だねえ」とうちわをパタパタしながらカンタに向かって言うのみなのだ。
その後、折り返しの電話があるまでふたりは本家で待たせてもらうことになる。
明るくて気丈なサツキが母親の病状を心配して年相応の動揺を見せるシーンなのだが、本家のおばあちゃんはその際も「ゆっくりしてきな」というようなことを言うのみだ。
本家のおばあちゃんのセリフは上記のふたつのみで、あとは穏やかな表情でうちわを扇いでいる。
登場シーンもそこのみなのだが、どうもおばあちゃんの様子が気になった。
サツキが焦っていることは明らかだし、カンタもいつもの様子でないことは普段から付き合いがあれば分かるはずだ。
少なくとも作中では本家のおばあちゃんがふたりに事情を聞いたわけでも、もてなしをした様子もない。
普段のペース(普段からああかは知らないが)を崩さないところを見ると、おばあちゃんは認知機能に何らかの齟齬があるか(要はボケてる)、危機感の著しく欠如した人である可能性が高い。


さて、先日星野源との結婚を発表した我らがガッキーであるが、その際に一発書かせてもらった。

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星野源が"普通"だとのたまう婚活女性よ、君らの言う"普通の男"はガッキーを選び、ガッキーに選ばれるレベルなのだよ」というまあいつも言っているような内容だ。
さすがに婚活業界や婚活女性たちもどれだけ現実を見ていない間抜けなことを言っていたのか気が付いたらしく、最近は普通の男論を見かけることが減ったように思う。
何より、普通普通って星野源にも失礼でしかない。
どうも世間には男性、特におっさんに対しては何を言っても問題ないという妙なバイアスがかかっているようだ。
こうした条件を女性が提示するのはネタとして消費されるのだろうが、逆なら袋叩きに遭うところである。


そんな中、ちょっと前に見かけた普通の男論がある。

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この記事で槍玉に挙げられてしまったのが、オードリーの若林氏だ。
注意しないといけないのはあくまでも「若林みたいな雰囲気がいい」ということらしい。
オードリー若林や星野源が普通ということではなく、あくまでもルックスや雰囲気面に限定して穏やかな男性を好むということだろう。
まあそうだとしても、男性の立場からすれば擁護できたものではない。


そもそも、記事のタイトルからして破綻している。
「婚活女性が好む ガッキーに選ばれた星野源っぽい人って?」とあるが、この書き方だと星野源っぽい人はガッキーに選ばれるような存在であることを再確認しているかのようだ。

今の婚活女性はこの「平均的な男」を求めている。

平均平均って、年収もルックスも性格も学歴も美意識も全てが平均なんて、逆にハイスペックだと思うのだ。
この人らの言う「平均」ってデータの中間という意味ではなく、自分の常識の中での「普通」でものを言っているからタチが悪い。

「普通の男性でいい」と男性に求めるハードルが下がってきているといわれる。

「"で"いい」ってなんだ、何でそんなに上から目線なのか。
妥協して普通の男性を選んでやっているという姿勢に腹が立つ。
待ってりゃ普通の男性が頭下げて結婚を申し込みに来るとでも思っているのか。

星野と結婚したガッキーこと新垣も、芸能界の超インドア派として知られる。女性誌のインタビューには〈休日は家に閉じこもってエゴサーチをしたり、漫画を読んだりして過ごしている〉〈1、2日の休みじゃ、ひたすら寝て終わり〉と答えていた。

ガッキーが超インドア派だとしてもお前らの生活スタイルが肯定されるわけではないのでね。
女優という華やかな仕事をしており、抜群のルックスを誇るガッキーが実は休日は家に籠っているというギャップが魅力的なのであって、お前らのような怠惰なブスではギャップも何も見た目通りである。
君らとガッキーの共通点は性別と、目と耳がふたつずつあり、鼻と口がひとつずつあるということだけだ。

そんな彼女がイケメン俳優ではなく、星野と結ばれたのは当然と言えば当然。これまでの生活スタイルに必要以上に入り込まない男性なのだ。

もはや星野源に失礼である。
確かに分かりやすい男前ではないかもしれないが、彼だって男前の部類に入ると思う。
そもそも、普通の男性が「これまでの生活スタイルに必要以上に入り込まない」って理論がよく分からん。
男前はパートナーの生活スタイルにガンガン干渉し、煙たがられる存在なのだろうか。
それにガッキーだって、彼と暮らすことで生活スタイルを変えたいと思っているかもしれないじゃないか。


この記事は全体的に頭がおかしく、読んでいると殺意が湧くレベルなのだが、最も考えさせられたのが以下の記述だ。


前出の植草氏がこう補足する。
「婚活女性の年齢も上がり、若いころは玉のこしに乗って自由におカネを使える生活を望んだ女性も、高い理想を掲げてもかなわないという現実に気付いています」
ならば、邪魔だけはしてくれるな、という思いが強いという。しかも、働く女性はストレスをそれなりに感じている。疲れて帰宅したときに、ハイスペックな男性からあれこれまた指図されたらたまらない。自分の邪魔にならない、気を使わなくてもいい、それが特色や特徴が薄い分、自己主張も強くない「普通の男」というわけだ。

もはや星野源やオードリー若林のみならず、全ての男性に対して無礼な物言いだ。
「自分の言うことをハイハイ聞いてくれる女性がいい」と言っている男性と何が違うのだろう。
パートナーのことを邪魔って、じゃあもう、結婚しなくてもいいのでは?
仕事で疲れてるのはお互い同じなのに、どうして自分だけが大変だと思えるのだろうか。
相手の立場や日々の苦労を理解も尊重もせず、自分の求める理想を押し付けるなんて、男性をペットか何かと思っているのだろうか。
本当にこんなことを考えている婚活女性がいるかどうかは疑問だが、仮にいたとして彼女らは心から結婚したいと思っているわけではないだろう。
見栄や外聞のために結婚という事実が欲しいだけだから、今までの生活スタイルを崩したくないし干渉されたくないのだ。
誰かと一緒に暮らすということは常に価値観の違いの連続で、それをお互いの可能な範囲で相手の望む姿に近づけていくものなのに。


もうさ、別に条件と結婚するわけじゃないんだから、上から目線で「"で"いい」って品定めするのやめませんか。
もしも自分がやられたら嫌でしょ。
結局は自分に「で、君は普通の人なの?」ってブーメランが返ってくることになる。
自分のスペックがどうであれ相手に求める条件は自由であるけれど、身の程知らずな価値に囚われて婚期を逃しては本末転倒だろう。
そんなことばっかしてるからぼくみたいなルサンチマン(最近覚えたから使いたい)を発散したいだけの人間に笑いものにされるんだって。
本家のおばあちゃんの話と絡めてオチを考えてたけど、思いつかないのでおわり。

握手券 買うとCD ついてくる

AKB一味がCD付き握手券でオリコンチャートを焼け野原にして数年後。
ここにきて邦楽業界は復活の兆しを見せつつある気がするやらしないやらという感じだ。
個人的にも先日、東京事変のアルバムが発売されたので嬉しい。
まあ、AKB商法の前から邦楽の売り上げは怪しかったのかもしれないが、いちいち調べるのもめんどくさい。
「昔のほうがよかった」なんてセリフはともすれば懐古主義の年寄りみたいで嫌われるのかもしれないが、昔を懐かしむのは自由である。
よろしくないのは、昔の価値観しか認めずに今を受け入れようとせず、さらには今を否定するような言動だ。
今の時代に生きている人からすれば、自分たちが楽しく接している文化を頭ごなしに否定されていい気はしないだろう。


www.4gamer.net

ドラクエ最新作の制作が発表された。
ぼくのドラクエはⅥで止まっていて、しかもⅥだけリメイク版をプレイしていないので記憶が曖昧だ。
そしてはぐれメタルは一度も仲間にしたことがない。
日本を代表するRPGと言えばドラクエとFFである。
すっかりゲームをプレイしなくなったので、最近の両者は売り上げがどれほどのもので、ゲームシステムがどうなっていて、ユーザーの反応がどんなものかなど、今は全く知らない。
知らないが、両者ともにナンバリングタイトルがこれだけ続いていて、外伝的な作品やスピンオフも制作されているのだから、ファンがいて好評なのだと思う。
ちなみにFFはⅣ~Ⅵ、Ⅶ・Ⅸしかやっていないし、ファイファンと略す人とは仲良くなれないと思っている。


歴史の長いコンテンツになると、年齢や性別・趣味嗜好が異なった多種多様なファンが混在する。
例えばガンダムで言うと、宇宙世紀原理主義者や富野監督至上主義者、アナザーしか見たことのない人や不人気愛好家など様々だ。
ぼくはガンダムにおける大きなテーマは「人は分かり合えるか」だと思っているが、肝心のガンダムファンが分かり合えていない。
作品に好き嫌いがあるのは仕方ないけれど、過激なファンは日々、新作が発表されるたびに紛糾したり「あの作品を好きなやつはクソ」などと人格否定を繰り広げたりしている。


話をドラクエに戻すが、インターネット界の無責任集団ヤフコメでもドラクエの新作発表は話題になっていた。
気になったのは、割と年齢が高めと思われる人々のコメントだ。

他の皆さんが仰るようにDQに変化球はいらない。
FFのようになってはならない。
DQだけは昔の古き良きRPGを期待する。

結局ね、変化球はいらないのよ。
余計なことしないで今の技術でドラクエ3や4のようなのを作ってくれればどのハードで出したってハードごと売れるよ。

上記したようなコメントを見ると、「中華そば原理主義者」という言葉を思い出す。
ラーメン発見伝という漫画に出てきた言葉なのだが、一時期やたらとネット上に画像が出回ったので知っている人もいるかもしれない。

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作中で言われている「定期的に来て店を支えてくれるお客にはなりえない」という言葉が非常にしっくりくる。
言葉を借りるなら、「昔のドラクエ原理主義者」「古き良きRPG原理主義者」とでも言うべきだろうか。
語尾が「のよ」っておっさん(おっさんかどうかは不明だが)なんて、いい年して茶髪で若いやつにしょうもないビジネス論を語っている匂いが漂ってくる。
コメントした人らは、おそらくゲームを滅多にプレイしないか、過去には熱中していたけど今は全くやっていないかのレベルだろう。
そのため、自分が過去に慣れ親しんだ「コマンド選択式のRPG」=「ドラクエを求めているのだと思う。
今更操作が複雑なゲームなんてやる気にならないし、美しい映像も「目がチカチカする」とか言って拒否し、安心感を求めて昔ながらのものを好むのだ。
中華そば原理主義者と同じで、仮に古き良きドラクエを踏襲した続編を制作したところで、この人らがお金を落としてくれる客にはならない。
なんなら、ドラクエⅢのリメイクも同時期に発表されたのだが、変化球はいらないとコメントをしていた人らは新しくハードを買ってまでプレイするだろうか。いやない。(反語)

game.watch.impress.co.jp


「古き良き」って都合のいい言葉だなとつくづく実感した。
「昔からある良いもの」ではなく、「古い」やつらが「良き」と思っているものであるような気さえしてくる。
大体、昔ヒットしたものを今の時代にも受け入れられるようにアップデートせず、頑なに守り続けるって衰退していくばかりじゃないだろうか。
昔のドラクエ"だけ"を支持する人はいずれいなくなるが、ドラクエはそう簡単になくなるわけにはいかないのだ。
新しいファン層を獲得するためにも、今のユーザーに受け入れられる工夫はすべきだろう。
原理主義者たちも「アップデートするな」と言っているわけではないのかもしれないが、結局こいつらの機嫌を損ねない範囲での改良しか認めないのではどうしようもない。
ファミコンスーファミのゲームをプレイして、今も楽しいと思えるのは当時熱中してやってたからだ。
物心ついたときから最新ハードに囲まれて美麗なグラフィックでゲームをしている現代っ子が面白いと感じるかどうかは分からん。
レトロゲーム好きの好事家か、二言目には「エモい」と言うキモい顔をしたサブカル気取りのクソガキあたりは喜んでくれるかもしれないが。


一口に「昔からのファン」と言っても、初期から最新作までずっとプレイしている人と、古き良きドラクエ原理主義者のようにスーファミくらいで止まっている人がいると思う。
前作のドラクエⅪをプレイした人に話を聞いたが、BGMやキャラクターに過去作品のオマージュを感じさせる部分があり、ゲームシステムも割と良く、昔からのファンも楽しめる仕様になっていたようだ。
何より、Ⅺは原理主義者たちが大好きなロトシリーズにも関連した話なのだ。
「おっ、それならやってみようかな」と思うか「今更ロトを持ち出してきて昔のファンに媚びてる感じが気に食わないと」思うか、ヤフコメにいたような人らはどう反応するだろう。
古き良きドラクエが失われたと嘆いている人らは、実際にプレイして今のドラクエを知った上で判断したのだろうか。
キャラクターデザインが気に食わんだの、職業システムがないだの、呪文の語感が気に食わんだの、見聞きした情報だけで判断してやしないだろうか。
まあぼくも、好きな呪文であるバギ系の最上位が"バギムーチョ"になってたときは目を疑ったけど。